ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 命と血の神聖さを認識する
    ものみの塔 1978 | 9月15日
    • 命と血の神聖さを認識する

      「み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれる」― 啓示 7:17。

      1,2 多くの人は命の価値に対する認識不足をどのように示しますか。(詩 115:17)

      命以上に貴重なものがあるでしょうか。命がなければ人は何も楽しむことができません。それにもかかわらずわたしたちの周囲には,今日多くの人が,自分の命にせよ他人の命にせよ,命の価値をほんとうに認識していないことを示す証拠が至るところに見られます。

      2 多くの人の無謀運転の習慣にその証拠を見ることはできないでしょうか。あるいは酒や麻薬を飲んで車を運転して,毎年多くの人を死に追いやる人々はどうでしょうか。また年ごとに多くの人が命を失うことがわかっている危険なスポーツにスリルを求める人々もいます。また喫煙や大食によって自分の健康を損ない命を縮めているかもしれないことを知っている多数の人々はどうでしょうか。

      3 なぜわたしたちは,命に対する神の見方を知ることに努めるべきですか。(詩 25:4,5)

      3 しかしそのような態度を前にして,わたしたちは各自,『自分はほんとうに感謝に満ちた生命観を持っているだろうか』と自問してみることができます。人の考えや行動にさえ影響する,命を真に感謝する心を持つ上で重要なことは,命はエホバの賜物であることを認めることです。エホバは「生ける神」,「[わたしたちの]命の泉」です。(エレミヤ 10:10; 詩 36:9,新)使徒パウロは何人かのギリシャの哲学者たちに話したとき,至高者について,「ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられる……わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているからであ(る)」と証言しました。(使徒 17:25,28)ですから当然わたしたちの生命観は神のそれと一致しているべきです。では実際に一致していますか。それに答えるには,神が命をどうご覧になるかを知る必要があります。そうすれば自分の見方と神の見方とを比較することができます。

      4 エホバが命を神聖視しておられることを示すどんな証拠がありますか。

      4 エホバは命を神聖なものと考えておられ,むだにしてよいものとは考えておられません。そのことはエホバが殺人や,しばしば殺人につながる感情を再三断罪しておられることからわかります。(出エジプト 20:13。ヨハネ第一 3:11-15。啓示 21:8)それにエホバは,古代のイスラエルに,人が意図せずして他の人を死なせた場合に保護を求めて逃げ込める逃れの町を設けるよう取り計らわれました。あやまって人を殺した者はなぜ家を離れて,おそらく何年もの間,逃れの町にとどまるという大がかりな処置を取らねばならなかったのでしょうか。それは命,すなわち神聖な命を失わせたからです。神がこれらの町を設けられたことは,命の神聖さに対して一層の配慮を払わせるものとなったことがわかります。―民数 35:9-29。

      5,6 なぜ血は命と適切に結びつけられていますか。

      5 その備えについてあらまし述べたあと,神はイスラエル人に,「あなたがたは,あなたがたのいる土地を汚してはならない。血は地を汚すものだからです」と言われました。(民数 35:33,新)どうしてそうなのでしょうか。ここで言われている「血」は犠牲者の命を表わします。こうして神はわたしたちの命とわたしたちの血との間の重要なつながりを前面に持ち出されたのです。

      6 血のことを話題にするのは普通には行なわれないことかもしれませんが,生きつづけるのに血が必要であることを知らない人はいません。血は人体の主要な活動のすべてにおいて役目を持っています。血は命を支える酸素を細胞に運び,それらの細胞から老廃物を除き,またわたしたちがさまざまな気温に順応できるようにしてくれます。そして血は病気に対する防御のかなめとなっています。しかしほとんどの人は血をただの必要な液体と見ています。ある人々にとって血液は商品です。浮浪者や貧しい人たちから買い取られて血液銀行や病院に売られるものです。また多量の動物の血が,食品,肥料その他の商品に加工されています。血を神聖なものと見ない人々がたくさんいることは明確です。

      7,8 (イ)なぜわたしたちは,神の言葉が命と血について述べていることを調べてみるべきですか。(ロ)エフェソス 1章7節と贖いについてどんな質問が生じますか。

      7 しかし神の言葉は,血が必要な天然の液体以上のものであることを認識するようにわたしたちを助けてくれます。わたしたちの創造者が命と血について言われることは,わたしたちの現在の見方と行動に影響を及ぼすはずです。またそれはわたしたちのとこしえの運命にさえ影響を及ぼし得ます。どうしてですか。その答えを知る助けとして,二つの現代訳の聖書から引用したエフェソス 1章7節を比較し,とくに下線のある部分に注意してください。

      「わたしたちはこのかたにより,彼[キリスト]の血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,わたしたちの罪過のゆるしを,その過分のご親切の富によって得ているのです」― 新世界訳。

      「キリストの死によってわたしたちは自由にされた,すなわちわたしたちの罪は許されたのです。神の恵みはなんと大きいのでしょう」― 現代英語新約聖書。a

      8 どちらの訳からもわたしたちは神がわたしたちに,わたしたちの命に関心をお持ちであることを学ぶことができます。その目的のために神は,人類を有罪判決から解放して人々から罪を除くことのできる贖いの犠牲として,ご自分の独り子イエスをお遣わしになりました。(テモテ第一 2:5,6。ヨハネ 3:16,17)イエスご自身も,「わたしは[あなたがた]が命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました」と言われました。(ヨハネ 10:10)しかしある聖書の翻訳は,これはキリストの血による,とせずに,キリストの死による,としていますが,そのようにするとなんらかの相違をきたすでしょうか。その相違はわたしたちの生活 ― わたしたちの考え,行動,将来とどんなかかわりを持つ可能性がありますか。その点を見てみましょう。

      命と血について神が述べておられること

      9 エホバが血を命の象徴と見ておられることはどうしてわかりますか。

      9 動物の肉を食べることを初めて人間に許したとき,エホバは命と血に関するご自分のお考えについて,注目に値する点を示されました。すべての人間の先祖であるノアとその家族に対して,神は次のように言われました。

      「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれをすべてあなた方に与える。ただし,その魂すなわちその血を伴う肉は食べてはならない。さらにわたしは,あなた方の魂の血について取り返しを求める。……だれでも人の血を流す者は,人によって自らの血を流される。神の像に人を造ったからである」― 創世 9:3-6,新。

      こうして,当時生きていた人間はみな,神の見地から血は命を表わすということを知らされました。人の血はその人の「魂」を,あるいは多くの聖書翻訳が訳出しているようにその人の「命」を象徴します。(現代英語新訳聖書。カトリックのエルサレム聖書。ラビ,アイザック・リーサーによる訳)神なる生命授与者は後日,血によって象徴される命に神が付しておられる重要な道徳的意義をわたしたちが悟る助けになる点を詳細に示して,この問題を一層明らかにされました。

      10,11 イスラエルの祭司たちがささげた動物の犠牲の血はどう扱われましたか。そのことからどんな疑問が生じますか。

      10 神がイスラエルと結ばれた契約,すなわち律法契約においてはとくにそうでした。その成立に際しては動物が犠牲にされてその血が契約を批准するのに用いられました。(出エジプト 24:3-8。ヘブライ 9:17-21)契約の条項の中には罪祭に関する律法がありましたが,その種の犠牲がささげられるときには血がそそがれました。それは罪を覆うために神に命がささげられたことを象徴するものでした。(レビ 4:4-7,13-18,22-30)神の目から見て血には罪を贖う力があったので,年一度の贖罪の日には動物の犠牲の血が用いられました。まず雄牛,次いでやぎが罪祭として犠牲にされ,大祭司はそれぞれの血の一部を幕屋(後代には神殿)の至聖所に携え入れ,それを神の臨在の象徴である櫃,すなわち大箱の前にふりまきました。(民数 7:89。出エジプト 25:22。レビ 16:2)そのあと大祭司はその血の一部を犠牲の祭壇にもかけました。―レビ 16:11-19。

      11 『そういうことが私とどんな関係があるのだろう』といぶかる人もあるでしょう。それは,ユダヤ人でさえもう守っていない昔の儀式を説明しているにすぎないもののように思えるかもしれません。それは将来に対するわたしたちの希望と,命および血に対するわたしたちの感謝の念とに,どのように関係してくるのでしょうか。

      12 エホバは血のどんな唯一の用途を規定されましたか。なぜですか。(申命 12:20-27)

      12 レビ記 17章の中では,エホバ神ご自身が,それら犠牲に関する要求の根本原則を説明しておられます。そこで神が述べておられることは,わたしたちにとって重要な意味があります。神は次のように言われました。「肉の魂[すなわち命]はその血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分たちの魂のために贖罪をするため,それを祭壇の上に置いたのである。血が,そのうちにある魂によって贖罪をするからである。そのゆえに,わたしはイスラエルの子らに対してこう言った。『あなたがたのうちいかなる魂も血を食べてはならない』」。(レビ 17:11,12,新)そうです,わたしたちの創造者また生命授与者は,ご自分の決定を明確に述べられたのです。すなわち(創造者から与えられた命を象徴する)血は一つのこと,つまり犠牲としてのみ用いられる,ということでした。こうして神は血を高く評価され,神聖なものとして取り分けられました。律法の下では血は食べても飲んでもならず,また人間が考え出すどんなことにも用いてはなりませんでした。犠牲にするためではなく,食用にすることだけを目的として動物を殺した場合は,その血を地面にそそがねばならないことになっていました。こうしてその動物の命はある意味で神に返され,イスラエル人の猟師はその肉だけを得ました。(レビ 17:13,14)しかし,現在はユダヤ人もクリスチャンも,動物の犠牲をささげることのできる,神に認められた神殿を持っていない以上,このことはわたしたちとどんな関係があるのでしょうか。

