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    ものみの塔 1959 | 12月15日
    • 血の神聖さを尊重して潔白を保つ

      「わたしは,すべての人の血について,潔白である。」― 使行 20:26,新世。

      1 血は私たちにとつてどのくらい貴重ですか。王としてのキリストの態度と,原子爆弾を爆発させる者たちの態度とはどのようにちがいますか。

      私たちの体の中の血は,何と貴重なものでしよう! 私たちの生命は血に依存して,体の10分の1から12分の1は血で成り立つています。当然私たちは,地の上での原子爆弾爆発から生ずる放射能降下物の結果として起る,白血病という一様に致命的な血の病気の増加しそうなようすに身振いします。1958年の秋に,ソ連が行つた1ヵ月間の激しい核実験によつて,地球の大気圏の中の放射能灰は,事実上2倍になりました。これは,アメリカ原子力委員会のメンバーで科学者のダヴリユ・イー・リビイ博士のいつた言葉です。これによつて,血に対する危険は,世界的に増加します。どうしてそういうことが言えますか。諸降下物で人間にとつて危険なものは,地上での原子爆弾爆発から生ずる最も重要な放射物ストロンチウム90として知られている化学物質で,骨のガンや白血病を引き起す可能力をもち,長い間効力を有する放射性物質です。血は,骨髄の中でつくられます。(ニューヨーク・タイムス,1959年3月14日号)人類の血をそのような危険にさらすものを爆発させる者の態度は,私たちの創造者が新しい世の王に任命したキリストの態度とはたしかにたいへんなちがいです。この王にかんして,聖なる預言はこう言つています,「彼は乏しい者のたましいを救い,しえたげと暴力とから彼らのたましいをあがなう。彼らの血は,彼の目に尊い。」― 詩 72:13,14,新世。

      2 血に関する神の律法に関して,今日の一般大衆は何を認識していませんか。そして私たちはなぜこれに関する知識をもつべきですか。

      2 血の価値および血と生命との密接な関係 ― これを最も良く知つておられるのは,動物の体内で生き動いているこの組織を創造した方です。彼は,私たちの創造主,生命の授与者として,ずつと昔,血にかんする諸律法を与えられました。この律法は,創造主が血を神聖なもの,きよいものとされたことを示しています。今日一般の人々は,血にかんする創造者の律法の下にあるということと,血の神聖さを犯したかどで罰せられるであろうということを認識していません。この罰は軽い罰ではなく,まさに彼らの生命を要求するでしよう。ノアの時代の洪水から,4327年が経過していますが,当時神が制定された血にかんする律法は,いまでも適用されます。しかも,全人類に,ユダヤ人であろうとユダヤ人でなかろうと,それにはかかわりなく,この神聖な律法を受けた非ユダヤ人であるノアとその息子セム,ハム,ヤペテの子孫である私たち全部に適用されます。私たちの生命は,この律法を学んでそれを守りつづけることにかかつています。もし私たちが,今日生きている全人類のためのこの律法の言葉に注意するならば,私たちは利益を受け啓発されるでしよう。

      3,4 (イ)洪水後にノアがささげた犠牲が,血の神聖さを犯すものであつたかどうかについては何が言えますか。(ロ)ノアに与えられた血に関する律法の中で,ヱホバは何と言われましたか。

      3 ノアと彼の同船者たちが箱舟から出た時,ノアは家族を導いて神に犠牲をささげました。彼らと動物,鳥は,その箱舟の中で,人間が経験した最も大きな洪水を生き残つたのです。ノアは,アララテの山で,清い獣および鳥のいくらかを殺しました。これは,血の神聖さをけがすものではありませんでした。洪水より15世紀以上の昔,アダムの2番目の息子の忠実なアベルは犠牲をささげましたが,それは彼の羊の群れの初子をいく匹か殺すことを意味しました。しかし神はその犠牲を受け入れられて,アベルが義なる者,潔白な者であつたことを証言されました。(創世 4:1-4。ヘブル 11:4)同じように神は,ノアがささげた清い動物と鳥の犠牲を是認されました。そしてノアは,「信仰による義を受け継ぐ者」となりました。(創世 8:18-22。ヘブル 11:7,新口)人類の救い主であられる神が,私たちを支配すべき血にかんする律法を述べられたのは,ノアとその息子たちに是認の言葉を与えられていた時でした。それは次の通りです。

      4 「神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた,『生めよ,ふえよ,地に満ちよ。地のすべての獣,空のすべての鳥,地に這うすべてのもの,海のすべての魚は恐れおののいて,あなたがたの支配に服し,すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように,わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を,その命である血のままで,食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには,わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも,わたしは人の命のために,報復するであろう。人の血を流すものは,人に血を流される,神が自分のかたちに人を造られたゆえに。」― 創世 9:1-6,新世。エルバーフエルダー。セゴンド。リエナート。ダヴオクス。

      5 洪水前,神をおそれた人々はなぜ肉を食べませんでしたか。洪水後,神はどんな方法で人間が肉を食べることをゆるされましたか。

      5 アベルは,肉を,その魂または命である血のままで食べたことはありませんでした。アベルは神を恐れた人間でしたし,また人間が下等動物や鳥や魚の肉を食べてもよいという神のゆるしはまだ与えられていませんでした。同様に,同じ理由によつてノアおよびノアと共に洪水を生き残つた者たちも,洪水の前は肉を食べませんでした。いまや神は,血の貴重な価値と意味を十分に尊重させて,人類に動物や鳥の肉を食べることをゆるされました。しかし血のままで食べることがゆるされたのではありません。

      6 最初に血のことを言われたのは誰でしたか。またどんな状況の下に?

      6 洪水の前でも神は,ご自身の聖なる祭壇で犠牲の血が流されるのをゆるし是認されました。しかし,血も,また血を持つ肉も,食物として人体に取り入れてはならないことになつていました。カインが,弟のアベルを殺したことを告白しなかつた時,神はカインにこう言われました,「あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて,あなたの手から弟の血を受けたからです。」― 創世 4:10,11,新口。

      7 ヱホバは,医学者たちが証明した時よりも55世紀前に,どんな事実を発表されましたか。医学は今日何を無視していますか。

      7 アベルの肉の体よりも,むしろアベルの血を指摘することによつて神は,生命が血の中にあることを示されました。生命の原理が血の中にあるという事実を神が発表されたのは,医学がそれを立証した時よりも55世紀前のことでした。洪水直後,ノアに与えられた律法の中で神は,生命,すなわち魂そのものが血の中にあると言われました。が,現代の医学は,血の神聖さを尊重せよと命令する神ご自身の律法を認めようとしません。現代医学は,今日全人類が血に関するこの命令を守るべき義務のもとにあることと,血に関するこの神聖な律法を犯せば神のみ手によつて罰を受けるということを無視しています。

      8,9 (イ)ニムロデの時代に,人類は何から離れましたか。なぜですか。(ロ)ヨセフに関するルベンの言葉は,血が生命を表わしていることを,どのように強調しましたか。

      8 ノアには,バビロンの王になつたニムロデというひまごがありました。彼の影響によつて,世界の人類の大部分が,血の神聖さに関する神ご自身の律法に違反しはじめました。ニムロデ王が,「ヱホバに反対する力ある狩猟者」として顕著になつた以上,それは予想できることでした。(創世 10:8-10,新世)ヱホバ神に信仰をもつていたアブラハムは,かつてニムロデの国であつた所の近くからやつて来ました。そしてイサクのヤコブを通して12人のひまごを持ち,そのひまごたちはそれぞれイスラエルの12の支族の頭になりました。ところが,ねたみが生じて,これらの支族の頭のひとりヨセフは,兄弟たちから命をねらわれました。ヨセフの一番年上の兄ルベンは,ヨセフを救おうとして言いました,「血を流してはいけない。」結局兄弟たちは,ヨセフを殺して「その血を隠」したところが何の利益にもならないことを悟り,彼を売つて奴隷にしてしまいました。いく年かたつてヱホバ神は,ヨセフを奴隷状態とエジプトの牢獄から救い出し,エジプトの王パロの総理大臣という地位にまで高められました。

      9 パレスチナに飢きんが起きたために,以前ヨセフにしつとをもやした10人の兄弟たちは,必要な食糧を買い入れるためにエジプトへ送られました。彼らはヨセフの前に連れ出されましたが,まさか彼がエジプトの総理大臣だとは気がつきませんでした。彼らの心の状態を試験するためにヨセフは,通訳を用いて,彼らを回し者だと非難し,死刑にするとおどしました。命を失うことを恐れた10人の兄弟たちは,自分たちの犯した罪を思い出して,ヨセフを売つたこと,そのため彼が死んだかも知れないことをヘブル語で話しはじめました。そこでルベンが言いました,「わたしはあなたがたに,この子供に罪を犯すなと言つたではないか。それにもかかわらず,あなたがたは聞き入れなかつた。それで彼の血の報いを受けるのです。」(創世 37:20-28; 42:21,22,新口)こうしてイスラエル人ルベンは,ヱホバ神が,血の神聖さに関する律法を全人類に課せられた時に使われたのと同じ表現を使いました。ルベンは,自分の国語で,人間の生命が非常に必要な血によつて表わされていることを強調しました。

