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    ものみの塔 1972 | 5月15日
    • エホバへの奉仕の挑戦を全面的に受け入れる

      「『わたしはほんの少しの間わたしの顔をあなたから隠したが,定めのない時までの愛ある親切をもってわたしはあなたを憫れむ』とあなたを買い戻す者,エホバは仰せられる」― イザヤ 54:8,新。

      1,2 はるか後代に影響を及ぼすものとなった挑戦がなされるに至るまでの,古代のベツレヘムでの一連のできごとを述べなさい。

      ベツレヘムの夜は明けようとしていました。新しい朝の光がかすかにさして,早朝の雑用に忙しく動き回るわずかな人影がぼんやりと見え,路上の動きがすでにほのかながらうかがえます。と,奥ゆかしい姿の若い婦人が町に近づき,入口の門の前の広場を足早やに横切ってゆきます。彼女は外とうでくるんだ包みをかかえているにもかかわらず,その表情には喜びの色が見え,その足どりははずんでいます。やがて道をそれて,小じんまりした家にはいると,ずっと年配の婦人に迎えられ,二言三言ことばをかわすと,ふたりは腰をおろします。そして,将来に対する明るい希望をいだいたその若い婦人と,一生の願いの成就を望む老婦人は何事かを期待しながら,成り行きを見守ります。

      2 小高い丘陵地にあるこの小さな町に朝日がさしはじめると,このふたりの婦人は町の門のそばで今しも起ころうとしているできごとに思いをはせます。路上を行きかう人の数はふえ,日はしだいに高くなります。夏にはまだ早いとはいえ,6か月間の乾季はもうかなり過ぎて,午前のこの早い時刻なのに日の光はもう暑さを感じさせます。今や至る所に人びとがおり,町の門の広場はかなり活気を呈しています。ところが入口の門のそばに年長者がひとり腰をかけています。その物腰や服装からすれば,彼は資産家で,町の有力者のようです。それに今朝の彼の態度は真剣で,その目は広場に現われる人の顔を次々に確かめています。明らかにだれかを捜しています。と,突然呼ばわります。「某よ来りて此に坐せよ」と。すると,分別盛りのもうひとりの男が足を止め,身をめぐらして,その声の主のかたわらに座します。こうしたあいさつがなされ,それに相手が答え応じるとともに,ベツレヘムのささやかな家で成り行きをじっと見守っていたふたりの婦人の生活だけでなく,その後幾世代もの多数の人びとの生活をも変えたできごとが起きようとしていたのです。「某よ」と呼びかけられた男は,はるか後代,それもわたしたちの時代にまで影響を及ぼすほどの挑戦を受けようとしていました。

      3 ナオミとルツの劇の主要な人物はだれでしたか。彼らの関係にかんしてどんな疑問を解決しなければなりませんか。

      3 この重要な日にその町にはいった例の若い婦人の名はルツで,家にはいる彼女にことばをかけた年長の婦人はその義理の母で,なくなったエリメレクのやもめナオミでした。ルツはナオミとは違って生来のユダヤ人ではなく,モアブ人の女でした。ではどうして,自分の土地と民から遠く離れたベツレヘムに住むナオミの義理の娘になったのですか。某と呼ばれた男とある用件をぜひとも話し合いたいと考えていた年長者ボアズとはどんな関係にありましたか。また,その挑戦が30世紀もの後の今日のわたしたちの生活に影響を及ぼしうるほどの重大な意味を持ったこの問題とはなんですか。

      4 それら主要な人物はだれを,あるいは何を表わしていますか。

      4 古代のイスラエルで展開されようとしていた,ルツ記にしるされているこの劇は,当時と同様に挑戦となり,遠い将来に影響を及ぼす現代のできごとを預言的に示すものでした。(コリント前 10:11。ロマ 15:4)また,この古代の劇に関係した人物もやはり描画的な人物でした。エリメレクという名は,「神は王である」という意味です。それでエリメレクは主イエス・キリストを表わしています。ナオミの近い親族ボアズもキリストを表わしています。その名は「強さをもって」という意味と考えられます。であれば,「わたしの楽しみ」という意味の名のナオミは,イエスに嫁ぐ人たち,つまりその花嫁,それも特にこの劇が驚くべき成就を見ているこの「終わりの時」に地上にいる者たちを表わしていると考えられます。ルツという名は「友情」を意味すると思われますが,彼女はナオミの義理の娘となったので,ナオミのために子孫を生める立場にありました。したがってルツもまた,キリストの花嫁に属する人たちを多少異なった見地から,そして異なった状況の下で代表しているといえます。では,ナオミのやはり近い親族で,「某」と呼ばれた人はだれを表わしていますか。現代において展開されてきたできごとを通してその実体をはっきり知っていただくことにしましょう。

      見捨てられた女

      5 (イ)ナオミの時代のベツレヘムでは何が起きましたか。その結果,彼女の夫エリメレクは何をしましたか。(ロ)現代の成就においてこれは何を表わしていますか。

      5 では,エリメレクの幸福な家族がなお健在で,その妻ナオミとふたりの息子マロンとキリオンがユダの地のベツレヘムもしくはエフラタに住んでいた時代に戻ってみましょう。ベツレヘムは「パンの家」を意味し,一方エフラタは「豊穣」あるいは「多産」を意味します。この二つの名はいずれも豊かさ,飢えや飢きんなどのない状態を意味しますが,西暦前13世紀当時,ベツレヘムを含めユダの支族の全土は飢きんやパンの欠乏に確かに見舞われました。これは第一次世界大戦中,エホバの組織に臨んだ霊的に乏しい状態を表わしています。ベツレヘムの住民でほかにも町を去った者があったかどうかはさておき,エリメレクは家族を連れて町を去りました。そして,ヨルダン川を渡ってモアブの地もしくは野に落ち着き,今日のエホバのしもべたちがサタンの事物の体制の中で一時的な居留者として住んでいるのと全く同様,モアブの地に外人居留者として一時的に住みます。(ヨハネ 17:16。ヨハネ第一 5:19)そうするためにエリメレクはユダの地にある相続地をあとにします。―ルツ 1:1,2。