      わたしたちの問題 ― 神の解決策 ― 命と血

      13 わたしたちが罪の重荷を負っていることはどうしてわかりますか。

      13 わたしたちはみな,自分が不完全で罪深いことを認めなければなりません。使徒パウロはそのことを証明し,そうなったいきさつを説明しました。「ひとりの人[アダム]を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえに[わたしたちを含め]すべての人に広がった」。(ローマ 5:12)この事実は,命と血に対するわたしたちの感謝と直接の関係を有しています。

      14 贖罪の日の犠牲は何を予示しましたか。

      14 使徒パウロがヘブライ人への手紙の中で,霊感を受けて説明している通り,律法契約の動物の犠牲は罪を完全に覆うことはできませんでした。もしできたとすれば,それらの犠牲は年ごとにささげられる必要はなかったでしょう。それらの犠牲,とりわけ贖罪の日の犠牲は,「きたるべき良い事がらの影」にすぎませんでした。(ヘブライ 10:1-4; 8:5,6; 9:9,10)予示されていた実体は,わたしたちのすべての罪を余すところなく贖い得るキリストの贖いの犠牲でした。パウロはこのことに触れ,次のように書いています。

      「キリストは,すでに実現した良い事柄の大祭司として到来した時……やぎや若い雄牛の血ではなく,ご自身の血を携え,ただ一度かぎり聖なる所[天そのもの]に入り,わたしたちのために永遠の救出を得てくださったのです。…やぎや雄牛の血……が,肉の清さという点で聖化をもたらすのであれば,まして,永遠の霊により,きずのないすがたで自分を神にささげたキリストの血は,わたしたちの良心を死んだ業から清め,生ける神に神聖な奉仕をささげられるようにしてくださらないでしょうか。こうして彼は新しい契約の仲介者なのです。それは,以前の契約下での違反から贖いによって釈放するための死が遂げられたことに基づいて,召された者たちが永遠の相続財産の約束を受けることを目的としています。……血が注ぎ出されないなら,ゆるしはなされないのです」― ヘブライ 9:11-15,22。

      15 血に対する神の見方は,永遠の生命に対するわたしたちの希望とどのように関係していますか。

      15 この説明は,命を象徴するという,血に対する神の見方を持つことの非常に大切な理由を一層十分に理解する助けにならないでしょうか。聖書の中心的主題の一つは,イエスがご自分の命を贖いの犠牲として与えるために地に来られた,ということです。その贖いによってのみ,わたしたちは罪の許しを得る見込みと「永遠の命」の希望を持つことができるのです。(マタイ 20:28。ローマ 3:23,24; 6:22,23。テモテ第一 1:15,16)それらの祝福を得るには,イエスの犠牲に信仰を働かさなければなりません。これには,イエスがご自分の血によって象徴されるご自分の命を断念されたことについて正確な知識を得ることと,それに対して感謝することとが含まれます。―テモテ第一 2:3,4。ガラテア 3:22。

      16,17 一部の聖書翻訳者たちは,血のことを述べている節をどのように変えましたか。(ローマ 5:9。コロサイ 1:20)

      16 では犠牲,贖罪,血,そしてイエスの贖いに関するこれらの点を背景にして,もう一度エフェソス 1章7節に注意を向けてみましょう。この節のほとんどの英語訳は,「わたしたちは」キリストの「血を通してなされた贖いによる釈放を得ている」となっています。ところが幾つかの現代訳はこれを「キリストの死」に代えています。このことは大きな相違をきたすでしょうか。

      17 原語のギリシャ語では,エフェソス 1章7節に「血」を意味する「ハイマ」という語が使われています。ではなぜ幾つかの翻訳はこの語をここや他の箇所で「死」と訳しているのでしょうか。それらの翻訳者たちは,「血」のことを述べているある聖句の中では,死もしくはある人間を殺害した責任を暗示するものと解釈しました。(ルカ 11:50,51。使徒 5:28。啓示 6:10)一例をあげると,ピラトはイエスの処刑を叫び求めるユダヤ人たちの前で手を洗って見せ,それから「わたしはこの人の血について潔白である」と宣言しました。ユダヤ人は,「彼の血はわたしたちとわたしたちの子どもとにふりかかってもよい」と答えました。(マタイ 27:24,25。啓示 7:14と比較してください)しかし幾つかの翻訳はこれらの節を,「わたしはこの人の死に対して責任がない」,そして「彼の死に対する罰はわたしたちとわたしたちの子供の上にふりかかればよい」と変えて訳出しています。(現代英語新約聖書)イエスの犠牲が関係している節の中で「死」が「血」に取って代わると,どんな影響があるでしょうか。神がわたしたちに伝えようとされた何かが伝わらないことにでもなるのでしょうか。

      18 キリストの死はどうして重要ですか。(コリント第一 11:26。ヘブライ 2:14)

      18 聖書がイエスの死を強調していることは否定できません。パウロはこう書いています。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」。また「キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです」とも書いています。(ローマ 5:8。コリント第一 15:3)イエスが死なれ,ご自身の完全な人間の命を進んでお与えになったことは,アダムが失ったためにわたしたちが持てなくなったものを返済すなわち清算しました。アダムがそれを失ったことからわたしたちは罪深い状態になりました。

      19,20 キリストの血への言及には,イエスの死だけを論ずる以上のどんな事柄が含まれていますか。(ヘブライ 4:14-16)

      19 しかし,「キリストの血」に対する聖書の言及は,キリストの死だけを語るのでは理解できないであろう重要な事柄をわたしたちに伝えるはずです。(エフェソス 2:13)キリストはただ死んでそのままの状態にとどまったのではありません。またとどまることはできませんでした。b エホバがもうけられた贖罪の日の型の成就として,そのときイエスは天に入り,神のみ前に出なければなりませんでした。ちょうど贖罪の日に大祭司が犠牲の血を携えて至聖所に入ったと同じように,キリストはそこでご自身の命の血の価値もしくは功績を差し出すことができました。パウロはこの相似をはっきりと述べています。「キリストは,実体の写しである,手で作った聖なる所にではなく,天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです」― ヘブライ 9:24,11,12; 13:11。

      20 そのうえにイエス・キリストは天で生きておられ,ご自身の贖いに信仰を働かす者すべてのためにとりなしをし,彼らが救いに向かうよう助けることができます。したがってパウロは次のように書きました。「わたしたちが敵であった時にみ子を通して和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです」― ローマ 5:10。

      21,22 「キリストの血」という表現には,わたしたちの命がどのように関係していますか。

      21 ですから,「歴史の中の宗教と現在における宗教」という著書は,十分の理由があって,次のように述べているのです。ほとんどの場合,「死をもってキリストの血に代えることはできない。キリストの血には死以上の意味がある。それはイエスの死と,復活し高められたことにおけるイエスの命および勝利との間の密接な関連を強調するものである」。同書はさらにこうつけ加えています。「キリストの血」という表現は

      「旧約聖書のユダヤ人が有した,血の贖罪力の概念を採用している。この概念は,犠牲に対する見方,また義人の死は贖う力を持つという考えの基礎をなす。……この語は一方では,われわれが高い代価によって買われたこと,その贖い代を払った者のこと,そしてそれが何であったかをわれわれに思い起こさせる。他方では,彼の血を介して結ばれた契約に対する信仰により,罪と死から永遠に解放されている,ということを思い起こさせる。キリストの血は彼の死および復活の影響を包含する」。c

      22 ですから,イエスの血について述べている聖書の多くの章句はわたしたちにとってなんと意義深く,なんと喜ばしい意味に満ちているのでしょう。イエスの血によってわたしたちの罪は許されるのです。(啓示 1:5。ヘブライ 10:29)むなしい行状から救い出されることは可能なのです。(ペテロ第一 1:18,19)わたしたちは,神が是認し導いておられる人々の会衆の中にいることができるのです。(使徒 20:28)そしてその血で買い取った人々を結合させる王国の支配下で完全になり,永遠の命を得る希望があるのです。―啓示 5:9,10; 12:10,11。コロサイ 1:20。

      23 血に対するわたしたちの見方は,どんなものでなければなりませんか。

      23 ですから自分の命の価値を高く評価する人はみな,神が血について言われることを感謝する必要があります。神は血を神聖なものと見ておられます。神は血の唯一の有用な用途を定め,祭壇の上に置く犠牲として受け入れ得るものとされました。そして神は,将来に対するわたしたちの永続的希望がすべて,み子の犠牲の血にかかっていることを,み言葉の中で明確に示しておられます。しかし,わたしたちはどうすれば血の神聖さを理解し認めていることを個人的に示すことができますか。これは次の記事で取り上げられる重要な問題です。

  • 命と血に関する固い決意
    ものみの塔 1978 | 9月15日
    • 命と血に関する固い決意

      1,2 血に関する質問は,時々どのようにして表面に出ますか。

      「判事,輸血を許可」。アメリカのバージニア州で最近ある新聞にこのような見出しが載りました。その記事は次のように書き出されていました。

      「連邦裁判所判事は木曜日,ポーツマス海軍病院に対し,命を危険にさらすことは覚悟のうえと申し立てて四日にわたり輸血を拒んでいた重病の婦人に,輸血を施すことを許可した……」。

