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  • 神にしたがって命と血を尊重する
    ものみの塔 1969 | 8月15日
    • は命の神聖さが人の老若と無関係であることをも認識するでしょう。神のみことばは,母胎内にある赤子の命さえエホバにとって貴重であることを示しています。(出エジプト 21:22,23。詩 127:3)にもかかわらず,世界中では年毎に数百万件もの堕胎が行なわれています。これは神の律法を犯すことです。人間の胎児は生きた被造物であり,これを殺してはならないからです。結婚した夫婦が,経済,健康その他の理由で自分の家族の大きさを制限したいと思うなら,それはその夫婦の個人的な事柄であり,それをどのように行なうかは,主として当事者自身が解決すべき問題です。しかしわたしたちは,神にしたがって命を尊重するとき,堕胎をしてはならないということを認めなければなりません。

      『血から離れていなさい』

      聖書は「血」ということばを「命」という意味で何度も使っています。これは命もしくは魂が血の中にあるからです。(レビ 17:11)神は血の創造者ですから,血についてはわたしたちのだれよりもよく知っておられ,また血をどう扱うかを定める全面的な権利をもっておられます。神が人類に動物の肉を食べることを初めて許されたのは,世界的な大洪水のあとです。それで神は血に関するご自分の律法をもその時に与え,次のように言われました。「生きてうごく動物はみなあなたがたの食物となるであろう。緑の草木の場合のように,わたしはそのすべてをあなたがたに与える。ただその魂 ― つまりその血 ― をもつ肉は食べてはならない」。(創世 9:3,4,新)動物の肉を食べることは許されましたが,血を食べてはなりません。

      のちにこの律法はイスラエル国民に与えられた戒めの中に含められました。そして神のみことばは,これをクリスチャンにもあてはまるものとしています。初期クリスチャン会衆の統治体は,クリスチャンに対する神のご要求を徹底的に検討したのち,非ユダヤ人の信者にあてて次のように書きました。「聖霊とわたしたち自身は,これら必要な事柄以外には,あなたがたに何の重荷も加えないことに同意したからである。すなわち,偶像にささげられた物と,血と,絞め殺した物と,姦浮とから離れていることである。これらのものから注意深く離れているなら,あなたがたは栄えるであろう。健やかなれ」― 使行 15:28,29,新。

      それでわたしたちも『血から離れて』いなければなりません。そしてこのことは大切です。姦淫や偶像を避けることと同格に扱われているからです。

      わたしたちは血の抜かれていない動物の肉を食べてはなりません。それは血について神が言われた事柄から明らかです。(申命 12:15,16)また,動物の血をそのまま飲んだり,血のはいったソーセージやプディングなど,他の食品とまぜて食べたりしてもなりません。しかし,ここで関係しているのは動物の血だけですか。

      動物の血を食べることを禁じた神は,それより神聖さの少ないものであるかのごとく,人間の血を食べることを許されたわけではありません。神はのちにイスラエル人に,「何の血によらず血を食ふ者あれば我その血を食ふ人にわが面をむけて攻(む)」と告げて,このことを明らかにされました。―レビ 17:10。

      初期のクリスチャンはこの点をよく理解していました。一般には,別の人の血を飲むことは健康に良いと考えられていましたが,彼らは肉体的および霊的な意味での永続する健康が神への従順に依存していることを知っていたのです。それで西暦2,3世紀のクリスチャンの著述家テルツリアヌスはこう語りました。

      「また剣闘士の見せ物の際に,てんかんの治療と称して,闘技場で殺された罪人の傷口からほとばしり出る血をそのままむさぼり飲んで走り去って行く者たち ― それはどんな人々か……クリスチャンの前で,あなたがたの下劣な行ないを恥じるがよい。クリスチャンはその質素で自然のままの食事の際にも,動物の血を食べないのである」。初期のクリスチャンは,血を禁じた神の律法の中に動物と人間のあらゆる血が含まれることを理解していたのです。

      輸血についてはどうですか

      今日の,人間の血の使い方についてはどうですか。血に命をささえる力のあることを知る医師たちは,病人の治療にあたって自由に輸血を採用しています。これは神の御心にそうことですか。

      輸血は血を「食べる」こととは異なると考える人がいるかもしれません。しかし,患者が口から物を食べることができない場合,医師はときに輸血を施すのと同じ方法で養分を取らせるのではありませんか。聖句を細かに調べ,『血から離れていなさい』,また『血を避けなさい』と命じている点に注意してください。(使行 15:20,29,新)これはどういう意味ですか。医師が酒類を避けなさいと命じた場合,それは酒を口から飲んではならないが,直接に静脈に注入することはさしつかえないという意味ですか。もとよりそうではありません! それで,『血を避ける』ということは,血をいっさいからだの中に入れてはならないという意味です。

