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  • ある少年の決定
    ものみの塔 1973 | 8月15日
    • ある少年の決定

      何が正しいかに関して適切な決定を下すには,どのくらいの年齢に達していなければならないでしょうか。11歳では若すぎると思いますか。

      ドイツのシュツットガルトで開かれたエホバの証人の大きな大会で,ひとりの奉仕者は1966年に始まったある経験を話しました。ある日,近所に住む11歳の少年がその奉仕者の家の戸をノックしました。彼は「失楽園から復楽園まで」と題する聖書研究の手引きをこわきにかかえて立っていました。訪問の用件を尋ねると,少年は,その本を使って聖書の勉強がしたいと言いました。彼の姉は以前その本を勉強しました。そして今はその本が少年のものになったので,聖書の真理を学ぶ決意をしたのです。

      少年はその決意を実行しました。3年以上にわたって,少年はエホバの証人のその奉仕者と定期的に聖書を勉強しました。そして,14歳にならないうちに,別の決定をしました。ドイツの法律では,14歳になると親の同意がなくても教会から籍を抜くことができます。その少年は,それこそ自分がなすべきことだと考えました。というのは,家族の行なっている宗教が聖書の真理に基づいていないことを知っていたからです。

      少年の父親と祖母はその決定に驚くと同時に怒りました。彼らは花屋を営んでおり,宗教的な祝祭日に花で飾りつけを行なうことが商売のかなりの部分を占めていました。さまざまのおどしや圧力があったにもかかわらず,少年は法律上の権利を行使して教会から籍を抜くという自分の決定を堅く守りました。

      大会でこの経験を語った奉仕者は,少年が今も神の熱心な崇拝者であることを指摘して次のように述べました。「まだ少年であるにもかかわらず,彼は『信仰の戦い』をりっぱに行ない,創造者の助けを得,また創造者の誉れのために今後もそれを続ける覚悟を持っています」。

      親の権威のもとにいるかぎり,その少年は,神のことば聖書に直接反しない限り,すべての事がらにおいて,従順なむすこでなければなりません。しかし,人間の命令が神の戒めと相反する時には,神への義務を第一にすべきことを認識しているむすこは賢明なむすこです。―エペソ 6:1。使行 5:29。伝道 12:1。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1973 | 8月15日
    • 読者からの質問

      ● 魚を食べる前に血を抜くことは必要ですか。

      聖書には,魚の血を抜くことについては特別に述べられていません。陸に住む動物と鳥についてのみ,『もし食わるべき獣あるいは鳥をかりえたる者あらばその血をそそぎいだし土にてこれをおおうべし』と書かれています。―レビ 17:13。

      モーセの律法の条件に合った食用にふさわしい魚には,注ぎ出して土でおおうほど多量の血はありませんでした。律法が魚の血を抜くことについて明確に述べていない理由がそこにあるのは明らかです。

      血を除くために,肉をしぼるかまたは水に浸たしなさいという規定が聖書にない以上,魚の血を抜くために極端なことをする義務はありません。もとより,あらゆる種類の動物の血はその動物の命を象徴しますから神聖です。それで,魚を切り開いた時に血のかたまりがあるのを見たなら,それを除くべきです。

      ● 聖書には,オナンが精液を地にもらしたことをエホバが非とされた例がのっていますが,これは避妊用具の使用がまちがっていることを示すものではないでしょうか。―アメリカの一読者より

      そうではありません。オナンに関する記録を調べれば,彼が産児調節をしたために殺されたのでないことがわかります。

      オナンは兄のエルが死んだあと父のユダから,タマルと逆縁結婚をするように言われました。その目的ははっきりしていて,死んだ兄のために『子孫を得る』ことでした。さもなければ,オナンには彼女と関係をもつ権利はありませんでした。ユダの命令に対するオナンの反応については次のようにしるされています。「オナンその子の己のものとならざるを知りたれば兄の妻の所にいりし時兄に子をえしめざらんため地に洩したり かくなせしことエホバの目に悪しかり」。(創世 38:8-10)逆縁結婚はのちほど,エホバの命令により,律法契約に編入されました。―申命 25:5,6。

