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    ものみの塔 1968 | 4月1日
    • 血によって人類の世を救う

      「これは,罪のゆるしを得させるようにと,多くの人のために流すわたしの契約の血である」― マタイ 26:28。

      1 「肉の命は血にある」ということばを最初に述べたのはだれですか。

      「肉の命は血にある」。この言葉を最初に述べたのはだれですか。紀元前5世紀のギリシャの哲人また医師であり,大英百科事典に「医学の父」とも述べられているヒポクラテスではありません。また西暦7世紀のイスラム教の預言者で,食物に関することも述べているマホメットではありません。a また紀元前16世紀のヘブル人の預言者モーセでもないのです。それは生命の与え主,人間の血を創造し,血の中に生命を宿らせた造物主にほかなりません。これはヒポクラテスがコス島に生まれる千年以上前に創造者ご自身が述べられた言葉です。

      2,3 このことばがそのかたによって述べられたのはなぜ適切なことですか。それはだれにむかって述べられましたか。

      2 人間の生命の流れであるこの赤い液体の創造者が,このように科学的に正しいことばを述べられたのは全く適切なことです。モーセは紀元前1512年,アラビアのシナイの荒野で神から告げられたこのことばを書きしるしたにすぎません。レビ記と呼ばれるモーセの3番目の本の中に次のことがしるされています。

      3 「エホバ,モーセに告て言たまはく……これに言べし……其は肉の生命は血にあればなり 我汝等がこれを以て汝等の霊魂のために壇の上にて贖罪をなさんために是を汝等に与ふ 血はその中に生命のある故によりて贖罪をなす者なればなり」― レビ 17:1,2,11,文語。

      4 命をささえる血の働きはどれほど古くから知られていましたか。どんなことがそれを示していますか。神はそのことを目にとめられましたか。

      4 人体内のこの不可欠な体液に生命が宿るという神のこのことばに,異論をとなえる人がいますか。たとえ異論を唱えてもそれを裏づけることはできません。医学的に証明されているように,この貴重な体液はふつう23秒おきに体内をめぐり,生命を支える養分を身体の各組織に運んでいるからです。動脈,静脈,毛細管を満たしているこの体液の,生命を支える働きは,早くから認められていました。「輸血の起源は古代エジプトにまでさかのぼる」と言われています。紀元前1513年,預言者モーセがその民をエジプトから導き出した時,エジプトにおいて輸血のようなことが行なわれていたとすれば,必ずモーセの神の目にとまったはずです。血とその正しい処理の方法について,モーセの民に律法を授けられた神が,エジプト人のこの行ないを心にとめられていたとしても,不思議ではありません。―アメリカナ百科事典1929年版第4巻113頁。

      5,6 (イ)血と命との関係はアベルの殺害に関する記述の中で,どのように示されていますか。(ロ)宗教に関連したこの犯罪はだれの手で何度もくり返されてきましたか。それは聖書巻末の本にどのように示されていますか。

      5 生命を与え,生命を支える血の働きは,聖書の筆者の最初の者(モーセ)から最後の者(使徒ヨハネ)に至るまでそれを認めていました。それで人の命を不法に奪うことは人の血を流すこととして述べられています。命は血に宿るからです。たとえば,敬虔な弟をしっとのために殺したカインの例があります。カインが殺人者であることを明らかにして神は次のように言われました。「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます」。カインは罪をかくそうとしていました。(創世 4:10)宗教つまり崇拝の正しい形式をめぐって犯されたこの罪は,使徒ヨハネが大いなるバビロンと呼んだ偽りの宗教の世界帝国によって何百万回となく繰り返されてきました。長く続き,宗教の名によって全世界で人間の生命を奪った,偽りの宗教の世界帝国の責任を示して,聖書巻末の本はこの宗教帝国を淫婦として描き,次のように述べています。

      6 「その額には,一つの名がしるされていた。それは奥義であって,『大いなるバビロン,淫婦どもと地の憎むべきものらとの母』というのであった。わたしは,この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た」「また,預言者や聖徒の血,さらに,地上で殺されたすべての者の血が,この都で流されたからである」― 黙示 17:1-6; 18:24。

      7 大いなるバビロンはなぜ人食い的であると言えますか。彼女が人間の生命を犠牲にしていることから,どんな疑問が生じますか。

      7 これは象徴的な女,大いなるバビロンが人食いのような者であることを描いています。彼女は人間の血に「酔いしれている」と述べられているからです。しかしバビロン的な宗教は人間の命を永遠に救うことを目的としていると主張しています。では神のことばは人食い的な大いなるバビロンを誇張して描いていますか。宗教の名において人間の生命が犠牲にされてきたことを率直に考えれば,決して誇張ではありません。死をもたらすそのような行為に,神の御名さえ用いられてきました。ではこの流血に対して神は宗教の責任を問われないでしょうか。

      8 (イ)生命との結びつきのゆえに,血は益のあるどんなことのために正しく用いられるはずですか。(ロ)医術に関して,ルカはどんな一つの警告を述べていますか。

      8 聖書の中においても世の中においても,血は命と結びつけられており,また命を表わすものとされています。血にはこのような性質と価値があるため,神の目から見てさえ人間の血は他の人,全人類の命を救うため当然に使うことができます。しかしそれはどのように行なわれるべきですか。どんな手段によってだれが行なうのですか。今日の多くの人の意見ではそれはヒポクラテスの追随者つまりヒポクラテスの誓いbをする医師です。医師は今日の医学の技術を駆使し,「命の血」を患者の体内に直接に注入することもします。専門家である医師に対するこの信頼のゆえに,聖書の警告は無視されてしまうのです。聖書の一筆者である医師ルカが19世紀前にしるした一つの病気の例が,その警告となっています。クリスチャンの使徒パウロはルカのことを「愛する医者ルカ」と呼んでいます。(コロサイ 4:14)ルカはこの例について次のようにしるしました。「ここに,十二年間も長血をわずらっていて……だれにもなおしてもらえなかった女がいた」― ルカ 8:43-48。

