ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 私たちはあくまで自分たちの信念を守った
    目ざめよ! 1979 | 8月22日
    • もう少しで退院するという時になって,ブライアンの胃腸からは出血が始まりました。驚いた医師たちは,さらに診察して治療を施すために,ブライアンを病院にとどめました。私が病院に寝泊りする設備はなかったので,私は息子が寝ていることを必ず確かめてから,家路に着いたものです。看護婦さんたちは本当に立派な方々でした。ブライアンをとてもよく世話してくれたうえ,毎晩,私が家へ帰る前に息子を寝かしつけられるよう別の部屋へ連れて行くことさえ許してくれました。

      もう一つの悲劇

      7月19日の火曜日は,ごく普通の平日のように明けました。ブライアンはその時には家へ帰っており,ゲーリーは早目に仕事へ出掛けました。そして,午後四時,私に電話があり,声の主はこう切りだしました。「ゲーリーが事故に遭いました。でも,あわてないでください。ゲーリーは足を骨折しています。急いで救急室まで来られたほうが良いと思います」。

      私は,大きな自在ドアーを通って救急室へ入り,女性事務員に自分の名前を告げ,ゲーリーの容態を尋ねました。大きな叫び声が響き渡り,それがその後一度二度と続きました。私は気が動転しました。「今のは主人の声ですか」と尋ねると,「そうです」という返事です。

      「どれほどひどいのですか」と私は相手をせかせました。

      「かなりおひどいようです」と事務員は冷静です。私は夫が頭部にひどいすり傷を負い,内出血し,複雑骨折していることを知りました。

      主治医は,「輸血しなければなりません。さもないと,ご主人は死んでしまいます」と言いました。その言葉に私は一瞬ぼう然として,答えることができませんでした。それから,例のがっくりした気持ちになりました。狂乱状態に陥りそうになる気持ちと闘いながら,私は医師に,「輸血はだめです」と言います。医師は反論しますが,私はもう一度,「仕方がないのです。輸血はできません」と念を押します。すると医師は,肩をすくめ,向きを変えて,立ち去ろうとしました。

      「ゲーリーに会わせてもらえますか」と私は嘆願しました。

      「だめです」と医師。

      「先生,私は一人の娘を亡くし,息子も死にかけているんです。主人に会わせてもらっても大丈夫だと思います」と私が言い張ったので,医師はそれを許してくれました。

      ゲーリーは手術室の明るい照明の下で,手術台の上に横たわっていました。数秒の間,私は信じられない気持ちで,ぼう然と立ちつくし,ゲーリーを見つめていました。ゲーリーは下着一枚だけの姿で,あお向けに横たわっています。その左脚は二か所でぱっくりと口を開けています。一か所はひざの下,もう一か所はひざの上です。その顔はひどくはれあがり,汚れています。鼻柱のところに深い傷が見られます。きっと,舗装道路の路面に顔を打ち付けたとき,サングラスで肉がえぐり取られたのでしょう。そして,頭のてっぺんには深い,大きな傷口があり,頭蓋骨の下のピンク色をした組織の層がむき出しになっています。

      医師の方に目をやると,医師が危険を察知している様子がありありとうかがえました。医師はゲーリーを,ロサンゼルスの東岸にある郡USC医学センターへヘリコプターで移送すると言いました。手はずが整えられ,私は,自分の高所恐怖症を抑えながら,ゲーリーに付き添って,大きな,軍用機に乗り込みました。その飛行はものの五分もかかりませんでした。それからゲーリーは,ほかの事故の犠牲者が治療を受けようと待っている病棟へと車の付いた寝台で運ばれました。

      一番心配されていたのは,ゲーリーの内動脈が切れているかどうかということでした。切れていたとすれば,ゲーリーは出血多量で死んでしまいます。切れているかどうか確かめるための診断検査が行なわれました。最後に,医師の一人が,動脈の破れはどこにも見当たらず,容態は良いようだと言いました。ゲーリーの生活徴候 ― 心博度数,心臓のリズム,血圧,そして体温 ― は安定していましたが,ヘマトクリット値(循環している血液中の血球数)は25にまで下がっていました。正常な値は40ないし65です。

      翌日の午前11時半ごろ,ゲーリーは神経外科へ連れて行かれました。外科医は取られた処置を次のように説明してくれました。医師たちはゲーリーの頭部の傷を縫い合わせ,脚の傷の開口部に入った泥や舗装の砕片をきれいに取り除き,牽引のための支えとなるステンレスの棒を三本入れ,それから皮膚を縫い合わせました。その後,脚にギブスがはめられ,牽引の処置が取られました。