      オナンは逆縁結婚の目的に反する行動をして,父に不敬を示しました。父親の命令にそむき,利己的にも兄の家系を保とうとしませんでした。そのことはまたエルに対する憎しみの表現でもありました。オナンは,死んだ兄弟のためになることではなく,不利になることをしたからです。オナンは無情にも兄の未亡人を恥ずかしめました。彼女のかくしどころをあらわにしながら,母親となるために彼女が当然受けるべき分を彼女に与えませんでした。また,タマルによって得る子孫を通して約束のメシヤが来る可能性もあったので,彼は「聖なる物事」に対する認識を持たなかったことを示したとも言えます。(ヘブル 12:16と比較してください)以上の事柄はすべて,オナンが,自分が損をしそうに思える時には他人の益を考えない悪い人間であったことを表わしています。エホバが彼を殺されたのは,オナンがさもしい理由で,死んだ兄に子孫を与えなかったからでした。逆縁結婚の目的を利己的な理由から無視したオナンの場合を,産児制限を非とする根拠にすることはできません。結婚生活における避妊用具の使用もしくは産児制限については,聖書のどこにも論じられていないことは注目に価します。聖書はまた,クリスチャンは子どもを生む義務があるとも述べていません。ですから,産児制限のことについては,クリスチャンの夫婦は,聖書によって訓練された良心の支配に従わねばなりません。

      ● ヨハネ伝 2章19節は,イエスが自分自身で復活したことを暗示するものではないでしょうか。―アメリカの一読者より

      文脈から明らかなように,ヨハネ伝 2章19節は,主イエス・キリストの死と復活に関係しています。そこには次のように書かれています。「イエスは答えて彼らに言われた,『この神殿を壊してみなさい。そうしたら,わたしは三日でそれを立てます』。しかし,彼はご自分の体の神殿について語っておられたのであった。だが,彼が死人の中からよみがえらされた時になって,弟子たちは,彼が常々こう言っておられたのを思いだした。そして,聖書と,イエスの言われたことばとを信じたのである」― ヨハネ 2:19-22,新。

      次のことに注意しなければなりません。つまり聖書は,イエスのことばが成就したことを述べるにさいして,『イエスは死人の中から自分をよみがえらせた』とは言わずに,「彼は死人の中からよみがえらされた」と述べているということです。他の聖句は,み子をよみがえらせたかたが神であることを,はっきり示しています。使徒ペテロは,コルネリオおよびその親族や親しい友人たちに次のように告げました。「神は三日めにこのかたをよみがえらせ…ました」。(使行 10:40,新)ヘブル書 13章20節は,神のことを,「永遠の契約の血をもって羊の偉大な牧者なるわたしたちの主イエスを死人の中から連れ出された」かたとして語っています。またローマ人への手紙の中で,使徒パウロは次のように書いています。「イエスを死人の中からよみがえらせたかたの霊があなたがたのうちに宿っているのなら,キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたそのかたは,あなたがたのうちに住むご自分の霊によって,あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるのです」。(ロマ 8:11,新)したがって,イエス・キリストが,自分で自分を死人の中からよみがえらせる,という意味のことを言われたとは考えられません。

      しかしイエスは,ご自分が死んで復活することを確かにご存じでした。別の時にイエスは,不信仰な律法学者やパリサイ人に言われました。「邪悪で姦淫の世代はしきりにしるしを求めますが,預言者ヨナのしるし以外には,なんのしるしも与えられないでしょう。ヨナが巨大な魚の腹の中に三日三晩いたとおり,人の子もまたそのように地の心に三日三晩いるのです」。(マタイ 12:39,40,新)このように,ご自分が死んで復活することをあらかじめご存じだったので,イエスは預言的な意味で,『ご自分のからだの神殿を起こす」ことについて語ることができたのです。ご自分がそれを預言されたので,ご自分がそれを行なうかのようでした。このことは,エゼキエル書 43章3節の例からも説明することができるでしょう。そこでは預言者エゼキエルは,『我がこのまち[エルサレム]を滅ぼしにきたりし時に』と述べています。すなわち,エゼキエルはその滅びを預言することによって滅ぼしに来たのです。バビロンにおいて捕囚の身であったエゼキエルは,実際にエルサレムを滅ぼすことには関与せず,それはバビロニヤ人によって行なわれました。しかし彼の預言は,神の霊感によるものでしたから,成就したも同然でした。(エレミヤ 1:10ともくらべてください)同様に,エホバ神がみ子をよみがえらせましたが,イエスは預言的な意味で,自分がそれをするかのように言うことができました。

      そのうえ,み子に関する神の意志,諭示もしくは命令は,み子が死んで再びよみがえらされることでした。イエスはみ父の目的にそって,進んでご自分の命を渡されました。したがってイエスは,再び命を受ける権限を持っておられたという意味において,ご自分のからだの神殿を起こし得たわけです。

      三日めに神は,イエスによみがえるよう命じました。そしてイエスは,み父の手から命を受けることにより,神の権威によって復活しました。イエスは,霊の子としての命に加えて,完全な人間として生きる権利をも授かっていました。イエスは全く罪のない状態で死んだため,それを喪失しませんでした。イエスは,ご自分の人間としての犠牲の価値を,その後,天におられるみ父にささげられました。(ヘブル 9:11-14,24-28,新)このことは,ヨハネ伝 10章17,18節(新)のイエスの次のことばと一致しています。「このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからであり,それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。これに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」。

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