      9 病気だったこの同じ人について,マルコはなんと述べていますか。

      9 この同じ病人についてのくわしい記述はルカの友人マルコによって書き残されています。「さてここに,12年間も長血をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって,さんざん苦しめられ,その持ち物をみな費してしまったが,なんのかいもないばかりか,かえってますます悪くなる一方であった」。しかしマルコと医師ルカが報じているように,絶望的だったこの女は,偉大ないやし手イエス・キリストの衣にうしろからさわっただけで奇跡的にいやされました。マルコは次のように述べています。「すると,血の元がすぐにかわき,女は病気がなおったことを,その身に感じた」― マルコ 5:25-34。

      “命を救う医師”

      10 1965年の英国医学協会の声明は,血に関する神の律法を致命的に危険なものと見ていることをどのように示していますか。

      10 しかし今日では,血に関する神の律法が死をもたらすものであり,専門家である医師が命を救う者であるといった考えが一般に喧伝されています。1965年2月26日付ロンドン・デイリー・ヘラルド紙は英国医学協会について次のことを述べていました。「協会によれば,患者の命を救うことが医師にとって至上の義務である。両親の意志に反する手術によって命を救おうとしたため裁判沙汰になった場合,医師は諸学会の支持を期待できる」。

      11 多くの医師は聖書にしるされた神の律法と現代の医学とをどのようにくらべますか。進化論者は血をどのように見ますか。

      11 命を救う者,人の現在の命を救う役割をになう専門職に携わる者として自他ともに許すこれらの人々の大多数は,医学の進歩した現在,聖書にある神の律法は非科学的で時代おくれとなり,昔の本である聖書はもはや通用しないと考えています。「聖書は1900年前に書き終えられた。人の命を救う今日の医薬と技術,今日の医学とくらべて,聖書の筆者は何を知っていただろうか」と彼らは言います。聖書の創造の教えを受け入れず進化論を唱える進化論者であれば,神の律法を尊重しません。彼らは医学の倫理をみずから確立しています。彼らの考えによれば血は進化したものであって,人間の創造者の創造したものではありません。

      12 他の人は血に関してどんな意見を持っていますか。その結論は何に基づいていますか。

      12 しかし意見を持ち,それを表明するのは人の自由です。血は,非人格で盲目かつ無知な,偶然の進化の産物ではなく,全能の神の無比のわざであることを信ずる人もいます。その意見は疑うことのできない事実に基づいて導き出された論理的な結論です。第一次世界大戦のおびただしい流血の前に書かれた,ウィリアム・ハンナ・トムソン博士のことばが思い起こされます。同博士は長年の間ニューヨーク市の病院に関係していた著名な医師です。ニューヨーク・タイムズにのせられた同博士の記事は次のように述べていました。

      13,14 (イ)血液中のヘモグロビンに関するどんな事実は,ヘモグロビンの分子が偶然の産物ではないことを示していますか。(ロ)ヘモグロビンの複雑さも何とはくらべものになりませんか。生命の起源について科学は何を見いだしていますか。

      13 「地球上の動物で赤い血を持つものはすべて,生きるためには血球中にヘモグロビンと呼ばれる特定な物質を持たなければならない。さてヘモグロビンの分子には,以下の数の異なった原子がそれぞれ定まった比率に応じて含まれていなければならぬ。すなわち水素1130,炭素712,窒素214,酸素245,硫黄2,鉄1の合計2304の原子である。しかも他との特定な比率(ある生理学者はこれを“不明の”という)を保つ鉄の原子1個が欠けても,動物は酸素の吸入と炭酸ガスの放出ができない。すなわち呼吸不能となる。わたしは,ドイツ系の人でドイツの教育を受けた著名な生理化学者に,ヘモグロビン分子中の原子の配列が偶然に成立する可能性について尋ねてみた。『偶然ではあり得ない』と彼は言下に答えた。

      14 「しかしヘモグロビンの複雑さも,伝染病に対する免疫のしくみの化学的な研究中に発見された化学物質にくらべれば物の数ではない……現代の科学者が認めているように,生命の起源の問題は研究が進むにつれてますます不可解になって行く」― 1911年7月1日号「ものみの塔」(英文)198,199頁。

      15 血液が進化の産物であるという説のあやまりはどのように明らかですか。

      15 血液の性質と組成およびそれが命をささえるという事実は,血液が知力,生命,目的のない進化の産物である可能性を否定しています。血液のこのような特色は,理知のある生きた,そして目的を持ち,造り出す神,人間の創造者なしには生まれません。

      16 (イ)赤血球に関するどんな事実は創造者の必要を証明していますか。(ロ)どれほど昔に,神は血のことを言われましたか。それはどの程度にまで及んでいますか。

      16 赤血球の形と働きを考えてごらんなさい。高度に数学的な頭脳がなければそれを形造ることは不可能です。ふつうの人の血管中にある30兆の赤血球一つ一つは人間の造り主,創造者の存在を反論の余地なく証明しています。創造者は最も進んだ医学者よりもこの生命の赤い液体の必要さ,特性と目的をよくご存じです。1918年シカゴ大学の医学の教授が保存血液の輸血を初めて行なった時よりも5800年以上前に神は血のことを言われました。それは生まれ出た人間としては最初の人であるカインが,弟のアベルをひそかに殺したあとのことです。(創世 4:10,11)それ以来,神は血について多くのことを言われました。文字になった神のことば66巻すなわち創世記から黙示録までの1189章に血のことは447回出ています。c

      17 (イ)イエス・キリストによって示されているように,最も偉大な医師はだれですか。(ロ)そのかたは今日,権威をもってどのようにわたしたちに語られていますか。

      17 神は御子に力を与え,いやしの奇跡を行なわせました。それは医薬や外科手術によらず即座に行なわれたもので,長血をとめ,視力を回復させ,ろうあ者に聞くことと話すことを得させ,足なえを歩ませ,らい病人を清め,脳をいやし,死人をさえよみがえらせました。このことから見れば,創造者なる神は最も偉大な医師であられます。そして人間のからだとそのつくりについて,またからだをいやし,回復させ,ふたたび生かす方法については,今日最も高い教育を受けた医師よりもよくご存じです。神はこの事柄について間違いのない絶対の権威であられます。神の語られる事柄に耳を傾けなければなりません。神が語られる時,わたしたちすべては学び,益を受けます。神は霊感によって書かれた不変のことばによって今わたしたちに語られます。神はなんと言われていますか。