      6 ナオミの親族に関してモアブでどんなできごとが起こりましたか。

      6 年老いたエリメレクはやがて死んで,ナオミをやもめとしてあとに残します。ついでナオミはそのモアブの地でふたりの息子に嫁を迎えるのをよしとし,年上の息子と思われるマロンはモアブ人の女ルツと結婚し,一方キリオンは,やはりモアブ人の女であるオルパと結婚します。しかしながら,やがてマロンとキリオンも死に,やもめの母ナオミとふたりのやもめの妻ルツとオルパがあとに残されます。(ルツ 1:3-5)これらふたりのやもめは子どもを持っていないため,ナオミに子孫を残すことができません。自ら子どもを生むには年を取りすぎていたナオミは,恥辱に耐えなければなりません。マロン(「病弱な,病身の」の意)とキリオン(「か弱い」の意)の死は,前述の困難な時期における神の組織と交わっていたある者たちの霊的な死を表わしています。それは神の民にとって重大な悲しみの時でした。

      7 ナオミは自分の状態をどうみなしましたか。何世紀も後にイザヤはどんな状態を預言しましたか。

      7 ナオミは自らを見捨てられた女,すえもしくはすえを生み出す生殖力に恵まれない者とみなしました。彼女は「捨て去られてしまって,霊の傷つけられた妻,また若い時の妻で,そのときに退けられた者」のようでした。胎の実はエホバからの祝福で,不妊はのろいとみなされた当時であってみれば,ナオミが『エホバ我を〔辱しめ〕……たまふ』と語って嘆いたのも無理からぬことです。(ルツ 1:21〔新〕)何世紀も後に預言者イザヤは霊感を受けて同様の辱しめについて書きましたが,それはエホバの不興の直接的な結果としての辱しめでした。ナオミの直面した挑戦を十分に理解するには,イザヤの預言と,現代的成就として起きているできごとにその預言がどのように適用されるかを理解しなければなりません。こうしるされています。「『エホバはあなたを,あたかも捨て去られてしまって,霊の傷つけられた妻,また若い時の妻で,そのときに退けられた者と呼んだ』とあなたの神は仰せられる。『少しの間わたしはあなたを捨て去ってしまったが,大きな憫れみをもってあなたを寄せ集めよう。あふれる憤りをもってわたしはほんの少しの間わたしの顔をあなたから隠したが,定めのない時までの愛ある親切をもってわたしはあなたを憫れむ』とあなたを買い戻す者,エホバは仰せられる」― イザヤ 54:6-8,新。

      エホバ,所有者なる夫

      8,9 (イ)イザヤ書 54章6-8節のことばはだれに語りかけられたものですか。このことはその預言の文脈にどのように示されていますか。(ロ)その中で取り上げられているのは,やはりナオミによって表わされているどんなグループですか。

      8 この預言は,あらゆる創造物の神エホバが妻を持っておられることを示唆しています。そのようなことがありうるのでしょうか。そうです,象徴的にいってありうるのです。イザヤ書 54章5節(新)ではその妻に対してこう言われています。「あなたの偉大な作り主はあなたの所有者なる夫,その名は万軍のエホバ。イスラエルの聖なる方があなたを買い戻す者」。このことばは,イザヤの時代までには死んで5世紀たっていたナオミでも,またはだれか文字どおりの女にでもなく,一つの組織,天のシオン,つまり天の霊的な子たちで成る神の宇宙的な組織に対して語りかけられたことばです。過去1,900年の間,神の宇宙的な組織のそれら霊的な子たちは,今なお神聖でエホバ神に忠節な天の見えない霊的なみ使いだけに限られてはいませんでした。エホバのこの宇宙的な組織は,ついには合計14万4,000人を数える,霊によって生み出された,地上にいる神の子たちを迎え入れてきました。(黙示 14:1)それらの人はみな,神の宇宙的な組織の首位者すなわち主イエス・キリストの足跡に従う追随者です。

      9 これらイエス・キリストの足跡に従う14万4,000人の追随者は,天でキリストと結婚すべく婚約しており,したがって,黙示録 21章9節で「羔羊の妻なる新嫁」と呼ばれているように,彼らはキリストの未来の花嫁です。この花嫁級の成員は過去1,900年にわたって選択されてきました。それゆえに,今日地上にはせいぜいその残れる者がいるにすぎません。問題の劇の中でナオミによって表わされているのは,この20世紀の1919年という年以前に神に献身してバプテスマを受け,第一次世界大戦を生き残った人たちです。では彼らはどのようにして,子どももないまま見捨てられた,モアブの地のナオミ同様の状態に陥りましたか。

      10 残れる者と神の宇宙的な組織の間にはどんな相互関係がありますか。より大いなるエリメレクはどんな期間にナオミ級に対して「死に」ましたか。

      10 ナオミとルツの劇のこの特色を理解するには,地上にいる残れる者と神の宇宙的な組織の他の成員たち,つまり天にいる者たちとの関係のもう一つの特徴を理解する必要があります。それら残れる者は神の宇宙的な組織の成員ですから,神の霊的な子ではあっても依然肉のからだで留まっている,花嫁の残れる者に影響を及ぼす事がらはみな,神の女つまり天のシオンもしくは宇宙的な組織にも同様に影響を及ぼすのです。この点は,第一次世界大戦中にナオミ級の活動を中心にして生じたできごとに照らしてイザヤ書 54章6-8節の預言を考慮すると,よくわかります。というのは,より大いなるエリメレクがナオミ級に対して「死んだ」のは,この時期,つまり1918年から1919にわたる期間だったからです。その時,ナオミ級は所有者なる夫を失ったかのように見捨てられた状態にはいりました。その宇宙的な組織の夫エホバが,この地上にいる霊によって生み出された成員によって代表されるご自分の女を退けて,イザヤ書 54章6-8節を成就させられたとき,それは辱しめをもたらす経験となりました。

