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  • 血の神聖さを尊敬する
    ものみの塔 1961 | 12月15日
    • の頸静脈から取った血を飲んで食物の補いにしています。多くの場所の人々は屠殺場で列をつくり,殺されたばかりの牛の血を飲みます。そうすれば,特定の病気がなおると信じられているからです。極東の多くの場所では,あるスープや肉汗のもととして血が使用されています。南アメリカで,ひろく賞味されているある料理は豚の血に米やじゃが芋と薬味をまぜたものです。血がキャンデーとして売られ,人々はそれを食べます。いろいろの名前がつけられている血のソーセージは,ほとんどどの場所でも得ることができます。このような行いは,みな血のことについての生命の与え主の律法を破る故,血の神聖さに対するはなはだしい不敬を示すものです。

      13 食用にする動物を正しく殺すときには,なぜ注意を払わねばなりませんか。このためクリスチャンはなにをしなければなりませんか。

      13 血についての律法によると,絞殺されたものを食べることは禁ぜられます。なぜなら,血が取り出されていないからです。それで,窒息死した動物や,わなにかかって死んだ動物,あるいは銃殺してもすぐに血を取り出さなかった動物は,食用に適しません。多くの国々では,にわとりを絞殺して,そのくびを折っても,くびを切りません。クリスチャンはそのようなにわとりを食べてはならないのです。ある肉屋は,これらのことについての神の律法を尊敬しないので,食用の動物の血を十分に取り出しません。実際のところ,肉の目方を増すため,わざわざ血を流さないようにします。肉屋が血を取り出していないことを知ったクリスチャンは,別の肉屋と取引をする方が良いでしょう。もし,そのような肉屋がないなら肉を食べない方がよいでしょう。同じく,動物の血を十分に取り出さないのが,地方の習慣であるなら,良心的な人は料理屋で肉を食べないでしょう。そのような状況の下に住んでいて,肉を食べたいと思うクリスチャンは,生きた動物か鳥を買い,自分で殺さねばならないでしょう。

      14 食品のなかで血はどのように誤用されていますか。クリスチャンは何に注意を払わねばなりませんか。

      14 人々が神の律法に対する不敬な態度を示しているため,血や血漿や,血の一部は,食物として売られるたくさんの品物の中にふんだんに使用されています。たとえば,ある肉のかん詰業者は,ウインナ,ボロニャ,および他の冷凍肉の製法の一部として血を入れています。彼らはそれを血と言わないでしょう。しかし,彼らが何と言おうと,それが血であるなら,あるいは血の一部であるなら,それは悪いことです。全部の肉かん詰業者がこれをするわけではありませんが,ある業者はしています。あるところのハンバーグは,主として脂に血を加えてつくられたものです。ロシアでは,血を使用するパン屋さんが幾年か前に仕事を始めました。ライ麦粉7に対して繊維素をのぞいた牛の血3の割合でパンをつくるのです。別の国のパン屋さんは,卵の白味の代わりに乾燥した血漿粉末をねり粉菓子の中に使用します。薬屋さんの売っているいろいろの強壮剤や,錠剤のレッテルを見ると,ヘモグロビン<血紅素>のような血の一部が使用されていることが示されています。それで注意を払わねばなりません。また社会のしきたりを熟知し肉を買う所で適当な調査をしたり,包装された品物のレッテルを理解することができなければなりません。古い世は,血についての神の律法にますま不注意な態度を取っています。それで,「世の汚れに染ま」ることを避けるクリスチャンたちは,いっそうの注意を払わねばなりません。―ヤコブ 1:27,新口。