      18 エデンの園において,血を禁ずる律法はなぜ必要ありませんでしたか。

      18 人間は生きるために食べます。では人類は創造の神に許されてもうどのぐらいの期間,動物の肉を食べてきましたか。それは人間創造の時からではなく,人類史のうちで過去4335年間のことです。エデンの楽園において,完全な男女は果物,木の実,野菜のような土の産物を食べることを許されました。(創世 1:29,30)それで動物の血を食べてからだを養うことを禁ずる律法は必要なかったのです。

      19 (イ)エデンの園からアダムを追放された時,神は血を食べることを許されましたか。(ロ)アベルが犠牲の動物の血を飲んだかどうかは,何からわかりますか。

      19 禁断の木の実を食べて罪を犯した人間をエデンの園から追放した時でさえ,神は以後,動物の肉を食べるようにとは言わず,人間に告げてこう言われました。「あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ,ついに土に帰る,あなたは[低い動物から進化したのではなく]土から取られたのだから。あなたは,ちりだから,ちりに帰る」。(創世 3:18,19)何年ものちにアダムの二番目のむすこ,アベルが羊の犠牲をエホバ神にささげた時,犠牲にささげられた動物の血が流されました。しかしアベルはその血を飲みませんでした。それで神はアベルの犠牲を嘉納されたのです。―創世 4:3-11。

      血を食べることを禁ずる神の律法

      20 箱舟から出たノアは直ちに何をしましたか。

      20 1500年以上ののち,敬虔なノアおよび妻帯した3人のむすこの時代に洪水がありました。洪水の水は少なくとも180日の間,地と山々をおおっていたのです。(創世 7:11から8:5)何か月ものち,洪水を生き残った8人が保護の箱舟から出た時,ノアはすべての清い動物と鳥の中から犠牲をエホバ神にささげました。しかしノアとその家族は犠牲の動物の血を飲まず,また肉を食べませんでした。

      21 そのとき神はどんな律法を定めてノアに告げられましたか,

      21 神はそれを喜ばれました。神は彼らを祝福して子孫で全地を満たすようにと告げ,ついでエデンのアダムとエバの場合と同じく,わたしたちを含めて将来の全人類の食物に関し,一つの律法を定められました。「すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように,わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を,その命である血のままで,食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには,わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復するであろう」。(創世 8:18から9:5)そののち虹が初めて現われ,世界的な洪水が二度と人類に臨むことはないという神の永遠の契約が立てられました。―創世 9:8-17。

      22 (イ)それで血を禁ずる神の律法がモーセの律法に由来するものでないことは,どのように明らかですか。(ロ)血を禁ずる神の律法が西暦33年以後においてさえ,わたしたちすべてにあてはまるのはなぜですか。

      22 その時ヘブル人,イスラエル人,ユダヤ人は存在せず,割礼もありませんでした。人類の三つのわかれであるセムの種族,ハムの種族,ヤペテの種族の先祖がいたにすぎません。それは紀元前2369年のことで,十戒をも含め,イスラエル民族に与えられた律法がエホバ神によって預言者モーセに授けられる856年前です。したがって,動物の血を人間のからだに入れることを禁ずる神の律法は,紀元前1513年にモーセをとおして与えられた神の律法によって存在するようになったのではありません。これから明らかなように,この重要な事柄に関する神の律法は,ヘブル人またイスラエル人つまりユダヤ人だけにその適用を限られていたのではなく,また限られてもいません。西暦33年,神はモーセの律法をイエス・キリストの死の杭に釘づけにしてそれを廃止されましたが,この特定の律法だけは廃止されず,効力を失いませんでした。(コロサイ 2:13,14。エペソ 2:13-15)ノアの時代のこの律法は今でも全人類に適用されます。それは人間が今も動物や鳥の肉を食べていること,またエデンの園と完全な菜食にもどることができないでいる事実と同じく確かです。―創世 1:29,30。2:15-17。

      23,24 (イ)弟子ヤコブのどんなすすめは,使徒時代のクリスチャンが,ノアに対する神の律法をなお守ったことを示していますか。(ロ)その布告のことばは,聖霊の役割をどのように示していますか。

      23 ユダヤ人のみならずクリスチャンも,ユダヤ人でない人もクリスチャンでない人も,洪水後,人類の共通の先祖であるノアに与えられたこの律法の下にあります。西暦1世紀の使徒時代のクリスチャンはこの事実を認め,それを主張しました。成就し,廃止されたモーセの律法が比喩的に言ってキリストの死の杭に釘づけにされてから16年後,クリスチャンの弟子ヤコブは使徒および古い兄弟のエルサレム会議に対し,ユダヤ人以外のクリスチャンにあてて「偶像に供えて汚れた物と,不品行と,絞め殺したものと,血とを,避けるように」書き送ることを勧めました。「絞め殺された動物の肉および血を味わうこと」(アメリカ訳)を避けるようにとのすすめは,弟子ヤコブだけの考えではなく,神の聖霊によるものです。この重大な事実は,ユダヤ人以外のクリスチャンにあてられた公式の布告のことばづかいによっても強調されています。それは次のように述べられていました。

      24 「あなたがたの兄弟である使徒および長老たちから……異邦人の兄弟がたに,あいさつを送る……聖霊とわたしたちとは,次の必要事項のほかは,どんな負担をも,あなたがたに負わせないことに決めた。それは,偶像に供えたものと,血と,絞め殺したものと,不品行とを,避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば,それでよろしい。以上」― 使行 15:19-29。

      25 (イ)歴史によれば,真のクリスチャンはどれほど長くエルサレムの布告を守りましたか。(ロ)エホバの証人が今日それを守るのはなぜですか。

      25 何年ものち,第3回宣教旅行を終えた使徒パウロに対し,弟子ヤコブはエルサレム会議の同じ布告が非ユダヤ人のクリスチャンに対してなお施行されていることを述べています。(使行 21:18-26)西暦3世紀までの宗教的著述家によれば,血を体内にとり入れることを禁ずる,霊感によるこの布告は,発布後何世紀ものあいだクリスチャンたちによって堅く守られていました。特にローマ・カトリックの聖人オーガスチンの時代以後,キリスト教国は霊感によるこの布告を守ることをやめ,キリスト教国の医師はクリスチャンに対する拘束力を持たないものとしてそれを無視してきました。d しかしだれがこの布告を廃止しましたか。神ではありません。神はみずからそれに霊感を与え,エルサレムの忠実な組織をとおして公布させられたからです。それはモーセの律法の廃止に伴って廃止されたのではありません。聖書に基づくこの理由のゆえにクリスチャン,エホバの証人は今日この定めを守り,淫行と偶像崇拝のみならず血をも避けるのです。

