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    ものみの塔 1961 | 12月15日
    • 血の神聖さを尊敬する

      魂である血といっしょに肉を食べてはならない。―創世 9:4,新世。

      1 (イ)この世の人々がどんな態度を取っている故に,クリスチャンたちは神とその律法に信仰を示さねばなりませんか。(ロ)血についてのこの世はどんな記録を持っていますか。

      この世は神の御言葉に耳を傾けません。このような世に住んでいるクリスチャンは,日々神と神の正しい律法に対する彼らの信仰をためす事柄に面しています。神は血の神聖さに対する尊敬を要求します。しかし,この世は神の道からはなはだしく離れたため,血の使用を規定する神の律法があることを知っている人は多くいません。また,血の使用に関する神の律法を知っている人たちも,平気でそれを破っており,悪事をしたと感じません。牧師の祝福の下に彼らは戦場で無数の人の生命の血を流しました。そうしながら,彼らは神がともにおられるようにと祈ります。世界の多くの場所で動物の血が食物として食べられていることを聞いても,また取引をする商店で血からつくられたものが売られているのを見ても,彼らはそれを悪いと感じません。また,輸血の数 ― いまでは毎年500万以上 ― が急増したという報告を聞くと,彼らはそれを医学の進歩と見なします。

      2 (イ)血の神聖さに尊敬を示す人々について,一般の新聞や牧師たちは,何と言いましたか。(ロ)このように悪く宣伝された結果,事情に通じない人々は神の律法に対してどんな態度を取るようになりましたか。しかし,私たちは事態をどのように見なすべきですか。

      2 世の人々の無関心な態度とするどい対照を示す人々がいまます。彼らはいま全世界で約100万に達し,血の神聖さについての神の律法に従います。彼らは,その信仰の試練を受けても,きぜんとした立場を取りました。しかし,新聞は,一般人の無知につけこみ,それらの人々を宗教的な狂信者であるなどと,いつわりの言辞を弄しています。特に輸血の拒絶という点を彼らはとりあげています。キリスト教国とユダヤ教の宗教指導者たちも,新聞に同調し,人の生死が問題になるときは神の律法が適用されないと言います。その結果,事情に通じていない多数の人々は,神とその言葉は理に合わないもの,愛のないものと考えて,神とその言葉に背を向けるにいたりました。しかし,すべての知の源なる御方が,理性を持たれないことはあり得ません。神は愛であり,愛を示す力を人間に与えました。その神が愛を持たないなどということがあり得ますか。そのようなことは決してありません。神の道は正しい道です。神の御言葉を注意ぶかく考慮するとき,物事を明白に判断することができます。生命の与え主なる神は,私たちが生きるためにしなければならぬことを告げておられます。愛にみちる神は律法を与えておられます。私たちが知らずに行なう有害なこと ― その結果,私たちの生命を失うかも知れません ― から,神はその律法によって守ってくださるのです。事実の示すところによると,血についての神の律法の場合もその通りです。―箴言 2:6。ヨハネ第一書 4:16。詩 25:4。

      血についての神の律法

      3 血についての神の律法は,いつ始めて述べられましたか。それは人類に何を要求しますか。

      3 この論争は新しいものではありません。これは,血の医学的な使用について研究のすすんでいるこの20世紀だけにある特異なものではありません。いまから4300年以上のむかし,全世界をおおった大洪水の生残者であるノアとその家族が箱舟から出てきたとき,神は血についての律法を彼らに告げられました。その大洪水前は,人間は魂のない植物や果実を食べていましたが,神はここではじめて人間の食物に肉を加えることを許しました。神は次のように言われたのです,「すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるのであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように,わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし,魂である血といっしょに肉を食べてはいけない」。(創世 9:3,4,新世)この律法は明白です。肉を食べることができます。しかし,肉の中に血があるままで食べてはなりません。なぜなら,血は生物の魂,あるいは生命を代表するからです。人間は血の神聖さに尊敬を示さねばなりません。そうすることによって,生命の与え主であるエホバ神に尊敬を示すことになります。

      4 血についての規定は,イスラエル人にどう強調されましたか。血を禁ずるどんな理由が彼らに告げられましたか。

      4 それから約8世紀の後,エジプトであやうく絶滅しそうになったイスラエル人が,シナイ山のふもとに集まったとき,エホバはふたたび血についての制限を強調しました。「あなたがたは脂肪と血とをいっさい食べてはならない。これはあなたがたが,すべてその住む所で,代々守るべき永久の定めである」。(レビ 3:17,新口)血の源が何であるかははっきり告げられていません。人間の血でも,動物の血でも,血を食物として体内にいれることは禁ぜられていたのです。血を保存することも禁ぜられていました。なぜなら,神は次のように言われたからです,「イスラエルの人々のうち,またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち,だれでも,食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は,その血を注ぎ出し,土でこれをおおわなければならない。すべて肉の命は,その血と一つだからである」。(レビ 17:13,14,新口)その理由は明白に述べられました。肉のたましい,すなわち生命は,血のなかにあります。それで,血についての神の律法に従うことは,生命の神聖さと生命の源に正しい尊敬を示すことです。

      5 人間の生死にかかわる緊急のときなら,血の使用についての神の律法を除外してもよいですか。

      5 緊急の場合であっても,血の神聖さについての神の律法を度外視すべきではないということが認められました。このことは,サウロ王の指揮するイスラエルの軍隊が,ペリシテ人と戦っていたときに生じたひとつの出来事に示されています。その戦いはたいへんつらいもので,人々は疲労困憊していました,「そして民は,ひじょうに疲れたので,ぶんどり物に,はせかかって,羊,牛,子牛を取って,それを地の上に殺し,血のままでそれを食べた」。これは重大事であって,人々が疲れていたからといっても許されることではありませんでした。そのことはサウロに報告されました。「民は血のままで食べて,主に罪を犯しています」。(サムエル前 14:32,33,新口)今日のあるラビたちは,生命を救うためなら,律法の要求を度外視しても良いという見解を持っていますが,彼らはそのようには考えなかったのです。人々がそのときにしていたことは,神に対する罪であって,直ちにその行いを中止させる手段が講じられました。

