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    ものみの塔 1962 | 12月1日
    • 「上なる権威」に服従 ― なぜ?

      「すべての人は上なる権威に従うべきである。なぜなら,神によらない権威はなく,存在している権威は,神により比較的な地位に立てられたものである」。―ロマ 13:1,新世。

      1 ヨセフとマリヤがこの世の政治権力に従ったことは,神の御心と預言に一致するどんな結果になりましたか。

      西暦前2年,ヤコブの子ヨセフと,妊娠していた彼の妻,ヘリの娘マリヤは,ローマ皇帝カイザル・アウグストの勅令に従いました。彼らはユダヤの故郷の町で登録し,マリヤの息子,イエス・キリストはベツレヘムで生まれました。これはイエスの天の御父エホバ神の御心に従うことであり,エホバ神は,7世紀も前に,預言者ミカを通して,その地における御子の誕生を予めに告げられました。(ミカ 5:2。マタイ 1:1,16,18。ルカ 2:1-7; 3:23)パレスチナのユダヤ人たちは,エホバ神が預言者モーセを通して与えた十のいましめや,他の法律に従っていましたが,その面において政治的な権力に服従することは,神の御心と目的に反するものではありませんでした。

      2 ユダヤ人はどんな二組の法律の調整を図らなければなりませんでしたか。イエスはそのためのどんな完全な規則を述べましたか。

      2 ユダヤ人たちは神のすぐれた律法下にいました。しかし,彼らはユダヤとガリラヤの地を支配して,秩序を保ち税金や貢を集めていた帝国政府の法律に服従することが必要でした。イエス・キリストは,この服従に関する完全な規則を一群れのユダヤ人たちに語りました。彼らの中のある者は,ローマ帝国を支配し,他の者はローマ帝国に反対していたのです。イエスは,「それでは,カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返しなさい」と彼らに言いました。(マタイ 22:15-22,新口)ローマ帝国を支持したユダヤ人も,ローマ帝国に反対したユダヤ人も,この規則に欠点を見出すことができませんでした。

      3 1914年の持つ意味にもかかわらず,クリスチャンがこの完全な規則に今でも従うのはなぜですか。

      3 ローマ帝国の皇帝たちは,その帝国と共にずっと以前に滅びました。しかし,19世紀前にイエスの語ったその言葉の中でカイザルと表わされているものは,今でも残っています。それは単なる帝国主義とか植民地主義ではなく,この世の政治的な政府です。これは西暦1914年以来でも真実です。イエスがこの世の組織制度の終りについての預言の中であらかじめに告げたごとく,異邦人の時すなわち「諸国民の定められた時」はこの時に終わりました。(ルカ 21:5-7,24)それで,イエスの述べた指導的な規則は,今日でも尊重され,守られねばなりません。特にエホバの証者のように献身して洗礼を受けたクリスチャンはそうするべきです。諸国家は今でも存在しています。しかし,神も存在しています。そして,1914年以来地上の全国民はエホバ神によってさばかれています。神に対して羊のような性質を持つ人々は,カイザルのものをカイザルに,神のものをみな神に返す,という規則に従うでしょう。クリスチャン使徒であったパウロとペテロは,この規則に従い,その規則を支持する言葉を書きました。―マタイ 25:31-40。

      4 (イ)何時そしてだれに宛てて,パウロはこの論争に関し書き送りましたか。したがってどの支配者のことを言っていますか。(ロ)この手紙を受け取った人々は,パウロの述べた事を理解しましたか。今日のクリスチャンはどうですか。

      4 56年頃,パウロはローマ帝国内の首都にあるクリスチャン会衆に手紙を書き送りました。彼はその手紙の13章の中で,この問題を特に取りあげました。これはいわゆるキリスト教国が(4世紀に)存在するようになった200年以上も前のことでした。神権により「神のめぐみによって」支配すると主張した自称クリスチャンの王が現われる以前に,パウロは異教のローマ帝国の只中で,書きました。それで,パウロはローマにいたクリスチャンたちに,手紙を書送りましたが,それはキリスト教国の政治的な支配者に関するものではなく,カイザルとか彼の長官あるいは各国々の王のような異教の支配者に関するものでした。特にローマにいたクリスチャンたちは,次の質問について明白な見解を持つことが必要でした。すなわち,この世の支配者たちはクリスチャンでなくエホバ神に献身していないが,それでもクリスチャンは,国を支配しているそれらの支配者たち,およびパレスチナの国やエルサレムの町を支配している支配者たちに,何かを負っていますか。ローマの会衆は,キリスト教のために,この論争点に関し明白な認識を持ち,啓発された良心にしたがって行動することが必要でした。彼らに宛てた手紙の中で,パウロはその事柄を思慮深く取りあげました。彼ははっきり述べたので,彼らは彼の書いたことを理解しました。しかし,それから19世紀後の今日,パウロの意味した事柄については論争が行なわれています。分割されたドイツ内の宗教的な出来事により,それは,最近,世界の注目を集めるに至りました。a

      5,6 (イ)パウロは誰の益を図って,ロマ書 13章1-7節を書きましたか。しかしこれに関してどんな質問が出ますか。(ロ)正しい答えを得る手がかりはどこにありますか。そこでいま何をしますか。

      5 パウロは,「ローマにいる,神に愛され,召された聖徒一同へ」書きました。彼はクリスチャン会衆のために手紙を書きました。(ロマ 1:7新口)しかし,彼がこの手紙の中で論じている全部は,会衆内のことではありません。パウロがロマ書 13章1-7節で書いた事柄は,会衆内のものですか,あるいは会衆外のものですか。これが今日の大問題です。第一に,13章以前の各節によって,このことを決定する手がかりが得られます。パウロは,彼の書いた手紙を節と章に分けなかったということを忘れるべきでないでしょう。パウロは,現代にある本のように,つまり現代の形式の聖書としてそれを書いたのではなく,手紙として書きました。彼が現在の13章1-7節と先行の部分とを分けたという証拠はありません。それで,紹介的な文脈を正しく理解するため,いま12章17節から13章7節までつづけて読みましょう。それは次の通りです。

      6 「だれに対しても悪をもって悪に報いず,すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ,自分で復讐をしないで,むしろ,神の怒りに任せなさい。なぜなら,『エホバが言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。しかし,『もしあなたの敵が飢えるなら,彼に食わせ,かわくなら,彼に飲ませなさい。そうすることによって,あなたは彼の頭に燃えさかえる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって,善をもって悪に勝ちなさい。すべての人は上なる権威に従うべきである。なぜなら,神によらない権威はなく,存在している権威は,神により比較的な地位に立てられたものである。したがって,権威に逆らう者は,神の定めにそむく者である。そむく者は,自分の身にさばきを招くことになる。いつたい,支配者たちは,善事をする者には恐怖でなく,悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは,善事をするがよい。そうすれば,それからはほめられるであろう。それは,あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし,もしあなたが悪事をすれば,恐れなければならない。それはいたずらに剣を帯びているのではない。それは神の僕であって,悪事を行う者に対しては,怒りをもって報復するからである。だから,ただ怒りをのがれるためだけではなく,良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも,また同じ理由からである。彼らは神の公共の僕として,もっぱらこの務に携わっているのである。あなたがたは彼らすべてに対して,義務を果しなさい。すなわち,税を納むべき者には税を納め,貢を納むべき者には貢を納め,恐るべき者は恐れ,敬うべき者は敬いなさい」。