      血による救いの預言的な例

      26 (イ)血がだれのものかについて,エルサレムの布告はモーセの律法とどのように一致していますか。(ロ)犠牲の動物の血を流しておきながらそれをエホバにささげないユダヤ人は,どんな罪に問われましたか。

      26 このエルサレム会議の布告が出されたのは,イエス・キリストがカルバリの死の杭の上で血を流されてから何年もあとのことです。しかしこの布告により,神は,モーセをとおして与えられた律法の中に述べられた事柄すなわち人間と動物の血は創造者なる神のものであるという事実が変わらないことを明白にされました。神は生命の与え主であり,人間と動物の命を血の中に宿らせ,命を支える主要な役割を血がになうようにされた以上,それは当然です。この理由でイスラエルにおいては犠牲の動物を殺しておきながらそれをエホバにささげなかった人は,殺人をしたのと同様でした。「その人は血を流した者とみなされる。彼は血を流したゆえ,その民のうちから断たれるであろう」。その人は殺されました。(レビ 17:3,4)犠牲の動物の血を祭壇のもとに注ぐことを,祭司がエホバから命ぜられていたのも,その理由にほかなりません。(レビ 4:7,18,25,34; 8:15; 9:9)血は生命と同じく神聖であり,そのように扱わなければなりません。

      27,28 (イ)イスラエルに対する神の律法において,どんな性質が血に帰せられていましたか。それで生命の血を用いて何を成し得ますか。(ロ)レビ記 17章11節から14節はそのことをどのように示していますか。

      27 忠実なノアに与えられた律法および昔のイスラエルに与えられた神の律法の場合,生命の流れのこの神聖な性質は,犠牲としてささげられた動物のみならず,人が食物として狩り得た清い動物にも帰せられていました。いずれの場合にも神聖な生命の血が関係しており,したがってそれは神聖な目的に供することができました。罪の罰は死であり,魂すなわち生命は血にあるゆえに血は罪を償い,罪の罰である死を免れるために用いることができます。この律法の意味を論議する必要はありません。それは明白に次のように述べています。

      28 「肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである。このゆえに,わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち,だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。イスラエルの人々のうち,またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち,だれでも,食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は,その血を注ぎ出し,土でこれをおおわなければならない。すべて肉の命は,その血と一つだからである。それで,わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは,どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう」― レビ 17:11-14。申命記 12:16,23-27とくらべてください。

      29 (イ)神は人体内の命の流れをどんなすばらしいことに使われますか。(ロ)神の道と異なることに血を用いるのは,結局どんな使い方であると言えますか。なぜこれは医学上の血の使用にもあてはまりますか。

      29 心臓からからだ中に送り出されている赤い流れに含まれる生命の価値のゆえに,エホバ神は人類の世を救って永遠の生命を得させるため,比類のない方法で血を使うことができます。ゆえにこれは全人類の永遠の生命に関する問題です。それには非常に重大な意味があるため,模型的なイスラエルの国において,血を食物として食べた人は死刑にされるか,あるいは特別な清めの手続きをとることが必要でした。(レビ 17:15,16; 7:26,27)この貴重な生命の流れを神の道とは別のことに使うのは誤用であり,用い方をあやまっています。この原則は古代エジプトから現代に至るまでの医学上の血の使用にもあてはまります。なぜですか。医師は,神の定めにしたがって人類の血を神にささげるため聖なる祭壇において仕える神の祭司として任命されていないからです。むかし神は血によって人類の世を救うために必要な事柄をすべてとりはからわれました。神はいわゆる科学的に血を用いることを必要としません。医学の名において血が使われていることは神のみこころに反します。

  • 人間の方法と神の方法とそのどちらですか
    ものみの塔 1968 | 4月1日
    • 人間の方法と神の方法とそのどちらですか

      1 命を救うという口実の下に神の神聖な法律を破ることは,人間の生命を何と同列におくことですか。

      人の命を救う,あるいは延ばすという口実の下に神の神聖な律法を破って,それを正当化したり言い訳したりできる人はいません。一部の良心的な人を除いて医学界の人々は,神の律法を聖書の神話あるいはもはや効力のないものと見ています。彼らは,罪に定められて死ぬ,不完全な人間の命を神の律法よりも重んじ,人の命を救うためと称して神の律法を破ります。それも永遠に救うのではなく,今の命をいくばくか延ばすにすぎません。その結果,命を救うと言われる輸血が疫病のように流行しています。

      2 最近,一部の医師は自由人の基本的な権利をどのように侵害しましたか。またそのことをするに際して,どのように身の安全を図りますか。

      2 この方法で人の命を救うことを自分たちの務めと心得る彼らは,神の律法を破ることを良心的に拒絶する,献身したクリチャンに輸血を強制しようとさえします。クリスチャンは神の律法を破ってまでも生きながらえようとはしません。神から授けられている権利のみならず,特定の国々においては確立された権利章典に基づく憲法上の権利を患者から奪うことになるにもかかわらず,輸血を強制する人々はそれを合法的に見せかけようとしています。そこで自分たちを保護するため,医師は判事や立法府に訴え,信教の自由を無視する権威を得ようとします。生ける真の神エホバを良心の命ずるままに崇拝する権利は,信教の自由に伴うものです。この場合,医師の見解によれば,宗教は生命を危うくするものであり,したがって無視すべきものとなります。それは血の神聖さに関する神の律法を破る無神論的な行為を遂行するためです。

      3 (イ)そのように行動する医師は,どんな考えを持っていますか。(ロ)赦免に関するアメリカ最高裁判所の判例に一致して,医師には良心的な人に何をする権利がありませんか。

