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キリストの死を記念する ― あとどれほど続くかものみの塔 1978 | 3月1日
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歴代下 13:5,8。ルカ 1:31-33; 22:29,30)この事は,福音書の筆者ルカが記す,西暦33年の過ぎ越しの記録の中で非常に目立った点となっています。その中に次のように書かれています。
「ようやくその時刻が来たとき,イエスは食卓について横になり,使徒たちもともに食卓についた。そしてイエスは彼らに言われた,『わたしは,苦しみを受ける前にあなたがたといっしょにこの過ぎ越しの食事をすることをせつに望んできました。あなたがたに言いますが,それが神の王国で成就するまで,わたしは再びそれを食べないのです』。それから杯を受け取り,感謝をささげてからこう言われた。『これを取り,あなたがたの間で順に回しなさい。あなたがたに言いますが,今からのち,神の王国が到来するまで,わたしはぶどうの木の産物をもう飲まないのです』。
「また,イエスはパンを取り,感謝をささげてそれを割き,それを彼らに与えて,こう言われた。『これは,あなたがたのために与えられるわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい』。また,晩さんがすんでから,杯をも同じようにして,こう言われた。『この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなたがたのために注ぎ出されるものです』」― ルカ 22:14-20。a
この記録によると,イエスの用いた,ぶどう酒の入った二つの杯は,西暦一世紀当時,過ぎ越しにあずかった人すべてが伝統に従って飲んだ,ぶどう酒の入った四つの杯のうちの最後の二つでした。ですからそれらは三番目と四番目の杯でした。祝いをした人たちが三番目の杯を飲んだのは,過ぎ越しの羊とパン種を入れないパンを食べて後のことでした。それは「祝福の杯」と呼ばれました。なぜなら,その杯の上に祝福が宣せられたからです。(コリント第一 10:16)イエスはその杯を使徒たちと分かち合う前に,その杯に対して神に「感謝をささげ」ました。こうしてイエスは,当時受け入れられていた習慣に従って過ぎ越しを祝う点で率先されました。イエスはその祝いに新しいものを導入することによってそうした習慣を変更したり,妨げたりはされませんでした。こうしてイエスは,生来のユダヤ人として律法を守られたのです。
しかし,モーセの律法に従って過ぎ越しの食事が執り行なわれた後,イエスはその同じ過ぎ越しの日に近づきつつあったご自分の死を記念するために,新しい晩さんを自由に紹介することができました。食卓には,まだ,パン種を入れないパンと四番目の杯がありました。その杯を飲んだ後に,詩篇 115篇から118篇の賛美歌が歌われました。ですからそれは「賛美の杯」でした。―1921年3月15日号の「ものみの塔」誌,88,89ページ,「賛美の杯」の副見出しの項,「メイヤーズによるマタイ福音書の批評と注釈手引き」,45,46ページ,27節の項,そして「ユダヤ百科事典」の「過ぎ越し」,「過ぎ越しの儀式的正さん」および,「アーバ・コソス(四つの杯)」の項をご覧ください。
使徒マタイは,その過ぎ越しの夜イエスと共にいました。そして彼の記録は,「祝福の杯」を飲み終わったところからこう続けています。
「彼らがなお食べていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。『取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています』。また杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。『あなたがたはみなそれから飲みなさい。これはわたしの「契約の血」を表わしており,それは,罪のゆるしのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。しかしあなたがたに言いますが,わたしの父の王国であなたがたとともにそれの新しいものを飲むその日まで,わたしは今後決してぶどうの木のこの産物を飲みません』。最後に,賛美[賛美歌の詩篇 115–118篇]を歌ってから,彼らはオリーブ山に出て行った」― マタイ 26:26-30。
忠実な使徒たちが四番目の杯,つまり「晩さん後の杯」(フェラール・フェントン訳)を飲んだ際,イエスの言葉によると,彼らは血,つまりイエスの血を象徴的に飲んでいたのです。(ルカ 22:20,フェラール・フェントン訳)モーセの律法契約下のユダヤ人であったにもかかわらず,この考えはそれら使徒たちに嫌悪を催させるものとはなりませんでした。(詩 16:4)イエスは,それよりも以前に,使徒たちに語った事柄によって,このことに対する心構えを彼らにさせておられたのです。それは西暦32年の過ぎ越しの少し前のことで,わずかなパンと魚を奇跡的に増やして大勢の聴衆に食べさせた翌日のことでした。(ヨハネ 6:4)使徒ヨハネはこうわたしたちに告げています。
「それに答えてイエスは彼らに言われた,『……わたしは天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら,その者は永久に生きます。そして,ほんとうのことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです』。
「そのため,ユダヤ人たちは,『どうしてこの人は,自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができるのか』と言って互いに争いはじめた。そこでイエスは彼らに言われた,『きわめて真実にあなたがたに言いますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まないかぎり,あなたがたは自分のうちに命を持てません。わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその者を終わりの日に復活させるでしょう。わたしの肉は真の食物であり,わたしの血は真の飲み物なのです。……生ける父がわたしをお遣わしになり,わたしが父によって生きているのと同じように,わたしを食する者,その者もまたわたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。それは,あなたがたの父祖が食べてもなお死んだようなものではありません。このパンを食する者は永久に生きるのです』。……
「その結果,彼の弟子のうち大ぜいの者は,これを聞いたさいに,『この話はひどい。だれがこれを聴いていられようか』と言った。……
「このために,弟子のうち多くの者が後ろのものに戻って行き,もはや彼とともに歩もうとはしなかった」。
しかし使徒ペテロはイエスに付き従い,こう言いました。「あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。そしてわたしたちは,あなたが神の聖なるかたであることを信じかつ知るようになったのです」― ヨハネ 6:43-69。
この時イエスは,ご自分の千年王国の支配下における楽園の地での人間としての「永遠の命」について,それら割礼を受けたイスラエル人に話しておられたのではありません。むしろイエスは,その「永遠の命のことば」によって,使徒ペテロと仲間の使徒たちの前に差し伸べていたと同じ機会について話しておられたのです。それは天で,キリストと共になって固有のつまり『自分のうちの命』を得る機会でした。(ヨハネ 6:53)天でキリストと共に支配することにより,彼らはその犠牲bの命を与える益を人類に伝えることができるのです。
それらのユダヤ人は,「[彼]を王にするためとらえ」て,ダビデの王座に座らせたいと思っていました。(ヨハネ 6:15,61,62)それらユダヤ人たちは,モーセを仲介者とする律法契約の下にありました。その律法契約はユダヤ人をキリストに導き,そのようにして彼とともに「祭司たちの王国」となる機会を彼らに与えるよう意図されていました。―出エジプト 19:5,6,新。ガラテア 3:24,25。
そのわけで,ヨハネ 6章52節から65節に記録されている論議の中で,イエスは,その千年支配の際,象徴的にご自分の血を飲み,またご自分の肉を食べる者たちとして人類の世界について話しておられたのではありません。イエスは新しい契約に導き入れようとしていた信者たちについて話しておられたのです。(エレミヤ 31:31-34。啓示 20:4-6)それらの者は霊的イスラエル人になるはずでした。そのわけで,イエスが「主の晩さん」を制定された際,ご自分のイスラエル人の使徒たちにこう言われました。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなたがたのために注ぎ出されるものです」。(ルカ 22:20。コリント第一 11:20,25)あるいは,マタイ 26章27,28節にはこう書かれています。「あなたがたはみなそれから飲みなさい。これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪のゆるしのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです」。西暦33年のあの過ぎ越しの晩に,イエスの手からパン種の入っていないパンとぶどう酒の杯を受け取った11人の忠実な使徒たちは,過ぎ越しから52日目のペンテコステの日に新しい契約に入れられました。
記念式と王国
「祭司たちの王国」という見込みを持つ,古い律法契約は少数の残りの者だけをキリストに導く守り役としての役割を果たしました。イスラエルの多くのユダヤ人は召され,つまり招かれましたが,少数の者のみが選ばれました。(マタイ 22:1-14。ローマ 9:27-29; 11:5)しかし,新しい契約は,ペテロが「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民」と呼んでいるものを生み出しました。―ペテロ第一 2:9。
こうした事実ゆえに,イエス・キリストはご自分との王国のための契約に彼らを導き入れることができるのです。(ルカ 22:28-30。啓示 20:4-6)当然のことながら,「天のエルサレム」は,律法契約下にあった地上の「エルサレム」より一層喜ぶことができます。それはなぜですか。なぜなら,その『夫』のために霊的な子たちを産み出す神の「女」,つまり天の「母」は,王国の相続者の見込みを持つ残りの者だけではなく,14万4,000人の,キリストの共同相続者すべてを産み出すからです。―ガラテア 4:21-31。イザヤ 54:1。
神の霊的な子たち,つまり,新しい契約の下にある霊的イスラエル人は,イエスの死を記念して主の晩さんにあずかる義務のある者たちです。使徒パウロはこれら霊的イスラエル人を,彼の言う「肉的な面でのイスラエル」と比較しています。神への犠牲がささげられた物質の祭壇は「エホバの食卓」と呼ばれました。イスラエル人が神にささげた親交の犠牲の一部を食べたとき,彼らは神と共にあずかる者となりました。神は祭壇によって表わされていたからです。(マラキ 1:7,8)同様に,主の晩さんのために置かれるパン種を入れないパンとぶどう酒の杯の載せられた食卓は,「エホバの食卓」と呼ぶことができます。それら記念式の表象物にあずかる霊的イスラエル人は,そのようにして神と親交を持っていることになります。彼らは神,それに互い同士と共にあずかる者となるのです。―コリント第一 10:18-21; 11:25。
ですから記念式において,「契約の血」を象徴するぶどう酒の杯は,「エホバの杯」とも言われています。この杯から飲むとき,霊的イスラエル人は新しい契約を有効にするキリストの血に関してエホバと共にあずかる者となります。こうした行為により,霊的イスラエル人は自分たちの神としてエホバを崇拝し,いかなる悪霊をも神として偶像視しないことを表わします。エホバは,新しい契約を有効にするものとしてキリストの血を受け入れられます。同様に,記念式の杯を飲む者は,その契約を通して自分たちの罪が神によって許されるよう,犠牲として注ぎ出された命であるキリストの血を受け入れるのです。
記念式の杯はキリストにとって,その血を注ぎ出すことによる犠牲的な死を象徴しましたが,それでもイエスはその杯に対してエホバに感謝をささげました。さらに,イエスの弟子たちがこのぶどう酒の杯を飲んでから,イエスと弟子たちは,賛美歌,すなわち詩篇 115篇から118篇を歌いました。(マタイ 26:27-30)ですから記念式を行なう際,新しい契約に入っている人たちは,この杯の上に祝福を述べます。イエスがその杯を祝福されたので,それは「祝福の杯」なのです。こう書かれています。
「わたしたちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血を分け持つことではありませんか。わたしたちが割くパン,それはキリストの体を分け持つことではありませんか。パンは一つですから,わたしたちも,たとえ大ぜいいるにしても,一つの体なのです。わたしたちはみな,その一つのパンにともにあずかっているからです」― コリント第一 10:16,17。
記念式で見守る者たち
キリストの霊的な「体」の成員である,霊的イスラエル人の残りの者は,今でも地上にいます。近年,それら残りの者たちは,年一度の記念式に,証人つまり見守る者として出席するよう他の人たちを招待してきました。これら献身している羊のような人たちは,イスラエルのエヒウ王の友ヨナダブによって予表されていました。(列王下 10:15-23。エレミヤ 35:1-16)西暦1935年以来,りっぱな羊飼いであるイエス・キリストは,それら現代の「ヨナダブ」,つまり「ほかの羊」の「大群衆」を導き,その霊的な「体」の霊によって油そそがれた残りの者とともに交わるようにされました。しかしまず最初に,1938年2月15日号の「ものみの塔」誌(英文)の中で次のような招待が差し伸べられました。
「……4月15日午後6時以後,油そそがれた者のそれぞれの会は集合し,その仲間であるヨナダブも同席して記念式を行ないます。表象物はパン種を入れないパンと本物の赤いぶどう酒を用います」― 50ページ,「記念式」の項。
「小さな群れ」として同じ「囲い」のものではない,それら「ほかの羊」は,あずかる者としてではなく,見守る者として記念式に出席しました。―ヨハネ 10:16。ルカ 12:32。―1938年3月1日号の「ものみの塔」誌(英文)75ページをご覧ください。
その時以来,今では「大群衆」に増えている「ほかの羊」は,年一度のキリストの死の記念式に出席してきました。それは当然なことです。彼らはキリストの死を象徴する杯を飲みませんが,それでも啓示 7章14節は,彼らが「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」と述べています。また,啓示 7章9,10節は,彼らが自分たちの救いを,神と,子羊イエス・キリストに帰していることを示しています。
それで今年は,3月23日の日没後,献身してバプテスマを受けている「ほかの羊」すべては,1978年の主の晩さんを行なうため,「小さな群れ」の残りの者とともに集まります。栄光を受けた主イエスが,残りの者を,彼らの天の住みかに迎え入れられる時が近づいているので,「ほかの羊」の「大群衆」が記念式を祝う機会はそれほどないことでしょう。
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命を得させる授業ものみの塔 1978 | 3月1日
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命を得させる授業
● エクアドルの一女教師は,自分の学校の生徒200人余りとの聖書研究を定期的に司会しています。学期が始まる前に,その女教師は自分の考えていることを親たち全員に話し,異議があるかどうかを尋ねました。異議を唱えた人は一人もいませんでした。事実,子供たちが優れた道徳や習慣を教えられているのを見るのはうれしい,と語った親たちもいました。その学校には,二年生から六年生までの生徒がいるため,二年生から四年生までの子供たちには「偉大な教え手に聞き従う」と題する教科書が手渡され,五年生と六年生の生徒は,それより進んだ教科書「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」を受け取りました。研究は,普通のクラスの授業と同じようにグループで行なわれていますが,その授業は,家庭聖書研究と同じように,祈りをもって始められ祈りで閉じます。
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