      精根尽きるような危機

      7月22日,金曜日,私は一日中ゲーリーのそばに付き添った後,帰宅しました。ゲーリーの容態はほとんど変わらず,安定はしているものの,重態でした。デーナ,アダム,そしてブライアンを寝かしつけてから,私は午後11時半ごろ床に就きました。ほんの数分も眠ったでしょうか,私は身震いをさせるような電話の音で目を覚ましました。どきどきしながら飛び起きて受話器を取ると,医師のぼそぼそ言う声が聞こえてきて,ゲーリーの容態が悪化し,一晩もたないかもしれない,と言いました。私は思わず,「そんな!」と言ったきり,物が言えなくなってしまいました。あの胸の悪くなるような気分が全身に広がりました。

      友人たちと一緒に病院へ行くのに,車で30分かかりました。私は自分の内部に大きな圧力がのしかかるのを感じました。輸血をすればゲーリーの命は助かるかもしれないが,そうしなければゲーリーは死ぬ ― 要するにそれだけのことのようでした。どうして私と三人の息子を後に残して死んでしまうのですか。なぜ? きっとある人々にとっては理解し難いことのように思えるかもしれません。しかし,私にとって,血に関する神の律法には少しもあやふやなところはありません。『血 ― あなた方は食べてはならない』と神はノアとその子孫に命じられました。(創世 9:4,新)また,エルサレムにあった初期クリスチャンの会衆の会議は次のような裁定を下し,この律法が依然としてクリスチャンにも当てはまることを示しました。「というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事がらのほかは,あなたがたにそのうえなんの重荷も加えないことがよいと認めたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行から身を避けていることです」― 使徒 15:28,29。

      病院に着くと,私は急いでゲーリーの病室へ上って行きました。ベッドに近付くと,ゲーリーの鼻と口が酸素マスクで覆われているのが見えました。血液の供給が少なくなっているため,顔色が青白く,衰弱して見えました。息遣いは浅くなり,声は非常に弱々しく,か細くなっています。その体の上方には,塩分や水など体液の代わりになる成分の入った,二本の静脈点滴用輸液びんが掛かっています。透明の管がベットに向かって伸び,そこから左右の前腕部に向かい,しっかりとテープで固定されています。ゲーリーはどうにかこうにか二言三言話し終えると目を閉じました。

      忠誠の問題

      私は,「ゲーリー,あなたは本当にこうすることを望んでおられるのね」と尋ねました。自分が何を選んでいるかをわきまえるだけのしっかりした精神がゲーリーにあるかどうか知りたかったのです。ゲーリーは,「ジャン,こうするよりほかはないのだ……こうするしかない」と答えました。私は悲しみに打ちひしがれてはいましたが,ゲーリーのはっきりとした筋の通った答えは,新たな力を与えてくれました。自分が死のうとしていることを心配している様子はありませんでした。むしろ,血に関するエホバの律法を決して犯すまいとする確固とした態度が見られました。

      担当医の一人がゲーリーの枕元に来て,心配そうな声でこう言いました。「ゲーリー,君は死ぬかもしれないのだよ。世界中のほかのどんな宗教も君たちのような教理を信じていないというのに,どうして君は自分が正しいと思うのかね。ほかの宗教すべてが間違っているはずはない。正しいに違いないのだよ。君が輸血をしたとしても,神はきっと許してくださるに違いないよ」。

      ゲーリーは最後の力を振り絞って話しました。「多数派が必ずしも正しいとは限りません」とゲーリーは力強く言い,さらにこう話を続けます。「聖書に出て来るエリヤを覚えておられますか。イスラエル全国民は神に背を向けました。彼らは正しくありませんでした。ただ一人,エリヤだけが自分の正しいことを知っていたのです。エリヤは自分が独りであると思っていましたが,ほかにも忠実な人々がいたのです」。

      ゲーリーは力尽き,そこで話をやめました。そして,力なく医師の方に手を伸ばし,握りこぶしで医師の腕をたたき,「あすの朝お会いしましょう」と言いました。

      ゲーリーは内出血していたので,出血を止めるために輸液びんの中にビタミンKが加えられました。早朝になって,ようやく生活徴候が安定しました。ゲーリーの血液は全体の四分の一しか残っていませんでしたが,かろうじて命をつなぎとめました。私は途方に暮れ,おののきながら,ゲーリーのベッドのそばに長い時間座っていました。そして,優しい父親に話すようにして,祈りのうちにエホバに語り掛けました。いつまで祈り,いつまで独りきりで物思いにふけっていたか,はっきりしたことはわかりません。しかし,それは夜が明けてから,看護婦さんがいつもの検査をするために入って来て,はっとさせられた時まで続いていたようです。