      3 患者の宗教上の意向に反する方法によっても,命を救うのが先決であり,みすみす死なせることはできないというのが医師の考えです。しかしアメリカ合衆国の最高裁判所でさえも,道徳的な自由人は命を救う,あるいは延ばすための特定な法の救済を受けるよりも,むしろ死を選ぶ権利があるという判例を残しています。それはどんな場合ですか。それは命の助けられる条件を受け入れることができない場合です。a では国の最高法廷も,本人に受け入れられない条件でその人に命を強制する権利を持たないとすれば,良心に反して神の神聖な律法を破るよりも死ぬことを選ぶ人に対して,命を救うためとはいえ非聖書的な処置を強制する権利は,法的にも倫理的にも医師にはありません。

      4 輸血は血を食べることを禁ずる神の律法を破るものではないとして,医師はどのように論じますか。しかし何が事実ですか。

      4 しかし医師はその行為をさらに正当化するため,何を主張していますか。輸血は血液で患者を養うことではなく,したがって神の律法を破るものではないと主張しています。しかしこれは実際には非科学的な考えです。口を経て体内にはいり,ふつうの消化の過程を経ることがないからこそ,輸血は血でからだを養う最も早く,かつ直接的な方法なのです。そして血はノアに与えられた神の律法によって禁ぜられ,そのことはクリスチャンのエルサレム会議で再確認されました。

      5 輸血された血は栄養分ではなく媒介物にすぎないと主張して,医師はなんと述べますか。しかし実際にそのとおりですか。

      5 輸血をすすめる別の論議によれば,注入されるものは養分を人体に直接に運ぶ媒介物にすぎず,からだは媒介物そのものによって養われるのではないと主張されています。それでは次のことを問わねばなりません。注入された媒介物である血がその酸素と養分を患者の体組織に放出したあと,媒介物であるこの血は患者の体内から取り出されて献血者の体内にもどされますか。そう言われても困るでしょう。それは不可能です。献血者が不明の場合あるいは死亡直後の人体から血がとられている場合,特にそうです。それで注入された媒介物質は患者の体内に残ります。それはどうなりますか。何年かたってからだが更新されるにつれ,媒介物であるこの血液は,他の器官の移植の場合と同じくからだに吸収されてしまいます。ではどの点においてこれは注入された血でからだを養うことと根本的に相違しているのですか。結果は同じです。注入された物質は患者のからだを養っています。

      6 もしルカが今日,地上にいるなら,輸血に対してどんな態度をとるでしょうか。なぜそう言えますか。

      6 クリスチャンの弟子ルカが復活によって地上にもどって来たとすれば,彼はどうするでしょうか。ルカはパウロの同伴者であり,「愛する医者ルカ」とパウロに呼ばれています。ルカは今日の医師に加わって輸血をするでしょうか。聖書から見てその答えは否です。クリスチャンのエルサレム会議の布告を報じ,それを3回も引用している聖書の筆者はルカにほかなりません。

      7 エルサレム会議の布告の中で,血を避けることに関して何かの例外が設けられていますか。

      7 ルカが記録しているこの布告はユダヤ人でないクリスチャンに対し,「血……を避ける」ことを命じていました。それは医師ルカあるいは他の医師のために例外を設けていません。また有能な医師の施す輸血の場合を除き,あるいは立法府や判事の命令がある場合を除いて,血を避けよとは命じていません。判事は要求されている「然るべき法の手続き」を粗略にし,みずからが法となって一方的に緊急事態を宣言し,医師の訴えをいれて,患者の宗教上の反対にもかかわらず輸血を施すことを命じます。使徒時代のキリスト教会議は人間の血と動物の血の区別なく,いっさいの条件をつけずに「血」を禁じました。

      8,9 (イ)ルカも疑いなく観察したように,昔のギリシャ人はなぜ血を飲みましたか。それはどんな結果をもたらしましたか。(ロ)早くも1909年に「ものみの塔」誌は,血を食べることが神によってユダヤ人に禁ぜられた理由につき,なんと述べていましたか。

      8 使徒パウロとともに昔のギリシャを旅行した医師ルカは,悪霊と血縁を結んで将来の事を知るために血を飲んだギリシャ人の風習を知っていたに違いありません。こうして動物の血を飲むことがその動物の獣性を人に与える結果になるのを医師ルカは観察したことでしょう。しかし医師ルカにもまさってエホバ神は,食べると飲むと輸血のいかんを問わず,他の生き物の血を体内に入れることの結果をご存じでした。神が血を禁じたのは,命が血にあり,血を摂ることが少なくともある程度まで命を取るのと同じことになるからですが,しかしそれ以外にも理由があったことは明らかです。このことはずっと昔,「ものみの塔」誌に暗示されていました。1909年4月15日号117頁に「教義上の不一致を解決する」との見出しの下に血に関するエルサレム会議の布告につき次のことが述べられています。

      9 「それはユダヤ人に禁ぜられ,神の契約下において生命の象徴とされた ― それを摂ることは,とられた命に対する責任を暗示した。そのうえ予表的な律法の儀式において,禁ぜられた血は罪祭を表わす象徴として用いられた。罪の償いは血によってなされたからである。これらの予表的な教訓を銘記させるために,ユダヤ人には血の使用が禁ぜられた。また他に医学的な理由もこの事柄に関していると思われるが,それはまだ明らかにされていない」。b

      10 いま明らかになりつつあるこれらの理由のうち,一国だけで輸血からどんな有害な結果が生じていますか。しかしそれにもかかわらず,輸血に関して何が提案されていますか。

      10 58年後の今日,輸血が広く行なわれ,医師が多くの症例を手がけるにつれて,これらの理由はますます明白になってきました。現代医学の療法のうち,多くの人が助かっている反面,一つの国で1年間に1万6000人がそのために死亡し,ほかにも何千人が重症になる療法について,あなたはどう思われますか。それは輸血のことです。c しかし政府は危険なものとして輸血を禁じますか。多くの死亡例が記録された医薬の場合と同様な措置をとり,危険なものとして市場から除きますか。そうはしていません。それどころか人々は,クリスチャンとしての良心のゆえに輸血を拒否する人にそれを強制するための立法措置を講じようとしています。政府の措置がこのように首尾一貫しないのはなぜですか。

      11 良心の問題に関して,ナチスの戦犯の場合と,輸血に反対するクリスチャンの場合はどのように対照的ですか。

      11 大量殺りくの罪を問われたナチスの戦犯が上官の命令に従ったにすぎないとの理由で無罪を主張した時,無実の人を殺すことに反対する良心の命令に従うべきであったことが法廷で指摘されました。d それはなぜですか。しかるに今日,知性のある,献身してバプテスマを受けたクリスチャンが聖書と一致する良心に従って行動する時,彼らの良心は立法者,判事,医師によって無視され,輸血を強制されます。その血はひとりあるいはそれ以上の人の命を表わしているのです。

      おびただしい血の浪費

      12 血が神にとって貴重であることを思えば,それを浪費すべきですか。しかしアメリカでは血がどのように用いられているために,大きな浪費を招いていますか。

      12 血は神聖なものとして扱われねばなりません。それは命を表わすからです。それは神にとって貴重であり,人間の血は動物の血よりも貴重です。第二次世界大戦中およびその後,「疫病のような輸血の流行」によって,この貴重な人間の生命の流れがなんとおびただしく浪費されてきたのでしょう。1964年3月29日付ニューヨーク・タイムズ・マガジーンの38頁に「600万パイント(1パイントは470cc)の血液でも足りない」と題して次のことが出ています。「毎年,5,600万パイントに及ぶ血液の小さな川がアメリカの病人の血管に流れ込んでいる。ニューヨーク市だけでも一日1000パイントが消費されている。輸血によって何万人の生命が救われている」。しかしこの記事は輸血のために,どんなに多くの命が失われたかを述べていません。そのことが不問にふされ,一方的な報道が行なわれているのはなぜですか。

      13 生命の価値について言えば,600万パイントの「小さな川」は何に相当しますか。輸血によってそれだけの命が救われていますか。

      13 生命の価値という観点から測ってみると600万パイントの「小さな川」はどれだけのものに相当しますか。ふつうの成人の場合,6万マイル(約9500キロ)に及ぶ動脈,静脈,毛細血管には12から13パイントの血液がめぐって,からだの組織を養っています。これを基にひとり13パイントの割で計算すると,600万パイントの「小さな川」は46万1538人の成人の血に相当します。しかしそれだけの人が救われたというのではありません。いやもっと正確に言えば,たいした害を受けずに輸血を生き延びたのではありません。

      14 輸血にもかかわらず人が死ぬ時,貴重な液体はどのように無駄になりますか。

      14 アメリカだけでこれら何百万パイントの血液が使われていますが,それには貴重な生命の流れのぼう大な浪費が伴っています。ひとりわずか1パイントは用をなしません。少なくとも3,4パイントが必要であり,時には20から30パイント,まれには40パイントが使われます。それでも南ベトナムの野戦病院におけるアメリカの負傷兵の場合のように,大量の輸血をしても死ぬことがあります。医師は兵士を「救う」ために必死の努力をしているのです。1967年2月25日付ニューヨーク・タイムズには「からの血液袋の山がだんだん高くなり,手術のすむまでには28パイントが輸血された」例が報ぜられています。しかしその兵士は死にました。貴重な液体の浪費です。良い意図の下に行なわれたことは確かですが,それでも成人2人以上の命に相当するものが無駄になりました。それは不首尾でした。

      15 ほかにも輸血の副作用からどんな無駄が生じますか。

      15 輸血が直接の原因となって死亡する場合,貴重な生命の流れが何十万パイントも無駄になっていることを考えてごらんなさい。輸血によって意図されたのとは反対の結果が生じているわけですから,これは恐るべき浪費です。また,輸血の後遺症のため後日に死亡する場合にも何十万パイントが無駄になっています。また輸血のために身体障害が生じた場合,輸血は無駄になっていませんか。

      16 血液銀行に関連してほかにどんな無駄がありまか。

      16 血液を売買する血液銀行で生ずる無駄を最後に考えてごらんなさい。血液銀行は低い価格あるいは無料で血液を入手し,一単位10ドル(3600円)から60ドルでそれを売ります。これらの銀行において血液はいつまでも保存されるのではありません。血液は往々にして悪くなり,古くなります。一部の銀行では古くなって使えなくなる血液が,銀行にある全部の血液の1割にも及んだことがあります。それは意図された目的のために使われなかったのです。貴重な生命の液体の大きな浪費です。e

      17 この浪費は神に喜ばれますか。これに対して人は神に責任を問われますか。なぜですか。

      17 貴重な体液をこのように浪費することは,生命を支えるためにそれを人間のからだに入れた偉大な創造者のみこころにかないますか。輸血に対する医学上の理由は,このような浪費をも神の前で正当化するものですか。神のことば聖書によればそうではありません。平時,戦時を問わず血をこのように流すこと,つまり犠牲の血を神の祭壇の下に流すのではなく神の至上の律法に反する医学上の実験において血を流すことに対して,神は人間の責任を問われるでしょうか。明らかにそうです。古代イスラエルにおいて血に関する神の禁令を故意に犯す者が神の民から絶たれ,つまり殺されたことを考えればことにそう言えます。多くの有効な代用血液がある今日,神の律法をこのように破ることに対して言いわけはできません。心臓外科における難しい手術でさえも,医師が努力し,時間をかけ,その技術を使うならば輸血をしなくても首尾よく行なわれます。

      18 殺人を禁ずる神の律法がなお有効であることから,ノアに授けられた他のどんな律法が有効であると言えますか。ノアの家族はその律法をだれに教えなければなりませんでしたか。

      18 洪水後ノアに与えられ,血を食べることを禁じた神の律法は,殺人を禁じた神の律法に伴っていました。「人の血を流すものは,人に血を流される,神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。(創世 9:4-6)殺人を禁ずる神の律法が今日なお有効なことは確かであり,他の生物の血を体内に入れることを禁ずる神の律法もそれと同様この20世紀に有効であって,人はみずからの益のためにそれを尊重しなければなりません。この禁令を子孫に教えるのはノアの家族の務めでした。