      10 イスラエルと契約を結ぶに際して,ヱホバはノアに与えた律法をイスラエルが守るようどのように強調されましたか。

      10 いく世紀かたつてヱホバは,イスラエルの12支族を,エジプトの奴隷の境遇から救い出して,アラビヤのシナイ山に連れて来られました。その場所でヱホバは,仲立ちであるモーセを通して,ご自身とイスラエルの12支族との間に,ヱホバは彼らの神となり,彼らはヱホバの選民となるというひとつの契約,すなわち契約上の関係を結ばれました。そして,十戒のほかに,他の何百という律法をイスラエルに与えられました。彼らがイスラエル人でないこの世の民とは異なつたヱホバの清い民となるために,ヱホバ神は,彼らの先祖ノアに与えた血の神聖さに関する律法を守るように強調されました。ですからヱホバは,彼らが,人間や動物から血を取つて,食物として自分の体の中に入れたり飲んだりすることを禁止されたのです。

      11 ヱホバの律法によつて,イスラエル人はもちろん異邦の住民も何を禁じられていましたか。なぜ?

      11 イスラエルに与えられた律法のひとつに,次のようなものがあります,「またあなたがたはすべてその住む所で,鳥にせよ,獣にせよ,すべてその血を食べてはならない。だれでもすべて血を食べるならば,その人は民のうちから断たれるであろう。」血を食物として食べることは,国の中に住んでいた異邦人でさえ禁じられていたのです。ヱホバの律法は次の通りでした,「イスラエルの家の者,またあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも,血を食べるならば,わたしはその血を食べる人に敵して,わたしの顔を向け,これをその民のうちから断つであろう。肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである。このゆえに,わたしはイスラエルの人々に言つた。あなたがたのうち,だれも血を食べてはならない。」― レビ 7:26,27; 17:10-12,新口。

      12 マクリントックとストロングの「辞典」は,食物として血を食べることを禁止する禁令とこの禁令違反に関し何と言つていますか。

      12 マクリントックとストロングの「聖書辞典」と「神学およびキリスト教会に関する文献」第1巻は834ページで,血を食物として食べるのを禁示することに関しこう述べています,「合法的,非合法的食品に関連した禁令が紹介されている箇所では聖書は,たいていその理由を指示しているが,その理由とは,『血はたましいである』ということである。そして血を水のように土の上にそそぎ出すことを命令している。しかし主にささげることになつていた犠牲の血に関連した禁令の場合には,聖書は,前述の理由に加えて,『血は魂によつてあがないをする』ことを強調している。(レビ 17:11,12)このきびしい命令は,イスラエル人のみでなく,イスラエル人の間に住んでいた他国の者たちにさえ適用された。この命令を犯した場合に科せられた罰は,『民から切断される』ことであつた。それが刃によつてなされたか,石打ちによつてなされたかを確かめるのは困難であるが,その刑罰は死刑を意味していたようである。(ヘブル書 10章28節を参照)」

      13 イスラエルの狩猟家に対する神の律法は,どんな重要な事実を強調しましたか。

      13 そういうわけで神は,イスラエル人の各狩猟家たちに,バビロン人の力ある狩猟家ニムロデのようにならないで,獲物の血を尊重するよう告げられました,「その血を注ぎ出し,土でこれをおおわなければならない。すべて肉の命は,その血と一つだからである。それで,わたしはイスラエルに言つた。あなたがたは,どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。」(レビ 17:13,14,新口)血は魂と同じに見なされました。ですからヱホバ神は,ご自身と契約関係にある各狩猟家にさらにこう言われました,「ただ堅く慎んで,その血を食べないようにしなければならない。血は魂〔ヘブル語でネフェシュ〕だからである。その魂を,肉と一緒に食べてはならない。あなたはそれを食べてはならない。水のようにそれを地に注がなければならない。」(申命 12:23,24,新世)魂を食べるということは,神の与えられた命を食べるという意味であつて,それを食べる人は,その事によつて,ひとつの命を神のみ手から取り去つている責任を負うことになります。

      クリスチャンは,血の律法の下にある

      14,15 (イ)律法契約とノアに与えられ神ご自身の律法に関して,初期ユダヤ人のクリスチャンたちは何を認めましたか。(ロ)そのため,統治体は,ユダヤ人でないクリスチャンにどんないましめを送りましたか。

      14 ところで,神の子イエス・キリストの足跡にほんとうに従つているクリスチャンたちはどうでしようか。イエスは,クリスチャン会衆を地上に設立されました。イエスが死んで復活されてから後3年半の間,会衆は割礼のあるユダヤ人もしくはイスラエル人および改宗者たちだけで成つていました。これらユダヤ人のクリスチャンたちは,神がモーセを通して結ばれた律法契約は解消されたこと,いわば,イエス・キリストが完全な人間として処刑された刑柱に釘付けにされたということを認めていました。以前ユダヤ人のパリサイ人であつたクリスチャン使徒パウロはこの事実を確認しました。(エペソ 2:13-16。コロサイ 2:13-17)そのクリスチャン会衆は,イエス・キリストの施された血を通して,ヱホバ神と新しい契約に入つていたのです。しかしながら彼らは,自分たちがノアに与えられた血の神聖さに関するヱホバご自身の律法の下にまだいるということを認識していました。その神聖な律法が,解消または撤回されたことは一度もなかつたのです。ですから,エルサレムにあつた12使徒と他の円熟したクリスチャンたちの会衆は,統治体として,これらのいましめを,以前は割礼のあるユダヤ人ではなかつたがいまは洗礼を受けているクリスチャンたちにさえ送りました。

      15 「聖霊とわたしたちとは,次の必要事項のほかは,どんな重荷をも,あなたがたに負わせないことに決めた。それは,偶像に供えたものと,血と,血を取り出さずに殺したものと,淫行とを,避けることである。注意してこれらのものから遠ざかるならばあなたがたは栄えるであろう。あなたがたの良い健康を祈る。」― 使行 15:28,29; 21:24,25,新世。

      16 律法契約が廃止されて,新しい契約が立てられたにもかかわらず,クリスチャンは何をしてはなりませんか。なぜですか。

      16 律法契約が廃止されたにもかかわらず,またイエス・キリストの犠牲の血によつて有効にされた新しい契約が立てられたにもかかわらず,ヱホバ神は,偶像崇拝と血と性的不道徳に関する律法を変えませんでした。従つてクリスチャンたちは,像や象徴物を通して神を崇拝することも,姦淫または淫行を行うことも,人を殺して血を流したり,鳥や獣または人間の血で体を養うこともしてはなりませんでした。

      17 主の夕食で同じさかずきから飲むことは,なぜ血に関する契約を破ることになりませんか。

      17 いうまでもなく,それら第1世紀のクリスチャンたちは,主の夕食または晩餐を祝いました。しかし,ひとつの杯からぶどう酒を飲んでも,彼らは犠牲の小羊イエス・キリストの文字通りの血を飲んでいたのではありません。ローマの兵士が,はりつけになつたイエスの左わきをついたために血と水が流れ出ましたが,主イエスはそれより何時間も前に,エルサレムのある2階で,象徴的な杯をご自身の忠実な11人の使徒たちにまわして言われました,「あなた方は,みなこの杯から飲みなさい。これは罪のゆるしを得させようと,多くの人のために注がれる私の『契約の血』を意味する。あなた方に言う。私の父の御国であなた方と共に新しく飲む日までは,今後決してぶどうの実から造られたもの(つまりぶどう酒)を飲まない。」(ヨハネ 19:33-37。マタイ 26:26-29,新世)その杯に入つていた赤いぶどう酒は象徴にすぎませんでした。それは,私たちの罪を清めるために,神への犠牲として注ぎ出されることになつていたイエスの命の血の象徴でした。

      18 どんな方法で主の夕食を祝う人々は,キリストの血にあずかりますか。

      18 何年か後使徒パウロは,主の夕食を祝う人たちに次のよう書き送りました,「わたしたちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血にあずかることではないか。」(コリント前 10:16,新口)彼らがこの記念のぶどう酒を飲むことは次のこと,すなわちイエスの血によつて象徴されていた,犠牲にされた人間としてのイエスの生命から生ずる益にどのようにあずかるかを描いたものでした。彼らは,イエスこそ自分たちを罪と死から買い戻すために死なれた方であるというイエスへの信仰によつて,その益にあずかります。