  • 命を救う新しい治療法
    目ざめよ! 1979 | 8月22日
    • 命を救う新しい治療法

      数分間ゲーリーの病室を離れた際,私は,待合室に座っている会衆の二人のクリスチャンの兄弟を見かけました。二人は近付いて来ましたが,そのうちの一人は「ものみの塔」誌の一ページを複写したものを手にしていました。簡単なあいさつを交わしてから,兄弟はそれを私に見せてくれました。それは,1974年9月1日号の「ニュースの内面を見る」(日本文は1974年12月1日号)でした。

      それを読むうちに,一条の希望が心の中に差し込みました。その記事は,出血多量の患者を助けるための新技法に関するニュース報道を引用していました。その治療法は高圧酸素法と呼ばれています。

      決定的な対決

      病院の外科医長が廊下を歩いて来たのは,午前11時半ごろのことでした。医長は,「これを最後にこの問題を解決しましょう」と言って,私たちを自分の研究室へ呼び付けました。

      それは小さな研究室でしたから,三人の医師と私,そして私の二人の友人たちが入ると,その部屋はなおさら手狭に感じられました。医師たちが疲れているのが分かりました。非常に多くの時間を奪われ,数多くの難しい問題に直面したからだろう,と私は思いました。ゲーリーの場合に,血液を用いないという制限が,医師たちの重荷を一層重くしたようです。それは理解できないことではありませんでした。

      外科医長はこう断言しました。「部下の医者たちに話したが,我々は動転している。いや,動転しているだけではない,腹が立った! 我々はこの青年の命を救えるのに,君たちが守り,そのうえこの青年に守るよう勧めている信念のお陰で,一命を取りとめることもおぼつかない状態だ」。

      一方の壁に据えられた螢光面にクリップで留められた,ゲーリーの骨折した脚のレントゲン写真数枚をたたき,医長はゲーリーの脚の複雑骨折の部分を指し示しました。それは,鉛筆が折れたように見え,のこぎりの歯のようにぎざぎざになっていました。一枚の写真は,骨が肉を突き破って外に出ている様を生々しく示しています。

      医長は,レントゲン写真に現われている骨折の箇所を一つずつ立て続けに指しながら,「我々はこれと闘っているのだ」と言いました。「ゲーリーのために,こことこことここに棒を当てがってやらねばならないのだが,どの場合にも,手術には輸血が必要だ」。そして何度も何度も,「実に腹立たしい」と繰り返していました。私は,主に自分にその憤りが向けられているのを察知し,ひどくおびえました。それで,頭を垂れ,抑え切れなくなって涙を流してしまいました。

      外科医長は,「私はクリスチャンだが,輸血を受けることに少しも異存はないね。たとえそれがいけないことでも,神は許してくださる」と述べました。そして,戦術を変えて,こう言いました。「ゲーリーに輸血を受けさせるよう努めないなら,ゲーリーを殺すのと同じだ。本当に心配している人間だったらゲーリーに輸血を受けるよう促すはずだ」。それから再び態度を変え,巧みに私の願うところに訴え,次のように述べました。「輸血をすれば,御主人は退院して,家へ帰り,あなたや子供たちと一緒になり,やがて仕事にも戻れる。輸血だけが唯一の解決策だ。

      「この人は死のうとしており,我々はその命を救えるのに,君たちは我々の手を縛り上げている。君たちは,人が自分の手の中でみすみす死んでゆくのに,何の手も打てなかったというような経験をしたことがあるのか」と医長は続けました。私はそこで口をはさみ,静かな声で,「はい,私は娘をそのようにして亡くしました」と言いました。その言葉に医長は虚をつかれたようです。それは話すのをやめてしまったことから分かりました。ぎこちない中断があった後,医師はこう言いました。「皆出て行きたまえ。外へ出て,この人がどういう目にあっているか考えなさい」。

      態度の変化

      外へ出ようとして立ち上がってから,私は医長の方を向いて,「先生にお話ししてもよろしいでしょうか」と尋ねました。皆が立ち止まって私の方を見ましたが,私は「個人的なお話しです」と言いました。「いいだろう,皆,出て行ってくれ」と医長はどなりました。