      エホバはご自分の女を不快に思われる

      11 いつ,またどんな理由でエホバは残れる者を不快に感じられましたか。このことはどのように明らかにされて,宇宙的な組織全体がその影響を受けましたか。

      11 イザヤの預言の中でエホバがご自分の女を,見捨てられた女,ご自分の顔を彼女から隠し,霊の傷つけられた女としてどのように描写しておられるかに注目してください。それは彼女に対する不快の念の示された時期を意味しています。エホバがイザヤ書 54章11節で,「なんぢ苦しみをうけ暴風にひるがへされ安慰をえざるものよ」といって彼女に語りかけておられるのはそのためです。ナオミ級の残れる者は特に1918年にそのような状態に陥りました。その時,彼らはある意味でエホバ神の恵みから引き離されました。その年にエホバ神は突然,契約の使者,主イエス・キリストを伴ってご自分の神殿に来られました。エホバはこの地上にいた残れる者を調査して,彼らを不快に思われました。(マラキ 3:1,2)彼らは一時,自分たちに開かれていたエホバの王国奉仕の挑戦を全面的に受け入れてはいませんでした。人間に対する恐れのためにしりごみし,「世に汚されぬ」よう正しく身を守ってはいませんでした。(ヤコブ 1:27)そのためにエホバは彼らが大いなるバビロンとその政治上の提携者にとらわれるままにされたのです。その間,これら残れる者は相当の迫害と虐待をこうむり,ついに1918年,ものみの塔協会の本部の代表者たちはスパイ活動をしたとの偽りの容疑で逮捕,投獄されるに至りました。a これは神の宇宙的な組織全体つまり神の女が神の不興の影響をこうむったことを意味しました。預言は,その組織全体が『捨て去られた妻』のようになることを示していたのです。

      12 もしエリメレクが主イエス・キリストを描いているとすれば,エホバがご自分の顔をその女から隠されるということは,エリメレクの死とどのように合致しますか。

      12 しかし,もしエリメレクが主イエス・キリストを描いているとすれば,エホバがご自分の顔をその女から隠されるということはどのようにエリメレクの死と合致しますか。天のイエス・キリストが地上にいるナオミ級に対して実際どのように死ぬのですか。地上での奉仕のさい,イエスは,『わたしは父が行なうのを見て,それを行ないます』という行動規則を明示されました。それでは,残れる者が神の不興を買った期間,エホバがその女を見捨てて,ご自分の顔を彼女から隠されたのであれば,み子も神の宇宙的な組織のその部分,つまりみ子の花嫁の成員である地上にいる霊的な残れる者に対して同様にしなければなりません。こうしてイエス・キリストは事実上,エホバが見捨てられた者たちに対して「死にました」。

      重大な挑戦に面する

      13 今やナオミは何をすることに意を決しますか。これはルツとオルパにとってどのように挑戦となりますか。

      13 古代の劇においてはこの時までに10年が過ぎ,今やナオミは,ベツレヘムの状態が変わったことを聞きます。エホバはご自分の民にパンを与えて,再び彼らに注意を向けてこられました。そこでナオミは意を決して戻ることにします。しかしそれ以上に急を要する理由があります。ナオミは郷里,ユダのベツレヘムに相続地を持っているので,郷里に帰って相続地を引き継がなければなりません。これは彼女のふたりの「嫁」ルツとオルパにとって重大な挑戦となります。ふたりはどうしますか。一見ふたりはなんの異存もなく,ナオミとともにベツレヘムへの旅にのぼったようです。(ルツ 1:6,7)ついで道を進んで,ある所まで来ると,ナオミはふたりを思いとどまらせようとします。「汝らはゆきておのおの母の家にかへれ……エホバまたなんぢらを善くあつかひたまへねがはくはエホバなんぢらをして各々その夫の家にて安身処をえせしめたまへと及ちかれらに接吻しければ彼ら声をあげて哭き之にいひけるは我ら汝とともに汝の民にかへらんと ナオミいひけるは女子よ返れ汝らなんぞ我とともにゆくべけんや汝らの夫となるべき子猶わが胎にあらんや女子よかへりゆけ我は老たれば夫をもつをえざるなり……女子よ然すべきにあらず我はエホバの手ののぞみてわれを攻しことを汝らのために痛くうれふるなり」― ルツ 1:8-13。

      14 オルパはどんな決定をしますか。彼女によって表わされている人たちは今日同様のどんな道を取りますか。

      14 「彼等また声をあげて哭く而してオルパはその姑に接吻せしがルツは之を離れず 是によりてナオミまたいひけるは視よ汝の相嫁はその民とその神にかへり往く汝も相嫁にしたがひてかへるべし」。(ルツ 1:14,15)オルパは,忠実なナオミ級と交わって,一時ある程度の関心と熱意を示しながらも,クリスチャンとしてなお若い時にしりごみする一部の人たちを表わしています。それらの人は自己本位の考えや個人的な欲求に妨げられて,「天の窓をひらきて容るべきところなきまでに恩沢を汝らにそそぐや否や」を見るため『エホバを試み』なさいとのエホバの挑戦を受け入れません。―マラキ 3:10。ヘブル 10:38,39。ペテロ後 2:22。

      15,16 ルツは挑戦にどのように応じましたか。

      15 一方,ルツ級は,ナオミ級に対するエホバの目的を成就することにナオミ級とともにあずかるため,個人的な便益をことごとく犠牲にします。「ルツいひけるは汝を棄て汝をはなれて帰ることを我に催すなかれ我は汝のゆくところに往き汝の宿るところにやどらん汝の民はわが民汝の神はわが神なり汝の死るところに我は死て其処に葬らるべし若死別にあらずして我なんぢとわかれなばエホバわれにかくなし又かさねてかくなしたまへ」― ルツ 1:16,17。

      16 「エホバわれにかくなし又かさねてかくなしたまへ」と語ったルツは,自分の述べたことを行ないます,とエホバにかけて誓いを立てていたのです。ルツは,ナオミの神に仕えて,神への奉仕で死に至るまでもナオミに付き添えるかどうかというこの挑戦を全面的に受け入れていました。オルパは応じませんでしたが,それでもルツは決意を弱められたり,熱意を鈍らされたりはしませんでした。ナオミのすぐれた感化はすでにルツの改宗をもたらしていたので,今度はナオミの心に深く根ざしていた欲求が結実して,ふたりがベツレヘムに戻ってさらに直面しようとしていた挑戦にルツは誠実な態度で応じようとしていたのです。

      さらに挑戦を受ける

      17 ベツレヘムに戻ったとき,ナオミは隣人のあいさつになんと答えましたか。

      17 ベツレヘムでの生活の見込みについてナオミがルツとオルパにはっきりと述べた苦渋と幻滅は,ナオミの帰郷によって和らげられるものではありません。それどころか,わが家に帰ったナオミは途方に暮れるばかりで,老いの身の無力さをひしひしと感じ,苦悩と悲しみはつのるばかりです。ふたりが戻って来たことで町中が騒然となります。特に婦人たちがそうで,みなわが目を疑います。いったいエリメレクはどこにいるのですか。マロンとキリオンは? それにこのモアブの女はだれですか。「婦女等是はナオミなるやといふ ナオミかれらにいひけるは我をナオミ[「わたしの楽しさ」の意]と呼ぶなかれマラ[「苦しい」の意]とよぶべし全能者痛く我を苦めたまひたればなり 我盈足て出たるにエホバ我をして空くなりて帰らしめたまふエホバ我を攻め全能者われをなやましたまふに汝等なんぞ我をナオミと呼ぶや」― ルツ 1:18-22。