      19 モーセの律法下にあったイスラエル人は,血を禁ずる神の律法に関し,次の世代に対してどんな責務を負っていましたか。

      19 モーセをとおしてイスラエル国民に与えられた神の律法は,動物の犠牲について次のように定めていました。「脂はみなエホバに帰すべし汝等は脂と血を食ふべからず是は汝らが一切の住処において代々永く守るべき例なり」。(レビ 3:16,17,文語)これからみてもイスラエル人のひとつの世代には,血を食べてはならないことを次の世代に教える義務がありました。血を食べるのが神の律法に反することを子供に教えるのは父親の義務であり,それと一致して父親は子供たちが血を食べないように監督し,また自分が主人であり,監督また保護者である家庭内で血を禁じました。―申命 6:6,7。詩 78:5,6。

      20 それと似たどんな責務がクリスチャンのイスラエルに課せられていますか。今日,エホバの証人はこの点において何をしますか。

      20 今日,エホバ神には霊的イスラエルすなわちクリスチャンのイスラエルがあります。(ガラテヤ 6:16)生来の肉のイスラエル人がエホバの証人であったのと同じく,クリスチャンのこれら霊的イスラエル人もエホバの証人です。脂肪に関する定めを含むモーセの律法は,キリストが犠牲となって死なれた時に廃止されましたが,エルサレムのクリチャン使徒会議はノアに授けられた神の律法を再確認し,それを真のクリスチャン会衆にあてはめました。未成年の子供たちにこの律法を教え,また施行するのは,クリスチャンの父親の責任です。神の律法によって父親は未成年の子供たちの親権者であると同時に霊的,宗教的な事柄において保護者だからです。クリスチャンであるエホバの証人は今日その事実を認め,神による行為の定めに従います。それでノアに授けられた神の律法やエルサレム会議の布告を破ることのないように子供たちを守ろうと努めます。(エペソ 6:4)当然彼らは子供たちが他の者の血を体内に入れないように子供たちを守ります。

      21 クリスチャンの両親のこの権利を,今日だれが否定しますか。彼らは問題の子供をひきとるため,どのように論じますか。

      21 エホバの証人である両親には真にこの権利がありますか。一部の医師,判事,立法者は神の律法と信教の自由,クリスチャンの良心に盲目となり,その権利を否定します。クリスチャンにあてはまる神の律法を無視するこれらの人々は,エホバの証人が単なる人間の医師の命令にさからって子供に対する輸血を拒否する時,エホバの証人を危険な親と宣言し,血をわけたみずからの子供に対する保護者の権利を失うものとします。ゆえにこのような子供たちは政教の分離が行なわれている国においてさえも国家の被後見者となります。

      22 ゆえに恥ずべきどんなことが,法廷の是認の下に行なわれる結果となっていますか。

      22 こうして判事は子供をクリスチャンの親の手からひき離し,輸血を信用する,任命された後見人の下におきます。彼らは神の律法とクリスチャンの親の良心的な反対を無視して,乱暴にもこれらの子供たちに輸血が施されるようにしました。子供がこのような強制的な輸血に生き残ると,これらの違反者は“命を救った”ことで自分たちの良心をなだめます。

      あなたはご自分のからだに対して権利を持っていますか

      23 これに関連して一寄稿家はどんな疑問を提起し,またどんな結論を述べていますか。

      23 これに関連して「からだはだれものか」という重要な問題が起きました。これはエホバの証人である妊婦に法廷命令により輸血が強制されたことに対して怒りを感じた一寄稿家の記事の見出しです。その記事は次のように結んでいました。「いつか我々はディッケンズのビードルのように,“法律をばかげたもの”と結論し,なんらかの手段をとるであろう」。f

      24 最近イスラエルでは何のために同様な疑問が提起されましたか。アメリカのユダヤ人は何を訴えましたか。

      24 からだはだれのものか。この同じ質問は,割礼のある生来のイスラエル人により,やや関連した問題の場合に提起されました。それは度重なる抗議にもかかわらず,イスラエルにおいてユダヤ人の死体解剖が非常に増加しているためです。イスラエルにおいて「医師は立法者の意図とは異なったふうに法律を解釈して」きました。g 遂に1967年4月7日,イスラエルにおける人間の尊厳を守るアメリカの委員会は,「イスラエルの政府に対する訴え: 死者を冒瀆してはならない」を公表しました。「人間の尊厳とユダヤ人の伝統」を論じたことばの中で,この訴えは一部次のように述べていました。「普遍的に受け入れられているこの神聖な態度に照らし,また自分のからだの運命を決める人間の神聖な権利を考慮し,(アメリカ合衆国をも含め)世界の諸国において,遺体の解剖を行なうには本人および近親者あるいはそのいずれかの書面による同意が法律上要求されている。イスラエルにおける事態は不幸にして「著しく異なっている」。

      25 どんな良心的な理由のゆえに,イスラエルのユダヤ人は入院して治療を受けることをこばんできましたか。遺体の処理について請願書は何を述べていますか。

      25 この悲劇的な事態に関してこの訴えはさらに次のように述べています。「その結果,聖地の多くのユダヤ人はからだが切断されることを恐れ,たとえ治療が必要でも病院にはいることを拒絶しなければならない……これはユダヤ人にとって宗教上の信念の問題であり,彼らは信仰のために命を捨てることにもなれている。しかしこれはそれほどの問題であろうか。病院にはいるのに自分の良心が許す以上の代価を求められて良いだろうか。死体解剖に関するイスラエルの現行法は死者のみならず生きている人にとっても脅威である……イスラエルの一部の人々は宗教と名のつくものに対しておよそ無関心であるため,死者の権利を踏みにじることをもはばからないように見える……宗教上の問題のみならず,すべての文明国が人間の基本的な権利と認めているものがおびやかされているのである。すなわち死亡した本人および近親者あるいはそのいずれかの意向が遺体の処理方法を決めるのであって,それを決めるのは国家ではない」。h

      26 ユダヤ人の訴えは,神の律法から見てどのように正当なものですか。クリスチャンは自分たちのからだについて何を自問しなければなりませんか

      26 医学界における尊大な行為に対するこの抗議は,死体のみならず,医学の進歩の名の下に生体をも切断されるおそれのあることを述べています。神の律法は,神から授けられたからだをみだりに切断することを禁じています。(レビ 19:28; 21:5。申命 14:1。サムエル上 31:4)わたしたちのからだは神から授けられたものであるゆえに,この原則は尊重されねばなりません。またもしイエス・キリストをとおして神に献身し,その献身を水のバプテスマによって象徴したのであれば,なおさらそうです。それでわたしたちのからだはわたしたちのものですか,神のものですか,それとも現代科学のものですか。―ローマ 12:1。