      クリスチャンの責任

      6 なぜ血についての律法は,クリスチャンに適用しますか。だれが律法契約の下にいませんか。

      6 もちろん,クリスチャンはモーセをなかだちとしてつくられた律法契約の下にいません。その律法契約は,目的を成就して,新しい契約がイエス・キリストの血によってつくられたとき,なくなってしまいました。すると,血の使用についての制限も,いっしょになくなったという意味ですか。そうではありません! 血を禁ずる律法契約の言葉は,神がノアに与えた律法の要求を強調したにすぎません。全人類は,ノアに与えられた要求に従うべきです。すべてのクリスチャン ― ユダヤ人と異邦人の両方とも ― は,もはや律法の下にいません。エルサレムにあったクリスチャン統治体は,このことをすべてのクリスチャンに銘記させるため,人々をして各人の義務に注意させました。統治体は,次のように述べたのです,「聖霊と私たちは,次の必要なこと以外にあなたがたにこれ以上の重荷を加えないことにする。すなわち,偶像にささげられた犠牲と,血と,血を取りださずに殺したものと,淫行とを避けることである。注意してこれらのものから遠ざかるなら,あなた方は栄えるであろう」。―使行 15:28,29,新世。

      7,8 血について述べた使徒の規定の効力をすくなくしようとつとめる神学的な評論家たちは,どう論じますか。これらの論議が正しくないことを,何が示していますか。

      7 しかし,この聖句についての注解を述べる神学評論家たちは,それは私たちに関係しないと言います,『それは一時的なものであって,キリスト教信者になったユダヤ人たちの感情を害さないためであった。そのような禁止を課す必要は,すでに過ぎさったのであるから,たとえ言葉で述べられなくても,取り消されたにちがいない』。しかし,どんな必要が過ぎ去ったのかと,わたくしたちはたずねます。いまでも生来のユダヤ人がクリスチャン会衆と交わっています。それで,ユダヤ人がいないなら,それは必要でないなどとは言えないでしょう。生命が血の中にあるため,人間は血を食べてはいけないと聖書は明白に示しています。生命が血の中にあるということは,むかしは真実であって,今は真実でないということでしょうか。クリスチャンは動物の犠牲をささげないゆえ,血の犠牲的な使用に対して,もはや尊敬を払う必要がないと人々が論ずるなら,次のことに気をつけて下さい。すなわち,キリストの弟子たちが動物の犠牲を使用したことは,使徒の命令が出された時より16年前に終わっていたということです。さらに,『人を汚すものは,口にはいるものでなく,口から出るものである』というイエスの教えを引合に出して,血についての規定が時代おくれのものであると主張する人々は,実際には次のように論じていることになります。つまり,神の聖霊の指示に従って決定された規定 ― クリスチャンは血を食べてはいけないと禁ずる規定 ― は,発せられる前に取消されたことになります。なぜなら,エルサレムの会議が血についての決定をくだしたときより17年も前に,イエスはその言葉を述べられたからです。―マタイ 15:11。

      8 血についての決定を下した統治体は,次のように考えませんでした,すなわち,それは当時の状況に合わせるためであって,後日には取りのぞけるというような考えです。もし血を禁ずることが一時的なものであったなら,その決定の他の部分も,同じことでしょう。すると,偶像崇拝や淫行を避けることも一時的なもので,新しく改宗した人々の感情を害さないために定められたということになります。しかし,このような禁止は,もう必要がなくなってしまい,いまのクリスチャンは淫行や偶像崇拝をしてもよいということですか。そのようなことはぜったいにありません! その決定の言葉は時間を限定していません。その制限は,そのときと同じく,今でも「必要なこと」です。「クラークの注解書」(英文)は,創世記 9章4節を論ずる際に,次のような正しい見解を述べています,「その禁止はクリスチャンの管理の下に更新された。使徒行伝 15章20,29節,および21章25節を公平な気持ちで読む人なら,そのことを疑わずに認めることができる。その聖句によると,異邦人の改宗者たちは使徒の権威によるだけでなく,聖霊の権威によって,それをひかえるように命ぜられている。……改宗したユダヤ人たち,神学者たちをつまずかせるのではないかと恐れられたためでなく,それは……必要な諸点の……ひとつであって彼らはそれに従順に従うべきであった」。

      9,10 (イ)歴史のどんな事実から,初期クリスチャンたちが血を避けることを重要視したことが分かりますか。(ロ)第3世紀のクリスチャン筆記者たちは,それについて何と述べましたか。(ハ)692年のときでも,東方教会は血のことについてどんな態度を示しましたか。

      9 歴史の事実は,このことについての正しい理解を確証します。初期のクリスチャンたちは,血についての禁止が,ユダヤ人改宗者の感情を害するのを避けるためだけに重要であると見なしませんでした。また,その命令を守るために生命が危険になるなら,その命令を除去できるとも,彼らは感じませんでした。クリスチャンが血を食べないということは,ひろく知られた事実であって,クリスチャンの迫害者もそのことを知っていました。人が真のクリスチャンであるかどうかをためすために,彼らをしてローマの異教の神々に香をささげさせようとしたほかに,時には血のソーセージを食べさせようとしました。そのことは非常な重大事であって,血を食べることは,クリスチャンの信仰を否定するものである,と見なされたのです。第3世紀の初期に生存したターツリアンは,ローマの世界にあてて書いた本の中で,このことに言及し,次のように述べていました,「まちがいをするあなたがたが,クリスチャンの前で赤恥をかくように。われわれは,ふつうの食事の中にさえ動物の血を入れない。そのわけでわれわれは,しめ殺されたものや,自然死したものをさける。たとえ肉の中にある血にせよ,血によってわれわれが汚されないためである。最後に,あなたがたがクリスチャンたちをためすときあなたがたは血ばかりのソーセージを彼らに提供する。もちろん,クリスチャンがそれを食べるのを禁ぜられていることを,あなた方はよく承知の上でそうする。あなたがたは彼らが罪を犯すのをのぞむ」。a キリスト教を奉じていた別の記者オリゲンも,キリスト教の教えを守って,次のように述べました,「しめ殺されたものは,食べてはならないと聖書が禁じている。血がその中にあるからだ」。b

      10 ずっと後の西暦692年でも,コンスタンチノープル(トロウロス宗教会議)の宗教会議は,その第67宗規の中でこう述べました,「われわれは,動物の血を用いて食事を準備し,貪欲な腹を満足させるために,それを食べる者たちを非難する。したがって,動物の血を食べようとする者たちがいるなら,もしその者が司祭であればその僧職は剝奪されるし,一般信徒なら破門される」。c 東方教会は,血についての使徒たちの命令の重要性をいまでも信じています。