      19 命を得るために,血がどのように使われることを神はゆるされましたか。そのため,真のクリスチャンはキリストの血をどう考えますか。

      19 神は,犠牲の血を,神に対する命のささげものとして,神の聖なる祭壇に注ぐことを定められました。それですからクリスチャンたちは,イエスの完全な人間の血が,イエスの犠牲を受けいれるすべての者に永遠の生命を備えるため,神の真の犠牲の祭壇に注がれたことを認めています。そういうわけでその血は貴重なものであり,また神にとつては,買い取る力をもつていました。使徒ペテロは,仲間のクリスチャンに書き送りました,「あなたがたのよく知つているとおり,あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは,銀や金のような朽ちる物によつたのではなく,きずも,しみもない小羊のようなキリストの尊い血によつたのである。」― ペテロ前 1:18,19,新口。

      20 キリストの血をそそぐことは,ピラトにイエスを処刑するよう言い張つたユダヤ人たちになぜ異なつた影響を与えましたか。

      20 従つて,イエスの血が神の祭壇の上に注ぎ出されたことは,信者のクリスチャンに対する場合と,ローマの総督を強制してイエスを刑柱の上で殺させたユダヤ人に対する場合とは異なつた影響を与えました。総督ピラトは群衆の前で水で手を洗つて言いました,「この人の血についてわたしには責任がない,おまえたちが自分で始末をするがよい。」彼らは始末することに同意していました,「その血の責任は,われわれとわれわれの子孫の上にかかつてもよい。」(マタイ 27:24,25,新口)彼らは進んで,イエスの血を流した責任を負い,またその責任を彼らの子孫に渡すことに同意したのです。

      21 主の夕食で,さかずきから飲んだために,初期クリスチャンたちは,どんな非難を受けましたか。彼らの弁明は,ノアに述べられた律法について何を示していますか。

      21 初期のクリスチャンたちは,毎年主の夕食を祝いました。その時彼らは,同じ杯から,イエスの血を象徴したぶどう酒を飲みました。この事のために,あるいはこの事が部分的な理由となつて,異教の不信者たちは,人間の血を飲んでいるとこれらの忠実なクリスチャンたちを非難しました。これは,クリスチャン会衆の代弁者たちが,弁明しなければならなかつた偽りの非難のひとつでした。そこで彼らは,次のような説明をすることによつて,それらキリスト教の敵どもの口をふさぎました。すなわち,人間の血は,動物の血よりもはるかにすぐれており,もつと価値が高いこと。また物も言えず理性もない下等動物の血を飲むことさえ,彼らの神の律法に反するのであるから,ましてやクリスチャンが人間の血を飲むことなどあり得ないこと。いかなる目的のためにせよ,それら忠実なクリスチャンたちが,人間の血を自分の体の中に取り入れなかつたという証拠はたくさんあります。―aジョセフ・ビンガム(1668-1723)著「キリスト教会の起源」または「古代キリスト教会」第17巻5章20節参照。

      22 クリスチャンをよそおう者たちは,いつノアに与えられた神の律法に反対する議論をしはじめましたか。そしてどのように?

      22 クリスチャンと自称する人びとが,キリストの追随者に血を食物として食べることを禁止する神のおきては,ただ一時的な禁令であつて今はもう適用されないのだ,などと言い出したのは,ローマカトリックの神学者で北アフリカの大司教であつたオーガスチン(354年-430年)の時以後にすぎません。しかしながらこの論法は,クリスチャンをよそおう者たちが,真の信仰から落ちたことを部分的に表わしたもので,使徒パウロが預言していたところのものでした。―テサロニケ後 2:1-3。

      23 ヱホバはかわらない以上,クリスチャンたちはどのようにユダの勧告に従い,潔白を保ちますか。

      23 み子イエス・キリストが,さばきのために宮に来ることを預言された後神はこう言われました,「われヱホバはかわらざる者なり。」(マラキ 3:1-6)まことに今日の忠実なクリスチャンは,弟子ユダの勧告に従つて,「聖徒たちによつて,ひとたび伝えられた信仰のために戦い」ます。(ユダ 3,新口)またこの信仰に従つて血にかんする罪を犯しません。彼らは血の神聖さに関する神のかわらない聖なる律法に違反して罰を科せられないように注意します。いかなる人の命または魂を取ることも神は彼らに命令されてはいないようです。

  • 「すべての人の血について潔白」を保つ
    ものみの塔 1959 | 12月15日
    • 「すべての人の血について潔白」を保つ

      1 パウロはどんな言葉で,クリスチャンが血について潔白を保たなければならないもう一つの面があることを示しましたか。

      神の不興をこうむつたり,神から罰を与えられたくない人々は,人間,獣,鳥の文字通りの血のほかに,他の面からも血について潔白を保つように注意しなければなりません。使徒パウロは,小アジアのエペソの町から来た,クリスチャンの監督たちに話をした時に,このことをこう表示しています,「わたしは信じている,あなたがたの間を歩き回つて御国を宣べ伝えたこのわたしの顔を,みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから,きよう,この日にあなたがたに断言しておく。わたしはすべての人の血について,なんら責任がない。」(使行 20:25,26,新口)なぜパウロはすべての人ということができたでしようか。またパウロの言葉と模範は,今日の私たちにとつてどのように警告となりますか。

      2 パウロとして知られていた者が,どのように迫害の経歴をつくりはじめましたか。

      2 パウロはかつて,小アジアの町タルソのサウロとして知られていました。しばらくの間彼は,重い流血の罪を犯していました。エルサレムにあつたユダヤ人の最高裁判所が,忠実なクリスチャン証者ステパノを石で打ち殺させた時,このタルソのサウロは,刑を執行した石打ち人たちの上衣の番をしながら立つて見ていたのです。こうしてサウロは公然とこの殺人行為に賛成していることを示したのです。彼自身もステパノの血についてある程度の責任があることを認めていました。(使行 7:58; 8:1; 22:19,20)かくしてサウロは,迫害の道を歩み始めました。「サウロは家に押し入つて,男や女を引きずり出し,次次に獄に渡して,会衆を荒し回つた。」使徒以外のクリスチャンたちは,エルサレムから散らされて行きました。―使行 8:3,新世。

      3 パウロは,フェストとアグリッパの前で,迫害したことをどのように告白しましたか。

      3 「さてサウロは,なおも主の弟子たちに対する脅迫,殺害の息をはずませなから,大祭司のところに行つて,ダマスコ(シリヤ)の諸会堂あての添書を求めた。それは,この道の者を見つけ次第,男女の別なく縛りあげて,エルサレムにひつぱつて来るためであつた。」(使行 9:1,2,新口)総督フェストと王ヘロデ・アグリッパ2世の前で証言した時,パウロはこう言つています,「わたし自身も,以前には,ナザレ人イエスの名に逆らつて反対の行動をすべきだと,思つていました。そしてわたしは,それをエルサレムで敢行し,祭司長たちから権限を与えられて,多くの聖徒たちを獄に閉じ込め,彼らが殺される時には,それに賛成の意を表しました。それから,いたるところの会堂で,しばしば彼らを罰して,無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし,彼らに対してひどく荒れ狂い,ついに外国の町々にまで迫害の手をのばすに至りました。」― 使行 26:9-11,新口。

      4 従つてサウロは,何を負うに至りましたか。なぜ彼が務をかえることは重要となつてきましたか。

      4 このきちがいじみた行為によつてサウロは,重い流血の罪,潔白な者の血を流した罪を負うに至りました。それにしても彼はどのようにその罪から解放されたのでしようか。それは,神のあわれみを受け入れることによりました。迫害の手をのばしてダマスコに行く途上,サウロは,彼が迫害を加えいたその方に呼び止められたのです。復活され栄光を受けたイエスは,奇跡的にサウロに現われて,彼を非難し言われました,「わたしは,あなたが迫害しているイエスである。」それから主イエスは,サウロの職務を変えられました。その職務とはすなわち,「あなたがわたしに会つた事と,あなたに現われて示そうとしている事とをあかしし,これを伝える務に,あなたを任じるためである。わたしは,この国民と異邦人との中から,あなたを救い出し,あらためてあなたを彼らにつかわすが,それは,彼らの目を開き,彼らをやみから光へ,悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ,また,彼らが罪のゆるしを得,わたしを信じる信仰によつて,聖別された人々に加わるためである。」(使行 26:12-18; 9:3-6,新口)そこで起つて来る問題は,サウロが,迫害者からイエス・キリストの奉仕者または証人へと自分の務を変えるだろうかということでした。彼の生命はその事にかかつていました。というのは,その時の彼の重い流血の罪は死に価したからです。また彼の永遠の生命もそれにかかつていました。