      輸血

      15 医療における血の使用は,どのような経過を経ていますか。

      15 人間は幾世紀ものあいだいろいろの仕方で血を誤用しました。古代エジプトの君候たちは,人間の血を使用して若返ろうとしました。他の人々は敵の血を飲みました。17世紀にウイリアム・ハーベイが血液の循環について研究調査してから,他の人間の循環組織に輸血するための大がかりな努力がはらわれました。輸血による死亡者の数が多かったために,それは,非常な失敗とみなされました。しかし,この20世紀になって,特定な血液型を類別する研究が行なわれてから,輸血はみとめられるようになりました。ふたつの世界大戦と朝鮮戦争があったので医者たちは血液による医療実験を数多くすることができました。いまではこの研究はかなり進み,医者たちは全部の血と血漿 ― これはほとんど無色の液体で,血液細胞はそれで運ばれる ― を使用するだけでなく,必要に応じて,血漿とは別の赤血球と,いろいろの血漿蛋白質を使用します。

      16 生命をささえるために血を医療に使用することは,神の律法を破ることですか。

      16 血をそのように医学的に使用するなら神の律法は破られますか。血あるいは血漿あるいは赤血球またはいろいろな血の成分を注入して生命を支えるのは悪いことですか。そうです! 神がノアに与えた律法は,彼の子孫全部に適用します。その律法によると,滋養を与えて,生命を保つために血を食べる,すなわち他の生物の血を用いることは悪いことです。「陳謝」(本)という本の中でターツリアンがそのことについての初期クリスチャンの見解を示したように,今日でも次のことが認められています,すなわちこの禁止が動物の血に適用するのであるなら,人間に適用する度合はいっそう強いということです。それは「いっさい」の血をふくみます。―レビ 3:17,新口。

      17 人間の血がむかし誤用されたために,初期クリスチャン統治体の決定した禁令の中に人間の血が含まれていることを,歴史の事実はどう証明しますか。

      17 初期のクリスチャンの統治体は,血の使用を禁ずる命令を出しました。その命令は,人間の血に関するものでなく,動物の血だけに関係するものであるという議論は,歴史的な事実について無知なることを示します。第1世紀に地中海の世界を支配した古代ローマの闘技場の観衆は,戦いが終わると場内に駈けこんで,倒れた闘士のくびから流れ出る血を飲みました。スクテヤ人のうちのある者は,死んだ親族を食べたとも伝えられます。ある人々は互いの血をすこしずつ飲んで条約を締結しました。人間の血を手にすくって食べることは,異教の女神ベロナの儀式を始めることになりました。それで,聖霊のみちびきを受けた使徒たちが,クリスチャンは血を避けるべきであると語ったとき,その血の中に人間の血をも含めていたにちがいありません。

      18 輸血は血によって「滋養を得る」ことであると,何が示していますか。

      18 口を通して血を入れようとあるいは口の代わりに静脈を通し体内に入れようと,その入れ方は問題でありません。またある人は,それは静脈摂食と同じでないと論じますが,その主張も力のあるものではありません。事実はそれが滋養を与え,からだの生命を支えているのです。このことを支持する言葉は医学博士ジョージ・ダマリュー・クライル著「出血と輸血」(英文)という本の中に記されています。彼はフランスの医者で輸血の分野の初期研究者デニスの手紙を引用しています。「輸血は,ふつうの場合よりも短い路によって滋養を与えることにほかならない ― つまり,食物を取る代わりにすっかりでき上がった血を静脈内に入れることである。食物はいくらかの変化をして後に血に変わるだけである」。

      19,20 (イ)医療がたえず進歩していることを考えるとき,血を使用する医療をうけるべきか拒絶すべきかを,どのように決定することができますか。(ロ)この面においてダビデはどんなすばらしい模範を残し,血の神聖さに対する尊敬を示しましたか。

      19 医学界では血の使用に強調を置き,血を用いての新しい療法がたえずすいせんされています。しかし,それが血の全部であろうと一部であろうと,その血が自分自身のからだから取られたものでも,他人のからだから取られたものであろうと,あるいは輸血として与えられようと,注射として与えられようと,神の律法は適用します。神は人間に血を与えました。しかし,人間は他の物質を使用するのと同じように,その血を使用するべきではありません。神は血の神聖さに対する尊敬を要求します。