      これによって神のしもべは聖書を無視して輸血を受ける人より不利な立場に立たされることになりますか。そうではありません。これは実際には,神のしもべに困難な事態をもたらすものではないのです。クリスチャンに『血から離れていなさい』と命じた聖句は,そのすぐあとで,「これらのものから注意深く離れているなら,あなたがたは栄えるであろう。健やかなれ」と述べています。この点を忘れないでください。―使行 15:29,新。

      神がこのことばを聖書にしるさせたことには目的があります。神はご自分が語ることの意味を知っておられるのです! 医師は,たとえ悪意はないにしても,必ずしも望みどおりの結果を得られませんが,神はそうした医師たちより血について多くのことを知っておられます。―マルコ 5:25-29。

      事実を言えば,多くの患者は輸血に無事に耐えていますが,輸血の結果として病気になる者も少なくありません。そして,毎年幾千人もの人が輸血の直接の結果として死んでいます。こうした害を出さないほかの治療法がいろいろあります。医師は,輸血を受けなければすぐに死ぬと言うかもしれません。しかし患者は血を受けても死ぬかもしれないのです。他方,あなたもご存じのとおり,医師の予告とは逆に健康を取りもどす患者も多くいます。

      今の事物の体制の下で何年か余分に生きられるかもしれないという不確かな見込みのために,神の律法を犯し,神に背を向けるのは,ほんとうに意味のあることですか。神の律法を破って自分の命つまり魂を救おうとするなら,わたしたちはそれを永遠に失う結果となるのです。それゆえイエスは,「だれでも,自分の魂を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の魂を失う者は,それを見いだす」と言われました。―マタイ 16:25,新。

      賢明な道にしたがいなさい

      それで賢明な道は,神の律法の正しさを常に確信し,必要なら,神が新しい事物の体制の下でわたしたちを復活させ,再び命を与えてくださるということに,いつも全幅の信仰をいだいていることです。(テサロニケ前 4:13,14)こうしてわたしたちは,神にしたがって命を尊重することになるのです。わたしたちは今の命を神に忠節を保つことより大切なものとはみなしません。むしろ,真理にしたがって歩む者のために神が備えておられるとこしえの命から目を離さないのです。

      今は,どこにいる人も命について神と同じ見方をもたなければなりません。このことはかつてなく緊急な問題です。人は命を救うためにエホバ神ご自身が設けられた備えについて学ぶ必要があるのです。エホバ神は御子イエス・キリストをつかわし,信仰を働かせる者たちのために御子自身の命の血を流させ,そののち御子を死から復活させました。(ヘブル 13:20,21)救いは,輸血によってではなく,イエスが流された血に対する信仰によってのみ得られるのです。そして,この古い事物の体制が終わる前の今,その信仰を得,それを実際に働かせることは緊急な問題です。

      この愛のある備えについて学んだなら,わたしたちはそれについて他の人に伝えたいと思うはずです。そして,他の人々の命に対して神と同じ心づかいをもつなら,そのことを熱心かつ大胆に行なうでしょう。(エゼキエル 3:17-21)この責任を引き受け,すべての人が聞く機会を持つまでそれを行ない続けるなら,わたしたちは使徒パウロのように,「わたしはすべての人の血について潔白である。神の助言を,はばかることなくすべてあなたがたに伝えたからである」と言うことができるでしょう。―使行 20:26,27,新。

  • 社交的な行事 ― クリスチャンには節度が必要
    ものみの塔 1969 | 8月15日
    • 社交的な行事 ― クリスチャンには節度が必要

      昔のユダヤ人の婚礼の祝宴は,音楽や踊りや飲食の行なわれる楽しい行事でした。聖書のヨハネ伝 2章を読むと,イエス・キリストとその弟子たちがガリラヤのカナでそのような祝宴に出席したことがわかります。聖書にはイエスが,右の事柄すべてに参加したことは明示されていませんが,ぶどう酒,つまり人を喜ばせる飲み物を奇跡的につくって,その祝宴をいっそう楽しいものにされたことは確かです。―詩 104:15。ヨハネ 2:1-11。

      これはイエスが社交的な行事で,“何をしてもよい”とお考えになったという意味ですか。そうではありません。テモテ前書 3章2節によれば,クリスチャンの監督奉仕者は会衆の他の人々に手本を示す人であり,「習慣には節度を守(る)」人とされています。そしてイエスは“放縦”のゆえにパリサイ人を非難されました。―マタイ 23:25。

      クリスチャンは「幸福な神」に仕える幸福な民です。(テモテ前 1:11,新)彼らは徳を高める交わりを楽しみます。忙しい生活の中にも,社交的なつどいで互いに交わることを喜びます。もちろん,そうしたつどいで人間の不完全さのゆえにまちがいが起こり得ることを知っており,節度を保って,そのようなことを避けるように努めます。

      社交的な行事に参加するとき,クリスチャンはどんな仕方で節度を表わさねばなりませんか。結婚に関する社交的な行事を検討し,その正しい見方を実例をとおして考えてみましょう。

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