      7 序論の部分から見て,「上なる権威」は当然にどんな背景を持つものですか。

      7 前述の聖句から次のことは明白です,すなわち12章の最後の5節でパウロは,クリスチャン会衆外の人々,「すべての人」の中における神の聖徒たちの振舞について告げています。「すべての人」の中には,クリスチャンに悪を行なう敵もふくまれています。したがって,会衆内の者でなく,会衆外の人です。そのすぐ後のところで,パウロは「上なる権威」について論じて,会衆内に注意を向けず,会衆外に注意を向けています。それで,論理的に言っても,「上なる権威」は,会衆外のこの世の中にあるものですb。私たちは,クリスチャン会衆外に権威があるという事実に目を閉じることが決してできません。

      8 (イ)パウロの使った「権威」という言葉の原語は何でしたか。この言葉はだれを指して用いられていますか。(ロ)サタン悪魔とカペナウムのローマの百卒長は,この言葉をどのように使いましたか。

      8 会衆はローマにありましたが,パウロはその手紙をラテン語で書かず,ギリシャ語で書きました。パウロが「権威」という言葉のために用いたギリシャ語は,「エクスオウシア」でした。ヘブル語聖書の昔のギリシャ語「七十人訳」を読んでいた人々は,そのエクスオウシアという言葉が異教の支配あるいは統治に適用することを良く知っていました。(ダニエル書 7:6,14,17; 11:5を見なさい)サタン悪魔でさえも権威を主張しました。サタン悪魔は世界の支配と統治でもって,イエス・キリストを誘惑しようとつとめたとき,次のように言いました,「これらの国々の権威〔エクスオウシア〕と栄華とをみんな,あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて,だれでも好きな人にあげてよいのですから」。しかし,イエスは神の大敵対者と取引して,この世の権威を得ることを拒絶しました。(ルカ 4:6-8,新口)後日,カペナウムにいたローマの百卒長は,従僕をいやしてもらいたいとイエスに願ったとき,ロマ書 13章1節に出てくる言葉を用いて,次のように語りました,「ただ,お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが,わたしの下にも兵卒がいまして,ひとりの者に『行け』と言えば行き,ほかの者に『こい』と言えばきます」。―マタイ 8:5-9,新口。ルカ 7:8。

      この世の権威

      9 イエスとその敵は,世の権威を指してこの言葉をどのように使いましたか。

      9 イエスは,キリスト教の敵のもたらす迫害について弟子たちに前もって告げたとき,次のように語りました,「あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には,何をどう弁明しようか,何を言おうかと心配しないがよい」。(ルカ 12:11,新口)ユダヤ人の宗教指導者たちは,義人ぶった人々をイエスのところにつかわして,話をさせました。その目的は「イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため,その言葉じりを捕えさせようとした」とルカ伝 20章20節(新口)は述べています。イエスはゲッセマネの庭で捕われるために身を渡したとき,敵共にこう言いました,「今は汝らの時,また暗黒の権威なり」。(ルカ 22:53,新口。コロサイ 1:13)総督ポンテオ・ピラトは,イエスに対して何をしましたか。「ヘロデの支配〔エクスオウシア〕下のものであることを確かめたので,……そちらへイエスを送りとどけた」。(ルカ 23:7,新口)この世の総督たちの権威ということに関連して,イエスはかつて使徒たちにこう語っていました,「異邦の王たちはその民の上に君臨し,また,権威を持っている者たちは恩人と呼ばれる。しかし,あなたがたは,そうであってはならない」。(ルカ 22:25,26,新世)そして私たちの時代の出来事を前もって告げる聖書の最後の本は,10人の象徴的な王について語り,次のように述べています,「彼らは,……獣と共に,一時だけ王としての権威を受ける。彼らは心をひとつにしている。そして,自分たちの力と権威とを獣に与える」。(黙示 17:12,13,新口)それで,これらのものはみなこの世の「権威」です。

      10 これらの「権威」には「上なる」という形容詞がつけられているため,この世よりも上にあるものですか。この質問の答えを決めるものは何ですか。

      10 しかし,ある人は次のような反対論を唱えるかも知れません,すなわちロマ書 13章1節でパウロは権威を「上なる」と呼んでいるから,それらの権威はこの世のものでないというのです。神よりも「上なる」権威があるでしょうか。ありません。しかし,それらの「権威」は「上なる」ものであっても,神に従うとパウロは述べています。どうしてそうですか。パウロはこう述べています,「神によらない権威はなく,存在している権威は,〔だれに?〕神により比較的な地位に立てられたものである」。もし神が,神と比較的な立場にその権威を置くなら,そのような「上なる権威」は,最高者である神に従わねばなりません。(ルカ 6:35。使行 7:48。ヘブル 7:1)パウロの用いたギリシャ語の動詞分詞によると,「上なる」という言葉は,「占有すること,高いこと(あるいは良いこと)抜きん出ること,他のものよりすぐれること」という意味です。それは必らずしも最高という意味ではありません。このギリシャ語の動詞の他の使用にも気をつけて見ましょう。

      11 テモテ前書 2章1,2節,ペテロ前書 2章13節およびピリピ書 2章3節において,ギリシャ語の同じ動詞は,どのように使われていますか。

      11 テモテ前書 2章1,2節で,パウロはあらゆる人に関する祈りについて論じたとき,祈りは「すべての人のために,王たちと上に立っているすべての人々のために……ささげなさい」と述べています。「上に立っている」という言葉は,ギリシャ語の名詞ヒペロクヘを訳したもので,それはパウロがロマ書 13章1節で用いている動詞の分詞ヒペレクヘインから来ている名詞です。ペテロは同じギリシャ語の動詞をペテロ前書 2章15節で用いて,王を「主権者」と述べています。また,ピリ書 2章3節(新口)で,使徒パウロは会衆内のクリスチャンにどのように互を尊敬すべきかを告げています,「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」。これはもちろん,エホバ神のような最高者にするわけではありません。

      だれに対して「上なる」ものか

      12 外部の世の中には,クリスチャンよりも位の高い人々がいますか。クリスチャンはこの点に関して何を覚えなければなりませんか。

      12 クリスチャンはこの世のものではありません。しかし,クリスチャンの住むこの外部の世には,真のクリスチャンよりも高い地位や権威を持つ人々がいます。このことは政府に見られます。なぜなら,エホバの証者のように真実に献身しているクリスチャンたちは,政治に介入せず,政治の要職につこうとしないからです。しかし,彼らはエホバ神が地上の最高の者よりも高いという趣旨の伝道之書 5章8節(新口)の言葉をおぼえています,「あなたは国のうちに貧しい者をしえたげ,公道と正義を曲げることのあるのを見ても,その事を怪しんではならない。それは位の高い人よりも,さらに高い者があって,その人をうかがうからある。そしてそれらよりもなお高い者がある」。

      13 なぜ「すべての人」は従うべきですか。これが天使にあてはまらないことは,どうして分かりますか。

      13 クリスチャンたちはこの世の政府との交渉を避けることができません。それで,パウロはローマにいるクリスチャンたちにこう述べています,「すべての人は上なる権威に従うべきである」。彼らが魂なること,および魂としての彼らの生命が関係していると,パウロは彼らに思いおこさせています。会衆のすべての魂,すべての人は,服従をしなければなりません。例外の人はひとりもいません。パウロの生涯から,彼自身も例外でなかったことが証明されます。しかし,このクリスチャンの服従は,どの程度までのものですか。極限までですか。決してそうではありません。ロマ書 13章1節が,神と栄化された御子イエス・キリストだけに従っている天の御使たちにあてて述べられていないことを記憶して下さい。(ヘブル 1:5,6。ペテロ前 3:21,22)むかし,天の御使たちは人間の政府に対して戦いました。そして,将来の「全能の神の大いなる日の戦争」の時に人間政府と戦うでしょう。(黙示 16:14-16; 19:14-20)ロマ書 13章1節は天の御使たちに宛てられたものでなく,この地上にいるクリスチャンたちにあてられたものです。この地上には,この世の組織制度の政治的な政府がいまでも存在しているのです。

      14 限られた範囲において,クリスチャンの守るべき服従にはどんなものがありますか。

      14 この地上には,神の書かれた言葉に従いクリスチャンたちが従わねばならぬ,限定された服従の範囲はたくさんあります。ナザレにいた少年イエスでさえも,彼の地的な監督者ヨセフとマリヤに「お仕えになった」。(ルカ 2:51,52,新口。ガラテヤ 4:1-5)それで,テモテ前書 3章4節,エペソ書 6章1-4節では,子供たちがクリスチャンの両親に従うことが命ぜられ,若いクリスチャンたちは古い者に従い(ペテロ前 5:5)奴隷または僕は所有者すなわち主人に従い(テトス 2:9。ペテロ前 2:18。エペソ 6:5-8)妻は夫に(コロサイ 3:18。テトス 2:5。ペテロ前 3:1,5。エペソ 5:22-24)婦人は会衆内の兄弟たちに(コリント前 14:33,34)そして会衆の成員は,彼らに忠実に仕える兄弟たちに従うことが命ぜられています。(コリント前 16:16)この全部は比較的な服従の例であって,制限つきのものです。私たちは,あらゆることにもまして,ヤコブ書 4章7節(新口)のクリスチャンに対するいましめを行なわなければなりません,「そういうわけだから,神に従いなさい。そして悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば,彼はあなたがたから逃げ去るであろう」。

      15 したがって「上なる権威」に対する服従はどんな種類のものですか。そしてなぜ?

      15 同じく,クリスチャンがこの古い世の「上なる権威」に行なう服従は,比較的なものに過ぎません。それは神と良心を度外視しないからです。たとえば,各人が服従しなければならぬひとつの理由として,「神によらない権威はない」と使徒パウロは述べています。

      神のゆるしによる

      16 サタン悪魔はどうして権威を持っているのですか。サタンはそれをどうしましたか。

      16 サタン悪魔の持つ力は,もともと神から来たものです。しかし,私たちは一瞬といえども悪魔に従うべきでなく,彼に反対しなければなりません。悪魔は,この古い世を支配する目に見えぬ権威を持つことをゆるされました。さもなければ,彼がイエスを誘惑して罪を犯させようとしたとき,イエスに全世界的な権威を提供することができなかったでしょう。権力と権威を持つ人は,それを他の者に渡すことも,その一部を与えることができます。「大いなる龍」サタンは,彼の目に見える制度にそのことをしました。黙示録 13章1,2節(新口)は,この制度を獣と示して,次のように述べています,「龍は自分の力と位と大いなる権威とを,この獣に与えた」。

      17 クリスチャンは政治政府に従うとき,サタンに従うことになりますか。どこに違いがありますか。

      17 もちろん,このすべてには神のゆるしが必要でした。その結果,今日存在している政府や支配形態ができました。しかしサタン悪魔は,クリスチャンが服従しなければならぬ目に見える,地的な権威ではありません。クリスチャンが,存在していて,目に見える,地的な人間の政府,すなわち「上なる権威」に服従するとき,彼らはサタン悪魔なる龍に従っていません。彼らは神の命令に従っているのです。

      18,19 (イ)神はどんな目的を述べたゆえに,サタンを滅ぼすことをさし控えましたか。(ロ)約束の「裔」に関して,神は何を証明することが必要でしたか。

      18 ノアの日の洪水の前から今にいたるまで,神のゆるしがあったからこそ,龍なるサタンは,権力と権威を行使してきました。アダムとエバが罪を犯した後,エデンの園で神がサタンに向かって告げた言葉のゆえに,神はサタンを滅ぼすことをさしひかえました。神はこう言われました,「わたしは恨みをおく,おまえと女とのあいだに,おまえのすえと女のすえとの間に,彼はおまえのかしらを砕き,おまえは彼のかかとを砕くであろう」。―創世 3:15,新口。

      19 エホバ神かサタン悪魔かそのどちらが宇宙の主権を持つか,という新しく起きた論争を解決するために,時間と自由の活動を悪魔に許すことが必要でした。また,神の「女」のすえ,あるいは子孫がこの論争の中に介入したため,神は次の点を証明することが必要でした。すなわちサタン悪魔の圧迫を受けて最初の完全な人間は罪に堕落したが,エホバ神は悪魔の世の只中で,神に忠実を保つすえ,すなわち子孫をこの地に置くことができるという点です。このすえが地的な「上なる権威」に従っても,このすえなる子孫が神への忠節を守らないとか,神への忠実を破るということにはなりません。

      20 ウヅの地のヨブの例は何を示していますか。ヨブによって何が予影されましたか。

      20 忠実を保つ敬虔な人々に対して,サタンが力を用いることは神により許されています。そのことは,ウヅの地にいた忍耐づよいヨブの場合に示されています。エホバ神はサタン悪魔の挑戦を受けたとき,忠実なヨブについて次のように語りました,「見よ,彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。失敗したサタンが,ふたたび神に挑戦したとき,神はヨブについて次のように語りました,「見よ,彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。ヨブは,サタン悪魔が偽り者であるとふたたび証明しました。これにより,サタンが神の「女」のすえなる子孫に対して,その力を用いることが許されても,完全に失敗することは前もって示されました。―ヨブ 1:12; 2:6,新口。

      21,22 (イ)したがって「上なる権威」がその権威を行使できたのは,どうしてですか。(ロ)イエスはローマの総督に対し,この点をどのように明白にしましたか。

      21 目に見える人間の「上なる権威」についても,サタンの場合と同じことが言えます。これらの「上なる権威」は,中に含まれている論争のゆえに神からゆるされないかぎり,権威を行使できません。したがって,神の「女」のすえの主要な者,すなわちイエス・キリストが,ユダヤの地的な上なる権威,ローマ総督ポンテオ・ピラトの前に立ったとき,イエスはひじょうに啓発的な言葉を述べました。イエスはそのとき,人間としての彼の生死が決められるさばきにかけられていました。

      22 イエスが,彼の天的な起源についてローマ総督に告げることを拒絶したとき,「ピラトは彼に言った,『何も答えないのか。わたしには,あなたを釈放する権威があり,また杙につける権威があることを知らないのか』。イエスは答えられた,『あなたは,上から賜わるのでなければ,わたしに対してなんの権威もない』」。(ヨハネ 19:9-11,新世)ピラトは,神からのゆるしがあったからこそ,イエスに対して地的な権威を行使し,彼を殺すことができました。

      23 ゆえに女の裔の他の成員に対する攻撃の場合,何が真実ですか。アメリカ訳のロマ書 13章1節はこの事とどのように一致していますか。

      23 同じことは他の政治的な「上なる権威」全部についても言えます。彼らは,神の「女」のすえなる子孫の他の忠実な者たちに対して反抗します。たとえば,今日,彼らは「そのすえの残れる者」に対して反抗します。(黙示 12:13,17)それで,ロマ書 13章1節のパウロの言葉は,これらの「上なる権威」の持っているゆるされた権威を指すのです。この事実と一致するものとして,聖書のアメリカ訳は,ロマ書 13章1節を次のように訳しています,「すべての人は上に立つ権威に従わなければならぬ。神のゆるしなしに存在できる権威はない」。

      24 このような許された権威は,神の民に害となりますか。権威は神権によるものですか。

      24 不完全で罪深い人間の支配者が,このゆるされた権威をどのように使用しようと,それは,神の忠実な民に永久の害になることはないでしょう。かえって,それは神の忠実な民の永久の益になるでしょう。神は権威を持つ人間が,権威をどのように用いるかを見守っています。神の書かれた御言葉の示すように,神はその良い使用と悪い使用を御存じです。それで,そのような使用は,神のゆるしによるのであり,「上なる権威」が「神権」よって支配するからではありません。

      立てられた,「存在している権威」

      25 「存在している権威」は,どのように立っていますか。

      25 ロマ書 13章1節は,神によってゆるされているという考えについて,さらに次のように述べています,「存在している権威は,神により比較的な地位に立てられたものである」。パウロがここで用いたギリシャ語の動詞タッソは,「秩序立てる,特定な秩序に定める」という意味です。ルカ伝 7章8節では,それは他の人の命令に服するという意味を持っています。それは事柄の配列ということに言及します。(マタイ 28:16。使行 28:23; 15:2)ロマ書 13章1節は,存在している権威が神によって創造されて立っていると述べていないことに気をつけねばなりません。神はそれらのものの創造者でありません。神はそれらのものが存在するようになることを許し,またそのことを先見さえしました。また,それらのものの存在をゆるすことをさだめたので,その来ることを預言されたのです。神は地上にあるこれらの「上なる権威」と,彼の「女」のすえなる子孫との関係をいつも留意していました。

      26 何を顧慮して神は世の人々の境界を定めましたか。そしてなぜ?

      26 昔のイスラエルすなわちヤコブのユダヤ人の国民の場合にこれが見られます。神の預言者モーセは,イスラエル(すなわちヤコブ)の国民をエジプトからみちびき出し,約束されたカナンの地の国境に達するまで,数多くの国を通過しました。モーセは,その国境のところで,死ぬ前に預言的な歌をつくり,その中で次のように述べました,「至高者(エホバ神)人の子を四方に散らして万の民にその産業を分ちイスラエルの子孫の数に照して諸の民の境界を定め給へりヱホバの分はその民にしてヤコブはその産業たりヱホバは只独にてかれを導き給へり別神は之とともならざりき」。(申命 32:8,9,12)この国民の中から神の「女」のすえの主要な者と,そのすえの他の数千人という成員が出て,聖書の預言は成就されました。エホバが「イスラエルの子孫の数に照して」この世の国民の境界を定めた理由がなっとくできます。エホバはこのすえを産み出すことに関心を持っていました。

      27 同じ考えを抱いたパウロは,アテネの高等法廷において何と述べましたか。アブラハム,イサク,ヤコブの場合に,これはどのように示されましたか。

      27 使徒パウロは同様な考えを持ち,ギリシャ,アテネにあった高等法廷にこう言いました,「この世界と,その中にある万物とを造った神は天地の主であるのだから手で造った宮などにはお住みにならない。……また,ひとりの人から,あらゆる民族を造り出して,地の全面に住まわせ,それぞれに時代を区分し,国土の境界を定めて下さったのである。こうして,人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば,神を見いだせるようにして下さった。事実,神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」。(使行 17:24,26,27,新口)神がどのように彼らの時代を区分し,国土の境界を定めたかは,聖書の歴史から分かります。アブラハム,イサクそしてヤコブがカナンの約束の地をさまよっていたとき,エホバは異教のカナン人がその地に在住して,権威を行使することを許しました。アブラハム,イサクおよびヤコブはそれを認めねばならなかったのです。「この国よりかの国にゆき,この国よりほかの民にゆけり人のかれらを虐ぐるをゆるしたまはず,かれらの故によりて王たちをこらしめて宣給はくわが受膏者たちにふるるなかれ,わが預言者たちをそこなふなかれ」。―詩 105:13-15。

      28,29 (イ)「アモリ人の悪」が満たされたとき,神はアブラハムの子孫であるご自身の民に対して何をされましたか。(ロ)神は,カナンの土地にむかうイスラエル民族が何をすることを許しませんでしたか。

      28 数百年後,カナンの地にいた「アモリ人の悪」が満ちて,彼らを約束の地から取りのぞくエホバの定めの時が来たとき,エホバはモーセの手を通してアブラハム,イサクおよびヤコブの子孫たちをエジプトから連れ出しました。そして,彼らを荒野と諸国民の中を通らせ,ヨルダン川の東の岸にみちびきました。―創世 15:13-21。詩 105:26-45。

      29 カナンの地に向かうこの行進中,神はイスラエルの国民がエドム(あるいはエサウ。セイル山),モアブおよびアンモンの諸国民をなやまし,侵略し,あるいはくつがえすことを許しませんでした。なぜですか。エホバは次のように言われています,「わたしがセイル山をエサウに与えて,領地とさせたからである」。「モアブを敵視してはならない。またそれと争い戦ってはならない。彼らの地は,領地としてあなたに与えない。ロトの子孫にアルを与えて,領地とさせたからである。……わたしはアンモンの子孫の地を領地として,おまえに与えない。それをロトの子孫に領地として与えたからである」。―申命 2:5,9,19,新口。

      30 神はイスラエルによって他の国々の民にどんな処遇を与えましたか。敵の国々のあるものがカナンの地に残ったのはなぜですか。

      30 エホバは,彼の選民イスラエルに他の国民を滅ぼすことを命じました。たとえば,シホン王のひきいるアモリ人,バシャンのオグ王のひきいるアモリ人,そしてヨルダン川の東にいたカナン人たちでした。(申命 2:31から3:13まで)しかし,侵入して行ったイスラエルの国民が敬神の熱意を失ない,ペリシテ人,シドン人,ヘテ人,ヒビ人,アモリ人,ペリジ人,およびエブス人のようなカナン人を滅ぼして,従属させようとしなかったとき,エホバはイスラエル人をなやまして,彼らのわなにするためこれらの敵を存続させると言われました。―シシ記 2:20から3:6まで。

      31 「諸国の定められた時」以前またその期間中イスラエルの周囲の国々と神について,何が言えますか。

      31 エホバ神は,選民のまわりにいた他の異教の国々,たとえばバベル(バビロン),アッスリア,シリアそしてまたエジプトの存在に気づいていました。エホバはエジプトに災をくだしましたが,その存続を許しました。これは,西暦前607年に異邦人の時の始まる以前のことでした。エホバ神ご自身「諸国民の定められた時」を前もって告げられ,御子イエス・キリストもこの世の組織制度の終りについての預言の中で,「諸国民の定められた時」について述べられました。(ルカ 21:24。エレミヤ 25:8-29。申命 28:64-68。レビ 26:31-41)エホバはまたその預言者イザヤ,エレミヤ,エゼキエルおよびダニエルを通して,(西暦)1914年に異邦人の時が終わるまで,世界強国がバビロンをその初めとしてどの順序に起きるかをあらかじめ告げました。c

      32 1914年以降の諸国家のグループおよび連合について,神は何を預言されましたか。パウロは「上なる権威」に関する手紙を,どんな時期に書きましたか。

      32 聖書の最後の本は,おどろくべき象徴により,1914年以来のこの「終りの時」に存在する諸国家の群れや,連合をあらかじめ告げました。たとえば,悪魔の目に見える地的な制度,また英米両国の世界強国,そして国際連盟や国際連合です。(黙示 13:1から19:20まで)エホバ神は,また「全能の神の大いなる日の戦争」において,これらの「上なる権威」の滅亡をも預言されました。使徒パウロは,異邦人の時代のうちでもローマ帝国の時代に,これらの「上なる権威」に関して手紙を書きました。「ものみの塔」は,異邦人の時が1914年に終わってから48年後に「上なる権威」に関するこの記事をのせています。

      33 ロマ書 13章1節が適用されるのは1914年までですか。それは何時,適用されなくなりますか。

      33 しかし,ロマ書 13章1節の適用は,1914年に終りませんでした。その年に「諸国民の定められた時」が終っても,異邦人「上なる権威」は地上に存続しました。しかし,それらは,1914年に天で設立された神の御国のさばきを受けているのです。神の御子イエス・キリストは神の右にいて御座についています。それら異邦人の「上なる権威」は,多くの変化と調整を経ましたが,現在でも存在しています。全能の神は,御自分の御心にしたがって諸国民の中から羊のような人々を集める仕事が終わる時まで,このことを許しつづけます。そのとき,神はそれらを滅ぼすためにハルマゲドンと呼ばれる宇宙的な戦争を始めます。

      法律の相違

      34 法律が変ったり,また異なる法律があるのはなぜですか。これは異邦の国民だけについて言えることですか。

      34 異邦人の時の期間中,世界強国は次々に世界を支配しました。その間,国民が従わねばならぬ法律が時代に応じて変化したことは当然です。また,ある国の法律はその国の支配権威者の考えに従い,他の国々の法律とちがいました。ひとつの場所の法律は,他の場所の法律に反するものかも知れません。しかし,御自分の民に対する神の律法でさえ,時代によってちがっていました。たとえば,イスラエルの国民は,モーセを仲立ちとしてエホバとむすばれた古い契約の律法の下にいました。しかし,西暦33年以来霊的なイスラエルの「聖なる国民」は,御子イエス・キリストを仲立ちとする神の新しい契約のクリスチャン律法の下にいます。神は昔のユダヤ人が脂,豚肉および汚れた動物を食べることを禁じました。しかし,いま神の律法によれば,クリスチャンたちがこれらのものを食べることは許されています。しかし,神はこのことで矛盾しているわけではありません。

      35 異邦人の法律の多くがクリスチャンの良心と一致しているのはなぜですか。

      35 人間の法律は,国により,時代によりちがいます。また,矛盾することもあります。しかし,これら異邦人の法律全部が神の民の良心に反するわけではありません。異邦人の立法者たちは,ユダヤ教やキリスト教の影響を受けなくても,彼らの法律の多くはクリスチャン良心と一致しています。どうしてそうですか。その答えは容易です。すべての国民は最初のひとりの男アダムとその妻エバの子孫であって,神はこの両人に善悪を判別する感覚,すなわち「良心」と呼ばれるものを入れられました。すべての国民は,そこから始まりました。しかし,また,すべての国民は,それよりも新しい時,つまりいまから4300年前に世界を覆った大洪水の生存者,すなわち良心的なノアと彼の3人の息子および彼らの妻,合計8人の正義の先祖から出発しました。

      36,37 パウロの説明している通り,このような法律は何の影響を示していますか。

      36 良心は,神により人間の一部にされたものであって,人間に生まれつきそなわっているものです。ノアの時の大洪水以来,幾千年もの年月が経過しました。しかし,神の選ばなかった民,神に献身していない民から,良心がまったくぬぐい取られたわけではありません。それで,彼らの法律の大部分は,いまでもある程度残っている神からの良心の結果を示しています。この点について,パウロはローマにいたクリスチャンたちに次ように告げました。

      37 「律法を行う者が,義とされるからである。すなわち,律法を持たない異邦人が,自然のままで,律法の命じる事を行うなら,たとい律法を持たなくても,彼らにとっては自分自身が律法なのである。〔どうしてそうか〕彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し,そのことを彼らの良心も共にあかしをして,その判断が互にあるいは訴え,あるいは弁明し合うのである」。―ロマ 2:13-16,新口。

      38,39 (イ)クリスチャンは服従するとき,「上なる権威」の法律に関して何をしますか。(ロ)メデア-ペルシャの支配下にいたダニエルと,ネブカデネザル王の下にいた3人の友の例は,服従に関して何を示していますか。今日のクリスチャンは神に対して不法を行なう者でないことを,どのように示しますか。

      38 クリスチャンはそれぞれの政府や法律の制度を持つ異邦人の「上なる権威」に服従するとき,神が人間の心に最初書いたとおりの良心のわざを示すそれらの律法に従います。クリスチャンがこの世の「上なる権威」に服従することは,比較的なものに過ぎません。それで,彼らには最高の法律の与え主,エホバ神の律法に反するこの世の法律に従う義務はすこしもないのです。異邦人の時の期間中,預言者ダニエルは,エホバに毎日定期的に祈ることを禁じたメデヤ ― ペルシャ人の法律に従いませんでした。ダニエルが獅子の洞穴から奇跡的に救い出されたことは,彼の行いの正しいことを証明しました。ダニエルは,神の律法を破ってまでもダリヨス王に従わなかったのです。―ダニエル 6:1-23。

      39 ダニエルの3人のヘブル人の友は,バビロンに捕われていましたが,金の偶像の前で拝むことを要求した皇帝の法律に従いませんでした。ひじょうに熱い炉から彼らが火傷も受けず,死なずに出て来たことは,良心的な彼らが皇帝の命令に従わず,偶像崇拝を禁ずる最高の神の律法を破らなかったことの正しさを証明しました。(ダニエル 3:1-30)今日のエホバの証者は,昔のエホバの証者と同じく,神の律法に反する人間の法律に従いません。彼らは神に対して不法の者ではありません。それで,彼らは神の律法に反しない異邦人の「上なる権威」の法律全部に従います。かくして,彼らは法律を守る市民として服従するのです。

      40 (イ)神によって立てられたものならば,「存在している権威」は神御自身との関係においてどんな地位に立っていますか。(ロ)これらの権威は地上において優越性を持っていますか。なぜクリスチャンはそれに従うことがどうしても必要ですか。

      40 聖書の歴史を調べるとき,また異邦人の諸国民の中に成就された聖書の預言を研究するとき,次のように述べたロマ書 13章1節(新世)の正しいことが分かります,「存在している権威は,神により比較的な地位に立てられたのである」。最高者なるエホバは,この世の諸国家やその「上なる権威」の神ではありませんが,しかしそれらを支配しています。エホバはそれらを比較的な立場に置き,それらが世界強国となることを定めても,それらが御自身よりも,あるいはキリストよりも高くなるように取決めませんでした。しかし,それらの権威は,地上において比較的な優越性を持っていますか。そうです。クリスチャンたちに対しても,持っています。彼らは真のクリスチャンも持たない権威の行使を許されています。どうしてそうですか。すなわち,そのようなクリスチャンたちは政治に加わらず,皇帝,王,長官,市長,その他になってこの世の権威を求めません。現在存在しているこれらの権威は,間もなくハルマゲドンで滅ぼされるこの世の一部です。クリスチャンは滅亡に定められているその世の一部ではありません。しかし,神のゆるしにより権威が存在するかぎり,クリスチャンは比較的な程度において服従しなければなりません。d

  • 権威に従うことの益
    ものみの塔 1962 | 12月1日
    • 権威に従うことの益

      1 人はどのようにして,権威に関する神のとりきめに逆らうようになりますか。神はそのような人がどうなることを妨げませんか

      だれが神の取決めに対して意識的に逆いたいと思いますか。人は,神が地上の高い地位にいる人々に行使をゆるしている権威に逆らうなら,神の取決めに反抗することになります。反対は人に益を与えません。使徒パウロはロマ書 13章2節(新口)で次のように述べています,「したがって,〔前に論じたごとく,パウロが第1節で述べている言葉のゆえに〕権威に逆らう者は,神の定めにそむく者である。そむく者は,自分の身にさばきを招くことになる」。そのような反対は,神の取決めに逆らうことです。それで,神は反対者が権威を持つ者によってさばかれることを妨げません。

      2 イエスはなぜ地上の権威に反対しませんでしたか。そのためにどんな報いを得ましたか。

      2 イエスは神の取決めを良く知っていました。それで,イエスは死刑に処せられても,地上の権威に反対しませんでした。エルサレムにいたローマの長官は,神のゆるしによりイエスを死刑に処する権威を持っていて,イエスはそれに反対しませんでした。イエスが長官に告げたように,長官の権威は限られたものでした。なぜなら,神の権威は最高で絶対的なものだからです。(ヨハネ 19:10,11。ルカ 20:20)それでイエスはカイザルに上訴しませんでした。彼は,イザヤ書 53章6,7節を成就するため,反抗しない小羊のごとく神の取決めに従いました。(使行 8:32,33)しかし,イエスに対する死刑の宣告は,彼が「権威」に逆らったからではありません。彼を偽って告訴した者たちが長官を説き伏せ,長官は宗教的な暴動を食いとめようとしたのです。イエスは地上の「上なる権威」に関して,神の取決めに逆らわなかったため,報いを受けました。彼は死人の中より天の生命に復活され,天の神の右で王座をいただきました。

      3 (イ)何をしたためにイエスは殺されましたか。イエスは後になって弟子たちに何を命じましたか。(ロ)聖書を伝道することは,神のとりきめに対して逆らうことはありません。それはなぜですか。

      3 イエスは神の御国の良いたよりを伝道しました。彼はそれを伝道したために殺されたのです。ローマの「権威」は,彼が神の御国を伝道したので彼を殺しました。イエスは,御国の伝道の正しいことを知っていました。それで,彼は死人の中から復活を受けて後,弟子たちに現われて,神の御国の同じ良いたよりを伝道しつづけよと彼らに命じたのです。彼はこの伝道をしたために地上の生命を失いました。この伝道は,この世の「上なる権威」に服従しなかったからではありません。そのような「上なる権威」は,救いの良いたよりを伝道せよと命ずるキリストを通しての神の命令を取りのぞくことができません。それで,この世の権威に従うことは,神の御言葉の伝道をやめることではありません。この伝道は,この世の権威についての神の取決めに逆うことではありません。伝道はすべての権威のみなもとなる神に正しく従うことを意味します。

      4 神はなぜ,私たちが御国の伝道のゆえに長官や王たちの前に引き出されるのを許しますか。

      4 神の御言葉を伝道するために迫害を受けても,私たちがこの世の権威に逆らうことではありません。私たち伝道者が良いたよりを伝道するために,王や長官や裁判官の前に引き出されるとき,神は彼らに証言を与えるため,またできるなら私たちがこれらの権威の援助を受けるためにそのことを許します。それで,弟子たちが迫害されて支配者の前に連れ出されるとき,伝道をやめよとイエスは言いませんでした。(ルカ 12:11,12)彼はその機会を用いて証言を行ない,御国の証言を「上なる権威」に達せしめ,彼らに証言することを恐れてはならぬと私たちに告げました。私たちはその機会を捉えて彼らに証言しなければなりません。イエスはこう語りました,「あなたがたは,わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは,彼らと異邦人とに対してあかしをするためである」。―マタイ 10:18,新口。

      5 使徒たちは,ユダヤの法廷に従わないことをどのように説明しましたか。それで彼らはどなたと一致していましたか。

      5 ペテロとキリストの他の使徒たちは,「人間に従うよりは,神に従うべきである」と語り,エルサレムにあったユダヤ人の最高法廷の命令に従わなかった理由を説明しました。これは,その当時運営されていてローマ政府から承認されていたユダヤ人法廷に対して不法の反対をしたことではありません。(使行 5:29)神がその法廷を滅ぼすということは,使徒たちの知るところでした。それで,彼らはクリスチャン会衆内においても,それに反対する陰謀や反逆をたくらまなかったのです。彼らは法廷に反対する政治的な行動を人々にそそのかしませんでした。彼らは次の二つの点で神と一致していました。すなわち(1)神が存在させている権威に従うこと,および(2)伝道を命ずる神のいましめに従うこと。

      6,7 (イ)キリスト教国の宗教組織は,どのように神のとりきめに逆らう罪を犯してきましたか。(ロ)ローマカトリック教会は,この点でどのように有罪ですか。そのどんな主張にもかかわらず,そうですか。

      6 キリスト教国内の宗教制度は,神の取決めに逆らいました。どのように? 許されている権威に従うよりも,その権威に逆らっているのです。どのように? 彼らは政治に介入して,国家の首位を占め,国家を支配しようとしているのです。

      7 上は法王から下々の者にいたるまでローマ・カトリック信徒は「上なる権威」,あるいは「高い権力」(ドーエイ訳,欽定訳)よりも,地上で高いものになろうとつとめました。歴史を読む人は,だれでもそのことを知っています。ローマ・カトリック信徒は真のクリスチャンのように,政治的な「上なる権威」に従おうとせず,むしろその権力を牛耳ろうとしました。幾世紀もの間,ローマ・カトリック教会とキリスト教国の諸国家間の戦いはつづきました。彼らは,ある国々に教会法規を強制し,国家をして宗教的な異端者たちを処刑させました。彼らはカトリックでない国々に対して反乱を起こし,教会の是認しない政府の顚覆をはかりました。彼らは教会と国家を結婚させて結合させたのです。この結合において,彼らは,夫に従うという妻の役割をはたさず,むしろ夫のかしらの役割を果たそうとしました。それでいながら,ローマ・カトリック教会はキリストの花よめであり,パウロを通して与えられたロマ書 13章1,2節,およびペテロを通して与えられたペテロ前書 2章13-17,21-24節にあるキリストの命令に従うと主張するのです。いま,ローマ・カトリック教会は当然のさばきを受けています。

      8 ここでパウロの使っている「裁き」というギリシャ語は,どの言葉ですか。この言葉が,来るべき裁きの日だけに限定されているかどうかは,どうしてわかりますか。

      8 権威に逆らう者の受けるさばきは,キリストの千年統治期間中に受ける将来のさばきではありません。それは,いま世界で権力を持つ「権威」が執行するさばきです。パウロは「さばき」にクリマという言葉を用いました。それは「さばきの日」という表現中に用いられている言葉ではありません。その表現の中では,クリミスという言葉が「さばき」に用いられています。クリマという言葉は,個別的なさばきを意味するもので,それはいつの時でも行なわれるさばきであり,人間のさばきにも,神からのさばきにも適用します。それはハルマゲドン後の将来のさばきの日におけるさばきに限定されていません。それで,ルカ伝 24章20節によると,クリマすなわち「死刑の宣告」が,ローマの長官によりイエスに執行されたと述べられているのです。そして,コリント前書 6章7節は,クリマタを持つこと,すなわち互に「さばき」合う,あるいは「訴訟し合う」ことを述べています。―ヤング訳,ロザハム訳,新世訳。

      9 この世の権威は,悪行に対する裁きをだれに下しますか。会衆は悪を行なった成員に何をしなければなりませんか。

      9 もし人々が礼節や良い秩序に関する法律を破るなら,会衆内の者であろうと,会衆外の者であろうと,この世の権威はさばきを執行して,その人々を罰します。パウロがカイザルのさばきの座の前で述べた言葉からも分かる通り,法律違反者たちはその罰に対して不平を言う権利はありません。(使行 25:11)それで,クリスチャン会衆の成員が盗みをしたり,密輸入したり,二重結婚したり,殺人をしたり,誹毀したり,かたりをしたり,その他をするなら,クリスチャン会衆はそれらの者を保護することができません。会衆は,そのような有罪者をこの世の権威に引き渡して,罰を受けさせねばなりません。有罪者は国の法律を破って,「権威」に反対するゆえ,神の取決めに逆らっています。

      10 会衆は,その成員の中で法律を破る者に対して,どの程度まで処置をしますか。なぜですか。

      10 そのような反対者や法律違反者が,国の「権威」によって正しく罰せられるのは当然です。クリスチャン会衆は,そのような者を保護せよという命令を神から受けておらず,またそうする権利もありません。私たちは,法律を破る者たちを援助したり,保護したりすることにより,クリマすなわちさばきの執行を妨げたり,反対したりあるいは非難することができません。そうすれば,クリスチャン会衆を神の取決めに反対させてしまいます。また,会衆は,神の民に非難をもたらす非行者にクリマすなわち「さばき」が執行されるのを許すと共に,そのような法律違反者を排斥することができます。会衆は,法律の違反者に味方して協力し,この世の「権威」に反対するなら,法律の違反者とともにクリマすなわち「さばき」を受けるでしょう。会衆はそれを望みません。会衆はまた非難を望みません。

      悪事をするものにとって恐怖

      11 ロマ書 13章3節にある,支配者とはだれですか。またそれを行なっている者が恐れる必要のない「善事」とは何ですか。

      11 前述の考えに引きつづいてロマ書 13章3節(新世)は次のように言葉をつづけています「いったい,支配者たちは,善事をする者には恐怖でなく,悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは,善事をするがよい。そうすれば,彼からほめられるであろう」。ここに述べられている支配者は,ヨハネ伝 12章31節,14章30節,エペソ書 2章2節,6章12節に示されているような,この世の目に見えぬ支配者,すなわちサタン悪魔と悪鬼ではありません。ここに述べられている「支配者」は,目に見える,地上の人間です。「善事」をする者は,そのような支配者を恐れる必要がありません。神の御国の良いたよりを伝道することは,最善の行いですが,その「善事」は,良いたよりの伝道を意味していません。「善事」は,「上なる権威」の法律がすべての人に命じている良いわざ,そして普通一般の人々が行なう良いわざを意味しています。

      12 カイザリヤの法廷におけるパウロの訴えから見て,その当時までローマの皇帝が,伝道する人々に対して「恐怖の的」になっていたかどうかは,どうしてわかりますか。

      12 パウロが西暦56年にローマのクリスチャン宛にその手紙を書いたとき,ネロ皇帝は支配していました。それで,パウロはこのローマの皇帝に上訴したのです。なぜパウロは,帝国の権威を持っていたこの異教の支配者に上訴しましたか。ユダヤ人の区域内でも神の御国の良いたよりを自由に伝道するためでした。(使行 25:8-12; 26:1-7)それでその当時,神の御国の伝道というすばらしい行いをする者にとって,ネロ皇帝は「恐怖」ではありませんでした。ネロ以前の皇帝,クロージァス(西暦51-54年)は,アキラとプリシラを含めて,生来のユダヤ人をローマから追放しました。クリスチャンたちは,その宗教の起源のために,ユダヤ人と混同されたかも知れませんが,しかし,クロージァス皇帝のこの処置は,クリスチャンに反対するものではありませんでした。―使行 11:28; 18:2。ヨハネ 4:22。

      13 当時までクリスチャンの迫害者はおもにだれでしたか。パウロは何をする人であったにもかかわらず,ピリピの獄から釈放されましたか。

      13 ローマの大火はまだ起きていない時でした。偶然に起きた64年のローマの大火以来異邦人たちは組織的にクリスチャンたちを迫害するようになりました。さて,パウロの場合,ユダヤ人たちはキリスト教の宣教を妨害しました。それで,パウロはそのキリスト教の宣教を守るためにネロ皇帝に上訴することができたのです。そのときまで,クリスチャンは主としてユダヤ人から迫害を受けました。マケドニヤのピリピでパウロとシラスに降りかかった災難は,恐喝者たちがこの二人の宣教者について異邦人の施政官に偽りの告訴をしたためで,この場合両人はユダヤ人であると告げられました。このとき,パウロは彼の持つローマ市民権に効果的に言及することにより,活発なクリスチャンであったにもかかわらず獄から出されました。―使行 16:19-21,37-39。

      14 それではパウロがカイザルに上訴することを恐れなかったのはなぜですか。この事は,パウロがロマ書 13章3節で支配者に関して述べた事柄をどのように確証しますか。

      14 それでパウロがフェスタス長官の前に出たとき,彼はカイザルに上訴することを恐れませんでした。パウロは神の御言葉を伝道していましたが,悪事を何ひとつしなかったからです。パウロは,伝道しつづける権利を守るため,このローマの最高法廷に上訴しました。パウロは,エルサレムとカイザリアで投獄される前,そして皇帝ネロに直接上訴するためローマに移送される幾年も前に,ローマ人に宛てて手紙を書きました。ローマが火事で燃える5年前,すなわち西暦59年頃,はじめてパウロはローマに到着しました。それで,御国を伝道する者たちにとってこの世の高い地位について支配している者たちは恐怖の対象でないとロマ書 13章3節で正しく書くことができました。

      15 支配権にはどんな合法の目的がありますか。ハムラビ法典でさえも,この事をどのように示していますか。

      15 「支配者たちは……悪事をする者にこそ恐怖である」。これは,そのような支配者が「権威」を行使するからです。支配権の正しい目的は,悪事をはばみ,抑制するためです。支配者は,国の法律に従って悪に対処しなければなりません。そのような法律に見られる正義は,神が最初の人間の中に植えた良心の結果を示すものであって,いまでも良心のいくらかは人間の立法者にあるのです。支配者は,正しい行いにより,悪を行なおうとする人々に対して,悪事を思いとどまらせる恐れの気持を吹き込まねばなりません。昔のバビロンの異教のハムラビ王の法律序文もこのことを示しました。第一欄で彼は次のように述べています,「そのとき彼らは私をハムラビ,高められた君,神々を敬う者,国内に正しいさばきをする者,悪を追放する者,強者の圧迫から弱者を救い出す者……国土を照らす者,そして人々の福祉を促進する者と呼んだ」。a

      16 人々は支配者に何を期待しますか。なぜ神は,支配者が権威をふるうことを許しますか。権威の濫用は神の定めによるものですか。

      16 悪事をする者にとって,支配者は恐怖の的です。それはエホバの制度内で権威を持つ人々について言えるだけでなく,この世の「上なる権威」の人々についても言えます。これこそ,人間の支配者全部の述べている目的であり,これこそその支配を受ける国民が支配者に期待しているものです。支配者たちが恐ろしい権威を行使するとき,悪事は抑えられます。神は地上のこの世の支配者に権威の行使を許しています。かくして神の約束された御国と比較するとき,権威を持つ彼らがどの程度の善をしたかが分かります。地上における権威の濫用は,神によって定められていません。それは悪魔的なものです。不法と無秩序を抑えて,益を受けるため,権威の正しい行使がなされます。

      17 (イ)クリスチャンは伝道するとき,なぜ「権威を恐れる」ことがありませんか。(ロ)権威からほめられるため,ロマ書 13章3節に従ってクリスチャンの行なうべき善とは何ですか。

      17 そのような権威の法律や命令は,たいてい出版されて,人々に知らされているため,悪事をする者が「権威を恐れる」のも当然です。神の御国の良いたよりを伝道して教える者は,恐れを持ちません。なぜなら,彼らは悪事を行なわず,最大の善を行なっているからです。しかし,ロマ書 13章3節(新口)が「善事をするがよい。そうすれば,それ(権威)からほめられるであろう」と述べるとき,それは御国の伝道に言及していません。それは,神の御国を伝道しない人々も従う国家の良い法律に従うことに言及しています。権威は,法律に従う人々や市民をほめることにより,良い秩序,礼節,および一般的な善行を促進します。ローマの長官フェスタスは,ヘロデ王アグリッパ2世に使徒パウロのことを話しかけたとき,彼をほめました。―使行 25:24-27。

      18 それではエホバの証者が文官の支配者からほめられるのは,意外なことですか。

      18 それでパウロは,神の御言葉の伝道に関して,権威をすこしも恐れませんでした。彼はアグリッパ王とフェスタス長官の前でよろこんで弁明しました。(使行 26:1-3; 25:8-11)今日,エホバのクリスチャン証者が民政官からほめられるのも珍らしいことではありません。第二世界大戦中,アメリカ合衆国の検事次長,フランシス・ビドルは,44のアメリカの州で誤導された熱狂的な,偏見を持つ人々の起こした暴徒の行動をしずめるために,エホバの証者に有利な発言をしました。b これは有益なことでした。

      (この連載記事のつゞきは次号をご覧下さい。)

      [脚注]

      a サー・ウォリス・バッジ著「バビロンの生活と歴史」,1925年版124頁。またランズデル・ウォードル著「イスラエルとバビロン」,1925年版253,254頁。ハーバート・ミユーラー著「古代世界における自由」,1961年ニューヨーク版を見なさい。

      b 1962年6月1日号「ものみの塔」の「神の目的とエホバの証者」を見なさい。

  • 老人と困っている者に対する思いやり
    ものみの塔 1962 | 12月1日
    • 老人と困っている者に対する思いやり

      むかしエホバ神は,老人と困っている者の正しい扱い方について,ご自分の民に戒めをお与えになりました。そしてこのように命令されました,「白髪の人の前には起あがるべしまた老人の身を敬ひ汝の神を畏るべし我はエホバなり」。「その隣をいやしむる者は罪あり,困苦者をあはれむものはさいはひなり」。(レビ 19:32。箴言 14:21)耳の聞こえない人,目の見えない人にも,同様の尊敬を示すことをエホバは要求されました。また,3年毎に,その年の産物全体の10分の1を,レビ人および彼らの門のうちにいる他国の人,みなし子,やもめに与えよとご自分の民に命令されました。―レビ 19:14。申命 14:28,29。

      初期のクリスチャンの思いやり

      イエスもその弟子たちも同じく,老人と困っている人々に思いやりを示すべきことをクリスチャンたちに教えました。イエスは偽善的なパリサイ人に言われました,「神は言われた,『父と母とを敬え』,また『父または母をののしる者は,必ず死に定められる』と。それだのに,あなたがたは『だれでも父または母にむかって,あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です,と言えば,父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって,神の言を無にしている」。(マタイ 15:4-6,新口)エホバの御言葉を軽んじたためにパリサイ人は,神から不利な判決を受けました。イエスが言われたとおり,神の御国は彼らから取りあげられ,正しい行いをしている者たちに与えられました。

      それらの行いの一つは,実際的な方法で示される兄弟愛です。使徒ヨハネはこの愛を強調し

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