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青少年と両親とクリスチャン会衆ものみの塔 1967 | 1月15日
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のお子さんは親に親しみを持ち,問題が起きた時にためらわず親に話しますか。はじめから親の言うことを守っていれば,おそらく問題を起こさなかったでしょう。しかし青少年の中には,よほどの事が起きないと,子供を保護することに心を砕いている親の気持ちがわからず,親は自由を束縛するとばかり思っている者もいます。
何があったかを聞いてのち,子供のした事に対して何らかのつぐないをする必要を認めたならば,親はそれがなされるように取り計らわねばなりません。わびるなり,損害を賠償するなり,その場合に当然と思われることをするのは親の責任です。事態を収めるのは親の務めであり,事件の再発を防ぐために子供になんらかの制限を課するのが良いと思われるならば,それは親のとりきめることです。―ヘブル 12:9。
子供の養育を引き受け,問題が起きた時に子供をこらしめたり,矯正したりするのは,エホバの証人の会衆の委員を構成する円熟した兄弟の責任ではありません。これらの子供たちが献身してバプテスマを受けた,会衆の成員であっても,そのことはかわりません。責任は両親とくに父親にあります。子供の行ないがエホバの民の会衆にそしりを招くようなものであれば,親は自分たちの講じた処置を会衆の委員に報告しなければなりません。しかし親が責任をはたしている限り,委員は問題に介入せず,親に代って処置を講ずるようなことをしません。もし親が,献身した子供の放縦を放任し,それをおさえることをほとんど,あるいは全くしない場合,会衆の委員は事態を検討するでしょう。それでも,おもに両親をとおしてそのことをするように努めます。子供に対して責任を持つのは親だからです。こうして親切な助言を受けてのちにもなお,親が事態に対処しなければ,会衆の委員は,会衆を清く保つため,問題の子供に関して必要な処置をとるでしょう。同様に,バプテスマを受けている未成年者が,親の課した謹慎期間に服従せず,由々しい悪行をつづけるならば,会衆は罪を重ねる者を排斥する処置をとります。
しかしこのような霊的破滅にまで事態を立ち至らせる必要はありません。聖書の原則と会衆の努力は,会衆が家族の事柄に介入することではなく,家族の絆を強めることに向けられているのです。あなたが父親であれば,家族の各人の霊的な福祉のために必要な注意を払うことができるように,いま家族の事柄を組織してはいかがですか。そうすれば家族は信仰に強くなり,神を崇めるふるまいをすることになります。あなたが青少年であれば,自分のしている事をいつも両親に話し,親の助言を求め,たとえ自分の気にいらない助言でも,「主に喜ばれること」を願うがゆえに,それに聞き従うことを習慣にしてください。こうして青少年,両親そしてクリスチャン会衆は,他の人がそれを見て神を崇めるような,りっぱなふるまいの標準を高く保つことができます。―ペテロ第一 2:12。
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「私には自分の宗教があります」ものみの塔 1967 | 1月15日
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「私には自分の宗教があります」
● ブラジルのジャボテイカバルのひとりのエホバの証人は,戸口での聖書の話にたいへん興味を示した婦人に会いました。しかしその伝道者が聖書の話を終えた時,女の人は言いました。「良いことですね。あなたの説明もよくわかりました。でも私は関心がありません。というのは,名前はわからないのですが,私には宗教があります。そしてそれが真理だということもよく知っています。私は家にある書物でそれを学びました」。証人はその本を見せてほしいと頼みました。驚いたことに,そしてうれしいことに本は「神を真とすべし」と「宗教は人類の為に何を成したか」だったのです。伝道者はそれらの書物がエホバの証人の出版したものであることを説明しました。また定期的な家庭聖書研究をとりきめました。まもなく,婦人は1週1回ではなく2回,聖書を教えてくださいと頼みました。知識をさらに増し加えた彼女は,自分が神の真理を学ぶのに役だった出版物を用いて,他の人々に御国の福音を伝えるわざにもすでに参加しています。
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