      27 子供に輸血が強制された場合,問題になるのはどんなからだですか。神のことばは未成年の子供の養育をだれの手に委ねていますか

      27 怒りをいだいたユダヤ人は特に死体のために訴えています。しかし輸血の場合,問題なのは生きたからだです。親の宗教上,憲法上の抗議にもかかわらず,法廷の任命した保護者の助けによって未成年の子供のからだが強制的な輸血によって犯される時,深刻な疑問が生じます。すなわち子供のからだはだれのものですか。国家のものですか,それとも血をわけた両親のものですか。神の律法は未成年の子供の養育と宗教上の訓育の責任をクリスチャンの親に委ねています。親と同じ信仰,宗教上のならわしに従って子供を育てる務めを委ねられているのです。この点においては人間あるいは国家よりも神に従わねばなりません。―エペソ 6:4。テトス 1:5,6。マタイ 2:13-21とくらべてください。

      終わりのない生命のために血を用いる神の道

      28 (イ)エホバの証人は血によって世を救うどんな方法を擁護していますか。(ロ)主の夕食のとき杯から飲むことによって,使徒たちは何を行ない,何を表わしていましたか。

      28 エホバの証人であるわたしたちは,医学上の輸血によってではなく,終わりのない命のために血を用いる神の道によって人類の世を救うことを擁護します。19世紀前,死の刑柱の上で血を流される直前に主の夕食を始められた時,御子イエス・キリストはぶどう酒の杯を祝し,忠実な使徒たちに手渡してこう言われました。「みな,この杯から飲め。これは,罪のゆるしを得させるようにと,多くの人のために流すわたしの契約の血である」。(マタイ 26:27,28)イエスはその時ぶどう酒を血に変えたのではありません。それで杯から飲んだ使徒たちも,人食いのように人間の血を飲んだのではありません。イエスのことばはぶどう酒がイエスの血を表わすということを単に意味したのです。この象徴的な意味を持つぶどう酒を飲むことによって,使徒たちはキリストに対する信仰により,自分たちが,キリストの流された血の益を吸収し,自分のものにし,同化することを表わしているのです。イエスが血を流されたことは,人類の世のためにご自分の人間の生命をそそぎ出されたことを意味しました。

      29,30 (イ)どのように,そしてなぜ神は御子が血肉にあずかるようにされましたか。(ロ)イエスは復活の時,どのようにして人間の生命の価値を保持されていましたか。

      29 命は血にあるゆえに,イエスの血には価値がありました。それは健全で完全な血でした。イエスは処女の母から完全な人間として生まれたからです。イエスが血を流されたことは,罪ある全人類のため神にささげられる犠牲として,完全な人間の生命を捨てられたことにほかなりません。(ヨハネ第一 2:1,2)エホバ神は天の御子に血肉を与えて完全な人間の犠牲とならせるため,天の御子の完全な生命を天から地上にまず移すことをされました。(ガラテヤ 4:4。ヘブル 2:14,15)イエスは神に忠実であり,無実のうちに死なれました。それゆえにエホバ神は3日目にイエスを死からよみがえらせたのです。神の霊的な子としてよみがえらされたゆえに,イエスはご自分が犠牲にされた人間の生命の価値をなお保持されていました。それでヘブル人への手紙 13章20節は次のように述べています。

      30 「平和の神」は「永遠の契約の血による羊の大牧者,わたしたちの主イエスを,死人の中から引き上げられた」。

      31,32 (イ)ゆえにイエス・キリストは何を携えて天の神のみまえに現われましたか。(ロ)大祭司としてのイエスの働きは,なぜイスラエルの大祭司の働きにまさっていますか。

      31 イエス・キリストはご自身の完全な人間の血に等しいもの,すなわちご自身の完全な人間の生命の価値を携えて昇天し,エホバ神のみまえに現われました。―ヘブル 9:24。

      32 イエスは,犠牲にされた人間の生命の価値を天において神にささげました。こうしてイエスは神の大祭司としての務めをはたされたのです。そのことは次のように書かれています。「キリスト(は)……やぎと子牛との血によらず,ご自身の血によって,一度だけ聖所にはいられ,それによって永遠のあがないを全うされたのである。もし,やぎや雄牛の血が……肉体をきよめ聖別するとすれば,永遠の聖霊によって,ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は,なおさら,わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き,生ける神に仕える者としないであろうか」― ヘブル 9:11-14。

      33 (イ)イスラエルにおいて,神は動物の血にどのように神聖さを付与されましたか。(ロ)神はどのようにして人間の血に特別な神聖さを付与されましたか。医学上における血の使用は何を意味しますか。

      33 神は,古代イスラエルの罪をあがなうため動物の血を神の祭壇に用いさせることにより,動物の血を特に聖別されました。同様に完全な人間の犠牲として流された御子の血を神が受け入れられたことは,人間の命が血にあるという事実に加えて,人間の血を特別に神聖なものにしています。(レビ 17:11,12,14)それゆえに命を救うという理くつで輸血のためにこの生命の液体を用いるのは,血の神聖さを汚すことです。それは創造者なる神が,忠実で完全な大祭司イエス・キリストによって人類の世を救ってくださるという事実から人々の注意をそらせ,またその事実を軽んずることです。

      34 これらの真理を知るわたしたちにはどんな責務がありますか。地上の楽園で完全な人間になることを期待するクリスチャンは,何により頼んでいますか。

      34 これら重要な聖書の真理を知るわたしたちには,人間と動物の血を神聖なものとして扱う義務があります。輸血された人間の血が楽園の地で永遠の生命を与えることは決してありません。医学上の記録が示しているように,輸血はわたしたちや子供たちにとって致命的な結果になることさえあります。神の国の治める地上の楽園を待ち望む従順なクリスチャンは,人間の完全さに至る永遠の救いのために,神の神聖な道に従って用いられる,イエス・キリストの流された血により頼みます。

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