      5 そこでサウロはどんなコースをとりましたか。またこのことに関するどのような公けの証拠を彼はただちに与えましたか。

      5 いまやサウロは,自分が死に価することを悟りました。しかし,キリストを通しての神のあわれみによつて,彼は極度に重い流血の罪のために死ぬ必要がなかつたのです。ダマスコで彼は3日間奇跡的にめくらになつていましたが,その間に彼は自分のはなはだしい罪を告白し,悔い改め,イエス・キリストのあがないの犠牲を通してあわれみを乞い求めました。彼は改宗し,パリサイ派のユダヤ人という迫害者としての行状を捨てて,ヱホバのみ子イエス・キリストの追随者としてヱホバ神に献身しました。こうして,神のために神の御旨を行うことを決意した彼は,イエスから任命された務を受け入れました。3日目に奇跡的に視力が回復するや,サウロはただちに水の洗礼を受け,イエスの追随者として神に献身したことを公けに証明しました。そして,神の小羊イエス・キリストの尊い血を通して罪の洗い清めを受けました。(使行 9:17-19; 22:12-16)それ以後彼はただちに,イエス・キリストと同じように証者として活動を開始しました。―使行 9:19-26。

      6,7 (イ)神が何を行われたためにサウロは,流血の罪から解放されましたか。(ロ)今日同様の重荷を感じている人々のために,彼は何と言つていますか。

      6 サウロは,神の愛に満ちたご親切により,昇天した後でさえ彼に現われたイエス・キリストを通して,重い流血の罪から救われたと私たちに告げています,「最後に彼は,いわば月足らずに生れたようなわたしにも現われたのである。私は,神の会衆を迫害したのであるから,使徒たちの中でいちばん小さい者,使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし,私は神の過分のご親切によつて今日あるを得ているのである。そして,わたしに賜わつた神の過分のご親切はむだにならず,むしろ,わたしは彼らのうちのだれよりも多く働いた。しかしそれは,わたしではなく,わたしと共にある神の過分のご親切である。」(コリント前 15:8-11,新世)サウロは,無知のままに,狂信的に流血の罪を重ねたのです。彼と同じく今日同じ種類の流血の罪の,耐えがたい重さを感じている人々のために,パウロは次のように言つています。

      7 「主はわたしを忠実な者と見て,この務に任じて下さつたのである。わたしは以前には,神をそしる者,迫害する者,不遜な者であつた。しかしわたしは,これらの事を,信仰がなかつたとき,無知なためにしたのだから,あわれみをこうむつたのである。その上,わたしたちの主の恵みが,キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い,ますます増し加わつてきた。「キリスト・イエスは,罪人を救うためにこの世にきて下さつた」という言葉は,確実で,そのまま受けいれるに足るものである。わたしは,その罪人のかしらなのである。しかし,わたしがあわれみをこうむつたのは,キリスト・イエスが,まずわたしに対して限りない寛容を示し,そして,わたしが今後,彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」― テモテ前 1:12-16,新口。

      8 ですから,甚しい流血の罪から清められて,クリスチャンの奉仕に任命されるには,どういう段階をふまねばなりませんか。

      8 タルソのサウロは,重い罪を告白し,それらの罪を悔い改め,改宗して告白した罪の道を離れ,み子イエス・キリストを通して示された神の過分のご親切をけんそんに感謝をもつて受け入れ,啓示されている神のみ心を行うために神に献身し,水の洗礼によつてその献身を象徴しました。彼は自分が死刑に引き渡していたクリスチャンたちの血から清められた一クリスチャンとして,任命された仕事につきました。今日私たちもこれと同じ方法で,重い流血の罪から清められるでしよう。それから私たちは,血から,また血を取り出さないで殺した物から身を清く保つことによつて,血の神聖さに関する神の律法を守ります。

      9 パウロが示したように,献身した人は,どのように他の人々の血に関する新しい責任を負うようになりますか。

      9 しかしながら,後になつてパウロが話している「すべての人の血について潔白」を保つということはどんなことですか。人が献身してクリスチャンになる時,その人は他の人の血に対して新しい責任をもつようになりますか。そうです。なぜなら,他の人々も,かつて私たちがそうであつたように,神のみ手による死の危険にさらされていて,私たちはいまは彼らがそのような死からどうしたらのがれるか知つているからです。ですから彼らのためにその知識を用いるべき責任が私たちにかかつて来ます。キリストは,私たちだけを救うために来てご自分の血を流されたのではありません。キリストは,「世の罪を取り除く神の小羊」になると宣言されていたのです。―ヨハネ 1:29,新口。

      10 箴言 24章11,12節が示しているように,他の人が救いの手段によつて益を受けるためには,すでにあわれみを示された人々にどんな責任がありますか。

      10 しかし,もし世界の他の人々が,その事について聞かず,またそれを受け入れて益される機会を持たないならば,どうして救われるでしようか。ですから救いは,現在救われている私たちよりも,もつと多くの人々に及ぶ可能性があります。すでにあわれみを示された人々は,他の人々にあわれみを示して,その救いの手段を知らせるべき責任を課せられます。私たちがもしそれをしないならば,他の人々が救いを得なかつた責任は,多かれ少なかれ,必要な知識を与えることを怠つたかあるいは与えなかつた私たちにかかつては来ませんか。審判の執行が指定されて,それが必ず施行される神の審判の時代にある時,特にそういうことが言えます。箴言 24章11,12節は,この問題に関する私たちの責任を示してこう言つています,「死地にひかれゆく者を助け出せ,滅びによろめきゆく者を救え。あなたが,われわれはこれを知らなかつたといつても,心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより,人に報いないであろうか。」これこそパウロのもつた見解でした。彼は無限のあわれみを示されました。ですから彼は,自分自身がキリストを通して示された神のあわれみにより生きえたことを悟つて,他の人々にあわれみを示さなければなりませんでした。

      のがれる道を示す

      11 パウロの時代には,エルサレムに関してどんな疑問が時期にかなつていましたか。ですからパウロは,潔白を保つために,何をすべき圧迫を感じましたか。

      11 使徒パウロは,今日の私たちの模範です。彼は,偉大なる審判者ヱホバの行われる他の人々の処刑に対して,何ら責任をもつことがないよう希望しました。なぜならその処刑は,ゲヘナにおける肉体と魂の滅亡を意味するからです。(マタイ 10:28)パウロの時代に,ユダヤ人は,神の審判期間に住んでいました。エルサレムは,神のみ子によつて検閲されていることを察知しなかつたので,激しい破滅に向いつつあると主イエスは言われました。(ルカ 19:41-44)問題は,誰がエルサレムと共に滅びるかということでした。イエスの死を要求した人々の流血の罪の下に誰がとどまるでしようか。彼らはその流血の罪を自分たちと子孫に帰すことを求めたのです。そのためパウロは,そのことを警告し,またのがれる道,永遠の生命への救いの道を示さなければならないという気持を強く感じました。そこで彼は伝道し,まず危険にさらされているユダヤ人に注意を向けました。他の人の滅亡に関して責任を持ちたくないというこの良心的な願望は,コリントでパウロが言つた言葉の中によく表われています。

      12 コリントにおける彼の伝道活動のために,どんな危機が発達しましたか。それに対処するさい,パウロは何を言い何をしましたか。

      12 このギリシャの町ではパウロは,ユダヤ人の信者でブリスキラの夫アクラと一緒に天幕工として働きました。しかし,ユダヤ人の安息日毎に地方の会堂で話をし,いく人かのユダヤ人とギリシャ人をキリスト教に入れることに成功しました。パウロの同行者がついにやつて来てここで彼と一緒になつた時,彼は,「御言を伝えることに専念し,イエスがキリストであることを,ユダヤ人たちに力強くあかしした。」それから危機がやつて来ました。そのためパウロは,彼がなぜその問題を真剣に考えているかを説明しなければなりませんでした。「彼ら〔ユダヤ人〕がこれに反抗してののしり続けたので,パウロは自分の上着を振りはらつて,彼らに言つた,「あなたがたの血は,あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」。こう言つて,彼はそこを去り,テテオ・ユストという神を敬う人の家に行つた。その家は会堂と隣り合つていた。会堂司クリスポは,その家族一同と共に主を信じた。」― 使行 18:1-8。コリント前 1:14-16,新口。

      13 コリントの不信のユダヤ人は,エルサレムになされた審判の執行にどのように与かつた可能性がありますか。なぜパウロにその責任を問うことはできませんか。

      13 パウロは,ユダヤ民族が審判の時にあつたことと,エルサレムの中に当時住んでいた世代の人々に滅びがのぞむことを知つていました。「天が下のもろもろの国から」,あらゆる場所からユダヤ人は,恒例の祝いまたは祭りのためにエルサレムに上つて来ました。西暦50年か51年頃パウロに反対したコリントのユダヤ人の会堂からもいく人かが20年後の(西暦)70年の過越を祝うためにエルサレムに上つたにちがいありません。そこで彼らはローマの将軍タイタスが,軍隊をひきいて町を攻め,過越を祝つていた者全部をふくろのねずみにしてしまつた時,わなにかかつてしまいました。彼らの大多数は,包囲,飢きん,疫病,内部における国民間の粉争で死にました。捕虜となつて生き残り,ローマ帝国の方々に連れ去られた者はわずかに過ぎませんでした。もしそれらのユダヤ人たちが,クリスポと彼の家族のようにクリスチャンになつてパウロから洗礼を受けていたならば,エルサレムやユダヤからはるかにはなれた所にいて,殊にローマのセスタス・ガラスが(西暦)66年軍隊をもつて短期間その運命づけられた町を包囲した時そこに近づかなかつたでしよう。彼らは,ルカ伝 21章20-22節のイエスの言葉に注意を払つたなら,110万のユダヤ人と共に,がんこで,キリストに故意に反対する者,キリストを通して与えられる救いを拒否する者として死ななかつたでしよう。しかし,エルサレムで死んでも死ななくても彼らは,人類の救い主の頑固な敵として死にました。しかしながらパウロは,彼らが,イエス・キリストを通して与えられる救いのための神の御準備にあずからずに死んだことに対し,何ら責任を問われることはありませんでした。

