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影響力の強いパリサイ人ものみの塔 1977 | 9月15日
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にとって重荷となっていました。パリサイ人は律法のより重要な事柄,すなわち公正,あわれみ,忠実,そして神への愛を見失っていました。(マタイ 23:23。ルカ 11:42-44)イエスは安息日に関して,次のように指摘されました。「安息日は人のために存在するようになったのであり,人が安息日のために存在するようになったのではありません」。(マルコ 2:27)実際に人々の生活にかかわる分野で人間の教えに固執したため,パリサイ人ははなはだ不当なことをしていたのです。例えばパリサイ人の考えに従うなら,自分の財産はすべて神にささげられているということを口実に,子供が年老いた貧しい両親の援助を逃れることも可能でした。―マタイ 15:3-9。
もちろん,パリサイ人すべてが全く理性を欠いた見方をしていた訳ではありません。学識のあるパリサイ人ガマリエルは次のように述べ,イエス・キリストの追随者に手出しをしないよう,サンヘドリンの仲間の成員を説得しました。「彼らをほっておきなさい。(このはかりごと,またこの業が人間から出たものであれば,それは覆されるからです。しかし,それが神からのものであるとすれば,あなたがたは彼らを覆すことはできません。)さもないと,あなたがたは,実際には神に対して戦う者となってしまうかもしれません」。(使徒 5:38,39)パリサイ人ニコデモは,イエス・キリストの業や活動に関心を示しました。(ヨハネ 3:1,2; 7:47-52; 19:39)また,パウロは真理を示されたとき,パリサイ人としての立場を捨て,イエス・キリストの献身的な弟子となりました。―使徒 26:5。フィリピ 3:5。
しかし,一群としてのパリサイ人は,今日のクリスチャンに対する戒めとなっています。その例は,自分の善良さや義を信じることの危険性を示しています。その点を認める神の献身したしもべたちは,「あなたがたはみな兄弟だからです」とイエスが言われたように,神の会衆内での自分の立場ゆえに,優れているとみなされることを期待したり望んだりせず,また仲間の信者から特別に注目され,重視され,好意を持たれることを期待しません。―マタイ 23:8。ペテロ第一 5:1-4。
パリサイ人の行ないから分かる通り,神の民の会衆にいる長老たちは,聖書に明示されている事柄以上の規則を作る権限が自分たちにないことを銘記するのは良いことです。確かに,物事の秩序を保つために特定の取り決めを設けねばならない場合はありますが,ここでも次のように自問する必要があります。パリサイ人は,自分では義に対する熱心さから行なっていると考えながら,人間の必要物や感情に神のような思いやりを示さなかったが,自分もいつの間にか何らかの面でパリサイ人と同じ道を歩んではいないだろうか。責任ある立場にいる人だけが注意を必要としているのではありません。クリスチャン会衆内の人々すべては,互いに愛する兄弟姉妹として接し,聖書に記されていない規則に固執する余り,真に重要な事柄である,公正,忠実,あわれみ,愛という神のご性質を忘れないよう注意すべきです。
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「強盗のどうくつ」ものみの塔 1977 | 9月15日
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「強盗のどうくつ」
● 両替人と犠牲の動物を売る者たちを神殿の境内から追い出したとき,イエス・キリストは,「『わたしの家は祈りの家と呼ばれるであろう』と書いてあるのに,あなたがたはそれを強盗のどうくつとしている」と言われました。(マタイ 21:13)こうしてイエスは両替人や犠牲の動物を売っていた者たちを事実上「強盗」と呼ばれました。このことは彼らが法外の利益を取っていたことを示唆しています。ユダヤ教のミシュナが示すところによると,イエスの言葉は誇張ではありませんでした。ミシュナは,いえばと二羽が金一デナリ,もしくは銀25デナリした時があったことを伝えています。この法外な値段に,ガマリエルの息子シメオンは,神殿を指して誓い,「夜明までにはいえばと二羽を[銀]一デナリにしてみせる」と言いました。このことはいえばとが実際の価値より25倍高く売られていたことを意味します。それは確かに「強奪」でした。
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