      2 この種の記事は時々現われて,命と血の価値に多くの注意を向けます。前述の件がどんな結果になったかを調べる前に,次の基本的な質問を考えてみることにしましょう。どんな強い信念からこの婦人のような人々は輸血を拒否するのでしょうか。神の言葉は本当にこれをすべてのクリスチャンに要求しているのでしょうか。もし要求しているとすれば,医師から輸血が必要だと言われた場合に,わたしたちの宗教的信念はどれほど固いものでしょうか。また,医療における血の使用以外にも,わたしたちの命と血に対する見方が重要なかかわりを持ち,それがわたしたちの将来にさえ影響を及ぼし得る面がまだあるのでしょうか。

      血から来る命

      3 啓示 7章14節に基づくどんな理由から,わたしたちは血を大いに尊重しますか。

      3 啓示の書は,今日多数の人が抱いている血に対する感謝について説明しています。使徒ヨハネは,将来メシア王国の相続者となる14万4,000人の幻を見たのち,『すべての国民の中から来た大群衆』を見ました。彼らは,回復される地上のパラダイスで永遠に生きる見込みのある人々です。それにしても人間はどのようにして永遠に,しかも罪と不完全さのない状態で生きることができるのでしょうか。その「大群衆」は感謝をこめて叫びます。「救いは……わたしたちの神と,子羊[イエス・キリスト]とによります」。彼らは次のことを認めています。すなわちこの救いは彼らが「自分の長い衣を子羊[イエス]の血で洗って白くした」という理由によってのみ可能なのだということです。―啓示 7:9,10,14。

      4,5 (イ)命と血についての正しい態度にはどうして信ずること以上のものが関係していますか。(ロ)聖書はそのことをどのように証明していますか。

      4 前の記事の中で指摘されているように,神は聖書の巻頭の書から,人間が永遠の命を得られるようイエスが犠牲の血を流されるということを指し示されました。(創世 3:15; 22:2-10。イザヤ 53:10-12)その犠牲がまだ将来のことであった時に,エホバはご自分の崇拝者たちが命と血を神聖視すべきことを明らかにされました。しかし,エホバはまた彼らがその神聖な見方と調和した行動をすることも要求されました。動物の肉を食べることを初めて許した時に神がノアとその家族に言われたことの中には,行為が含まれていなかったでしょうか。神はこう言われました。「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれをすべてあなた方に与える。ただし,その魂すなわちその血を伴う肉は食べてはならない」。(創世 9:3,4,新)したがって,食べるために動物を殺したなら,血を食べないように,その動物の血を抜く慎重な手段を講じなければなりませんでした。

      5 これは単なる食物の規定でも,無意味な宗教儀式でもありませんでした。その行為には極めて重要な道徳上の原則が関係していました。血は神から与えられた命を象徴しました。そして,神がさらに言葉をつづけて,食べるために動物を殺すことはできるけれども,人を殺すことはできない,と言われたのは注目に値します。ですから,命を象徴する動物の血が神聖視され,命を支える目的でそれを摂取してはいけないことになっていたのであれば,まして人間の命と血は一層神聖なものとして見また扱わねばならなかったことが明らかです。―マタイ 6:26と比較してください。

      6,7 (イ)創世記 9章3,4節はだれにあてはまりますか。(ロ)律法契約は創世記 9章にある要求をどのように支持しましたか。

      6 ノアはすべての人間の先祖でしたから,命と血の神聖さに調和した行動を取ることは,すべての人間に期待されています。多数の聖書学者はこの関係に気づいています。次に掲げるのはその一例です。

      「血は命の座と認められている。ゆえに神聖なものである。……血の禁止はモーセ律の食物の規定の一つとなったが,これはノアとのこの契約の条項に含まれているために,後代のユダヤ人はこれを全人類が履行すべき契約と考えた」―「聖書に関する新しいカトリック注釈書」,187頁。

      7 この注釈書が指摘しているとおり,後日イスラエルのために法典をもうけられたとき,神は彼らが血を摂取することを同様に禁止されました。神は次のようにお命じになりました。「ただ血を食べることのないように堅く思い定めていなさい。血は魂であり,魂を肉と共に食べてはならないからです。それを……地面に注ぎ出すべきです」。(申命 12:23,24,新。レビ 17:10,13)そのとき神は残りの人類に対しては,偶像崇拝を禁ずる律法を施行されなかったのと同じく,血の摂取を禁ずる律法も施行されませんでした。(使徒 17:30,31; 14:16)したがって異教徒は,血を含む肉を買い,またそれを食べることを好んだかもしれません。(申命 14:21)しかし創造者を崇拝する者はそれをすることができませんでした。事実,もしあるイスラエル人が,血の抜かれていないことにその時は明らかに気づかずに,血の含まれている肉を実際に食べたなら,その人は無意識に犯したその罪を清める処置を講じなければなりませんでした。―レビ 17:15,16。