      14 コリントのユダヤ人たちから去る際に,パウロはなぜ,彼らに対して流血の罪がないことを主張することができましたか。それから誰に注意を向けましたか。

      14 パウロは,良心的に上着を振つて,それらコリントのユダヤ人たちに対し,流血の罪がないことを主張することができました。この問題に関して彼は潔白で,無罪でした。彼は,ユダヤ人の休みの日に,彼らの会堂で伝道さえしました。彼の同労者シラスとテモテが彼と一緒になつてから,彼はますます御言葉の事に専心しました。つまり,伝道することと教えることとによつて御言葉を語りました。これをするにはパウロは,天幕作りの時間をきりつめなければならなかつたに違いありません。しかし彼は,ヱホバ神のみ前で審判に直面していたユダヤ人に対して責任があるので,これはどうしてもしなければならないと考えました。彼らは救いの音信に反対しつづけ,イエス・キリストの悪口を言いつづけました。これでは,一社会を形成する彼らに話しつづけることは時間の浪費であり,むだな骨折でした。いまや彼は,彼らの意識的な反キリスト的な道から生ずる結果に対して,良心に少しの呵責をも感ずることなく,流血の罪のほんの小さな汚点さえ持つことなく彼らから去ることができました。それで今は,他の責務,すなわち「諸国民(非ユダヤ人)への使徒」として奉仕する務めにつきました。(ロマ 11:13)諸国民もまた音信を聞くなら教われる可能性または範囲に入つていたのです。ですからパウロは,コリントのユダヤ人を捨てて,こう知らせました,「今からわたしは異邦人に行く」。

      15 この問題に関するパウロのコースが正しかつたことおよび,彼がユダヤ人の反対者たちの血について潔白であつたことを何が証明しましたか。

      15 それは正しい道でしたでしようか。そしてパウロは実際に潔白で,ユダヤ人の血はユダヤ人自身にかかつたでしようか。主はそうであると示されました。どのようにですか。それはパウロがコリントの異教徒に主力を向けた後のことですが,彼は天から音信を得ました。それは次の通りです,「すると,ある夜,幻のうちに主がパウロに言われた,『恐れるな。語りつづけよ,黙つているな。あなたには,わたしがついている。だれもあなたを襲つて,危害を加えるようなことはない。この町には,わたしの民が大ぜいいる』。パウロは1年6ヵ月の間ここに腰をすえて,神の言を彼らの間に教えつづけた。」(使行 18:9-11,新口)主が持つておられた「この町の大ぜいの民」は,非ユダヤ人でクリスチャンとなつた人々だつたにちがいありません。当時パウロに反対していたユダヤ人たちは,総督ガリオに訴えて,パウロの伝道を裁判ざたにしようと試みましたが,失敗に終りました。法廷はこの問題をとりあげませんでした。かなり長い間そこに滞在して異邦人に神の御言葉を教えた後,パウロは,やすらかにコリントを去つてエルサレムに行きました。―使行 18:12-22。

      どのように潔白を保つたか

      16 旅行の記録によると,パウロは誰に証言しましたか。そしてエペソの監督たちにどんな反論不可能な強い声明を出しましたか。

      16 今日のヱホバの証者とおなじく,パウロも,人の住む所,行ける限りの場所で証者として証言しました。パウロの旅行から正確に分つているだけでも,彼は,シリヤ人,ユダヤ人,アラビヤ人,キリキヤ人,キプロス人,パンフリヤ人,ガラテヤ人,リシヤ人,アジア人,マケドニヤ人,ギリシャ人,マルタ人,イタリヤ人に証言しています。この使徒はどこに行つても証言する機会をつかみ,今日の私たちに,どのように「すべての人の血について潔白」を保つかを教えています。彼はどのようにそうしましたか。それはアジアにおけるローマの領土の主要都市エペソの会衆の監督たちに話した彼の別離の言葉が詳細に説明しています。パウロは,エルサレムへの最後の旅行の途上,近くのミレトにとどまつた時,人をやつてエペソの会衆の古い者たちを呼び集めました。そして次のようにきつぱりと断言しました,「だから,きよう,この日にあなたがたに断言しておく。わたしは,すべての人の血について,なんら責任がない。」(使行 20:16,17,26,新口)エペソの監督たちは,これに反論することができましたか。またしましたか。いいえ。なぜしませんでしたか。なぜならパウロは彼らに救いの音信を十分に宣べ伝えたからです。

      17 それらのエペソ人は,パウロが彼らの中に足をふみ入れた最初の日から何を知つていましたか。パウロの言つた「益になる事がら」とは何でしたか。

      17 では,この点に関するパウロの言葉を調べて見ましよう。彼は,それらエペソのクリスチャン会衆の代表者たちにこう言いました,「わたしが,アジアの地に足を踏み入れた最初の日以来,いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか,よくご存じである。すなわち,謙遜の限りをつくし,涙を流し,ユダヤ人の陰謀によつてわたしの身に及んだ数数の試練の中にあつて,主に仕えてきた。また,あなたがたの益になることは,公衆の前でも,また家々でも,すべてあますところなく話して聞かせ,また教え……。」(使行 20:18-20,新口)ここで,「益となること」というのは,神の御言葉に基づいたもので,彼らが救われること,および救われた状態にとどまることに関係をもつものでした。それにしてもパウロは,エペソでどのように公然とまた家から家に伝道したのでしようか。それは記録が示しています。

      18 パウロは,エペソでユダヤ人に関し,「公け」にどんな仕事をしましたか。

      18 パウロは,コリントを去つて,エルサレムに向けて旅行していた時,エペソに立寄りました。彼は「公然と」どんな仕事をしましたか。「パウロは……自分だけ会堂にはいつて,ユダヤ人たちと論じた。人々は,パウロにもつと長いあいだ滞在するように願つたが,彼は聞きいれないで,『神のみこころなら,またあなたがたのところに帰つてこよう』と言つて別れを告げ」ました。(使行 18:19-21,新口)エルサレムで請願を果した後,パウロは実際にエペソに帰つて来ました。そして再び公衆の前に現われました。「パウロは会堂にはいつて,三ヵ月のあいだ,大胆に神の国について論じ,また勤めをした。」ユダヤ人が激しく反対しはじめた時,パウロはその公けの仕事をやめましたか。やめなかつたと記録は述べています。「ところが,ある人たちは心をかたくなにして,信じようとせず,会衆の前でこの道をあしざまに言つたので,彼は弟子たちを引き連れて,その人たちから離れ,ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので,アジアに住んでいる者は,ユダヤ人もギリシャ人も皆,主の言を聞いた。」― 使行 19:1,8-10,新口。

      19 それで,公けに話すのを続けるために彼は何をしましたか。2年間そうしているうちにこれはどんな影響をおよぼしましたか。

      19 ですからパウロは,公けに話すための場所を,ユダヤ人の会堂から学校の講堂へ移しただけでした。ここで彼は毎日聖書の話をしました。また自分の必要品および他の人々の必要品をも備えるために,彼は世俗の仕事をいくらかしました。しかし,毎日聖書の話ができるように時間割を立てました。2年間そうしている間に,この事は一般大衆に非常に強い影響をおよぼしたので,アジアにおけるローマの領土のすべての人々はユダヤ人も非ユダヤ人も主の音信を聞きました。