      11 ローマ教会は血を禁ずる命令に対してはなはだしい不敬を示しましたが,そのことはどんな出来事によりはっきり示されましたか。

      11 しかし,特に4世紀以後,西洋の人々は血についての神の律法を無視し始めました。魂の不滅に関するプラトンの教えはオーガスチンによって普及されました。このオーガスチンは,血にかんする規定の目的は達成されたので,その重要性は失われたと論じました。d ついに15世紀になると,ローマ教会の見解は初期クリスチャンたちの見解と,はなはだしく食違うことになりました。病気にかかっていたローマ法王イノセント8世の回復をはかるため,3人の少年の血 ― 動物の血でない ― が彼のために使用されたのです。その結果は失敗に終わり,しかも3人の供血者は生命を失うにいたりました。それで,現代のキリスト教国が血の神聖さについて注意を向けていないことは,キリスト教の信仰を反映するものではなく,むしろ信仰から脱落した結果であることが明白です。―テモテ前 4:1。

      血液を食物として誤用する

      12 生命の神聖さを破るどんな現代の行い ― クリスチャンはそれを避けねばならない ― がありますか。

      12 現在の終りの時に住む真のクリスチャンは,血の神聖さに正しい尊敬を示すため,ぜひとも注意を払わねばなりません。彼らは世界で行なわれている血の誤用を避けねばなりません。たとえば,アフリカのある土人たちは,牛の頸静脈から取った血を飲んで食物の補いにしています。多くの場所の人々は屠殺場で列をつくり,殺されたばかりの牛の血を飲みます。そうすれば,特定の病気がなおると信じられているからです。極東の多くの場所では,あるスープや肉汗のもととして血が使用されています。南アメリカで,ひろく賞味されているある料理は豚の血に米やじゃが芋と薬味をまぜたものです。血がキャンデーとして売られ,人々はそれを食べます。いろいろの名前がつけられている血のソーセージは,ほとんどどの場所でも得ることができます。このような行いは,みな血のことについての生命の与え主の律法を破る故,血の神聖さに対するはなはだしい不敬を示すものです。

      13 食用にする動物を正しく殺すときには,なぜ注意を払わねばなりませんか。このためクリスチャンはなにをしなければなりませんか。

      13 血についての律法によると,絞殺されたものを食べることは禁ぜられます。なぜなら,血が取り出されていないからです。それで,窒息死した動物や,わなにかかって死んだ動物,あるいは銃殺してもすぐに血を取り出さなかった動物は,食用に適しません。多くの国々では,にわとりを絞殺して,そのくびを折っても,くびを切りません。クリスチャンはそのようなにわとりを食べてはならないのです。ある肉屋は,これらのことについての神の律法を尊敬しないので,食用の動物の血を十分に取り出しません。実際のところ,肉の目方を増すため,わざわざ血を流さないようにします。肉屋が血を取り出していないことを知ったクリスチャンは,別の肉屋と取引をする方が良いでしょう。もし,そのような肉屋がないなら肉を食べない方がよいでしょう。同じく,動物の血を十分に取り出さないのが,地方の習慣であるなら,良心的な人は料理屋で肉を食べないでしょう。そのような状況の下に住んでいて,肉を食べたいと思うクリスチャンは,生きた動物か鳥を買い,自分で殺さねばならないでしょう。

      14 食品のなかで血はどのように誤用されていますか。クリスチャンは何に注意を払わねばなりませんか。

      14 人々が神の律法に対する不敬な態度を示しているため,血や血漿や,血の一部は,食物として売られるたくさんの品物の中にふんだんに使用されています。たとえば,ある肉のかん詰業者は,ウインナ,ボロニャ,および他の冷凍肉の製法の一部として血を入れています。彼らはそれを血と言わないでしょう。しかし,彼らが何と言おうと,それが血であるなら,あるいは血の一部であるなら,それは悪いことです。全部の肉かん詰業者がこれをするわけではありませんが,ある業者はしています。あるところのハンバーグは,主として脂に血を加えてつくられたものです。ロシアでは,血を使用するパン屋さんが幾年か前に仕事を始めました。ライ麦粉7に対して繊維素をのぞいた牛の血3の割合でパンをつくるのです。別の国のパン屋さんは,卵の白味の代わりに乾燥した血漿粉末をねり粉菓子の中に使用します。薬屋さんの売っているいろいろの強壮剤や,錠剤のレッテルを見ると,ヘモグロビン<血紅素>のような血の一部が使用されていることが示されています。それで注意を払わねばなりません。また社会のしきたりを熟知し肉を買う所で適当な調査をしたり,包装された品物のレッテルを理解することができなければなりません。古い世は,血についての神の律法にますま不注意な態度を取っています。それで,「世の汚れに染ま」ることを避けるクリスチャンたちは,いっそうの注意を払わねばなりません。―ヤコブ 1:27,新口。

      輸血

      15 医療における血の使用は,どのような経過を経ていますか。

      15 人間は幾世紀ものあいだいろいろの仕方で血を誤用しました。古代エジプトの君候たちは,人間の血を使用して若返ろうとしました。他の人々は敵の血を飲みました。17世紀にウイリアム・ハーベイが血液の循環について研究調査してから,他の人間の循環組織に輸血するための大がかりな努力がはらわれました。輸血による死亡者の数が多かったために,それは,非常な失敗とみなされました。しかし,この20世紀になって,特定な血液型を類別する研究が行なわれてから,輸血はみとめられるようになりました。ふたつの世界大戦と朝鮮戦争があったので医者たちは血液による医療実験を数多くすることができました。いまではこの研究はかなり進み,医者たちは全部の血と血漿 ― これはほとんど無色の液体で,血液細胞はそれで運ばれる ― を使用するだけでなく,必要に応じて,血漿とは別の赤血球と,いろいろの血漿蛋白質を使用します。

      16 生命をささえるために血を医療に使用することは,神の律法を破ることですか。

      16 血をそのように医学的に使用するなら神の律法は破られますか。血あるいは血漿あるいは赤血球またはいろいろな血の成分を注入して生命を支えるのは悪いことですか。そうです! 神がノアに与えた律法は,彼の子孫全部に適用します。その律法によると,滋養を与えて,生命を保つために血を食べる,すなわち他の生物の血を用いることは悪いことです。「陳謝」(本)という本の中でターツリアンがそのことについての初期クリスチャンの見解を示したように,今日でも次のことが認められています,すなわちこの禁止が動物の血に適用するのであるなら,人間に適用する度合はいっそう強いということです。それは「いっさい」の血をふくみます。―レビ 3:17,新口。

