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マンガ ― 昔はどうでしたか目ざめよ! 1983 | 9月22日
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マンガ ― 昔はどうでしたか
そもそもの始まりは「イエロー・キッド」でした。これは1896年にニューヨーク・ワールド紙に載せられるようになったユーモラスな漫画で,非常な人気を博しました。やがて新聞の読者たちは,「ずるいじいさん」,「バスター・ブラウン」,そして「酔いどれ小僧」などのこっけいさにも笑わされるようになりました。連続漫画の誕生です!
それらは本当におかしい漫画でした。「陽気なフーリガン」,「ラバのモード」,「マットとジェフ」,「気ちがいネコ」などといった題を見ただけでも,これらの創作漫画に表われる陽気な笑いの質が分かります。これらのこっけいな主人公たちは,クライマックスとなったあの年,1914年以前の無邪気な時代をよく反映していました。しかし,振り返ってみると,すべてが本当にこっけいなものであったわけでないのかもしれません。例えば,人気のあった「酔いどれ小僧」によって,読者たちは「お仕置きや脅しや約束などに首尾よく抵抗する妨害行為の組織的な運動」と呼ばれてきたものを叫び求めるようになりました。
スーパーヒーローの登場
やがて出版社はこれら人気のあるシリーズの幾らかを本の形で復刻することにしました。しかし,当初これらのマンガ本は広告主によって無料で配られる宣伝用の品にすぎませんでした。しかし,1934年にウィルデンバーグとゲインズという出版業者が,若者たちも10㌣なら,「有名漫画集」と名付けたマンガ本を喜んで買い求めるだろうということに賭けました。これもやはり大当たりしました。そのため,幾つもの出版社が高校出たての漫画家を使い,激しい読者争奪戦を演じました。
1938年は転換点になりました。シーガルとシャスターという若いチームが,自分たちの作り出したマンガの主人公 ― スーパーマン ― を世に送り出す出版社を見つけたのです。原作者の一人によると,スーパーマンは「サムソンとヘラクレス,そして私が聞いたことのある勇者すべてを一つにひっくるめたような主人公,いやそれ以上のもの」になることになっていました。この「鋼鉄の人」は老若を問わずあらゆる年齢層の人の想像力をとりこにしました。やがてこの月刊誌は年間100万㌦のもうけをもたらしていました。そしてこの成功で拍車がかかり,数々の出版社がマントを着けた正義の味方をほかにも作り出すようになりました。
しかし,次の世代のマンガは性と暴力と恐怖の領域へと落ちてゆきました。暴力的に生々しいマンガで「犯罪は金にならない」と題するものがありましたが,そうしたマンガは実際には出版社にとって非常に大きなお金になりました。そして1950年代が過ぎてゆくにつれて,マンガはまた,「埋葬室からの物語」というような主題で年若い読者たちを震え上がらせるようになりました。
多くの場合に,マンガはもはや漫画的なものではなくなっていました。
一般の人々からの抗議
1954年に,「無邪気な者たちに対する誘惑」というフレデリック・ワーサムの本が,マンガ産業は若者を堕落させているとして同産業をやり玉に上げました。ワーサム博士は情緒不安定の子供たちを調査し,その多くがマンガの愛読者であったことを明らかにしました。結論としてワーサム博士は,「マンガのストーリーは暴力を教える」と述べています。
しかし,ワーサム博士の研究はマンガが正常な子供に悪影響を及ぼすことを証明したわけではない,と考えた人もいました。ともあれ,少なくとも米国では,行き過ぎた暴力や裸を規制する規約を設けることによって,マンガ産業を“取り締まる”ための措置がやがて取られることになりました。しかし,そのような手段には効果があったでしょうか。今日のマンガはどのようなものですか。
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マンガ ― 今日見られる傾向目ざめよ! 1983 | 9月22日
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マンガ ― 今日見られる傾向
マンガは,当初あふれていた粗いタッチの絵と単純な文章から大いに成長しました。今日,ある社会ではその美術的な価値が称賛されているほどです。また,文体がより複雑になっているため,読者は時々辞書に当たってみなければならないかもしれません。