      20 悪鬼崇拝に関してどういうできごとが起りましたか。パウロはどんな証言を公けにしましたか。これはヱホバの御言葉にどんな影響を与えましたか。

      20 旅行していたユダヤ人の中には,パウロの行なつたある奇跡をまねようとした者がいました。彼らは,ある人々を圧迫していた悪鬼たちに言いました,「パウロの宣べ伝えているイエスによつて命じる。出て行け。」パウロが公けに宣べ伝えていたことは,それらのユダヤ人ばかりでなく悪鬼たちも知つていました。ある時など悪鬼のひとりは彼らにこう答えました,「イエスなら自分は知つている。パウロもわかつている。だが,おまえたちは,いつたい何者だ。」その時に起つたことはエペソ中に知れわたりました。こう書かれています,「みんな恐怖に襲われ,そして,主イエスの名があがめられた。また信者になつた者が大ぜいきて,自分の行為を打ちあけて告白した。それから,魔術を行つていた多くの者が,魔術の本を持ち出してきては,みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ,銀5万にも上ることがわかつた。このようにして主の言はますます盛んにひろまり,また力を増し加えていつた。」(使行 19:11-20,新口)後者の道は,今日,悪鬼崇拝である降神術を行つていた人々がとるべき正しいコースです。彼らに過去の行為を明らさまに告白させて神のゆるしを乞わせ,それからこの世的な評価でどんなに高価なものであろうと,彼らの悪鬼崇拝の本または参考書を破壊させなさい。しかしながら,ここで注目すべき主要な事がらは,パウロが公けに伝道したために,神の御言葉を語るわざが拡大をつづけ,異教の教えやユダヤ人の言い伝えよりも非常な勢いで優勢となつていつたことです。

      21 会堂の外におけるパウロの働きのために,誰たちの間に反対がもち上りましたか。銀細工人のデメテリオはどのように騒動を引き起しましたか。

      21 パウロが会堂で伝道したために,ユダヤ人の間に強い反対が湧き起りました。ユダヤ人の会堂はさておき,非ユダヤ人の間におけるパウロの公けの仕事は,いまや成功して,異邦人の間で反対を引き起すまでに至りました。銀細工人のデメテリオは,ふしようぶしようにパウロの公けの仕事の成功を認めてエペソにあつたアルテミスまたはダイアナの豪華な銀の神殿を造つていた仲間の銀細工人に言いました,「諸君,われわれがこの仕事で,金もうけをしていることは,ご承知のとおりだ。しかるに,諸君の見聞きしているように,あのパウロが,手で造られたものは神様ではないなどと言つて,エペソばかりか,ほとんどアジア全体にわたつて,大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。これでは,お互の仕事に,悪評が立つおそれがあるばかりか,大女神アルテミスの宮も軽んじられ,ひいては全アジア,いや全世界が拝んでいるこの大女神のご威光さえも,消えてしまいそうである。」こうして彼らは,エペソで大さわぎを引き起しました。

      22 パウロが世評を集めていたというどんな証拠が,騒動の起きていた時役人たちによつて示されましたか。

      22 クリスチャン奉仕者であるパウロが,世評を得たひとつの証拠として,役人たちはパウロが危害を加えられないように保護しようとしました。弟子たちは,パウロが,混乱に陥つて叫びまわつている群衆に話をするために市の劇場に入つて行くのをやめさせました。「祭と競技の委員のうち,彼と親しかつたある人たちさえ,彼に使をよこして,危険だから劇場にはいつて行かないようにとしきりにたのんだ。」ついに市の書記役が群衆を正気にかえらせて,その騒々しい集まりを解散させました。―使行 19:23-41,新世。

      23 パウロが家から家に伝道したことを示すどんなものがありますか。パウロのそのような伝道を誰が否定しませんでしたか。

      23 それにしてもパウロは,エペソで,どのように「家から家に」教えたのでしようか。私たちは,これに関する顕著な記録を持つていません。しかし,エペソを再び訪問した時,パウロは,約12人ばかりの公然と名乗る弟子たちを発見しました。記録は,パウロがユダヤ人の会堂で彼らと会つたとは述べていません。ですからパウロは,その時,彼らが家から家に伝道していたことを知つたのでしよう。このことについては彼は後にエペソの監督たちに証言しています。パウロがこれらの公然と名乗る弟子たちに会堂で話をしたとは記録されていないので,彼は,個人の家で種々の事がらを説明したに違いありません。彼らは,聖霊のことについては何も知りませんでした。それは彼らが,彼らのうちに聖霊の働きをもつていなかつたことを説明しました。彼らは水の洗礼を受けてはいましたが,それはクリスチャンの洗礼ではなく,「ヨハネのバプテスマ」でした。しかし洗礼者のヨハネすら弟子たちに,「自分のあとに来るかた,すなわち,イエスを信じ」なければならないと告げたのです。ですからその12人は,再び洗礼を受けましたが,この度は「主イエスの名による」洗礼でした。そしてパウロの手から,聖霊と,奇跡的に異言を語つたり,預言をしたりする聖霊の賜物を受けました。その後パウロは公けの場所である会堂に行きました。その上,奇跡の助けを必要としてた人々が,家々からパウロに使いをよこしました。(使行 19:1-7,11)また,エペソの監督たちも,パウロの言葉,すなわち,彼がクリスチャン教訓者として家から家へと働いたことを否定しませんでした。―使行 20:20。

      益になること

      24,25 (イ)公けに,また家から家に,パウロはどんな事を教えましたか。(ロ)これに関する情報はどのように明らかになりますか。

      24 エペソの監督たちは使徒パウロが破滅をのがれて永遠の救いを得るために必要なものをさしひかたと,とがめることはできませんでした。ではパウロはいつたい何を公然と,また家から家に教えたのでしようか。それは,真の神に関する真理,神に対する罪人の悔い改め,主イエスに対する信仰,イエスを通して与えられる神の過分のご親切,神の御国,神の御言葉,神に聖別された人々が相続するもの,イエスに見ならつて受けるよりも与えること,などでした。このことは,パウロがエペソの監督たちに話しをつづけてゆくにつれて明らかです。

      25 「わたしは……すべてあますところなく話して聞かせ……ユダヤ人にもギリシャ人にも,神に対する悔改めと,わたしたちの主イエスに対する信仰とを,強く勧めてきたのである。今や,わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で,どんな事がわたしの身にふりかかつて来るか,わたしにはわからない。ただ,聖霊が至るところの町々で,わたしにはつきり告げているのは,投獄と患難とが,わたしを待ちうけているということだ。しかし,わたしは自分の行程を走り終え,主イエスから賜わつた,神のめぐみの福音をあかしする任努を果し得さえしたら,このいのちは自分にとつて,少しも惜しいとは思わない。わたしはいま信じている,あなたがたの間を歩き回つて御国を宣べ伝えたこのわたしの顔を,みんなが今後二度と見ることはあるまい。」― 使行 20:20-25,新口。

      26 イエスがルカ伝 24章46-48節で述べられている事以外に,パウロは何を公けに家から家に伝道しましたか。

      26 パウロは,イエスが弟子に与えた次のいましめを実行していました,「こう,しるしてある。キリストは苦しみを受けて,三日目に死人の中からよみがえる。そして,その名によつて罪のゆるしを得させる悔改めが,エルサレムからはじまつて,もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは,これらの事の証人である。」(ルカ 24:46-48,新口)私たちは,神に対する悔改めを通し,イエス・キリストのそのあがないの犠牲によつて,神から罪のゆるしを受けますが,パウロは,イエス・キリストのそのあがないの犠牲だけでなくもつと多くの事を教えました。彼は,イエスが神の油そそがれた王となる神の御国,イエスが弟子たちに,「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように」祈れと教えられた神の御国も伝道しました。(マタイ 6:10,新口)イエスの忠実な弟子,「聖別された者たち」も,この天的な御国を相続することになつています。パウロは,数年にわたつて,これらの益となる事がらを,ユダヤ人にもギリシャ人にもあらゆる種類の人々にあますところなく証言し,公けに,また家から家に行つて彼らを教えました。

      27 パウロの最も大きな目的は何であると彼はエペソの監督たちに告げましたか。その目的を遂行しましたか。

      27 パウロの主眼とするところは,クリスチャンのなすべき方法で生涯を終えること,道で会つた主イエスから与えられた使命である証言のわざを完遂することでした。パウロは公けの伝道によつてのみでなく,もつと親密で,個人的で,直接的な接触である家から家の伝道によつてもこのことを行いました。

      潔白を意識する

      28 この事のしめくくりとしてパウロの立場は関係あるすべての前でどんなものとなりましたか。この重大な問題に関して,パウロはなぜそのように感じることができましたか。

      28 さて,これに関するしめくくりとしてパウロの立場は神のみ前に,またエペソの人々の前に,特にエペソのクリスチャン会衆の前でどういう状態でしたか。パウロはエペソの人に対して負債がなく,何も負うところはありませんでした。潔白であるという自覚,「全く明らかな良心」が残つただけでした。(使行 23:1)ですから,パウロは,誰もが知つていた自分の歴史をエペソの監督たちの前で述べた後,こう言葉をつづけました,「だから,わたしはきようあなたがたに証をする。わたしはすべての人の血について潔白である。」彼は,エペソの中のまたその周囲のユダヤ人や非ユダヤ人に対して流血の罪を感じませんでした。その理由を述べてこう言つています,「神のみ旨を皆あますところなく,〔エペソのすべての人の代表として〕あなたがたに伝えておいたからである。」― 使行 20:26,新世,27,新口。

      29 口頭によるいましめの外に,パウロはエペソ人にどんな他の注意を向けましたか。この事は,彼が口頭でエペソ人に何を伝道したことが想像されますか。

      29 パウロは,神のすべてのいましめについて,口頭でエペソの人に教えたうえ,手紙を書くことによつても彼らに注意を払いました。何年かたつて,すなわち西暦60年頃,彼は,ローマからいわゆるエペソ人への手紙を彼らに送りました。ローマでは,牢獄の中で手紙を書くひまがあつたのです。この手紙から私たちは,パウロがエペソ人に何を伝道したか,いく分想像がつきます。というのは彼の手紙はやはり,次のことについて述べているからです。すなわち「わたしたちは,御子にあつて,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」ということ,また,「キリストの血によつて」神に近よること,「彼によつて,わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあつて父〔神〕のみもとに近づくことができる」ということです。―エペソ 1:7; 2:13,18,新口。

      30 (イ)パウロは血に言及していたにもかかわらず,軍隊に関する問題に言及していたのでないことを何が示していますか。(ロ)それでパウロは,血について話していた時,審判のためにどんな責任について考えていましたか。

      30 パウロがエペソの監督たちに話をした時は,40歳前後でした。ですから,すべての人の血について潔白を保つということを話した時彼は,軍隊の問題を論議していたのではありません。いうまでもなく彼は民数紀略 31章19節のことを知つていました。この節の述べるところによると,血痕または血によるけがれをぬぐうためには,神の敵の刑執行者とされたユダヤ人でさえ,誰かを殺したかまたは殺された者の体に触れたという理由で,7日の間身を清めなければなりませんでした。しかし,パウロは,殺人によつて人間の血を流した責任とか,法を無視した仕方,不注意で,無神経で,野蛮な仕方で人を殺したり,血を流す者を助けることによつて人間の血を流した責任以外のもの,すなわち献身したクリスチャンにかかつてくる,人々の血に対する責任について話していたのです。パウロは,「すべての人」にのぞむ,来るべき神の裁きのことを考えていたのです。また,彼は神の審判の執行についても考えていたのです。その神の審判の執行はイエス・キリストのあがないの犠牲と神の御国とによつて益を受けることができたであろう人類の死と滅亡を意味します。そのような人々は,救いの音信,すなわち神のすべてのさとしによつてのみそのような死と滅亡から救われることができるのです。献身したクリスチャンは,証者および奉仕者としてこのさとしを委任されているのです。

      31 なぜキリスト教国の牧師は,二重の流血の罪を負いますか。

      31 この見地から見ると,キリスト教国の牧師は二重の流血の罪,すなわち国際間の戦争で流した血に対する罪だけでなく,神の御言葉中に含まれている「神のすべてのみ旨」でなくて宗教上の偽りを人々に告げた罪をおつています。―エレミヤ 2:34。エゼキエル 35:6。

      彼らに自分の責任を持たせる

      32,33 (イ)現存する危険を監督たちに警告するかたわら,パウロは外に何をしましたか。(ロ)なぜパウロは彼ら自身と神の群れに気をくばるよう告げましたか。

      32 パウロは生きていた間,また霊的な「羊」と共にいた間,「神の群れ」が,霊的に飢えで死んだり,おおかみのような敵に殺されないよう保護するために羊飼のように見守つていなければなりませんでした。また彼が彼らから去つた後,あるいは死んだ後に,彼らを直接に,監督できなくなることについても考えなければなりませんでした。この理由のため,彼は現在ある危険についてのみでなく,彼が去つた後に彼らに直面する危険についても警告しました。

      33 パウロは,クリスチャン統治体の一成員として,神の霊の導きにより,「神の群れ」のために監督たちを訓練し任命しました。また彼は,監督たちおよび神のすべての群れの安全に関係のある将来の問題および将来の危険を警告しました。預言的先見と,記録された預言の助けとによつて,そのような警告を与えるべき責任をパウロはもつていたのです。彼は見張りとして奉仕して,先の事を見なければなりませんでした。ですからエペソの監督たちに次のように告げました,「どうか,あなたがた自身に気をつけ,またすべての群れに気をくばつていただきたい。聖霊は,神がご自身の血であがない取つた神の会衆を牧させるために,あなたがたをその群れの監督にお立てになつたのである。わたしが去つた後,狂暴なおおかみが,あなたがたの中にはいり込んできて,群れをやさしく扱わず,またあなたがた自身のなかからも,曲つたことを言つて,弟子たちを自分の方に,ひつぱり込もうとする者らが起るであろう。だから目をさましていなさい。そして,わたしが二年の間,夜も昼も涙をもつて,あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきた事を,忘れないでほしい。」― 使行 20:28-31,新世。

      34 パウロが彼らに自分自身の責任をとらせたということは何を意味しますか。なぜ彼らは,より大きな責任を問われることになつていましたか。

      34 パウロは,彼らの血に対する責任をすつかり果したのですから,霊的な監督たちに自分で自分の責任を負わせなければなりませんでした。前もつて警告を受け,十分に教えを受けたそれらの監督たちの誰かが,もしいま神の裁きによつて処刑されて,永遠の生命を失つても,パウロのせいにはならないでしよう。彼らが永遠の生命を失う事に関して彼に責任はないでしよう。彼らの血が流されたら,また生命がそそぎ出されたら,それに対する罪は彼ら自身のものであつて,パウロの罪ではありません。訓練を施され,教えられた監督者であつた彼らは,ユダヤ人や異邦人の民衆が得たよりも,それどころか会衆の一般のメンバーが得たよりも多くの教えと注意と指導を受けたのです。従つて彼らはより大きな責任をもつていました。彼らは,より多くのことを知り,より有利な地歩を占めていたからです。

      35 彼らと一緒に祈る前に,パウロは最後に彼らに何と言いましたか。

      35 パウロは,3年間エペソに滞在して活動しましたが,その間,クリスチャン奉仕者および監督として非常に忠実にふるまい,またいまはこの最後の警告も与えたので,エペソの監督たちに次のように言う正しい立場にありました,「今わたしは,主とその恵みの言とに,あなたがたをゆだねる。御言には,あなたがたの徳をたて,聖別されたすべての人々と共に,御国をつがせる力がある。わたしは,人の金や銀や衣服をほしがつたことはない。あなたがた自身が知つているとおり,わたしのこの両手は,自分の生活のためにも,また一緒にいた人たちのためにも,働いてきたのだ。わたしは,あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならないこと,また『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われたイエスの言葉を記憶しているべきことを,万事について教え示したのである。」それからパウロは彼らと共に祈りました。―使行 20:32-36。

      36 パウロはどのようにそれらエペソのクリスチャンたちを全く神にゆだねることができましたか。

      36 パウロはエペソの監督たちと会衆を実際に神にゆだねることができました。彼は主イエス・キリストの父としてのヱホバ神について彼らに教え,彼らを神との正しい関係に入れました。そして,少なくとも3年の間,昼といわず夜といわず,神のすべてのみ旨をひるむことなく彼らに教えました。全部とはいかなくとも,大多数の会衆が,使徒であるパウロを通して,聖霊と聖霊の奇跡的な賜物を受けたにちがいありません。(使行 19:1-7)ですから今,再会の希望もなく彼らを去らなければならないパウロは,常に存在され,常に生きておられる保護者ヱホバ神に彼らをゆだねなければなりませんでした。パウロが彼らをこの方に導き,彼らはヱホバの「聖別された者たち」ヱホバの羊の群れになりました。

      37 パウロはどのように「神の過分の御親切な御言葉」に彼らを全くゆだねることができましたか。

      37 パウロは同時に,それらエペソの監督たちを「過分にご親切な〔神の〕御言葉」にゆだねることができました。というのは,彼は神の御言葉を彼らに教えたからです。ヘブル語聖書を創世記からマラキ書に至るまで彼らに説明しました。また,主イエス・キリストの言葉を教え,および彼自身がキリストを通して奇跡的に受けた黙示を彼らに伝えました。さらにまた記録された神の御言葉の一部となつたエペソ人への手紙も書きました。パウロは自分が永久に彼らを去つても,御言葉が彼らと共にあるように,能率的な教授法でもつて神の御言葉を彼らの心にしつかり教えこみました。そのため彼は,彼らをその御言葉と御言葉の啓発の力,保存の力,保護の力,清める力に安全にゆだねることができました。それは確実で,健全で,聖書的な教えでした。そしてそれは彼らを霊的に建て起すことができ,また彼らがついに天の御国,約束の,「すべての清められた者とともに嗣業」を受けつぐことを助けるということを彼は知つていました。こうしてパウロは,神の羊を安全の中に後に残しました。