      皆が出て行った後,医長の態度が変化したのを私はすぐに感じ取りました。態度が和らいだようです。よもやま話をしながら,医長は私がどんないきさつでエホバの証人になったか尋ね,それから娘のことについて質問しました。そして,私の年を尋ねたので,「26歳です」と答えました。驚いたことに,医長からは,「ほう,その若さでこんなことすべてを経験しなくてはならないとはねえ」という言葉が返ってきました。

      私はその変化に目を見張りました。そこで私は医長に,新しい考えを受け入れてもらえるかどうか尋ねました。受け入れたい,との答えです。私は,高圧療法について伝えた「ものみの塔」誌を見せる前に,言質を取っておきたかったのです。医長がその記事を返したとき,私は,「これが功を奏すると思われますか」と尋ねました。

      「分からないが,今の時点では何でもやってみるだけの価値はある」と医長は答えました。

      「主人をどこかへ送るようにしていただけますか」と私は嘆願しました。

      すると医長は,「それはいかん。それは私ではなく,全部君がすることだよ。海軍基地に電話をするといい」と言いました。

      私は尋ねました。「何と言えばよいのですか。だれに話をしたらよいのですか」。

      「電話をかけて,高圧療法の責任者を呼んでもらい,ありのままを話すよりほかあるまい」と言うなり,医長はすぐ身を乗り出して,自分の机の上にある電話に手を伸ばしました。そして,ある人 ― きわめて親しい間柄の人 ― と話しだしました。医長はあたかも私を本当に助けたいと思っているかのように,私の経験を一部始終話しました。そして,受話器を置いて,「これで準備万端整った」と言いました。ゲーリーはロングビーチ記念病院へ移送されることになったのです。

      外科医長の英断のおかげでしょうか,ゲーリーを送り出すための準備は驚くほどすばやく行なわれました。しかし,ゲーリーに旅の準備をさせているとき,医師の一人が高圧療法について,「そんなことをしてもむだですよ」と言いました。低い声でしたが,「この傷を治すには輸血が必要です」と語気を強めたときの声は怒りに燃えていました。その言葉に私はがっかりさせられました。しかし,ゲーリーはすぐに車付きの寝台に乗せられ,待機中の救急車のところへ連れて行かれました。一人の医師が私たちに付き添ってくれました。

      希望がよみがえる

      ようやく,大きくて超近代的な病院が見えてきました。付添い人が待ち構えており,ゲーリーは七階の集中看護棟の小さな個室に,車の付いた寝台で運ばれました。近付いて来た看護婦から,医師たちが検査を終えるまで外で待つようにと指示されました。それで,顔や手を洗ってさっぱりしようと,階下の手洗いへ向かいました。そこで私は少し休み,勇気と力が与えられるよう祈りました。前の晩,人を驚かせるような電話で起こされてから,18時間ほど経過していました。

      私は足を引きずって,ようやくゲーリーの部屋に戻りました。部屋に入ると,二人の医師がまだそこにいます。ちょっとの間,私は自分が高圧療法に関する記事を持っているのを忘れていました。それで,すぐそばの医師のところへ行き,その記事を手渡しました。その医師は,背の高い,幾らか太り気味の肩幅の広い人で,ウェーブのかかった黒い髪をオールバックにしています。医師はその記事を手に取り読み始めました。読み終えると,医師独特の言い方で,「ほう」とつぶやきました。医師の意見を早く聞きたかったので,「この治療法についてご存じですか」と尋ねました。

      「ええ,私がその記事を書きました」と医師はどちらかといえばさり気なく答えました。(それは,「ものみの塔」誌に引用されていた,アメリカ医学会ジャーナル誌の1974年5月20日号の記事のことでした。)きまりが悪いのと,小躍りしたい気持ちとで,顔の紅潮するのが分かりました。その医師が言葉を続け,治療方法を説明するにつれて,沈んでいた気持ちは高まってゆきました。

      楽観的になりたいとは思いながらも,まだ疑問がありました。そこで,大学病院を出る直前に,あの医師の述べた見解を復唱し,こう説明しました。「その先生の意見では,この治療法は役に立たないし,たとえ役立つとしても,ゲーリーは全血を必要としているので,全快はしない,というのです」。医師は私の目を見すえ,物分かりよくうなずき,哲学者の口調で,「知りもしないで,物を話す人もいるものです」と言いました。納得させられ,元気づけられて,私はゲーリーに回復の見込みがあると信ずるようになりました。