      18 地上にいるナオミ級の残れる者で代表される神の女は,なぜ請け戻される必要がありましたか。

      18 確かにナオミ級はこの悩みの時の間,「わたしをマラ,苦しむ者と呼んでください」といえました。イザヤ書 12章1節もこのきびしい懲らしめに言及して,エホバ神に語りかける預言者のことばをこう述べています。「汝さきに我をいかり給ひしかどその怒はや(めり)」。ついでイザヤ書 52章3節は述べます。「それエホバかく言給ふ なんぢらは価なくして売られたり金なくして贖はるべし」。いいかえれば,この地上にいる献身した神のしもべたちをとりこにした人びとは,それらとりこのために支払わず,ただで彼らを手に入れました。5節と6節はさらにこう述べます。「エホバ宣給く わが民はゆえなくして俘れたり されば我こゝに何をなさん……この故にわが民はわが名をしらん このゆえにその日には彼らこの言をかたるものの我なるをしらん」。それで神はご自分の民をゆえなく,つまりただで連れ去らせます。敵が彼らを買わずに所有するままにさせます。ゆえに,地上にいるナオミ級の残れる者で代表される神の女は,大いなるバビロンから請け戻される,つまり買い戻される必要がありました。

      19 見捨てられた状態にあったナオミは特に,ユダに対するヤコブのどんな約束について知っていましたか。

      19 これは子どものいない,そしてあたかもエホバに見捨てられ,懲らしめられたかに見えるやもめ,ユダの支族のベツレヘムのナオミの直面した挑戦でした。しかし彼女の心の奥底では,イスラエルの女,それも特にユダの支族の恵まれた少数の女に対するエホバの目的にあずかりたいとの願いがなおも燃えていました。というのは,この支族の人たちはユダの父ヤコブの約束にあずかる見込みを持っていたからです。西暦前1711年,ヤコブはエジプトで死ぬ直前,次のことばをもってユダを祝福しました。「笏はユダからそれず,命令者の杖もその足の間からそれず,ついにシロが来るにおよんで,彼に諸民族の従順が帰属する」。(創世 49:10,新)「それを有する者」または「それが属する者」という意味の名のこのシロは,その杖を揮う命令者,王笏を握る者にちがいありません。その者はメシヤ,つまり地上のあらゆる家族がそのかたを通して自らを祝福する,アブラハムの真のすえに違いありません。(創世 22:17,18)そのかたはアブラハムの曾孫ユダの家系のだれの子となるのでしょうか。ユダの家系のどんな母親がその子を胸にいだく著しい誉れにあずかるのですか。子どもがなく,それに出産年齢もとうに過ぎたナオミはおそらく心の中で,それは私ではない,と考えたことでしょう。みじめな状態にあったナオミが『わたしをマラと呼んでください』と叫んだのももっともなことです。

      エホバは道を開かれる

      20 何世紀も後にイザヤを通してエホバのどんな約束がなされましたか。

      20 しかし,エホバはこの忠実な女を見捨てようとはされませんでした。その叫びはエホバの耳に達したのです。何世紀も後に,ナオミによって表わされた女に対してエホバに代わって次のように話した預言者は,ナオミにそう語っていたのだといえるでしょう。「『わたしはほんの少しの間わたしの顔をあなたから隠したが,定めのない時までの愛ある親切をもってわたしはあなたを憫れむ』とあなたを買い戻す者,エホバは仰せられる」。(イザヤ 54:8,新)このことはナオミに関してどのように成し遂げられようとしていましたか。もしナオミが子孫を残さずに死ぬのであれば,なくなった夫のあの地所を託すべき相続者は持てないことになります。それにもしユダの支族からシロを生み出すというエホバの目的がナオミを通して果たされるのであれば,ナオミには男子の相続者が必要です。彼女は何をすべきでしたか。

      21 イスラエルの律法には,ナオミ同様の窮境に陥ったやもめのためのどんな規定が設けられていましたか。これはルツにとってどのように挑戦となりましたか。

      21 この点でもやはりイスラエルの律法は,ナオミ同様の窮境に陥った人のための規定を設けていました。エホバご自身の約束によれば,古代イスラエルの忠実な女性は産まず女のままでいることはありませんでした。エホバは仰せられました。「汝の神エホバの言に聴したがふ時は……汝の胎の産……に福祉あらん」。(申命 28:2-4)男子もその名を受け継ぐ者がいないままにされることはありませんでした。イスラエルの律法はこう述べます。「兄弟ともに居らんにその中の一人死て子を遺さゞる時はその死たる者の妻いでて他人に嫁ぐべからず其夫の兄弟これの所に入りこれを娶りて妻となし斯してその夫の兄弟たる道をこれに尽し 而してその婦の生ところの初子をもてその死たる兄弟の後を嗣しめその名をイスラエルの中に絶ざらしむべし」。(申命 25:5,6)買い戻すことにかんする定めとともにこの律法はナオミにとって唯一の希望でした。もし兄弟あるいは近い親族を見いだせれば,ナオミは律法のこの規定にすがって解決の道を求められるかもしれません。しかしたとえそのような親族を見いだしたところで,ナオミ自身は子どもを生み出すことはできません。したがって,ナオミに残された唯一の機会は,この取り決めの中でナオミに代わってエリメレクにすえをもたらしうる義理の娘ルツにかかっていました。ルツはこの機会をどうみなしましたか。自分に何かを与えうる若い男子を見つけたいという希望を自らいだいていたとすれば,ルツはそれを喜んで捨てましたか。つまり,この挑戦の中に,エホバの目的を追い求め,自分の生き方をそれにかなったものにする機会を認めましたか。

      22 預言的な劇の中でほかにだれがこの挑戦の影響を受けましたか。その結果は今日のわたしたちにどのように影響を及ぼすにちがいありませんか。

      22 また,ボアズおよび「某」と呼ばれた人物についてはどうですか。彼らは,ナオミの死んだ夫エリメレクの名を継ぐべき相続者を彼女に与えるこの挑戦にどう応じましたか。それをエホバの奉仕にいっそう十分にあずかる機会とみなしましたか。この挑戦とその結果は今日のわたしたちにどのように影響しますか。ナオミが霊において回復され,彼女の生涯の夢が実現されようとしていたこと,またルツやボアズそれに「某」と呼ばれた人物がこの挑戦に直面して演じようとしていたことはみな,自分の生き方をエホバの目的にかなったものにするよう今日のわたしたちをさえ動かさずにはおかないこの感動的な劇の要素となっています。次の記事はその結果を明らかにするものとなるでしょう。

  • あなたの生き方をエホバの目的にかなうものにしなさい
    ものみの塔 1972 | 5月15日
    • あなたの生き方をエホバの目的にかなうものにしなさい

      1 (イ)今日,思いと心のどんな態度が人類を苦しめていますか。(ロ)ルツとナオミの直面したどんな挑戦が,熱意と専心の点でわたしたちに教訓を与えるものとなっていますか。

      「人みな信仰あるに非ざればなり」とは使徒パウロのことばです。(テサロニケ後 3:2)このようにいえる理由は数々ありますが,中でも著しい理由となっているのは,この20世紀においてきわめて強力になった自己決定の精神です。自己の欲望を充足させようとするこの欲求は,一種の宗教となり,創造者に対する愛は片隅に押しのけられ,創造者の目的に対する無関心さのため人びとの心と思いは完全にそこなわれています。したがって,エホバへの奉仕の挑戦を無私の念をもって受け入れ,自分の生き方をエホバの目的にかなうものにした人たちを見るのはエホバにとってどんなにか気持ちのよいことでしょう。また,わたしたちにとってそれらの人はなんとすぐれた模範でしょう。そうした顕著な模範の一つは,自分の民とモアブにあるわが家をあとにして,義理の母であるやもめナオミに同伴してベツレヘムに赴いた昔のルツのそれです。自分もやもめであったルツは,モアブで夫を見つけて,住み慣れた環境の中に落ち着き,家族をもうけたいと思えば,おそらくそうすることもできたでしょう。しかし,ナオミに対する愛,またエホバの崇拝に対する愛に動かされたルツは,すべてを捨ててナオミとともにイスラエルに赴いたのです。イスラエルの慣れない境遇の中でルツの無私の愛は十分に試みられましたが,自分の生き方をエホバの目的にかなうものにしたいとの誠実な願いにささえられたルツは,一瞬のためらいもなくこの挑戦を受け入れました。ルツとナオミにもたらされた結果は,その過程で次々に生じたできごととともに,熱意と専心の点でわたしたちを奮い立たせずにはおかない教訓となっています。

      2,3 ナオミがルツを伴って故国に戻ったことは現代において何を意味していますか。

      2 時は大麦の収穫のころですから,過ぎ越しの祝いののちで,冬の雨も終わった春です。ベツレヘム・ユダでは今は収穫するものがあります。10年もの長い飢きんも去り,その地は再びパンのある所となりました。その間,ナオミはモアブで暮らし,その地で夫エリメレクとふたりの息子を失いました。その息子のひとりはマロンで,ルツの夫でした。今やナオミはルツとともに神の恵みを得て,再びわが家にいます。ふたりはナオミの故国に集められ,ナオミの相続地に戻ったのです。(ルツ 1:22)このことは現代において何を意味していますか。現代の歴史に見られる対型においては,このことは選ばれた者たちすべて,つまりイエスの油そそがれた弟子たちの残れる者がみ使いたちによって再び集められることについて述べたイエスのことばに注意を向させます。再び集められるのはいつですか。大いなるバビロン(偽りの宗教の世界帝国)が,対型的な大いなるクロスの前に倒れた後です。したがってそれは,事物の体制の終わりに関するイエスの預言の成就する時です。―マタイ 24:29-31。

      3 イザヤ書 12章1,2節は,残れる者を大いなるバビロンから導き出して集めるその時の喜びについて次のように述べています。「その日なんぢ言ん エホバよ我なんぢに感謝すべし汝さきに我をいかり給ひしかどその怒はやみて我をなぐさめたまへり 視よ神はわが救なり われ依頼ておそるるところなし主エホバはわが力わが歌なり エホバは亦わが救となりたまへり」。ナオミ級の残れる者は1919年に神の恵みにあずかる立場に回復され,自分たちに対する神の目的にしたがって神の奉仕を行なうべく再興されて以来,このことばを繰り返し語ってきました。

      収穫にさいして示された熱意は実を結ぶ

      4 ルツはイスラエルにおけるどんな備えにしたがってナオミの生計を助けようとしますか。ルツの愛の労働はどのように報われますか。

      4 さて,模型的な劇の中では大麦の収穫が進んでいました。ルツは義理の母といっしょに生活していましたが,義母に負担をかけたくはありませんでした。ナオミの生計を助けたいと願っていたのです。それでナオミの同意を得たルツは,収穫にかんするイスラエルの律法を活用しました。(レビ 19:9,10)こうしるされています。「[ルツは]往き遂に至りて刈者の後にしたがひ田にて穂を拾ふ 彼[つまりルツ]意はずもエリメレクの族なるボアズの田の中にいたれり」。(ルツ 2:1-3)ボアズはエホバの真の崇拝者で,エホバの律法を尊ぶ人でした。(ルツ 2:4-7)ルツの身元を知ったボアズは,大麦の収穫とその後5月のペンテコステの祝いまで続く小麦の収穫が終わるまでずっと自分の畑でルツが働けるように取り計らいます。そうしてボアズはルツにこう語ります。「汝が夫の死たるより已来 姑に尽したる事汝がその父母および生れたる国を離れて見ず識ずの民に来りし事皆われに聞えたり ねがはくはエホバ汝の行為に報いたまへ ねがはくはイスラエルの神エホバ即ち汝がその翼の下に身を寄んとて来れる者 汝に十分の報施をたまはんことを」。(ルツ 2:8-13)このように取り計らってルツに恵みを示したボアズは,彼女の義理の母である年老いたナオミにも益が及ぶことを念頭に置いていました。

      5,6 ルツがナオミに加わって収穫の活動に携わったことは何を表わしていますか。

      5 このことを成就する現代の劇的なできごとは,イエスが言われた次のことと一致します。「畑は世界なり……収穫は〔事物の体制の終局〕なり,刈る者は御使たちなり」。(マタイ 13:38,39〔新〕)キリストの花嫁の成員数は1919年までにはまだ満たされてはいませんでした。もっと多くの人が集められなければなりませんでした。そして,ルツがナオミに加わって,彼女とともに収穫の活動に勤勉に,死に至るまでも忠節に携わったのと全く同様,残れる者級に新たに加えられる人たちは1919年以降現われはじめました。ルツはこの付け加えられた人たちの級を表わしていました。

      6 その年つまり1919年の9月6日,土曜日午後,アメリカ,オハイオ州シーダーポイントの大会にさいしてエリー湖畔で集団バプテスマが行なわれ,200人余の人びとがバプテスマを受けました。それらの人びとはキリストの花嫁の年経た最初のナオミ級の残れる者に加えられたのです。その集団バプテスマを見守った人たちの中には,同年3月25日,火曜日,アトランタ連邦刑務所から釈放された,ものみの塔協会の役員もいました。彼らは今や新たに自由の身になったことを喜ぶとともに,エホバ神の神権政府の王国の関心事のためになおも働いていました。その3年後の1922年,オハイオ州シーダーポイントで再び別の大会が開かれました。同年9月9日,土曜日,361名がバプテスマを受けました。時を経るにつれ,ルツ級は引き続き加えられました。今や現代のルツ級はモアブの女ルツのように,神のなさる地上における収穫,つまり預言的な劇が表わすように大麦の収穫と小麦の収穫の両方の終わりまでナオミ級とともに熱心に働くことを決意しました。そして,ルツはボアズからすぐれた女であると言われましたが,残れる者に新たに加えられたこれらの人びとについても同じことがいえます。それらの人はエホバ神に専心献身した対型的なすぐれた女であることが示されました。

      ルツの専心を試みるものとなったナオミの希望

      7 (イ)ナオミはどのようにしてのみエリメレクの名において相続地を守り,また約束のシロに至る王統を継続させるのに貢献できますか。(ロ)これはルツにとってどのように挑戦となりますか。

      7 さて,ルツの勤勉な働きとボアズの寛大な取り計らいの結果,ナオミとルツは食物に恵まれます。とはいえ,ナオミはやはり出産年齢をとうに過ぎた年老いたやもめであり,なくなった夫エリメレクのものである相続地を持っています。ルツが代理者つまり代わりの者として行動するのでなければ,今やナオミはどうすることもできません。ナオミは窮境を切り抜ける道を見いだします。つまりその所有地を売ることにします。それは特にこの売買において取り扱わなければならないルツの益を考えてのことです。それにナオミとその義理の娘ルツはやもめの身では,ユダの支族の王統を継続させて約束のシロをもたらすことに貢献できるわけがありません。ナオミはどうしても子どもを持たなければなりません。養子を,つまりユダの支族に属する子どもをルツによって持たなければなりません。なぜなら,その相続地はユダの支族から他に移せないからです。ゆえにルツはユダの支族の男子と結婚して,相続地をその支族のものとして守らなければなりません。それにはまず,ルツは自分のためのそうした生き方を受け入れて,年配のボアズ以外の若者を求める気持ちがあればそれをすべて捨てなければなりません。彼女はこうした提案にはたしてどう応じますか。

      8 ナオミは自分たちの問題のこうした解決策を実行に移すべく,どのようにルツに提案しますか。ルツはどのように答え応じますか。

      8 ナオミはルツに向かってごく率直な挑戦のことばを述べます。「女子よ 我汝の安身所を求めて汝を幸ならしむべきにあらずや夫汝が偕にありし婢等を有る彼ボアズは我等の知己なるにあらずや視よ彼は今夜禾場にて大麦を簸る 然ば汝の身を洗て膏をぬり衣服をまとひて禾場に下り汝をその人にしらせずしてその食飲を終るを待て 而て彼が臥す所を見とめおき入てその脚をまくりて其処に臥せよ彼なんぢの為べきことを汝につげん」。ルツはどのように答え応じましたか。「ルツ姑にいひけるは汝が我に言ところは我皆なすべしと すなはち禾場に下り凡てその姑の命ぜしごとくなせり」― ルツ 3:1-6。

      9 こうした措置を講ずる点でナオミはどのようにパウロに似ていますか。

      9 ナオミは使徒パウロに似ています。パウロは教会つまり会衆と自分との関係についてこう述べます。「われ汝らを潔き処女として一人の夫なるキリストに献げんとて,之に許嫁したればなり」。(コリント後 11:2)同様にナオミはルツが然るべき人と結婚できるよう手はずを整えます。そこでルツは畑に出て行き,ボアズの足もとに横たわります。真夜中になってボアズが起き上がると,ルツは,なくなったエリメレクにすえを興すため自分を妻としてめとっていただきたいと申し出ます。―ルツ 3:7-9。

      もう一人の「ゴーエール」が間にはいる

      10 これはどうしてナオミとルツの側の不倫な行動ではありませんでしたか。ボアズはルツの逆縁結婚の申し込みをどうみなしましたか。

      10 これはナオミとルツの側の不倫な行動ではありません。それは単に,買い戻す者つまりゴーエールの立場にある人の節操に対する信頼を表明する行為でした。ボアズがルツの動機を誤解しなかったこと,つまりルツの逆縁結婚の申し込みをみだらな交渉の申し出と誤って解したのでないことは彼の返答からもわかります。「ボアズいひけるは女子よねがはくはエホバの恩典なんぢにいたれ汝の後の誠実は前のよりも勝る其は汝貧きと富とを論ず少き人に従ふことをせざればなり されば女子よ懼るなかれ汝が言ふところの事は皆われ汝のためになすべし其はわが邑の人皆なんぢの賢き女なるをしればなり 我はまことに〔買い戻す者〕なりと雖も我よりも近き〔買い戻す者〕あり 今夜は此に住宿れ朝におよびて彼もし汝〔を買い戻す〕ならば善し彼に〔買い戻すことをさせ〕よ然ど彼もし汝〔を戻すこと〕を好まずばエホバは活く我汝〔を買い買い戻さ〕ん」― ルツ 3:10-13〔新〕。

      11 (イ)ボアズはルツの申し出を直ちに受け入れて,ルツに対して買い戻す者として行動しようとはしませんでした。なぜですか。(ロ)このことは対型においてどのようにあてはまりますか。

      11 ボアズは節操を守る人で,大いなる自制心の持ち主ですから,自分よりももっとナオミに近い親族関係にある男の人がいることをルツに思い起こさせます。ボアズ自身はナオミのおいに当たりますが,そのより近い親族に当たる人はナオミの義理の兄弟です。彼こそ買い戻す者つまりゴーエールとしてナオミの相続地を買い取る機会を最初に持つべき人です。そうだからといって,多年家族の責任を持たずに独身で過ごしてきた年配のボアズが,たとえ父親となって家族をかかえることになるにせよ,自分の務めを果たすのを快しとしないという意味ではありません。ボアズは,自分が属しているユダの支族の約束のシロをもたらすに至る王統に貢献することをいといません。このことは対型において天的なゴーエールつまり買い戻す者もしくは買い請ける者としての主イエス・キリストにもあてはまります。しかしまず最初にイエス・キリストは,「某」と呼ばれたナオミの義理の兄弟で表わされる者がだれであれ,その者の前にナオミ級とルツ級があらわにされるままにします。これは今日の残れる者のナオミとルツの区分に属する人びとに試練をもたらします。だれが勝ちを得ますか。だれが敗れますか。記録が答えてくれます。

      12 ルツとナオミはボアズの取った態度にどのように応じますか。

      12 ルツは朝日が町にさしはじめる前に義理の母のもとに行きます。ボアズから約束のしるしとしてもらった6升の大麦を自分の外とうに包んでかかえているルツは喜びにあふれています。年老いたナオミはルツに「女子よ如何ありしや」とことばをかけます。ナオミのこのことばの意味を汲み取ったルツは,自分はまだボアズの妻ではないと言いながらも,起きたこと,またボアズが語ったことをみな述べます。ついでナオミは言います。「女子よ坐して待ち事の如何になりゆくかを見よ 彼人今日その事を為終ずば安んぜざるべければなり」。ルツは将来に対する明るい希望をいだいて待ち設けます。ナオミは一生の願いの成就を望んで待ちます。―ルツ 3:14-18。

      挑戦に面する買い戻す者

      13 問題に結着をつけるためボアズはどのように行動しましたか。

      13 さて,この重大な日に,最高潮をなすできごとが急速に展開されはじめます。「爰にボアズ門の所にのぼり往て其処に坐しけるに前にボアズの言たる〔買い戻す者〕過りければ之に言ふ 某よ来りて此に坐せよと即ち来りて坐す……時に彼その〔買い戻す者〕にいひけるはモアブの地より還りしナオミ我等の兄弟エリメレクの地を売る 我汝につげしらせて此に坐する人々の前わが民の〔年長者たち〕の前にて之を買へと言んと想へり 汝もし之を〔買い戻さ〕んとおもはば〔買い戻す〕べし然どもし之を〔買い戻さ〕ずば吾に告てしらしめよ汝の外に〔買い戻す〕者なければなり我はなんぢの次なりと 彼我これを〔買い戻さ〕んとい(へり)」― ルツ 4:1-4〔新〕。

      14 「某」と呼ばれた人は,買い戻す者になってもらいたいとの挑戦にどう応じましたか。

      14 そうです,「某」と呼ばれている人は問題の地所を喜んで買おうとします。そうすればベツレヘムにおける自分の所有地はふえるのです。しかもこの老婦人ナオミはといえば,彼女は生殖力を失っている以上,彼女から子どもが生まれて,地所がその子に受け継がれるおそれはありません。ゆえに彼はすでに持っているものに加えて,ナオミの地所全部を自分のものにすることができるのです。「ボアズいふ汝ナオミの手よりその地を買ふ日には死る者の妻なりしモアブの女ルツをも買て死る者の名をその産業に存すべきなり」。さあ,これは別問題です。それは責任が重すぎます。問題をむずかしくするおそれがあります。この予想外の挑戦に面したその買い戻す者はボアズに返答します。「我はみづから〔買い戻す〕あたはず恐くはわが産業を壊はん汝みづから我にかはりて〔買い戻せ〕我〔買い戻す〕ことあたはざればなり」。そこで彼はサンダルを脱ぎ,合意のしるしとしてそれをボアズに手渡します。―ルツ 4:5-8〔新〕。

      15 ボアズはどんな道を取りましたか。

      15 「某」と呼ばれた人は挑戦に応じませんでした。しかしボアズは応じました。ボアズはその取り決めを受け入れます。しかも喜んでそうします。そして,その近い親族と人びとすべてにこう言います。「汝等今日見証をなす我エリメレクの凡の所有およびキリオンとマロンの凡の所有をナオミの手より買たり,我またマロンの妻なりしモアブの女ルツを買て妻となし彼死る者の名をその産業に存すべし是かの死る者の名をその兄弟の中とその処の門に絶ざらしめんためなり,汝等今日証をなす」。こうしてボアズは兄弟に対する責任にかんするエホバの目的を成し遂げますが,一方,「某」と呼ばれた人は門の所にいた人びとすべての目の前で恥辱をこうむります。―ルツ 4:9-12。

      16 「某」と呼ばれた人は現代におけるだれを代表しますか。

      16 それにしても,「某」と呼ばれた人は現代におけるだれを代表していますか。また,この挑戦はおよそ30世紀後の今日のわたしたちにどのように影響しますか。「某」と呼ばれた人は一時ボアズの前に立ちはだかりましたから,彼は,ナオミ級およびルツ級の人たちが霊的に婚約している花婿イエス・キリストの前に,この地上で立ちはだかっている人びとの級を代表しているといえます。ナオミの義理の兄弟で,エリメレクに代わってすえを興そうと思えばそうすることもできたこの「某」と呼ばれた人は,自分の義務を怠る単なる見せかけのキリスト,偽りの預言者を表わしています。主イエス・キリストはそのような者についてご自分の追随者にこう警告なさいました。「[終わりの時に]偽キリスト・偽預言者おこりて大なる徴と不思議とを現はし,為し得べくば選民をも惑はさんと為るなり」。その選民とはすなわちナオミ級とルツ級の人びとです。(マタイ 24:24)今日この偽キリスト級についても同じことがいえます。そうです,彼らは会衆つまり主イエス・キリストと婚約した残れる者を捕え,その賛助と支持を取りつけたいと望んではいますが,ナオミ級とルツ級を王国の関心事の点で実を結ばせようとする責任は欲しません。それは骨の折れすぎる仕事なのです。それは自分たちの利己的な関心事を妨げすぎるのです。彼らは神の王国に関心を持たず,むしろ国際連盟,そして今では現在の国際連合を好んでいます。シロつまり王イエス・キリストの王統に結ばれたいとは考えません。こうした思考態度と行動があてはまるのはほかならぬキリスト教世界の僧職者だけです。彼らはエホバの奉仕の挑戦を受け入れず,自分たちの生き方をエホバの目的にかなうものにしませんでした。イエスは,それらの者からのがれるよう,わたしたちに警告されました。―テモテ後 3:5。黙示 18:4。