      血の金で沈黙させられない

      38 どんな任務を果すためならば,パウロは命をも惜しみませんでしたか。

      38 使徒パウロは,自分の使命を忠実に果すことができ,また他の人々が永久の破減をのがれて永遠の生命を得るよう援助することができさえすれば,肉体的生命をも惜しみませんでした。ですから,彼の目標は,神の良いたよりによつてお金をもうけることではなかつたのです。彼の目標は,神の審判執行によつて流される危険にさらされている他の人々の血に対する責任から自分を清く保つ事でした。

      39 どんな動機でパウロは,生命をもたらす宣教を行なつていましたか。

      39 だからパウロは,生命を与える宣教を,救いを求めている人々に何の負担もかけずに無報酬で行いました。彼は,神の御言葉を収入の手段として用いてそれを商業化していたのではありません。見張りとしての彼の奉仕が,雇人のそれのように,給料をもらつての奉仕のごとくならないよう必要な時には世俗の職業につき天幕工として働きました。彼は,キリストのように,長なる羊飼とその羊の両方を愛した従属の羊飼として見張りを致しました。パウロこそ,他の人々が生きて,自分と共に神の過分のご親切を楽しむよう心から願つた人でした。彼はほんとうに隣人を愛しました。ですから,神の審判で隣人の血が流されても,それに関する責任を問われないよう,隣人の利益をおろそかにしませんでした。彼は,喜びと,特権と,そのいろいろなよい結果のために生命を救う者でした。そして危地にある隣人の危険をよく認識し,それに対し,神からゆだねられた手段でもつて何かしなければならないという責任を感じました。もし隣人がパウロの援助を受け入れるならば,隣人を滅びから救うことを望みました。

      40 パウロは,イエスが享受されたところの幸福を得るために,私たちにどんな模範をしめしましたか。

      40 これは,今日の私たちに模範を示しています。もし私たちが,他の人々が永遠の生命を得るよう助けるために,この非利己的で,無私の道を自費で歩むならば,パウロが引用したイエスの次の言葉がいかに真であるかを学ぶでしよう,「受けるよりは与える方が,さいわいである。」弱い人を助けることには,自分自身を与え,神によつて強くされた自分自身の力を与えるという点にはればれとした幸福があります。血の金に匹敵するものを受けることに幸福はありません。その血の金とは,私たちの口を閉じて警告を与えさせず,「神のすべてのみ旨」を伝えさせないものです。誰に対してであろうと,流血の罪を負うことには幸福はなく,自責の念にかられた良心があるだけです。パウロは幸福を望みました。私たちもまたそれを望みます。

      今日における私たちの責任とコース

      41 私たちはなぜ,他の人々が死と破滅から救われるよう援助したいと熱望しますか。

      41 私たち救いを愛する者は,他の人と共にその救いに与ることを熱望します。神の御手による死と破滅からのがれる私たちは他の人々もそのような災難から救われることを熱望します。私たちはヱホバ神の奉仕者および見張りとしてヱホバ神と同様に,こう言います,「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。」(エゼキエル 18:23,新口)ですから,神と同じく,悪人がその道を離れて生きるよう援助するのを望んでいます。私たちは,滅びる者の血でけがされるという見通しを楽しみません。というのは,私たちは,この事に対して怠惰な見張りとして責任をとわれるからです。私たちは,キリストの享受された幸福のために働きます。この幸福こそ永遠の生命を意味するからです。

      42 私たちはなぜ血について責任をもつ時代に住んでいますか。そのため私たちはあえて何をしませんか。

      42 パウロの時代,すなわちエルサレムとユダヤの滅亡およびユダヤ民族の分散直前の時と同様に,私たちも今日,私たちの同国人および同胞である人間の血が関係している時代に住んでいるのです。「全能の神の大なる日の戦い」は迫つています。そして,ハルマゲドンの戦場で,神の御国の音信を拒絶し,また反対する者すべてに対して,神の審判が執行されるでしよう。彼らは,世界の共同体として,エルサレムやバビロンがしたと同じように,自分自身の血で神と血の勘定をすませるでしよう。(マタイ 23:33-38。エレミヤ 51:3,4,48,49)もし私たちが,この裁きの戦争を生き残つて,神の新しい世に入りたいと思うなら,「すべての人の血について潔白」を保たなければなりません。知識が欠けているために彼らは滅びに行くのですから,滅亡に定められたこの世を無知のままにしておかれるのは神の御心ではありません。聖書の知識をもつている私たちは,人々が無知にとどまることを選ばない限り,かりそめにも彼らを無知にとどめておいてはなりません。私たちは,ハルマゲドンの事,ハルマゲドンで神およびキリストと戦うために人類を導いているマゴグのゴグの事を彼らに警告しなければなりません。「私たち」が彼らに救いの音信を与えなかつたので,彼らが神のみ前で「知りませんでした」と言うことがあつてはなりません。

      43 これに関して私たちは,どのくらい真剣であるべきですか。私たちは,ためらうことなくどのように「神のすべての御旨」を宣べ伝えるべきですか。

      43 私たたちは,人々に警告しまた啓発するに際して,パウロと同じく,これが危険にさらされている人々に対する最後の助言であるかのごとく熱心でなければなりません。またこの助言は,最後の警告となりつつあります! パウロと同じく私たちは,神の御国の良い音信を伝道することを,キリストを通して神からゆだねられており,しかも,今は設立された,力をもつ神の御国の音信をゆだねられています。(マタイ 24:14)私たちはこのことを,証言および警告として,この古い世の終りが来る前に行わなければならないのです。「神のすべてのみ旨」を告げるのをためらつてはなりません。「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」と告げているパウロと同じく,私たちは,公けの伝道で,また家から家に行つて教えてこの事を行わなければなりません。―コリント前 11:1,新口。

      44 もしこれを行えば,自分の行為を説明すべき時に,何と言うことができますか。どんな結果が私たちに生じますか。

      44 もし私たちがそうするならば,どういうことになりますか。ハルマゲドン間ぎわに,パウロの言葉を取りあげて,恥ずるところなく全世界にこういうことができるでしよう,「わたしはきようあなたがたに証をする。わたしはすべての人の血について潔白である。神のみ旨を皆あますところなく,あなたがたに伝えておいたからである。」従つて私たちは,流血の罪で死ぬことはないでしよう。清い手と頭と記録をもつて,生命と幸福のみち罪の存在しない神の新しい世に入れられて永遠に至るでしよう。

  • ナイル河が増水しなかつた時
    ものみの塔 1959 | 12月15日
    • ナイル河が増水しなかつた時

      エイ,レンデル・ショートは,「現代発見と聖書」(英文)という自著の本の中で,次のように報告しています,「エジプトのききんが長くつづくということは,まずなかつた。すべての人の知るごとく,その国の農業はナイル川のはんらんに,全く依存している。エレハンチン島で,極めて興味ぶかい発見がなされた。それは,7年間連続してナイル河が増水しなかつた事実を記念する石碑である。この石碑の日付はわからない。しかし,そこに彫まれていることがブラグシュにより発見されて出版された。それから判断すると,ヨセフの時とぴつたり合うと言うことができる」。

  • 「御心が地に成るように」(その24)
    ものみの塔 1959 | 12月15日
    • 「御心が地に成るように」(その24)

      ヱホバの聖所は,いまは生けるものであつて「生ける石」すなわち隅の基礎石であるイエス・キリストに従う御霊のそそがれた弟子たちで構成されています。1918年,ダニエル書 8章9節に述べられている「小さな角」すなわち英米両国の世界強国は,この霊的な聖所の場所を投げたおして,1926年には国際連盟と結合して他の国々と共に「荒すことをなす罪」を犯しました。これからダニエル書 8章14節に述べられている。「二千三百の夕と朝」がかぞえ始められました。この期間が終つたときにはヱホバの聖所は正しい状態に回復するでしよう。6年4ヶ月20日のこの期間は,1932年10月15日に終りました,その時聖所級の正式な雑誌である「ものみの塔」は次のことを示しました,すなわち地上にある聖所級は清められて,聖所はその正しい状態に回復したということです。それは,ヱホバの証者の会衆から民主的に選ばれた「長老」を取りのぞき,御国の良いたよりを伝道するため奉仕指導者たちを会衆に神権的に任命することによるのです。そのようにして神権的な支配はヱホバの油そそがれた残れる者の会衆内で行われるようになりました。

      49 その後,1938年6月号の「ものみの塔」(英文)は,何を述べましたか。それは,どんな決議の採決を提案しましたか。

      49 それは正しい始まりであつたに過ぎません。聖所はあらゆる面で神権的なものにならねばならなかつたからです。それから6年の後,「ものみの塔」(英文)は,「制度」という記事を出版しました。その第1部は1938年6月1日号に,そして第2部は次号の6月15日号に出版されました。この記事は,次の言葉で書き出されていたのです,「ヱホバの制度は,民主的なものでは決してありません。ヱホバは最高至上者であられ,彼の政府または制度は,絶対に神権的なものです。」この記事は,各会衆にひとつの決議を採決するよう提案しました。すなわち,「神の政府は純粋な神権政府であること」を認め,また

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