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職業と良心ものみの塔 1965 | 2月15日
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動物を外国人に売っても,他のイスラエル人がその人を批判できなかったのと同じです。最近,ベニヤ板など広く用いられる建築資材の接着剤に血が使われていることがクリスチャンの注目をあびています。ベニヤ板を例にとると,その多くに血のはいったのりが使われています。しかしそうでないものもあります。ですからクリスチャンは,できれば血と無関係のベニヤ板を買う努力をするでしょう。しかしいろんな種類のベニヤ板を使いたいと思うなら,それはそのクリスチャンの良心にまかせなければなりません。ベニヤ板の製法など,いつも確かめられるとはかぎりません。血を使ったベニヤ板があるからといって,ベニヤ板を使用した家を買ったり,売ったり,貸したり,またベニヤを使用したトレーラーを買うことができないというのではありません。この問題についてどの程度調べるかは,その人自身が決めるべきです。
もしあるクリスチャンが,ベニヤ板その他の製品に血をまぜたのりを使う会社に勤めているとしても,仕事をやめる必要はありません。森の中で木を伐採する仕事ならできます。その木材はいろいろなことに使われます。伐採したあとの木材がどのようになろうとそれは従業員の責任ではありません。もしクリスチャンが,ベニヤ板の工場に働いていて,血を入れてのりを作り,そののりをベニヤ板に使うように言われたなら,もちろん良心的にそれをすることができないのを感ずるでしょう。そして血を扱わない他の仕事にまわしてもらうように雇主に頼むでしょう。しかしこれもやはり個人の問題です。同じ会社で働くにしても,トラックの運転手やセールスマンとして働くなら血を誤用しているという気持ちをもたずにすむでしょう。血は皮製品,家具,びんのふた,綿布その他の多くの日用品のなかに使われているため,クリスチャンがそういう物との接触をいっさい避けるのはほとんど不可能に近いことです。ですからクリスチャンがそれについてどうすべきかは良心の問題であって,他の人が批判すべきではありません。あるクリスチャンが個人で決定したことを他の人々がどうのこうのと小さな事にまで口を出し,論争を行なって,そのクリスチャン会衆の一致を乱すのは,よくないことです。―詩 133:1。箴言 26:21。ヤコブ 3:16-18。
協会は,病原菌の接種に関連した血の使用など,現代医学の血の使用はどんなものでも是認しません。しかし接種は,社会のある部分では事実上避けられない場合があります。それで協会は,病気と戦う抗体を強化する目的で行なわれる,血の成分を含む血清の注射を受けるかどうかは各個人の良心にまかせます。ある人が血清注射を受けたとしても,聖書がはっきり禁止している血を直接食べているのではないという事実から慰めを得るでしょう。それは食物として使用されるのでも,失った血の代わりに取り入れられるものでもありません。クリスチャンはここで,食心にもとづいた決定を自分で行なわねばなりません。したがってクリスチャンが血清注射を受けるかどうかを決める場合でも,クリスチャンである医師や看護婦がそれを他の人に注射するかどうかを決める場合でも,その人自身が決定しなければなりません。a 依頼に応ずるかどうかの決定は医師を職業とするクリスチャンたちひとりひとりの責任です。彼らはガラテヤ書 6章5節に示されている原則に従い,自分の決定によって生じた結果に責任を取らねばなりません。エホバの証者の医師のなかには,信仰をもたぬ人に依頼されて輸血を施した人もいます。しかし彼らは,献身したエホバの証者に対しては輸血をしません。申命記 14章21節に示されているとおり,信仰のない人に頼まれて輸血するかどうかはクリスチャンである医師自身の良心にまかされています。信仰をもたぬ人に血をまぜたソーセージを売るかどうかを決めねばならないクリスチャンの肉屋や食品店の店主も同じ立場にあります。b
自分で決定する
自分の職業のことでクリスチャンがどのような決定を下すべきかを示すこれらのいくつかの例は,こうした種類の職業につこうと思うときの助けとなるでしょう。クリスチャンは自分のするあらゆる事柄において神の律法を常に考慮に入れねばなりません。そして何をするにもエホバのためにしなければなりません。(コリント前 10:31)もしクリスチャンのすることが神のおきておよび「カイザルの」正しい法律に反しないならば,彼はそれを行なう権利を有するのであって,だれも彼を批判すべきではありません。どうしていいかわからない場合,クリスチャンはエホバ神に祈るべきです。(ペテロ前 5:6,7)また聖書を読み,自分の直面している問題を扱ったクリスャンの出版物(「ものみの塔」出版物索引には,「就職」という項目のもとに参考になる事柄がたくさん示されています)を調べるべきです。また会衆の監督に話すこともできます。しかしこれらのことをしたのちは,状態となりゆきをよく知る本人が,問題をよく分析して決定せねばなりません。もしそれが良心の問題なら,他人がその人のために決定を下すことはできません。
ある問題に直面したとき,もしこういう方法で決定を下したなら良心の苛責を感じるだろうということは前もってわかるはずです。そのような場合は良心のいたみの原因となることを避けます。クリスチャンはどんな仕事をするにしても,エホバを喜ばせることを願います。ですからその仕事は,エホバのみまえに明らかな良心をもって行なえるものでなければなりません。「何をするにも,人にではなく,エホバに仕えるように心をこめて働きなさい」。―コロサイ 3:23。テモテ前 1:18,19。ペテロ前 3:16。
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良心を守るものみの塔 1965 | 2月15日
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良心を守る
◆ 「正しい者の誠実はその人を導き」。(箴言 11:3)次の経験も示す通り、聖書の勉強を始めて間もない人が、この言葉の意味を理解しているのを見るのは心温まります。一組の夫婦は、エホバの証者と数ヵ月の間聖書を勉強し、血の使用に関するクリスチャンの立場を学びました。二人がいとこの家に招かれた時、血の抜かれていないにわとりの料理が出されました。二人はそのにわとりの血が注ぎ出されていないのに気付き、肉を取らずに皿をまわしました。いとこたちは、聖書の原則に好意的でなく、血は注ぎ出してあると言いました。いとこの一人が言いました。「かまわないから食べなさい。私がかわって罪をせおってあげますから」。これに対し、真理を求める人の一人が言いました。「自分の罪だけではまだ足りないのですか」。ついにいとこたちは、そのにわとりから血を抜いてないことを認めました。夫婦は、神の律法を犯すことをうながされても、人を喜ばすことより、神を喜ばすことを求めて、それに従いませんでした。
昨年の2月、この夫婦には子供が生まれました。土地のカトリックの習慣では、生まれた子供にバプテスマをほどこすことになっていますが、夫婦はこれにならいませんでした。このことがいとこたちの批判を一層高めることになりましたが、父親は、必要ならバプテスマの問題をカトリック牧師と話し合う事を申し出ました。4人のカトリック牧師にこの事が伝えられましたが、だれも応じませんでした。
― 1965年エホバの証者の年鑑チュニジア共和国の項から
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