      8 禁じられたのは動物の血でしたか,それとも人間の血でしたか。(サムエル後 23:14-17)

      8 もし命を象徴する動物の血を滋養物として摂取すべきでなかったのであれば,人間の血はなおのことそうすべきではなかったでしょう。このことは,イエスがあるときひゆとして,ご自分の肉を食べ血を飲むことについて話されたときに生じたことから,容易に理解できます。ユダヤ人の弟子の中には,イエスが象徴を用いていたにすぎないことを悟らないでショックを受け,イエスから離れて行った者たちがいました。(ヨハネ 6:60-66)動物の血にせよ人間の血にせよ,血を摂取することは,神の見方を気にかけていた人々にとっては忌むべきことでした。

      クリスチャンに要求されていること

      9 これがクリスチャンにも適用するということは,どのようにして示せましたか。

      9 しかしあなたは,聖書が課している血に関する禁止令はクリスチャンには適用しない,という主張を耳にしたことがあるかもしれません。何が事実なのでしょうか。この問題は西暦49年,エルサレムで開かれた使徒および他のクリスチャンの長老たちの会議のときに決定されました。神の聖霊の確かな導きの下に同会議は,モーセの律法をクリスチャンは守らなくてもよい,との結論を下しました。しかし,イスラエルに法典が与えられる以前でも悪い事とされていたのはどんな事柄でしたか。会議はクリスチャン会衆に次のように書き送りました。

      「聖霊とわたしたちとは,次の必要な事がらのほかは,あなたがたにそのうえなんの重荷も加えないことがよいと認めたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と[中に血が残るように]絞め殺されたものと淫行から身を避けていることです」― 使徒 15:19,20,28,29。

      10-12 使徒 15章28,29節が,一時だけ守るものでなかったことは,どんな証拠からわかりますか。

      10 エドワルド・マイヤー教授は,「キリスト教の起源と初期」a の中で,使徒 15章29節の中の「血」の意味は,「ノアに課せられた,したがって人類全体に課せられたおきて(創世 9:4)により禁止されていた血を食べることである」と述べました。そして多くの僧職者たちが,使徒 15章28,29節にある要求はユダヤ人を怒らせないための一時的な手段にすぎなかったと言うにもかかわらず,マイヤー教授は,125年以上たった後でも,クリスチャンたちは『一般に,血を食べることを禁ずるおきてを守っていた』と報告しています。その証拠として教授は,西暦177年に起きたことを挙げています。宗教上の敵はそのとき,幼子を食べたと言ってヨーロッパのクリスチャンたちを非難しました。それに対しある若い婦人は「どうしてわたしたちが幼児など食べましょう,獣の血を食べることさえ許されていないこのわたしたちが」と答えました。

      11 第二,第三世紀の多くの著書は,その時代のクリスチャンたちが,その禁令は過去のものではなく,自分たちに適用するものであることに気づいていたことを証明しています。事実,「ジョセフ・ビンガム師の著作」は次の点を指摘しています。

      「使徒たちが異邦人の改宗者たちに与えた規則に従って血を食べないことは,聖アウグスチヌスの時代近くまでカトリック教会の習慣であった。したがって昔のほとんどの教会法は,違背すれば降職[役職を剥奪]という条件で,血を避けることをすべての僧職者に要求した」。

      ではどうして今日のキリスト教会はこの「規則」を守っていないのでしょうか。マルティン・ルターの言葉はこれに対する答えを指し示しています。ルターは個人的にはすべての会議を認めない傾向にありましたが,使徒 15章については次のように言いました。

      「さて,この会議(最初の最も重要なもの,使徒たち自ら開いたゆえに正当なものとみなして)にかなう教会を持つとすれば,我々は,以後,君主も領主も市民も農民も,血で調理したガチョウ,シカ,羊,豚肉などを食べないように教え,かつこれを強調しなければならない。……[また]赤いソーセージおよび血入りソーセージを特に避けねばならない。……では,キリスト教世界をこの会議に従わせることを望む,あるいはそれをなし得る士は,それを開始されよ。そうすればわたしは喜んで従うであろう」。

      使徒 15章28,29節にある決定事項に従うことはむずかしく,またそれを無視することがごく普通になっていたので,全部の教会員にそれを守るよう要求することは不可能であろう,とルターは感じていました。ですから彼自身も守るつもりはありませんでした。

