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神を知ることはとこしえの平和をもたらすものみの塔 1970 | 2月1日
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つまりエメラルドのような虹で美しくふちどられています。
16 天で王の位についている者たちでさえこの聖なる神の御前では身を伏して拝さずにはおれないことを,その幻はどのように示していますか。
16 天で王の位につけられている者たちでさえこの最も神聖な神の御前では身を伏して拝さずにはいられません。ゆえに使徒ヨハネは語ります。「この活物ら 御座に坐し世々限りなく活きたまふ者に栄光と尊崇とを帰し,感謝する時,二十四人の長老,御座に坐したまふ者のまへに伏し,世々限りなく活きたまふ者を拝し,おのれのかんむりを御座のまへに投げ出して言ふ,『我らの〔神〕なる〔エホバ〕よ,栄光と尊崇と能力とを受け給ふはうべなり。汝は万物を造りたまひ,万物は御意によりて存し,かつ造られたり』」― 黙示 4:9-11,〔新〕。
神をいよいよ深く知る
17,18 (イ)ヨブの場合と同様,エホバの証人を批判する宗教家は証人たちに関して何を疑っていますか。わたしたちはそうした挑戦に関して何を行なえますか。(ロ)わたしたちは日毎の実生活においてまことの神をどのようにして深く知ることができますか。
17 エホバの証人を批判する宗教家は,わたしたちがはたして神を親しく知ることができるかどうかを疑っています。彼らは,エリパズという名の,あらさがしをこととするテマン人が,苦脳のただ中にあったヨブに挑戦したとおりのことを行なっています。(ヨブ 22:1,21)わたしたちは現代のこうした挑戦をそのまま受けて立つことができます。エホバという名を持ち,永遠に生きておられる全能の神を親しく知るのに今は絶好の時です。わたしたちはすでにある程度この神を知っているかもしれません。ヨブもそうでした。しかしヨブは神に導かれて,いっそう親しく神を知ったとき,こう語らずにはおれませんでした。「われ汝のことを耳にて聞いたりしが 今は目をもて汝を見たてまつる ここをもて我みづから恨み 塵灰のなかにて悔ゆ」。(ヨブ 42:5,6)同様にわたしたちも今日,神をいよいよ深く知ることができるのです。
18 今日,人間は文字にしるされた神のことばをかつてないほど深く理解できるようになりました。したがってわたしたちは,大いに増し加えられたその知識をいま取り入れることによって,神への感謝と認識を深めることができます。また,わたしたちは,さらに多くの正確な知識を神に祈り求めることができ,それとともに,目に見えない神をあたかも見ているがごとくに,いよいよ神を信頼することができます。こうしてわたしたちは,崇拝すべきこの唯一のまことの神を,日ごとの実生活において深く知ることができるのです。
19 神を親しく知ることは,わたしたちにとって何を意味していますか。わたしたちにはどんなことが確かにおよびますか。
19 このような神を親しく知ることは,わたしたちにとって確かに平和を意味します。しかもそれは世の人々の唱える見せかけの平和ではなく,戦争にさいなまれるこの事物の体制に差し迫った滅びにさえ砕かれることのない真の平和です。神に敵対している世にあって,わたしたちは神との平和な交わりを望み,神の善意を受ける民のひとりでありたいと願っています。(ルカ 2:14,新)わたしたちが今,神の「善意の人」となるならば,この世界がいよいよ悪に苦しむ今も,また,神の約束された新しい事物の秩序の下でも,わたしたちには確かに神から「良いことが……およぶでしょう」。そしてその新秩序の下では神が善良なかたであることを永遠に味わい知るでしょう。
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幸福なエホバの証人になったドラム奏者ものみの塔 1970 | 2月1日
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幸福なエホバの証人になったドラム奏者
● アフリカのひとりのエホバの証人はいつもあるドラム奏者の家の前を行き来していました。しばらくして,このドラム奏者はかけ事に敗れ一文なしになり,靴まで売り払ってしまいました。ところが例のエホバの証人はいつも笑顔で,きちんと靴をはき,彼の家の前を往き来していました。これを見たドラム奏者は真剣に考えはじめました。「信心深いカトリック教徒のわたしは問題ばかりかかえているのに,どうしてあのエホバの証人はいつも幸福なのだろう」。数日後,路上でその証人に会い,あなたとわたしの生活はなぜこうも違うのでしょうと尋ねました。証人は,聖書の原則がいかに身の守りとなるかを快く説明しました。今,この人は別人のようです。エホバの証人のひとりになったからです。自分の生活をすっかり改め,正式に結婚届けを出し,今ではきちんと靴をはいています。
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