しかし,最大の相違点は,スーパーヒーローたちがマンガの中の敵役だけでなく,広く浸透するテレビの影響とも戦わなければならないということです。最近出版された,「テレビと行動」と題する研究論文は,若い視聴者をとりこにするテレビの力が実に恐るべきものであることを明らかにしています。では,マンガはこの手ごわい競争相手とどう戦うのでしょうか。
一つの新機軸は物語を続きものにして連載し,毎号購入しないではいられないように読者を病み付きにすることです。例えば,最近号の「ロム」は読者を夢中にさせるような物語を展開させておき,スーパーヒーローのロムと失われた大陸アトランティスから来た仲間が恐ろしい怪物に脅されるところで終わっています。その後はどうなるのでしょうか。知りたければ,次の号を読まなければなりません。
テレビ漬けになっている今日の若い人々の興味をつないでいくには,マンガはその“規約”をほとんど無視して,読者に暴力を大量に提供しなければなりませんでした。「デアーデビル」という(悪魔<デビル>の衣装を着けた盲目のスーパーヒーローの登場する)マンガの一つの号に載せられた場面の53%は暴力的であることが明らかになりました。デアーデビルが戦う時の一撃一撃が生々しく描かれており,“音響効果”(その一部としては,「フォック」,「クラッグ」,「カング」,「チャッド」,そして「シュワ」などがある。)でそれを強調しています。そしてスーパーヒーローたちの標準的な服装というのは膚にぴったりしたレオタードなので,読者は隆々たる筋肉に見入ることができます。(女性のスーパーヒーローも同じほど誘惑的な服装をしています。)そうであれば,ボディービルや武術のコースを広告する人が,自分たちの売り物の宣伝にマンガをしばしば使うとしても,驚くには当たりません。
宗教とオカルトもマンガの目玉です。例えば,「トール」のある号は,次のようなえせ聖書的な記述で始まっています。「初めに空間があった。時たつうちに,空間のうちに物質が育ち,物質は星を形作り,星は惑星を形作った。……地の上の空気は力と生命エネルギーで満ちていた。……そしてついにエネルギーは自らのおそるべき潜在力に気づくようになった」。そこから読者は,神話上の男神や女神たちの話へと引き入れられてゆきます。
作者たちはまた,霊魂の輪廻のような宗教的概念を巧妙な仕方でそのストーリーに取り入れます。「デアーデビル」の一つの号の中で,死んだ女性がなぞめいた男に復活させられますが,男はその奇跡について,「そう,手際がよくなくてはできないことだな」と平然と言ってのけます。幽霊ライダーとわたし……バンパイヤー! というような題のマンガは,オカルトに魅入られた最近の傾向で一もうけしようと思っている出版業者がいることを示しています。
ポルノを推進する人々も,マンガという媒体が裸や好色的な行動を人目にさらす手ごろな手段であるということに気づいています。こうしたわいせつな“マンガ”のうちで子供たちの手に渡るものも少なくありません。
当然のことながら,マンガや連続マンガすべてが人を堕落させるわけではありません。また,そのすべてが子供たちだけに読まれているわけでもありません。幾億もの大人たちは,自分の愛読する新聞のマンガをいつも読みます。フィリピンでは,大人をも含む大勢の人々が幾セントか出してマンガを借り,それを売店の近くで読んでから返却しています。スペインでは,マドリードやバルセロナのメトロ(地下鉄)で,大人がマンガを読んでいるのを見るのは珍しいことではありません。
人気の高いあるフランスの連続マンガは,少なくとも18か国語でマンガとして出版されています。これは「アステリス」というマンガで,恐れを知らない小柄なケルト人の勇士が古代ローマ帝国のあちらこちらを旅する間にありとあらゆる種類の冒険をするという話です。ブリタニカ百科事典(英文)はこう述べています。「“アステリス”はユーモアがあって冒険に満ちているだけでなく,洗練された語呂合わせや機知に富んだ時代錯誤,辛らつな場面などを縦横に駆使して,幾百万もの大人のヨーロッパ人に親しまれるようになった」。
しかし,数多くのマンガがおもに子供向けに作られており,オカルトやサディズム,恐怖,いわれのない暴力などを扱っていて不健全であるということは疑いもない事実です。では,事態を憂慮する親は子供たちにマンガは一切読ませてはならないということになるでしょうか。
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