      12 マルティン・ルターや同時代の多くの人々は神のおきてに従おうとしなかったかもしれません。また今日のキリスト教世界の人々もほとんどがそれに従う気持ちがないかもしれません。しかし,エホバのクリスチャン証人はそうではありません。

      医学界における血

      13,14 (イ)聖書の禁令には,人間の血の輸血も含まれていることをある人が理解するように助けるには,どうすることができますか。(ロ)輸血を拒否することはなぜ聖書中に記録されている例と調和しますか。

      13 最初に検討したとおり,医療の分野は,血に関する神のおきてに従順であることが時々問題になる一つの分野です。毎年おびただしい輸血が行なわれていますが,多くの人はこれを必要なもの,現代医術の,命を救う重要な部分と考えています。しかし,真のクリスチャンは,現在支配的になっている,医療に関する人々の見方に従って自分の考えや行動を決めるのではなく,神が命じておられること,すなわち『血を避けているように』との命令を第一に心に銘記しておく必要があります。

      14 聖書が書かれたとき,輸血というものが行なわれていなかったことは事実です。しかし,神の言葉が述べていることには確かに輸血をすることも含まれます。アレルギー反応を起こす患者にある抗生物質を与えることを禁ずる医師は,患者がそれを経口的に服用することを許さないばかりか,注射によってそれを取り入れることも禁じます。同様に,『血を避けているように』という神の命令は,注射によって静脈に取り入れることだけでなく,口から摂取することも禁じています。さらに聖書は,命が危ない緊急な時でも,神のおきてを無視してはならないことを明示しています。(サムエル前 14:31-35)神に是認された多くの神のしもべたちは,聖書の原則を破りエホバへの忠誠を投げうつよりも,むしろ危険に,いや死に直面することさえ辞しませんでした。(ダニエル 3:8-18。ヘブライ 11:35-38)彼らは命を回復する神の力に全き確信を抱き,またイエス・キリストの次の言葉を信じていました。「わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生きかえるのです」― ヨハネ 11:25; 5:28,29。

      15 輸血を断わることはなぜ医学的にも不条理ではないと言えますか。

      15 血を断わってそれに代わる治療を頼むことに医学上の利点があると知れば,多くの人は驚くことでしょう。それは,輸血に多くの様々な危険の伴う証拠が増えているからです。b 例えば,ある婦人から来た手紙に対する医師の返事に注意してみましょう。その婦人は直視下心臓内手術を受けた後,毎年多くの人を死に追いやっている病気,つまり肝炎を併発しました。新聞の医学欄寄稿家ロバート・メンデルソン博士は,それは別に驚くべきことではないと述べ,次のようにつけ加えました。

      「幾つかの大きな医療センターで,代用血液を用いる直視下心臓内手術が相当数行なわれているが,人血の輸血を拒否するエホバの証人の患者たちに良い結果が現われている。……輸血がいりそうな手術を必要としている人はみな,自分の外科医に,こうした科学記事に詳しいかどうか尋ねてみるべきかもしれない。そうすれば,現在のところエホバの証人だけが享受している,輸血後の肝炎罹病率の低下や他の利点をわたしたちもみな同じように享受できるかもしれない」― 1978年2月15日付アイダホ・ステーツマン,8頁C。

      16 血を使わずに外科手術を行なうことについて,経験は何を示していますか。

      16 直視下心臓内手術は,勇敢な医師たちが輸血なしで可能なことを発見した多くの手術の一つにすぎません。例えば最初に取り上げた,かいようからの出血で腹部の手術を必要としていた52歳のエホバの証人の場合を思い出してください。血球計算が4にまで下がって危険な状態になったとき,連邦裁判所判事は輸血を許可しました。しかしその病人の夫は,患者の願いを尊重することを方針とする病院に妻を移しました。どんな結果になりましたか。後日新聞は,「輸血を拒否した夫妻に信仰の勝利」という見出しを掲げました。彼女は回復したのです!

      17 輸血のどんな道徳的面を考慮すべきですか。

      17 多くの考え深い医師たちはまた,患者にも特定の治療を受けるかどうかを決定する権利があると結論して,この問題の道徳的な面を理解するようになってきています。D・ゴールドスタイン博士は次のように書いています。「自分の推薦する治療法が命を救うための唯一の方法であるといかに確信していても,患者の宗教的倫理観を踏みにじる道徳上の権利を持つ医師は一人もない」。ガンにかかったエホバの証人の子供たちの治療にあたった幾人かの医師は次のように説明しました。

      「われわれは,輸血をしない治療だけにしてほしいという彼らの要請をいれることに決定したが,それは二つの要素に基づいていた。第一は,その子供たちがそれぞれ致命的性質の病気にかかっていて,重大な疑問を抱かずに良い結果を予告することができなかったということである。第二は,命を脅やかすような病気の時には,両親の不動の信仰の必要が大きくなることを認めたからである」―「小児科」,1977年12月号,919頁。

