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ストレスに対処することは可能です ― でもどのようにして?目ざめよ! 1981 | 1月8日
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イエスはさらに山上の垂訓の中でこう言われました。「次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです。一日ごとの悪はその日にとってじゅうぶんです」。(マタイ 6:25-34)この聖書の諭しは,ストレスに対処する最善の方法に関する最新の助言の核心に触れるものです。
ストレスからの永続的な解放?
今日,ストレスを完全に回避できると考えるのは非現実的なことです。どのような生き方をしても,どれほど立派な態度を保ったとしても,有害なストレスを引き起こす要素は必ずあります。犯罪は依然として巷にあふれ,偏見や不公正は深い悲しみをもたらします。ですから,ストレスに対処する方法を学ばなければなりません。
しかし,いつの日か,ストレスのもたらす害 ― 苦痛<デイストレス> ― に終止符の打たれることがあるでしょうか。証拠によれば,その答えは,然りです。いつ,またどのようにそれが起きるかを学べば,今ストレスに対処する自分の能力を向上させることができるでしょう。続く記事はこの重要な問題を検討するものです。
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ストレスからの解放 ― 現在そして永遠に目ざめよ! 1981 | 1月8日
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ストレスからの解放 ― 現在そして永遠に
一般の人を対象に,「害をもたらすストレスが完全に除き去られる時が来ると思いますか」というアンケートを取ったとしたら,どんな答えが返ってくるでしょうか。
自分の体験や将来に関する専門家の予測に基づいて,ほとんどの人は,有害なストレスはいつまでも人間に付いて回る,と答えることでしょう。
しかし,物事がうまく運ぶようになり,人間が諸問題を解決し,有害なストレスを除き去るであろう,と明るい表情で言う人もわずかながらいるはずです。
しかし後者のような見解は,ストレスに抵抗するむだな努力の反映である場合もあります。この点に関して,アービング・ジャニス教授は次のように評しています。「もう一つ,対処法として欠陥があるの[は],“防御回避”である。それは希望的な観測をすることにより感情面の緊張を解消しようとすることである」― 1980年5月18日付,ニューヨーク・タイムズ紙,日曜版。
ストレスに対処しようとしている人々の多くが,対処するのに役立つ様々な現実を見過ごしているのは残念なことです。これらの現実は,ストレスからの解放を得るのに役立ち,将来の永続的な解放を待ち望む確かな根拠となるのです。
普遍的な現実
ストレスの研究の一大権威者であるハンス・セリエ博士はこう書いています。「感性の鋭い人なら,雲一つない夜空を見上げて,星がどこからきてどこへゆくのか,また何が宇宙の秩序を保たせているのかと考えざるを得まい。人体の内部にある内なる世界を見ても,やはり同じような質問が起きる」―「現代生活とストレス」。
人体の驚異について思い巡らしたり,星を見つめて物思いにふけったりする時間を取ったことがありますか。そうすることは,現在のストレスに対処するための重要な一歩となり得ます。セリエはさらにこう述べています。「自然の中に現われている調和のとれた麗しさ……について考える能力は,人間が味わい得る最も大きな満足をもたらす能力である。……意識ある自己をしのぐ,無限に大きな何かを見つめると,日常の煩い事すべてがそれと比べて小さなものに見えてくる。そこには,崇高なものとの接触を通してのみ得られる落ち着きと心の平安がある」。
幾世紀も昔に,詩人であった王ダビデは,このストレス問題の専門家が現在勧めている通りのことを行ないました。そしてダビデは,次のような基本的真理を語りました。「天は神の栄光を告げ知らせ,大空はみ手の業を語り告げる」― 詩 19:1,新。
ダビデの認めていた事柄は,その時以来無数の考え深い人々の達した結論でもありました。すなわち,宇宙と人間の創造者なる神が存在すること,それが宇宙の基本的な現実だということです。その方やそのみ業と比べれば,わたしたち人間は取るに足りない存在です。ダビデは神について,『わたしが,あなたの指の業であるあなたの天を見るとき,死すべき人間が何者なので,あなたはこれを思いに留められるのですか』と,語りました。―詩 8:3,4,新。
ですから,ストレスが自分にとって問題になっている ― あるいはなるかもしれない ― ということに気付いたなら,神の存在について,そのみ業と関心の計り難い大きさについて,そして自分がそのみ前に立っていることについて一層深く思い巡らしてみるべきでしょう。そうすれば,“防御回避”に走るのではなく,事実,つまり普遍的な現実を前にした大局観を得ることになります。
今もまた将来も効果がある
神を認めることは,ストレスに対処するに当たり様々な面で役に立ちます。
一つの点として,神を認めれば,聖書に含まれるその諭しに,より一層の敬意を抱くようになります。ダビデは,自分自身の経験から,また他の人の経験を目にして,こう言うことができました。「エホバの律法は完全で,魂を引き戻す。エホバの諭しは信頼に値し,経験のない者を賢くする」― 詩 19:7,新。
神の諭しの中には,淫行や婚前交渉,酔酒,盗み,うそなどを避けるようにという助言も含まれます。そうした事柄に手を出す人は,大抵,楽しみのために,“生活を楽にするために”,あるいは気まずい思いをしないためにそうします。しかし,証拠の示すところによると,そうした人々はその直接あるいは間接的な結果として,より一層のストレスを味わうのが普通です。良心の痛み,他の人々に抱かせてしまった恨み,あるいは自分の歩みの結果として生じた健康上の問題さえ,そうしたストレスの原因になります。逆に,神の助言に従うなら,結果として生じるそのようなストレスすべてを避けられるだけでなく,心の平安と幸福を促進することにもなります。
世界中には,確かにその通りだった,と証言できるエホバの証人が何百万人もいます。もちろん,今日ストレスの全くない生活を送れる人は一人もいません。しかし真のキリスト教を実践することは,それらの人々にとって確かに助けとなりました。この点はイエス・キリストの言われた次の言葉と調和します。『すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなたがたをさわやかにしてあげましょう。……あなたがたは自分の魂にとって[ストレスではなく]さわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきは[ストレスを引き起こすものではなく]ここちよいのです』― マタイ 11:28-30。
神に一層近づくにつれ,現在のストレスが少なくなる別の理由があります。生活は一層,方向付けを持つものとなります。神に喜ばれる者となることを心に定めているので,自分がどこへ向かっているか分かります。「苦痛<デイストレス>のないストレス」は次のように述べています。
「自分たちの神の絶対性あるいは自分たちの持つ特定の行動規準を信じている人は,比較的平衡が取れていて,幸福である[ことを歴史は再三証明してきた]。……信仰は人に方向付け,誓約の根拠,自己鍛練,仕事などを与えるものとなる。その仕事は,異常で混乱した行動を避けるのになくてはならないものである」― 2,3ページ。
さらに,創造者とその原則に対するこの健全な
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