      20 神を恐れたダビデ王は,この律法についてなんとすばらしい模範を示したのでしょう! 神の民の敵共が地から追い出される前に,ペリシテ人はエルサレムに近いベツレヘムに守備兵を置いていました。あるとき,「ダビデはせつに望んで,『だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが』と言った」。彼はペリシテ人が去れば,自由に井戸のところへ行くことができ,その水を飲んで元気づけられるだろうとのぞみました。しかし,ダビデ王の言葉を聞いた「三人〔勇士〕はペリシテびとの陣を突き通って,ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をくみ取って,ダビデのもとに携えて来た」。彼らの持ってきたものは,水に過ぎませんでした。しかし,彼らは生命の危険を冒してそのことをしたのです。ダビデはそのことを知っていました。「しかしダビデはそれを飲もうとはせず,それを主の前に注いで,言った,『わが神よ,わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとって来たのです』。それゆえ,ダビデはこの水を飲もうとはしなかった」。(歴代志上 11:16-19,新口。サムエル後 23:15-17)ダビデは神の律法を尊重しました。彼は動物の血を避けただけでなく,人間の血を食べるという極悪の罪を避けました。ほんとうに,彼はその律法違反に思われるものさえも避けました。彼は神の御心にかなう人でした。今日の円熟したクリスチャンたちも,ダビデのとった道と同様な従順の道に心から従います。そして,血の誤用に関する一切の行いを避けます。彼らは神を愛しているので,血の神聖さに尊敬を示します。

  • 生命を神の御心と一致して用いる
    ものみの塔 1961 | 12月15日
    • 生命を神の御心と一致して用いる

      1 (イ)だれの御心が血の使用を制御しなければなりませんか。彼はどんな行いを禁じますか。(ロ)血を流すことが正しいと示されたどんな出来事がカインとアベルの時代に生じましたか。

      生物の生命の血は神の御こころと一致するときだけ正しく使用されます。血を食物として食べることは禁ぜられています。生命を維持するための医療という口実で血を他の人に与えることは,神により許されていません。血は生物の体内で生命を維持する役割を果たします。しかし,神はそれ以外にももう一つの血の使用を認めています。このことはアダムの息子たち,カインとアベルの時代にあきらかに示されました。「アベルは羊を飼う者となり,カインは土を耕す者となった。日がたって,カインは地の産物を持ってきて,主に供え物とした。アベルもまた,その群れのういごと肥えたものを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」。(創世 4:2-5,新口)カインの供え物は,魂のない野菜でした。アベルの犠牲は生命を表わし,血をそそぎ出すことを必要としました。エホバはアベルの犠牲をうけいれることにより,犠牲をささげるときに血を流す必要を示しました。しかし,カインはこのことについての神の導きをうけいれませんでした。かえって,彼は自分の弟アベルを荒々しく殺してしまいました。アベルは,彼自身の生命と羊の生命を,神の御こころ通りに用いていた当時の地上のただひとりの人だったのです。

      2 神は流された血のどんな一つの正しい使用をゆるしましたか。このことはだれに知らされましたか。そして,どのように?

      2 神の忠実なしもべたちは,エホバにささげる犠牲として,動物の生命の血を注ぐことが神の御心であることを認めました。そして,ノア,アブラハムその他の者たちは,それを行なった者であると聖書に述べられています。(創世 8:20; 22:13)彼らの子孫であるイスラエル人たちが,シナイ山のふもとに集まって,一つの国民に組織されたとき,エホバ神は明瞭な言葉を用いて,生物の流された血を用いるただひとつの正しい仕方を告げられました。彼は次のように言われたのです,「あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである」。

  • 新奇な雑誌配布
    ものみの塔 1961 | 12月15日
    • 新奇な雑誌配布

      村の人々はお金を持っていないので,雑誌が会衆にたまると巡回の僕は告げられました。彼は産物と雑誌を交換する仕方を実演で示しました。その週中伝道者たちはやまのいも,とうもろこし,落花生,メロン,バナナ,そして他の品物と交換しながら,40冊以上の雑誌を配布しました。―エホバの証者の年鑑(英文)より

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