      高圧酸素治療

      高圧酸素療法では,気圧よりも大きな圧力の下で,全身に100%の酸素を当てます。気圧は海面で1平方㌢当たり,1.03㌔です。圧力が上げられているので,通常よりも高い濃度で酸素が体組織や体液の中に溶け込みます。使用される装置は,重金属製の円筒形のタンクで,中にいる患者が外を見,外にいる人々が中を見られるよう厚いガラス製の丸天井が付いています。超厚型の円形の入り口は,銀行の貴重品保管室のドアのようです。インターホーンで会話を交わすことも可能です。

      加圧はゆっくりと行なわれてゆき,定められた水準まで徐々に上げられてゆきます。鼓膜の受ける刺激は,車で山を登ったり,下りたりするときのそれと似ています。最初の数日間,ゲーリーは,六時間おきに休みなく治療を受けました。治療が終わるたびに,ゲーリーはそう快な刺激を感じました。

      四日目の午後八時に高圧療法を終えて戻って来ると,看護婦さんは,いつものようにゲーリーの血球数を測定しました。その測定値は幾分興奮を呼び起こしました。ヘマトクリット値が丸々1%増加し,10から11になったのです。それは相変わらず低くて危険な値でしたが,その知らせは私たち双方を元気付けるものでした。治療を始めて八日目には測定値が19になり,集中治療から隔離へと移してもよいほど高い数値になりました。

      ある朝,ゲーリーが目を覚ましたときに,その健康が回復へと向かっていることを示す,まがう方ない証拠が現われました。私は陽気に,「今朝は朝食を食べてごらんになる」と聞いてみました。事故に遭って以来,ゲーリーは食物を受け付けませんでした。それで,「そうだね,食べてみようか」という答えが返ってきたとき,私はベッド代わりに使っていたいすから飛び上がるようにして立ち上がりました。

      「そう,そう,その調子」と私は興奮して言いました。食物の味が再び分かるようになったことも,ゲーリーが生き長らえることを示す別の証拠となりました。一般的な医学の見解をよそに,ゲーリーは輸血せずに生き延び,それと同時に,輸血を受けた場合によく起こり,命とりになることもある合併症を避けられました。とはいえ,輸血を拒否した理由は,もちろん,「血……から身を避けている」ようにという,クリスチャンに対する神の律法です。―使徒 15:28,29。

      別の危機

      ゲーリーが集中治療から移し出される前に,ブライアンが高熱を出しました。ひよめき,つまり頭の頂にある柔らかい部分がふくれています。これは,脳に圧力がかかっていることを示す印で,脊髄膜炎への第一歩です。担当の女医が,ブライアンは血小板輸血を必要としている,と言ったとき,胸の悪くなるような戦慄に襲われました。女医の説明によれば,ブライアンの血小板数がきわめて少ないため,脊髄液除去を行なうと,出血を引き起こす可能性があり,その結果,麻痺を起こしかねないとのことです。

      私たちが最初にブライアンをこの病院に入院させたときに,ブライアンに対する保護監督権を私たちから取り上げる法廷命令が得られていました。しかし,どれだけ輸血しても役に立たないので,輸血は行なわれませんでした。ブライアンには,正常に血小板を造る能力がなかったのです。それで私たちは,ブライアンの主治医との間で,輸血は施さない,という合意に達していました。

      ようやく,私たちが合意を交わした医師がやって来ました。私はその医師に,起きた事柄を手短に話しました。医師は,輸血せずに脊髄液除去をする,と言ってくれました。たったそれだけのことでした。輸血は行なわれないのです。それでも,出血多量で死ぬ危険や体が麻痺する危険がありました。脊髄液が実験室に送られ,その結果,ブライアンはウイルス性髄膜炎になっていることが分かりました。私はため息をつきました。

      劇的な逆転

      病気であることが分かった日に行なった最初の血小板検査以来,ブライアンの血小板数は,一立方㍉当たり4,000個という状態で一定していました。ところが,髄膜炎の発作に襲われてから数日後の血液検査で,劇的な逆転が明らかになりました。医師は顔を輝かせて,「ブライアンの血小板数が少し上がりましたよ」と教えてくれたのです。

      「本当ですか」と私が口をはさみます。

      すると医師は言葉を続け,「ええ,2万5,000になりました」と言うのです。

      私は,狂喜せんばかりになり,ブライアンの命は助かると信じたくなりました。しかし,私たちは希望を捨てていました。主治医の知る限り,この病気になって生き長らえた人はほとんどいないと言われていたからです。ブライアンの血小板数が増加したという良い知らせをゲーリーに話した

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする