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悲しい死別の後も耐え忍ぶものみの塔 1982 | 1月15日
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長年の経験から,他の人に過度に期待すべきでないことも学びました。クリスチャン兄弟たちがあまり訪問してくれないと感じたり,十分な注意を払ってくれていないと考えたりすることがあるかもしれません。でも,それらの兄弟たちが自分の家族を顧みたり会衆の様々な責任を担ったりする上で必要とする時間や精力をどうして自分が奪い取ってよいでしょうか。他の人に過度に期待しないなら,あまり失望しないですむことに気付くようになりました。私に示される親切と思いやりのこもった行ない一つ一つはそれだけ付け加えられたものであり,エホバに感謝すべき増し加わった理由となります。
もちろん,私が忍耐する上で役立った最も重要な事柄は,エホバに信頼を寄せ,祈りのうちに自分の問題すべてをエホバにゆだねることでした。
ヨハネスは,処刑されるわずか数時間前に私に宛ててしたためたその最後の手紙の中で,決して忘れることのできない次の言葉を書き送り,忍耐するよう私を励ましてくれました。「私たちは報いが欲しいゆえに神に忠実でありたいと思うのではありません。むしろそうするのは,神への奉仕において私たちが堅く立つことにより,最も厳しい試練の下でも,人間はヨブと同じく,忠節を保ち得るということを実証するためでありたいと思います」。
私が今知っていることをヨハネスがその当時知ることができたなら,ヨハネスはどれほど喜んだことでしょう。父親は死に至るまで忠実を保ち,ほぼ50年にわたってエホバに仕え,この私,「愛するリーシェン」は,処刑後41年たった今でも,忠実に忍耐しようと努めている幸福な人々の中にいるのですから。
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読者からの質問ものみの塔 1982 | 1月15日
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読者からの質問
● 自分では血を食べないものの,それを肥料や飼料に用いたり,他の仕方で用いたりすることを,クリスチャンはどう見るべきでしょうか。
この種の問題において,クリスチャンの考えや行動は血の神聖さに対する聖書に基づいた敬意を反映しているべきです。
神のお考えを知らなかったり考慮に入れなかったりする大勢の人は,人間の血液を輸血に用いることをよしとします。また土地によっては,人々がブラッドソーセージのように食物に動物の血を混ぜて食べるところもあります。血の誤用の例はこれだけではありません。と殺した動物の血で肥料を作ったり,それをドッグフードやキャットフードに加えたり,他の商品に加えたりして利益を得ようとする実業家もいます。
しかしクリスチャンは,血というものは,どんな方法で用いても構わない,どんな方法で利益を上げても構わない単なる応用生物学上の一産物ではないことを聖書から知っています。聖書は血が命を表わすことを示しています。ですから神は,ノアを通して人類に,人間は血を食べてはいけないとお告げになりました。(創世 9:3,4)後日,エホバ神はこの禁令をモーセの律法の一部とされました。(レビ 17:12。申命 12:23)律法が取り除かれた後も,神はクリスチャンに「血を避け」ねばならないと指示されました。それで,エホバの証人は血を食べることも輸血を受けることもしないのです。また,血の様々な商業的な利用をも是認しません。―使徒 15:19,20,28,29。
古代イスラエルでは,殺された動物の血はどのように処理されたか,という点を考慮してみれば,この見方がどうして適切かをより良く認識できるでしょう。
神はイスラエル人に,祭壇の上で犠牲をささげる際に血を用いることができる,と告げておられました。(レビ 17:11)そのような仕方で用いられるのでなければ,動物の血は地面に注ぎ出されることになっていました。こうしてある意味で,血は神に返されました。地は神の足台だからです。―レビ 17:13,14。イザヤ 66:1。
脂肪に関する神のお告げは,血の使用に対する神の制限をイスラエル人の心により深く銘記させました。モーセ
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