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命と血の神聖さを認識するものみの塔 1978 | 9月15日
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によって買われたこと,その贖い代を払った者のこと,そしてそれが何であったかをわれわれに思い起こさせる。他方では,彼の血を介して結ばれた契約に対する信仰により,罪と死から永遠に解放されている,ということを思い起こさせる。キリストの血は彼の死および復活の影響を包含する」。c
22 ですから,イエスの血について述べている聖書の多くの章句はわたしたちにとってなんと意義深く,なんと喜ばしい意味に満ちているのでしょう。イエスの血によってわたしたちの罪は許されるのです。(啓示 1:5。ヘブライ 10:29)むなしい行状から救い出されることは可能なのです。(ペテロ第一 1:18,19)わたしたちは,神が是認し導いておられる人々の会衆の中にいることができるのです。(使徒 20:28)そしてその血で買い取った人々を結合させる王国の支配下で完全になり,永遠の命を得る希望があるのです。―啓示 5:9,10; 12:10,11。コロサイ 1:20。
23 血に対するわたしたちの見方は,どんなものでなければなりませんか。
23 ですから自分の命の価値を高く評価する人はみな,神が血について言われることを感謝する必要があります。神は血を神聖なものと見ておられます。神は血の唯一の有用な用途を定め,祭壇の上に置く犠牲として受け入れ得るものとされました。そして神は,将来に対するわたしたちの永続的希望がすべて,み子の犠牲の血にかかっていることを,み言葉の中で明確に示しておられます。しかし,わたしたちはどうすれば血の神聖さを理解し認めていることを個人的に示すことができますか。これは次の記事で取り上げられる重要な問題です。
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命と血に関する固い決意ものみの塔 1978 | 9月15日
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命と血に関する固い決意
1,2 血に関する質問は,時々どのようにして表面に出ますか。
「判事,輸血を許可」。アメリカのバージニア州で最近ある新聞にこのような見出しが載りました。その記事は次のように書き出されていました。
「連邦裁判所判事は木曜日,ポーツマス海軍病院に対し,命を危険にさらすことは覚悟のうえと申し立てて四日にわたり輸血を拒んでいた重病の婦人に,輸血を施すことを許可した……」。
2 この種の記事は時々現われて,命と血の価値に多くの注意を向けます。前述の件がどんな結果になったかを調べる前に,次の基本的な質問を考えてみることにしましょう。どんな強い信念からこの婦人のような人々は輸血を拒否するのでしょうか。神の言葉は本当にこれをすべてのクリスチャンに要求しているのでしょうか。もし要求しているとすれば,医師から輸血が必要だと言われた場合に,わたしたちの宗教的信念はどれほど固いものでしょうか。また,医療における血の使用以外にも,わたしたちの命と血に対する見方が重要なかかわりを持ち,それがわたしたちの将来にさえ影響を及ぼし得る面がまだあるのでしょうか。
血から来る命
3 啓示 7章14節に基づくどんな理由から,わたしたちは血を大いに尊重しますか。
3 啓示の書は,今日多数の人が抱いている血に対する感謝について説明しています。使徒ヨハネは,将来メシア王国の相続者となる14万4,000人の幻を見たのち,『すべての国民の中から来た大群衆』を見ました。彼らは,回復される地上のパラダイスで永遠に生きる見込みのある人々です。それにしても人間はどのようにして永遠に,しかも罪と不完全さのない状態で生きることができるのでしょうか。その「大群衆」は感謝をこめて叫びます。「救いは……わたしたちの神と,子羊[イエス・キリスト]とによります」。彼らは次のことを認めています。すなわちこの救いは彼らが「自分の長い衣を子羊[イエス]の血で洗って白くした」という理由によってのみ可能なのだということです。―啓示 7:9,10,14。
4,5 (イ)命と血についての正しい態度にはどうして信ずること以上のものが関係していますか。(ロ)聖書はそのことをどのように証明していますか。
4 前の記事の中で指摘されているように,神は聖書の巻頭の書から,人間が永遠の命を得られるようイエスが犠牲の血を流されるということを指し示されました。(創世 3:15; 22:2-10。イザヤ 53:10-12)その犠牲がまだ将来のことであった時に,エホバはご自分の崇拝者たちが命と血を神聖視すべきことを明らかにされました。しかし,エホバはまた彼らがその神聖な見方と調和した行動をすることも要求されました。動物の肉を食べることを初めて許した時に神がノアとその家族に言われたことの中には,行為が含まれていなかったでしょうか。神はこう言われました。「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれをすべてあなた方に与える。ただし,その魂すなわちその血を伴う肉は食べてはならない」。(創世 9:3,4,新)したがって,食べるために動物を殺したなら,血を食べないように,その動物の血を抜く慎重な手段を講じなければなりませんでした。
5 これは単なる食物の規定でも,無意味な宗教儀式でもありませんでした。その行為には極めて重要な道徳上の原則が関係していました。血は神から与えられた命を象徴しました。そして,神がさらに言葉をつづけて,食べるために動物を殺すことはできるけれども,人を殺すことはできない,と言われたのは注目に値します。ですから,命を象徴する動物の血が神聖視され,命を支える目的でそれを摂取してはいけないことになっていたのであれば,まして人間の命と血は一層神聖なものとして見また扱わねばならなかったことが明らかです。―マタイ 6:26と比較してください。
6,7 (イ)創世記 9章3,4節はだれにあてはまりますか。(ロ)律法契約は創世記 9章にある要求をどのように支持しましたか。
6 ノアはすべての人間の先祖でしたから,命と血の神聖さに調和した行動を取ることは,すべての人間に期待されています。多数の聖書学者はこの関係に気づいています。次に掲げるのはその一例です。
「血は命の座と認められている。ゆえに神聖なものである。……血の禁止はモーセ律の食物の規定の一つとなったが,これはノアとのこの契約の条項に含まれているために,後代のユダヤ人はこれを全人類が履行すべき契約と考えた」―「聖書に関する新しいカトリック注釈書」,187頁。
7 この注釈書が指摘しているとおり,後日イスラエルのために法典をもうけられたとき,神は彼らが血を摂取することを同様に禁止されました。神は次のようにお命じになりました。「ただ血を食べることのないように堅く思い定めていなさい。血は魂であり,魂を肉と共に食べてはならないからです。それを……地面に注ぎ出すべきです」。(申命 12:23,24,新。レビ 17:10,13)そのとき神は残りの人類に対しては,偶像崇拝を禁ずる律法を施行されなかったのと同じく,血の摂取を禁ずる律法も施行されませんでした。(使徒 17:30,31; 14:16)したがって異教徒は,血を含む肉を買い,またそれを食べることを好んだかもしれません。(申命 14:21)しかし創造者を崇拝する者はそれをすることができませんでした。事実,もしあるイスラエル人が,血の抜かれていないことにその時は明らかに気づかずに,血の含まれている肉を実際に食べたなら,その人は無意識に犯したその罪を清める処置を講じなければなりませんでした。―レビ 17:15,16。
8 禁じられたのは動物の血でしたか,それとも人間の血でしたか。(サムエル後 23:14-17)
8 もし命を象徴する動物の血を滋養物として摂取すべきでなかったのであれば,人間の血はなおのことそうすべきではなかったでしょう。このことは,イエスがあるときひゆとして,ご自分の肉を食べ血を飲むことについて話されたときに生じたことから,容易に理解できます。ユダヤ人の弟子
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