      17 人間の血がむかし誤用されたために,初期クリスチャン統治体の決定した禁令の中に人間の血が含まれていることを,歴史の事実はどう証明しますか。

      17 初期のクリスチャンの統治体は,血の使用を禁ずる命令を出しました。その命令は,人間の血に関するものでなく,動物の血だけに関係するものであるという議論は,歴史的な事実について無知なることを示します。第1世紀に地中海の世界を支配した古代ローマの闘技場の観衆は,戦いが終わると場内に駈けこんで,倒れた闘士のくびから流れ出る血を飲みました。スクテヤ人のうちのある者は,死んだ親族を食べたとも伝えられます。ある人々は互いの血をすこしずつ飲んで条約を締結しました。人間の血を手にすくって食べることは,異教の女神ベロナの儀式を始めることになりました。それで,聖霊のみちびきを受けた使徒たちが,クリスチャンは血を避けるべきであると語ったとき,その血の中に人間の血をも含めていたにちがいありません。

      18 輸血は血によって「滋養を得る」ことであると,何が示していますか。

      18 口を通して血を入れようとあるいは口の代わりに静脈を通し体内に入れようと,その入れ方は問題でありません。またある人は,それは静脈摂食と同じでないと論じますが,その主張も力のあるものではありません。事実はそれが滋養を与え,からだの生命を支えているのです。このことを支持する言葉は医学博士ジョージ・ダマリュー・クライル著「出血と輸血」(英文)という本の中に記されています。彼はフランスの医者で輸血の分野の初期研究者デニスの手紙を引用しています。「輸血は,ふつうの場合よりも短い路によって滋養を与えることにほかならない ― つまり,食物を取る代わりにすっかりでき上がった血を静脈内に入れることである。食物はいくらかの変化をして後に血に変わるだけである」。

      19,20 (イ)医療がたえず進歩していることを考えるとき,血を使用する医療をうけるべきか拒絶すべきかを,どのように決定することができますか。(ロ)この面においてダビデはどんなすばらしい模範を残し,血の神聖さに対する尊敬を示しましたか。

      19 医学界では血の使用に強調を置き,血を用いての新しい療法がたえずすいせんされています。しかし,それが血の全部であろうと一部であろうと,その血が自分自身のからだから取られたものでも,他人のからだから取られたものであろうと,あるいは輸血として与えられようと,注射として与えられようと,神の律法は適用します。神は人間に血を与えました。しかし,人間は他の物質を使用するのと同じように,その血を使用するべきではありません。神は血の神聖さに対する尊敬を要求します。

      20 神を恐れたダビデ王は,この律法についてなんとすばらしい模範を示したのでしょう! 神の民の敵共が地から追い出される前に,ペリシテ人はエルサレムに近いベツレヘムに守備兵を置いていました。あるとき,「ダビデはせつに望んで,『だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが』と言った」。彼はペリシテ人が去れば,自由に井戸のところへ行くことができ,その水を飲んで元気づけられるだろうとのぞみました。しかし,ダビデ王の言葉を聞いた「三人〔勇士〕はペリシテびとの陣を突き通って,ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をくみ取って,ダビデのもとに携えて来た」。彼らの持ってきたものは,水に過ぎませんでした。しかし,彼らは生命の危険を冒してそのことをしたのです。ダビデはそのことを知っていました。「しかしダビデはそれを飲もうとはせず,それを主の前に注いで,言った,『わが神よ,わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとって来たのです』。それゆえ,ダビデはこの水を飲もうとはしなかった」。(歴代志上 11:16-19,新口。サムエル後 23:15-17)ダビデは神の律法を尊重しました。彼は動物の血を避けただけでなく,人間の血を食べるという極悪の罪を避けました。ほんとうに,彼はその律法違反に思われるものさえも避けました。彼は神の御心にかなう人でした。今日の円熟したクリスチャンたちも,ダビデのとった道と同様な従順の道に心から従います。そして,血の誤用に関する一切の行いを避けます。彼らは神を愛しているので,血の神聖さに尊敬を示します。

  • 生命を神の御心と一致して用いる
    ものみの塔 1961 | 12月15日
    • 生命を神の御心と一致して用いる

      1 (イ)だれの御心が血の使用を制御しなければなりませんか。彼はどんな行いを禁じますか。(ロ)血を流すことが正しいと示されたどんな出来事がカインとアベルの時代に生じましたか。

      生物の生命の血は神の御こころと一致するときだけ正しく使用されます。血を食物として食べることは禁ぜられています。生命を維持するための医療という口実で血を他の人に与えることは,神により許されていません。血は生物の体内で生命を維持する役割を果たします。しかし,神はそれ以外にももう一つの血の使用を認めています。このことはアダムの息子たち,カインとアベルの時代にあきらかに示されました。「アベルは羊を飼う者となり,カインは土を耕す者となった。日がたって,カインは地の産物を持ってきて,主に供え物とした。アベルもまた,その群れのういごと肥えたものを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」。(創世 4:2-5,新口)カインの供え物は,魂のない野菜でした。アベルの犠牲は生命を表わし,血をそそぎ出すことを必要としました。エホバはアベルの犠牲をうけいれることにより,犠牲をささげるときに血を流す必要を示しました。しかし,カインはこのことについての神の導きをうけいれませんでした。かえって,彼は自分の弟アベルを荒々しく殺してしまいました。アベルは,彼自身の生命と羊の生命を,神の御こころ通りに用いていた当時の地上のただひとりの人だったのです。

      2 神は流された血のどんな一つの正しい使用をゆるしましたか。このことはだれに知らされましたか。そして,どのように?

      2 神の忠実なしもべたちは,エホバにささげる犠牲として,動物の生命の血を注ぐことが神の御心であることを認めました。そして,ノア,アブラハムその他の者たちは,それを行なった者であると聖書に述べられています。(創世 8:20; 22:13)彼らの子孫であるイスラエル人たちが,シナイ山のふもとに集まって,一つの国民に組織されたとき,エホバ神は明瞭な言葉を用いて,生物の流された血を用いるただひとつの正しい仕方を告げられました。彼は次のように言われたのです,「あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである」。(レビ 17:11,新口)血は生命の働きと密接なむすびつきを持ち,罪は生命を失わせるゆえ,神は罪をあがなう犠牲として,生命を表わすもの,すなわち血を要求されます。「血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない」。―ヘブル 9:22,新口。