      18 輸血に関連して信仰はどのように関係してきますか。

      18 真のクリスチャンが有する信仰,そしてそれに一致して生きることを堅く決意している信仰は,キリストの血が持つ救う力に対する信仰と関係があります。(ローマ 3:25。ヘブライ 13:12。ヨハネ第一 5:5,6)彼らに永遠の命を得させ得る血は,ほかには絶対にありません。(ヘブライ 10:29-31)したがって彼らの永遠の運命は,エホバに対する彼らの忠実さと結びついています。これには,神が血について言われることに従順であることも含まれます。

      血に関する罪を犯さないように努める

      19 クリスチャンは血の罪に対してどんな態度を取るべきですか。(詩 26:9; 55:23)

      19 医療に関してであろうと他の面においてであろうと,クリスチャンが血に関する神のおきてを踏み越えないように努力するのは全く正しいことです。そのおきてを犯すなら,神のみ前に罪ある者となります。ダビデ王はわたしたちが大切にすべき態度を示しました。彼は,「わたしを血の罪から救い出してください,ああ神,わたしの救いの神よ」と祈りました。―詩 51:14,新。

      20 血の罪を招く可能性のある事柄にはどんなものがありますか。

      20 多くの人は,血の罪を計画的な殺人という点からだけ考えます。確かに神はそのような流血行為を嫌悪する態度をはっきり示しておられます。(詩 5:6。箴 6:16,17)しかし聖書は,意識せずにだれかを死なせることになった場合でも,命は神聖なものであるためにある程度血の罪を負う結果になり得ることを示しています。(申命 22:8。民数 35:15-33。出エジプト 21:29)わたしたちは命と血を大いに尊重していることを,日常行なう物事において個人的に示しているでしょうか。もしそのように尊重しているのであれば,例えば,車を運転するときには適度の速度で注意深く走り,安全規則を守り,そして車をいつも安全に走れる状態にしておくはずです。同様に家庭や職場においても,自分や他の人々に致命的事故が起こる可能性を最小限にするよう,適度の注意を払うべきです。これがあなたの見方ですか。

      21 今日人はどのようにして間接的に血の罪を負うことがありますか。そのために自分をどのように調べてみなければなりませんか。

      21 血の罪を避けることのもう一つの面は,神の目に血の罪を犯している組織ないしは機関と関係があります。例えば,神ははっきりと,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンに,真の崇拝者たちの血を流した罪を問うておられます。(啓示 17:6; 18:24; 19:2)彼女はまた,大量の血を流す政治機関や軍事機関を幾世紀にもわたり是認してきました。血の罪から自由になりたいという誠実な願いは,神からそのような不利な判決を下される今日の組織から離れること,そしてそれを支持しないように注意することを要求します。わたしたちはこのことを,自分の生活のあらゆる面に反映させているでしょうか。

      22,23 (イ)血の罪のどんな他の面に考慮を払うべきですか。(使徒 18:6)(ロ)では命と血についてわたしたちは何を決意すべきですか。

      22 さらにわたしたちは,王国の音信を熱心にそして活発に宣べ伝えることによって,血の罪から自由であろうとする決意を同じように示すことができます。(マルコ 13:10)このことに関連して,西暦前607年のエルサレムの陥落前に預言者エゼキエルに与えられた神の助言を考えてみましょう。エゼキエルは神から,もし見守る者としての彼が警告の音信をふれ伝えることをしなかったなら,滅びたイスラエル人の血に対する責任を問う,と言われました。(エゼキエル 3:17-21; 33:2-16)しかし,来たらんとするこの邪悪な体制の終わりと,それにつづくパラダイスについての真理を広めるという,クリスチャンとしてのわたしたちの責任を果たすことには,なんと大きな満足があるのでしょう! これを行なう人は,使徒パウロと同じような感慨をおぼえます。彼はクリスチャンの長老たちに次のように告げました。「わたし(は)すべての人の血について潔白である……わたしは何一つ差し控えることなく,神のみ旨をことごとくあなたがたに伝えたからです」。(使徒 20:26,27)なんという大きな特権でしょう! わたしたちは自分自身血の罪を避ける一方,他の人々もキリストの血に信仰を働かせることによって永遠の命を得るように助けることができるのです。

      23 そういうわけで,ほとんどの人は神が言っておられることに気づかないで,血のことを,人間の命を一時的に支えるだけのものとみなしているかもしれませんが,真のクリスチャンはそうではありません。わたしたちは神の言葉に基づいて,命と血に関するエホバの見方を理解します。その見方を支持し,それに一致して生きることを,わたしたちの決意としましょう。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする