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  • あなたはお子さんにどんな本を読ませますか
    目ざめよ! 1978 | 6月22日
    • この変化の理由として同作家は次の点を挙げています。(1)子供たちがより高い教育を受けている。(2)今の世の状態を説明した雑誌が家庭内にふんだんにある。(3)特にテレビがあって,「学生の騒動,政治家の暗殺,産児制限に関する闘争,性についての社会的慣習の変化」などが「即座に再現」される。

      現在のような「スタイル」が存在するに至った理由に関する彼女の説に共鳴しない人も多いかもしれませんが,現実には,児童文学の中に,10年ないし15年前には見られなかった主題が多く含まれています。最近の本の表題をちょっと見ただけでも,それらが泥酔,離婚,婚前交渉,妊娠,妊娠中絶,同性愛,老衰などの問題を取り上げたものであることが分かります。

      さらに,今日の児童文学者の一部には,「道徳的目的」をもって書く,つまり若い人々が悪から善に向かうよう導く目的で書くのは,偏った狭い考え方であると見る傾向があります。それは「プロパガンダ」である,と彼らは論じます。「善人」対「悪人」,つまり英雄対悪漢であるべきではない,というのが彼らの見方です。作者は若い人々に説教をすべきではない,むしろ,なるほどと思わせる物語を書くだけにとどめるべきである,と彼らは主張します。

      もう一つ最近変化してきているのは,一部の児童文学者の聖書に対する態度です。例えばある文学者はこう言いました。「旧約聖書の物語の多くは,(洪水物語におけるように)恐ろしい方法で罰を加える復しゅう心のある神,または(アブラハムとイサクの物語におけるように)自分の意志に従うことを示す手の込んだ証拠を要求する神,というエホバの原始的概念に立脚したものである」。

      しかし,聖書そのものが教えているのは,実際にはそういうことではありません。その反対です。聖書はエホバを絶えず,過ちを犯している子供に正道に戻るよう促す慈父として描いています。(マラキ 3:6-10)しかし,聖書の神に対してそのような敵対的立場を取る作家は確かに,自分の作品の幼い読者の心を神に向けさせようとはしないでしょう。神との親密な関係こそ自分が子供に与え得る最大の贈り物と信じているクリスチャンの親は,この極端な見方に対して警戒を怠らないようにしなければなりません。

      こうして児童文学の世界における混乱をよく考えると,親であるあなたに次のような質問が返ってきます。いろいろな本がたくさん出ていますが,あなたはお子さんにどの本を読ませますか。

      親は何ができるか

      前述の四つの部類のどれにしても,その部類に入る作品をすべて「全部悪いもの」とか「全部良いもの」というふうに分類するのが賢明でないことは,言うまでもありません。父親も母親も,年齢による子供の感情面の必要と,どんな作品にせよそれがその特定の子供にどのような影響を及ぼすかを,はっきりと心にとめていることが大切です。

      例として,おとぎ話の部類について考えてみましょう。ある人々は,子供の情操を豊かにし,想像力を刺激する,たいてい善が悪に対して勝利を収める,と言います。しかし,そういう物語は迷信を植えつけ,超自然の現象に対する不健全な見方を助長する,と言う人たちもいます。そういう人たちはさらに,子供は,望む目標に到達するには努力が必要であるということを認識せず,人生の諸問題が魔術的に解決されることを期待して,夢の世界に住むことを求めるようになる,とも論じます。

      両親は決めなければなりません。しかし,あなたの考えがどちらの方向に傾いていようと,ひとりひとりの子供を一個人と考えるのは重要なことではないでしょうか。一人の子供がすでにひどく「空想にふける」傾向があるようなら,その子の思いを逆の方向に向けてやるようにするのが賢明でしょう。

      「しかし,物語の本が子供にどんな影響を与えるのか,どうすれば分かるのだろう」と尋ねる人もあるでしょう。それを知るのは必ずしもやさしいことではありません。子供の生活には,読書のほかにも影響を与えるものがたくさんあるからです。しかし,何が実際に子供の心に触れているかをかなりよく知ることのできる方法が一つあります。

      それは物語を一緒に読むことです。子供はそのように自分に注意が向けられるのを喜びます。本を読むのが好きな子供にとっては感情のはけ口になり,本を読むのがあまり好きでない子供には読書を励ますことになります。事実,ある教師たちは,もし親がまだ本の読めない小さな赤ちゃんに本を読んでやるなら,子供は早くから読書に対してよい印象または「傾向」を持つようになる,と考えています。

      子供が引き出す結論や,子供が物語のどんな面に心をとらえられたかに,親は驚くことがあります。「この人のことをどう思う?」とか,「このお話のどこが一番よかったと思う?」などと質問してみてください。その答えによっては,ノンフィクションの読み物をもっと多く与えて,フィクションの量のバランスを取るよう調節しなければならないかもしれません。これには,ほかの人たちが行なった冒険ばかり読むのではなく,自分も物事をするのを学ぶという,余分の益があります。

      もちろん,この方法を取るからといって,家庭でどんな本を読ませるかを考える必要がなくなるわけではありません。例えば,フィクションの部類にはいる現代の作品はよく調べて選びたいと思うのではないでしょうか。性や妊娠や中絶についていつ子供に教えるかを決めるのは,親であるべきではないでしょうか。同様に,善良な人も過ちを犯す可能性のあることを子供に教えるべきであるのは事実ですが,悪党がいつも勝利を収める物語を読むのは,子供の人格形成に本当に役立つでしょうか。

      同じような点ですが,あなたはお子さんが,「力は正義」と信ずるのを望まれますか。子供たちはむしろ,人の歩む道には正しい道とまちがった道があること,原則が重要であること,などを教えられるべきではないでしょうか。邪魔ものを片端から滅ぼしてゆく“超人的英雄”を描いたマンガは,子どもにとって危険な「モデル」または手本であると多くの人は考えます。

      ノンフィクションの領域の本の場合でも,親は子供に与える前に一応調べてみる価値のあることに気づくでしょう。本によっては,特定の人種や国籍の人々を悪く思わせるような書き方がされています。また極めて独断的な内容のものもあります。

      例えば,科学に関する本は,種々の事柄を,全くの事実であるかのように述べているかもしれません。地上のすべての生命は下等動物から進化したと断定し,聖書にある創造の記録は単なる“宗教的神話”であると暗に示そうとしている(あるいはそう述べてさえいる)かもしれません。これは子供が受けている宗教教育と矛盾するでしょう。お父さんまたはお母さんはその本を総合的に評価して,子供に読ませてもさしつかえないと判断しても,まず最初に,その資料に載せられている特定の見解について子供と話し合うのが望ましいでしょう。

      こうした事をするには時間がかかります。しかしそれは,親が子供のことを心にかけていることを物語るものです。親は子供が学ぶことを望みます。しかし何が自分のためになり,何が自分に幸福をもたらすかを子供に知ってほしいと思います。世の現実から逃避することはできません。それぞれの子供は時と方法を異にして,世の現実に接近していきます。しかし,その小さな,新しい,そしてたいてい好奇心と知識欲に満ちた生命をゆだねられている以上,子供の知的また感情的面の発育を助けるあなたの導きや愛を,過小評価しないでください。

      賢明な親は,それに加えて,わたしたちがみな ― 小さな子供たちも含め ― 霊的なものを必要としていることを認めています。子供はたいていよく質問します。時には非常にむずかしい質問をすることがあります。神の言葉聖書は知恵の豊かな源です。「経験の足りない者たちに明敏さを,若者に知識と思考力を与える」ことができます。(箴 1:4,新)聖書を子供と一緒に読むと,本当に大切な事柄について自然と話し合うようになります。聖書を道徳的導きとしてずっと用いてきた人々のほとんどは,聖書を優れた文学以上のもの,人生における必要な「光」と見るようになりました。―詩 119:105,160; 36:9。

      子供の本はかつてないほど豊富に出回っています。また,テレビがあり,レクリエーションも増えそうな傾向にあるので,あなたの子供の時間を得ようとする競争も激しくなっています。本を読むように子供を励ますのは正しいことです。しかし,子供たちが読む物に関心を払い,その若いエネルギーを導いてやるのは賢明なことです。

      結局は,哲学者ベーコンがかつて書いた通りかもしれません。「ある本は味わうべきもの,他の本は飲み込むべきもの,そして少数の本はよくかんで消化すべきものである」。

  • 海路を通う
    目ざめよ! 1978 | 6月22日
    • 海路を通う

      ハワイの「目ざめよ!」通信員

      何千年にもわたって,世界の水路を行き来する大型船は人々や食物や財産を輸送することなど,多くの目的を果たしてきました。

      巨大な船舶や帆船などが水上に浮かぶ様は,いつ見てもわたしたちの想像力をかき立てます。七つの海のそれぞれには独特の船があり,それらは作った人々の多様性を反映して,それぞれ異なっています。大小さまざまな船の歴史を簡単にふり返ってみると,いくつかの興味深い事実が明らかになります。

      古代の様式が今なお用いられる

      船に関して現在知られている最古の絵画は,エジプトのものです。その中にはボートに似たパピルス紙のいかだ舟が描かれていますが,この舟の運搬方式は今日にまで伝えられています。両手足を櫂にしてこぐ,このいかだ舟は,今日,アフリカのチャド湖やナイル川で使われています。

      水路を通う古代の別の方法は,西暦前700年ごろのニネベの浮き彫りの中に見いだせます。それは獣の皮をふくらませることによって,乗客や荷物が浮かぶようになっている舟で,アッシリアのこれらの船に類似したものは現在チベットで見られます。チベットにはもう一つ,木製の肋材の上に獣の皮を広げて作った船もあります。

      古代のボートの中で最も有名なものの一つは恐らく丸木舟として知られる,木の幹をくり抜いたものでしょう。これもまたアフリカ,南アメリカ,

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