      3 それらの動物の犠牲は,どんな大きな犠牲を予表しましたか。その血は,どのように人類に益しますか。

      3 これらの動物の犠牲は,さらに大きな犠牲,罪を永久に取りのぞいて神のしもべたちが永遠の生命を得る機会を与える犠牲を予表しました。この犠牲は,イスラエルの羊や牛から選ばれたのではありません。それは神の御子イエス・キリストでした。洗礼者ヨハネは,彼を認めて次のように叫びました,「見よ,世の罪を取り除く神の小羊」。(ヨハネ 1:29,新口)これは人類のために設けられたエホバご自身のご準備でした。それは彼の小羊なる御子であって,その生命は犠牲としてささげられました。愛にみちるこの取りきめにより,地上の男や女に,王なるキリストと共に天の宮で奉仕するという特権が開かれました。なぜなら,これらの者たちは「キリストの血によって今は義とされている」からです。(ロマ 5:9,新口)14万4000人のこの「小さな群れ」のほかに,神の足台なるこの地上で,御座の前で神に仕える「大いなる群衆」は,このあがないの犠牲の益をうけ,小羊の血でその衣を洗って白くしました。その結果,彼らの罪はゆるされ,神の御前で義人と見なされます。―黙示 7:14,15。

      4 私たちの生命は,何をうけいれることに依存しますか。そして,なぜ?

      4 イエス・キリストの完全な犠牲は,罪ぶかい人類のために神にささげる犠牲の必要を全くみたしました。それをくり返して行なう必要はありません。動物の犠牲はもう必要ではありません。全くのところ,神は動物の犠牲を忌み嫌われます。なぜなら,動物の犠牲は神ご自身がもうけ給うた犠牲に対する不敬を示すからです。したがって,イエス・キリストのあがないの犠牲は,神がご自分のクリスチャン証者たちの中にもうけ給うたただ一つの取りきめです。この取りきめにより,他の人の生命を救うために,ひとりの人の血が流されました。「わたしたちは,御子にあって,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」。(エペソ 1:7,新口)私たちの生命は,私たちがこのご準備をうけいれるかどうか,血の正しい使用についての神の取りきめをうけいれるかどうかに依存しています。神の御手から永遠の生命を受けることを望む賢明な人々は,生命の与え主なる神の否認する仕方で血を使用するのを避けます。

      魂をこめて神を愛する

      5 (イ)ひとりの質問者に対する答えの中で,永遠の生命を相続するために何をしなければならぬとイエスは言われましたか。(ロ)魂をこめて神を愛することには,何が含まれていますか。そして,なぜ?

      5 あるとき律法に通じていたひとりの人がイエスにたずねました,「先生,何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。それに対する答えの中でイエスは,私たちを導くための原則を示されました。その原則により,私たちは永遠の生命の報いを得るために現在の生命をどう使うべきかを知ることができます。彼は次のように言われました,「『心をつくし,魂をつくし,力をつくし,思いをつくして,あなたの神であるエホバを愛しなさい』。また『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』」。(ルカ 10:25-27,新世)さて,魂をこめて神を愛するということには何が含まれていますか。それは私たちの生命を神にささげることを意味します。そうです,神が私たちに与えるわざを行なうために生命をささげることを意味します。生命を神にささげた以上,私たちは生命を表わすものを認めねばなりません。それは生命あるいは魂の中心である血です。それで生命が取られるとき,血は流されたと言えます。血は生命の働きと本質的なむすびつきを持っているので,人の魂または生命はその血であると聖書は述べています。神はノアに語られたとき,魂,生命そして血という表現をならべて次のように言われました,「魂である血といっしょに肉を食べてはならない」。(創世 9:4,新世)そして,彼はイスラエル人に簡単にこう言われました,「血は命だからである」。(申命 12:23,新口)したがって,私たちが神に献身するとき,私たちは生命を表わす血を,神の律法と一致して使用するように注意しなければなりません。

      6,7 クリスチャンは他の人のために自分の生命の血を寄贈することができますか。それは医学の見地からも安全ですか。

      6 ゆえに,この最大のいましめは,次のことを示します。すなわち,献身したクリスチャンは他の人のために生命の血を与えることができません。生命は神のものです。そして私たちは神の奉仕に生命をささげます。隣人を愛するために,生命を与えねばならないと論ずるのも正しくありません。隣人と共同で神の律法を破ることは隣人愛ではありません。輸血は悪いと神の御言葉は示しています。したがって,輸血のために血を与えることも悪いのです。

      7 神への従順は,神のしもべたちに要求されています。神に従うなら害を避けることができるので,それは彼らにとって祝福でもあります。供血を求める各団体は,供血は完全に安全なものであるという印象を人々に与えていますが,それについての意見が一致していないことを知るのは興味ぶかいことです。「輸血の生理学と臨床医学」(英文)aという本の中には,次のような言葉があります,「最新の研究が示すごとく,供血者の健康はいちぢるしく害される」。忠実なクリスチャンは,神への奉仕を害するそのような危険をまぬかれます。

      従順によって危険を避ける

      8 エホバの証者は何にもとづいて輸血に対する態度をきめますか。なぜこのことについての医学的な証拠を考えるのですか。

      8 輸血についてのエホバの証者の立場は,医学の賛成,不賛成にもとづいていません。輸血が安全であるとか,危険であるからという根拠にもとづいて,彼らは決定しません。彼らは神の御言葉にもとづいて決定します。しかし,輸血の結果 ― 血についての神の律法に従うとき,その結果から身を守ることができます ― についての知識を持つなら,エホバの道の正しいことをよりいっそう認識することができます。

      9 輸血についてこの世は一般的にどんな見解をもっていますか。これは医学的に正しいことですか。

      9 最近の医師たちは輸血には益があると信じて輸血をしています。あるときには,患者が輸血を要求するため,また「万全の措置を講ずる」ことをのぞむ親類の気持ちを満足させるために輸血がなされます。このことについて,ニューヨーク大学ノベレビュー・メジカル・センターの血液銀行の理事は,次のように語りました,「輸血は,患者をすこしも害さず,むしろ患者に益を与えるという考えにもとづいてなされている。しかし,輸血には危険がともなうゆえ,この考えは間違いである」。アメリカ一般診療研究所の雑誌は,次のように述べています,「多くの人々が輸血の恐怖を失って,塩を注文するのと同じぐらいな安易な気持ちで輸血を注文しているのは残念である」。いまから4000年以上のむかし,エホバ神は,他の生物の血を体内にいれてはいけない,と人間に告げられました。そして,現代の医療は,その律法を破ると重大な危険をひきおこすということを実証しています。