      エホバの道を受け入れる人は祝福される

      17 ボアズとルツは自分たちに対する挑戦を受け入れて,どのように祝福されますか。ナオミの関心事はどのように何とからみ合っていますか。

      17 一方,ボアズは約束どおりルツを逆縁の妻としてめとります。(ルツ 4:13-15)ふたりは結婚しましたが,王あるいはシロを生み出したわけではありません。イスラエルの王朝はまだ始まってはいなかったからです。しかし,ユダの11代目の子孫で,エホバから永遠の王国のための契約を結ばれたダビデ王の祖父になった人をまさしく生み出しました。(マタイ 1:3-6。サムエル後 7:12,13)そしてその人の家系はやがてダビデ王の永遠の相続者,主イエス・キリストに達するのです。(ルカ 3:23-31; 20:41-44)ルツの関心事とナオミのそれとはことごとくからみ合っています。ルツは母親ですが,ナオミはルツの赤子を養子に迎え,あたかもその子が自分の死んだ夫エリメレクの息子で,エリメレクの相続物を受け継ぐ者でもあるかのように,うばとしてその子の世話をします。したがって隣人たちはこう言います。「ナオミに男子うまれたりと其名をオベデ[「しもべ」あるいは「仕える者」の意]と称り」。(ルツ 4:16,17)こうしてボアズとルツはエホバの目的にかんする関心事を心にとめて,自分たちに対する挑戦を受け入れ,エホバの目的を成し遂げることに無私の態度をもって一身をささげます。そしてエホバはふたりを祝福され,約束のシロをもたらす王統にまさしく属すべき人を生み出させます。そのシロの「笏はユダからそれず,命令者の杖もその足の間からそれず……彼に諸民族の従順が帰属する」のです。―創世 49:10,新。

      18 今日の残れる者のナオミとルツで表わされる二つの階層の間にはどんな関係が見られますか。それによって何が生み出されていますか。

      18 さて,わたしたちの時代の今日,ついに霊的な残れる者のナオミ級とルツ級はキリスト,つまりヤコブの預言のシロの花嫁になる用意が整っています。しかし彼らはボアズとルツの場合同様,神のメシヤの王国の油そそがれた王を生み出すわけではありません。とはいえ,神に仕える一つの級を確かに生み出しています。ベツレヘムでルツに生まれた男の子の名が,「仕える者」あるいは「しもべ」という意味のオベデと呼ばれたのと全く同様に,現代のルツとナオミ級は,マタイ伝 24章のイエスの預言の中で「忠実で思慮深い奴隷」として描かれている一つの級を生み出す,もしくは構成しています。同時に,今日の霊的な残れる者のナオミとルツで表わされる二つの階層は,年長のやもめナオミにとって『七人の子よりも善もの』であったルツのナオミに対する破れることのない愛にも似た熱烈な愛で結ばれています。死以外にはこの両者を引き離しうるものは何もありません。

      熱意と専心を表わすべき時

      19 ナオミとルツは,この体制の終わりに臨んでいる人たちにとって無私の愛のどんな模範となっていますか。

      19 劇的で人を感動させる聖書のルツ記には熱意と専心の点で何とすぐれた教訓を見いだせるのでしょう。それに,現代のルツとナオミ級は,この邪悪な事物の体制の終わりの時のいま生きている人たちにとって何とすぐれた模範でしょう。今は,自己決定を指針として,利己的な関心事や営みのために自分の思いどおりの生き方を選ぶべき時ではありません。また,今や最高潮に達しようとしている,この事物の体制にかんする神の目的に無関心でいるべき時でもありません。確かにナオミは自分がシロの家系に用いられるかどうかはわからないと感じていましたが,それでもそうした事態が生じうるようにするため喜んで全生涯をささげました。それにルツは若い女でしたから,もし望むならば金持ちでも,あるいはもし愛していたのであれば貧しい人であれ,どんな若者とでも結婚できたのに,そうしないで,ただわが子をナオミの息子にさせたいために,年取った男と喜んで結婚しました。しかしふたりがそうしたのは,エホバを愛していたからであり,エホバの目的の成就の一端にあずかりたかったからでした。何という無私の愛の模範でしょう。しかも,ナオミもルツも当時の仲間の隣人の間ではごく“普通の”人とみなされていたと考えられるのです。

      20 パウロはどんな警告を与えましたか。今日わたしたちはどうすれば,エホバからの報いの祝福にあずかれますか。

      20 今日,わたしたちは「終わりの時」つまりこうした預言がみなすばらしい成就を見ている時代に生活しています。パウロはわたしたちに対する次のような警告のことばを書きました。「兄弟よ,われ之を言はん,時は縮れり。されば此よりのち……世を用ふる者は用ひ尽さぬが如くすべし。此の世の状態は過行くべければなり」。(コリント前 7:29-31)もしわたしたちがこの体制の人びとと同様に生活して,単に生計を立てるための営みだけに時間を費やせると考えるなら,わたしたちはやがて突然幻滅を感じさせられるでしょう。なぜなら,パウロが示しているように,この世は急速に消滅しつつあり,まもなくそうした生活は全くできなくなってしまうからです。今日,メシヤの王国の祝福がまもなく全地に行き渡ろうとしている見込みを考えると,生きてなすべきことはあまりにもたくさんありますが,現在のこの邪悪な体制の中で生活する時間はごくわずかしか残されていません。たとえこの体制がわたしたちのために提供するものすべてをわたしたちが捨てるとしても,つまりパウロが述べたように,「世を用ふる者は用ひ尽さぬが如く」するとしても,それとルツの取った歩み,またエホバの目的を成し遂げる点ですでに多年を過ごしてきたルツ級の取った歩みとをはたしてどのように比較できるでしょうか。ところがエホバは,油そそがれた残れる者のナオミとルツで表わされる二つの階層を両方とも王国の実をもって祝福されたのと全く同様に,エホバへの奉仕の挑戦を今全面的に受け入れ,自分の生き方をエホバの目的にかなうものにする人をだれでも祝福なさるのです。いったいこれ以上にすぐれたどんな報いにあずかれるでしょうか。

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