      10,11 (イ)輸血をうける人の直面するいくつかの危険を述べなさい。医師たちはこのような危険を取りのぞくことができますか。(ロ)これらの事実を考えるとき,輸血は真に生命を救うものであると,あなたは言われますか。

      10 輸血をされる人がすぐ直面する危険のひとつは,溶血反応の可能性です。すなわち,酸素を運ぶ赤血球が急速に滅ぼされることです。このため,割れるような頭痛があったり,胸や背中が痛み,腎臓の働きが弱くなるために毒が体内にはいるのを助けてしまいます。数時間か数日後に死亡するでしょう。この危険を除き得る医学の知識はまだありません。「いっしょうけんめいやってみるが,この反応の頻度を減少させるだけである。われわれはそれをなくすことができず,患者は輸血の結果,害をうけつづける」。これはワルター・リード陸軍病院にある血液学部長ダブリュー・エッチ・グロスビーの言葉です。患者の血液内の抗体が自然にできて溶血性の反応が起きない場合でも,体内に入れられた血の抗原は抗体の産出を刺激します。それでそのような要素を持つ血がふたたび与えられるなら,重大な反応が生ずるでしょう。現在知られている血の要素の組合せ数は,1500万もあります。それで,ぴったり適合して悪い影響をすこしも与えないような輸血はまずあり得ません。

      11 別の危険もあります。医者は流血量を正確に知ることができません。それで,過度に輸血しようとするかも知れません。「メジカル・サイエンス」(1959年7月25日号,英文)誌が報告しているごとく,それはしばしば行なわれて,非常に悪い結果をもたらしています。また,輸血をしているときに空気が血液の中にはいることもあり,それは致命的な結果をひきおこします。また,体外に取り出された血はすぐ病菌に感染します。そして,空中にいる特定なバクテリアは,冷凍機の温度でも保存血の中で繁殖することができます。たとえ小量でも,そのような血は,受血者を殺してしまいます。そのような処置が真実に生命を救うものであるなどと,どうして言えますか。

      12 輸血の結果として生ずる病気の危険を述べなさい そして,これらのことが患者にどんな結果をおよぼすかを示しなさい。

      12 いままでの記述から輸血は悪いと分かります。しかし,それは受血者の直面する危険全部ではありません。輸血をする医者は,どのくらいの害がなされたか決して知らないでしょう。なぜなら,輸血で伝染した病気は,すぐに生じないからです。しかし,医学の権威者たちは,梅毒,マラリア,肝炎が,輸血によって伝染することをみな認めています。伝染の可能性があるだけでなく,その実例がよく報道されています。不道徳が世界的になっているため,性病がひろまり,梅毒の危険は増加しています。この病気は,早生児,盲目,つんぼ,まひ,心臓病,狂気,死という結果をもたらすのです。梅毒性の血液をしらべるための試験は,梅毒が最初の段階のときはその危険は分からず,けっきょく,患者がその価を払います。今年の2月,「ジャパン・タイムス」紙は,国立の東京大学病院を相手に一婦人が訴訟を起こして勝ったことを報告しています。この婦人は,梅毒性の血液を輸血されたので,視力を失い,夫から離婚されてしまいました。法廷の裁決した賠償額は,その害をつぐなうには微々たるものでした。マラリア感染の危険はどうですか。マラリア菌保持者は,体内にマラリア菌のいることをいつも自覚しているわけではありません。血液検査でマラリア菌が検出されることは,ほとんどないのです。しかし,その血を受ける人は犠牲者です。危険は減少しません。まったくのところ,マラリア菌のいる場所で生活したことのある人,あるいはその地を訪問した人は,マラリア菌保持者かも知れません。そして,国際的な旅行によって,数は日々増加しています。血清肝炎も,病気の危険のうちにはいります。それはひんぴんとおこるため注意が肝要です。肝炎による不具と死亡の危険は非常に大きいので,マヨ診療所医学名誉顧問アルバレズ博士は,絶対に必要であると感ずるまで,自分に輸血をしてはいけないと語りました。

      13 輸血された婦人は,出産ということについて,さらにどんな価を払わねばなりませんか。

      13 輸血は患者だけの害にとどまりせん。婦人の場合,これから生まれてくる子供たちにも危険がおよびます。ある原因 ― そのうちのあるものは知られていますが,他のものは理解されていません ― のために,合わない血が与えられた婦人は,正常で健康な子供を産むことができません。

      14 神はそのような災からご自分の民を,どのように守りますか。

      14 神の御言葉に注意を払うほうがはるかに良いのです。それは,血を避けよと私たちに告げています。子供たちが父親の言葉に耳を傾けるごとく,私たちが神の助言に注意を払って,その助言どおりに生活するなら,私たちはずっと幸福でしょう!「わが子よ,わたしの言葉に心をとめ,わたしの語ることに耳を傾けよ。それを,あなたの目から離さず,あなたの心のうちに守れ,それは,これを得る者の命であり,またその全身を健やかにするからである」。―箴言 4:20-22,新口。

      人格は影響される

      15 この輸血の危険について,この世的に賢明な人は,どのように論じますか。しかし,血の出所についてのどんな事実の故に,重大な質問が生じますか。

      15 神の知恵よりも人間の学問に確信を置く人々は,次のように感じます。すなわち供血者の選択に注意を払うなら,これらの危険はすべて避けられるということです。しかし,事実を考えて下さい。病院の患者には死人の血も与えられていると聞いて,おそらくあなたはどきっとすることでしょう。しかし,ロシアとスペインから,その実例が,伝えられています。しかし,アメリカ合衆国でも死体の血の輸血についての実験が行なわれています!b もちろん,あなたの社会でそれは行なわれていないでしょう。しかし,1961年5月26日の「タイム」誌は,ポンティアク綜合病院にいた49歳の一婦人の例を報告しています。この婦人は,近くの湖でおぼれて,2時間半から3時間死亡していた12歳の男の子の死体から,約1リットルの血を輸血されました。また,ずっと昔の1935年には,シカゴ郊外の一医師が,ロシア人の医者の技術を使用していました。この医者は2年間に約35回死体の血を輸血したのです。多分,供血者は受血者の親族にあたるもので,評判もよく,清い生活をしている人かも知れません。そのような血なら安全ですか。いいえ,それは不適合による反応を避けることができません。また,供血者は,彼自身知らなくても,病気を持っているかも知れません。しかし,たいていの場合,受血者がだれかを知りません。健康な人の血であることもあるでしょう。しかし,アルコール患者とか変質者の血かも知れません。刑務所内の囚人たちに供血の機会が与えられています。たとえば,1961年4月6日のニューヨーク・タイムス紙は,次のことを報告していました,「オシニングにあるシンシン刑務所内の囚人たちは,今日赤十字に供血するだろう」。賞賛に値する行い? 社会の人が信ずるほど,人間の益にならないかも知れません。

      16 (イ)聖書の申命記 12章25節の脚注の中で,血についてのどんな興味ぶかい意見が記されていますか。(ロ)これと同じことについて,現代の医師たちは何と言っていますか。なぜこれはクリスチャンにとって興味ぶかいものですか。

      16 イスラエル人が約束の地にはいる準備をしていたとき,エホバはモーセを通して,血を食べることを禁ずる律法を彼らにくり返し告げました。申命記 12章25節には,次のように記録されています,「汝血を食はざれ汝もしかくヱホバの善と観たまふ事をなさば汝の身と汝の後の子孫とにさいはいあらん」。ジェイ・エッチ・ヘルツの編集した「モーセの五書」は「さいはいあらん」という言葉に,次のような注をつけています,「イブン・エズラの言葉によると,血の使用は道徳的な性質と肉体的な性質を堕落させる影響を持ち,将来の子孫に遺伝的な性格を伝える」。これは興味ぶかい点です。それが輸血にも適用されることは,医者たちも証明しています。たとえば,「あなたの医者はだれでなぜ?」(英文)という本の中で,アロンゾ・ジェイ・シャドマン博士は,次のように語っています,「人の血は実際にはその人自身である。血は,その人のくせをことごとく持っている。遺伝的な性質,病気にかかりやすいこと,個人の生活に起因する毒,食べるくせ,飲むくせがふくまれる……自殺させたり,人を殺させたり,盗みをさせたりする毒は,血の中にある」。40年以上も外科医をしてきたブラジルの医者アメリコ・バレリオ博士は,その言葉に同意します。「悖徳狂,色情倒錯,憂うつ感,劣等感,軽犯罪は,しばしば輸血後に生ずる」cと彼は言っています。しかし,新聞でも認められているごとく,血の供給に関しては信頼されている団体も,そのような性質を持つ囚人ら輸血用の血を得ているのです。肉のわざからはなれて,神が御言葉を通して示される道どおりに生命を用いようとする人は,そのような滅びに通ずる将来にむかって歩かないでしょう。―ロマ 12:2。エペソ 4:22-24。

      生命の与え主に信仰を示す

      17 (イ)エホバの証者は,宗教的な立場の故に,一切の医療に反対しますか。(ロ)クリスチャンがはなはだしい出血になやむ場合,その人のためになにをすることができますか。

      17 あるクリスチャンの出血がはなはだしくて,治療を必要とする場合に,これらの事実はどういう意味を持ちますか。施す術はなにもないのですか。そのクリスチャンはただ死を待つだけですか。そのようなことはありません! エホバの証者は,神の律法に反しない治療については,宗教的な反対理由をすこしも持っていません。そして,事実そのような治療は可能です。人間は神によって創造されたもので,進化論の所産でないと信ずる医者たちは,たいてい次のことを認めています,すなわち神はすばらしい回復力を人体に与えたということです。それで,彼らはこの回復力と協力します。彼らは,血の使用を禁ずると,回復はさまたげられるなどと感じないのです。人体は出血の場合のような緊急事態に対処するためのすばらしい備えを持っています。(詩 139:14)「ブリタニカ百科辞典」(英文)は,次のように記しています,「人体は,動脈,静脈およびも毛細管を循環する血液を持つほかに,血を保存している。血を保存するひとつの器管は,脾臓である。出血のとき脾臓はちぢんで,海綿をしぼるように血を出して,それを体内に循環させる」。d この事実を認識する多数の医者たちは,次のことを認めています,すなわち人体の血液製造組織と協力する方が,他人の血を輸血するよりもずっと安全であるということです。「北アメリカの外科診療所」(1959年2月)は,次のように述べていました。「貧血の最善の治療は」,輸血でなく,「鉄療法」であるということです。人体の出血がはなはだしい緊急事態の場合は,「血漿ボリウム・エキスパンダー」を使用することができます。それを使用しても,血を禁ずる神の禁止令を破ることになりません。そして,多くの医者の証言によると,この「血漿ボリユーム・エキスパンダー」は,輸血よりもずっと安全なものでした。それは,たしかに血液の働きをしません。しかし,それは残っている赤血球の循環を助けるので,必要な時間中,酸素は各器官にとどけられ,出血分を補うことができます。それで,クリスチャンの患者は輸血だけが只一つの希望であるという言葉に心を動かされて輸血をうけるようなことをしません。むしろ十分に腕の立つ医者,忍耐のある医者,そして輸血なしの治療を求める宗教的な良心に尊敬を払う医者を捜します。

      18 神の律法を破って生命を救おうとすることは,なぜ愚かですか。

      18 非聖書的な手段で生命を救おうと努力しても,それは永遠につづく益をもたらしません。生命の与え主の律法を破りながら,生命を救えると考えるのは,なんと愚かなことでしょう! 一時的には益のある結果を生ずるかも知れません。しかし,そのような愚かな行いの結果,ついには病気にかかったり,死んだ子が生まれるようになります。たとえ,患者や子供たちに有害な結果が生じなくても,神の律法を破るなら,神の新しい世における永遠の生命を得る機会は危うくなるでしょう。

      19 (イ)人間は現在の生命を守るために,あらゆることをする,神をも捨てる,と論じたのはだれですか。(ロ)イエスがペテロを叱責されたことから,私たちはどのように益をうけますか。(ハ)危急の時でも神に従う者たちに対して,神はどんなむくいを与えますか。

      19 ヨブの場合,サタンは次のように論じました,すなわち人間は神にそむいても,現在の生命を救うためにあらゆることをするだろうというのです。「人はそのすべてのもちものをもて己の生命に換ふべし」と彼は論じました。(ヨブ 2:4)しかし,彼は間違っていました。ヨブはサタンが偽り者であることを証明しました。そして,イエス・キリストも彼を偽り者と証明したのです。あるときイエスはひとつの道を追い求めていることについて語っていました。その道を追い求めると,神に奉仕する彼は死ぬようになるでしょう。「すると,ペテロはイエスをわきへ引き寄せて,いさめはじめ」ました。しかし,イエスは彼を叱ってこう言われました,「サタンよ,引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている」。それから弟子たちに言われた,『私に従いたい人は自分をすてて苦しみの杭を負い,私にいつも従って来なさい。たれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失い,私のために自分の魂を失う者は,それを見いだすであろう』」。(マタイ 16:21-25,新世。マルコ 8:31-35)私たちがサタンのようになって,クリスチャンの兄弟たちに,この世の知恵を支持して神への確信を失わせてはなりません。生命を得る道は,ただひとつだけです。それは,神の御心に一致して生活するときだけ得られるのです。神への確信を決して失ってはなりません。いやしを与え給う神は,人間の医者にできないことをすることができます。彼はしもべたちの生命をのばすことができるのです。しかも,苦しみにみちるわずか数年をのばすだけでなく,永遠にのばすことができます。もし必要なら,死人のなかから復活させても,ごく間近になっている栄光に輝く新しい世において,永遠の生命を与えることができます。―詩 23:4。使行 24:15。

      20 神の御心に一致して生命を用いるようにするため,私たちはいま何をするべきですか。

      20 将来にはそのようなすばらしい見込みがあるのです。ゆえに,神の御こころに一致して生活するよう注意しましょう。この世の人々のように,仲間の人間の血に対して不注意な態度を取ってはなりません。いまこそ生命の血に対する最大の関心を示し,イエス・キリストの血に信仰を働かすようにすすめるべきです。それは生命を救うということにおいて,神の御前に真実の価値を持つものです。人々をして神の御国にたよらせなさい。人々を援助して,神の律法を学ばせなさい。生命の道に沿って歩みつづけるとき,彼らを忍耐づよくはげましなさい。あなたも,パウロが語り得たごとく,次のように言える決意を持ちなさい,「わたしは,すべての人の血について,なんら責任がない。神のみ旨を皆あますところなく,あなたがたに伝えておいたからである」。―使行 20:26,新口。

      [脚注]

      a 1960年,ドイツのジーフで出版。

      b 1960年6月アメリカ血液銀行協会の「掲示」(英文)

      c シエンシア・メディカ第20巻「道徳的な欠陥と輸血」(英文)

      d 1946年版,第3巻743頁。

  • 新奇な雑誌配布
    ものみの塔 1961 | 12月15日
    • 新奇な雑誌配布

      村の人々はお金を持っていないので,雑誌が会衆にたまると巡回の僕は告げられました。彼は産物と雑誌を交換する仕方を実演で示しました。その週中伝道者たちはやまのいも,とうもろこし,落花生,メロン,バナナ,そして他の品物と交換しながら,40冊以上の雑誌を配布しました。―エホバの証者の年鑑(英文)より

  • アラブ連合共和国で反対に打ち勝つ
    ものみの塔 1961 | 12月15日
    • アラブ連合共和国で反対に打ち勝つ

      アラブ連合共和国内の新世社会の昨奉仕年度は,もっとも危険なものでした。その年の出来事は,特に南方のエジプトにいるエホバの証者にとって将来崇拝の自由が得られるかどうかに大きな影響を持ちます。政府当局は政府命令を出して,ものみの塔協会を解体しました。その理由は,協会が特定な法律にしたがって登記されていないということでした。その法律は博愛主義的な社会や社会的な協会を認めても,宗教団体を認めません。それでも,1960年9月1日,政府の指示にしたがうため,登記申請書が政府当局に提出されました。政府との交渉は面倒なものです。しかし,エホバの証者はそれにもかかわらず,善意者に忍耐を示し,良い結果を得ています。だれもイエスの羊を奪うことができないとイエスは言われました。ほんとうに,イエスはその制度を通して羊を集めておられます。

      ある小さな町で官憲は会衆の僕を逮捕しました。彼は特別開拓者ですが,奉仕に良い結果を得ています。協会はこの町で,出版物の配布についての合法的な勝利をはじめて得ました。警察は,野外奉仕をしていたときに逮捕したふたりの兄弟たちを起訴して次のように言いました。すなわちふたりは検閲をうけなかった,不法に国内にはいった文書を配布していたというのです。協会側は,その文書は正式に関税を通してはいり,配布する前に検閲をうけたと証明することに,その訴訟を楽々と勝ちました。

      ひとりの姉妹は聖書研究を司会していました。善意者は良く進歩して,隣人や知人に伝道しはじめました。ある日,この人は姉妹の家に彼女と研究し始めた新しい善意者を連れてきました。この人はひじょうに悲しんでいて,神の御言葉の中になぐさめを求めました。彼女は姉妹に聖書を持って来てくださいとたのみました。夫へのプレゼントにしたいと思ったのです。それから,姉妹と最初の善意者はその人の夫に証言しました。その人と15歳の女の子および12歳の男の子はふかい興味を示しました。この人はすぐに仲間の者に証言し始め,仲間のひとりは家庭聖書研究に出席するよう招待をうけました。しかし,2ヵ月後,姉妹がきめられた研究の時間に2度も行きましたが2度ともるすでした。彼女が不意に訪問してみると,家族は家にいました。夫は真面目な態度で,彼女が聖書から教えたことはみな正しいがとうていそれは難かしいので,やっていけそうもないと言いました。そして,彼はある日親族のパーティに出席して,真理のことを話したが大多数の者は彼に反対し,彼は真理を効果的に説明することができなかったと説明しました。親族たちは,もし彼がエホバの証者と研究をつづけるなら,彼を親族の一員と認めないと脅しました。姉妹はこの話を聞くとすぐに,彼が神を愛するかどうか彼が自分の生命と家族の生命を愛するかどうかをたずねました。彼がはいと答えてから,こんどは姉妹は親族の者は彼に生命を与えるか,また彼は神よりも親族の方を深く愛するかどうかとたずねました。もちろん,彼は否定の答えをしました。それから,姉妹は巧みに言葉をつづけて,私たちはサタンに反抗しなければならない。そうすれば彼は私たちから逃げると説明しました。彼女はまた種まき人のたとえも話して,私たちが岩地の土でなく,良い種類の土でなければならぬと述べました。彼は深い感銘をうけてふたたび研究を始めると約束しました。そして,彼は知己,親族および仲間の者たち全部にふたたび伝道し始めました。姉妹の15歳になる娘は,彼の娘と研究しましたが,彼も自分の家族と研究を始めました。彼は妻も証言しているので幸福です。

      法律上の問題や当局者たちの干渉が激しいにもかかわらず,またふたりの特別開拓者が国外に追放され,数人の他の開拓者がこの国を去ったにもかかわらず,わざはたいへん良い進歩を見せました。―エホバの証者の年鑑(英文)より

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