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  • 小さな子供を殴る ― なぜ?
    目ざめよ! 1976 | 11月8日
    • 小さな子供を殴る ― なぜ?

      「これでは,強制収容所での拷問や人間を堕落させるための手引を読んでいるかのようだ」。この言葉を記した新聞記者は何について語っていたのでしょうか。

      子供に対する虐待です。最近の報道によると,そうした虐待行為は米国および世界の他の土地で,今や“流行病”とも言えるほどに多くなっています。

      この流行病はどれほど深刻なものですか。1975年4月21日付のアメリカ医学ニュース紙は,「子供に対する虐待 ― 一日二人の子供が死ぬ“病気”」という見出しを掲げました。一か月後,法医学ジャーナル誌はこう報じました。「今日,子供の最も一般的な死因は,子供に対する虐待行為であると言えるかもしれない。虐待行為や殴打のために死ぬ子供の数は,事故や伝染病で死ぬ子供の数を合わせたよりも多い」。

      1975年の暮れも押し迫ったころ,UPI通信社は次のようなニュースを流しました。「米国では毎年百万人以上の子供が虐待されたり置き去りにされたりする」。米国保健教育福祉省の一役人ダグラス・ベシャロフからの資料に基づいて,その記事はさらにこう述べていました。「最も限定的に見積もっても,毎年2,000人の子供が虐待や置き去りなどの結果として死んでいる,と同氏は語った」。統計によると,そのような虐待を受ける子供は普通五歳以下であり,一歳に満たない子供も珍しくありません。

      子供に対するはなはだしい残虐行為

      子供の虐待に関する話は悲痛な思いをさせます。警察の報告書によると,米国ニューヨーク市ブロンクスに住むある男は,四人の幼い子供を次に挙げるような恐ろしい目に遭わせました。

      ● 子供のひざにホットケーキのシロップを塗り,米粒をまいた床の上を四つんばいにならせて小刻みに歩かせる。

      ● 子供を裸にして,高さ2㍍余りのたんすのたなの中に入れ,子供の臀部に熱したロウを注ぎ,一時間以上もそのたんすの中に閉じ込める。

      ● 7歳になる男の子が騒いで起こされたこの男は,その子を天火の中に入れ,天火のとびらを閉め,それに火を付けた。母親が部屋に飛び込んで来て子供を天火から出さなかったら,その子は痛ましい死を遂げていたであろう。

      別の事例では,波の逆巻く海を見下ろす高さ90㍍のがけに生えている木に,生後18か月の男の赤子がぶら下げられているのが発見されました。その子は捨てられていたのです。バージニア・コイニーは,自著「子供たちも人間」の中でこう述べています。「親は子供の小さな手を切り落し,自分の子供にやけどを負わせ,食べ物を与えず,かたわにし,殴り,くさりで縛り,監禁し,さらには殺しさえした」。幼児やよちよち歩きの子供が,身体的な虐待のみならず,言葉の上で,また感情的,さらには性的な虐待を経験することも珍しくありません。

      子供をそのようにひどい目に遭わせる親や大人はどんな型の人間ですか。それは主に精神異常者や低額所得者など,いわゆる不幸せな人々ですか。

      『決まった型はない』

      実際のところ,子供に対する虐待行為は人種,経済,また社会的な差異などを超えて,あらゆる人々の間で見られます。バージニア・コイニーはこう述べています。「子供を虐待する親に,決まった型などない……はずである。バルチモアで調査すれば,そうした虐待行為をする親は黒人が多くなり,ソルトレイクシティーで調査をすれば白人が多くなる。人種的な要素は,調査の対象となるグループの構成によって左右される」。同著者はさらに次のような点を指摘しています。

      「子供に対する虐待が,子供への憎しみはおろか,子供ぎらいの結果であることさえまれである。わずかな例外を除くと,専門家たちは,子供を殴る親がその子を愛しているという点で意見が一致している。たとえその子を愛していないとしても,他の子供を愛している。子供を虐待する人が行ないを変えたがっているという事には十分の証拠がある。大抵の場合,適当な権威者に自分の行動を告白するのは虐待をしている当人であり,そうするのは,自分[親]の病気から子供を守りたいと願っているからであるようだ。それは確かに病気と言える。子供に対する虐待は,急性の外傷を引き起こし,再発性の発作を伴う慢性病とされてきた」。

      この“病気”の原因は何ですか。どうしたらこの病気に掛からずに済むでしょうか。

      制御されない怒り ― なぜ?

      子供に対する虐待の原因を明らかにするために多くの研究がなされました。ほとんどすべての場合,共通した一つの要素が存在していました。それは何ですか。子供に対する虐待問題の専門家C・ヘンリー・ケンプ博士によると,子供を虐待する親の九割以上は,制御されない怒りのままに子供を虐待します。そうした怒りを引き起こすのは何ですか。

      親の一方あるいは双方が自分に用意のできていないような事態に面すると,往々にして怒りの気持ちが生じます。悲しいことに,夫婦の間に最初の子供ができたということが,その新しい事態である場合も少なくありません。ケンプ博士の協力者であるジェーン・グレイ博士はこう説明しています。「子供の世話をすることが何を意味するか少しも理解していない娘が少なくない。おしめを取り替えたり,熱を下げたり,こぼれた食べ物を片付けたり,夜中に起きたりすることについて彼女たちに教えた者はいない」。自分では何もできない幼児の世話をすることには喜びを見いだしていたのに,子供が歩き始め,小児用寝台やベビーサークルの中からはい出して“あらゆることに手を出す”ようになると,絶望的になり激怒に身を任せてしまう親もいます。また,年上の子供は上手に扱えるのに,幼い子は扱えないという親もいます。

      子供に対する虐待を引き起こす大きな要素は都市の生活です。大気や水の汚染そして騒音公害に囲まれた過密都市は,多くの大人にがまんのならない緊張をかもし出します。そうした大人が“爆発”するときその被害者になるのは,何もできない子供である場合が多いのです。

      デトロイト・ニューズ紙に掲載された一記事は,子供に対する虐待を引き起こす別の要素を指摘してこう述べています。「子供に対する虐待の急増は,大都市デトロイト内外での失業の増加の副産物ではないか,と専門家たちは懸念している」。職を失った父親は,自分は役に立たない人間であるという感情にさいなまれるだけでなく,失業する前の一日一,二時間よりずっと長い時間,子供と一緒に毎日過ごすようになります。大抵の場合,男親は幼い子供のきーきー声や落ちつきのない行動に耐えることができません。

      しかし,子供に対する虐待の根は,普通はもっと深いところ,もっと個人的なレベルにあります。どうしてそう言えますか。

      “一人前でない”と考える親

      子供に対する虐待をなくそうとする人々は,親たちに対し,自分をよく見つめるようにと勧めています。そうした親たちは,しばしば自分の子供に対して非現実的な期待を抱きます。なぜでしょうか。米国テキサス州ダラスの小児虐待問題対策事業の指導者であるキャロル・バウドリーはこう指摘しています。「子供を虐待する親の多くは自尊心に欠け,自分が“一人前でない”,つまり自分は自分の両親の期待に添うことができなかったと考えさせられてきた人々である。その結果,自分たちが大人になり,自らの子供を持つようになると,自分の子供に『お前は一人前ではないが,わたしは一人前だ』と言って,自分を示そうとする」。

      幼いころに虐待されたこれらの親たちは愛に飢えており,しばしば実現不可能な事柄を自分の子供に期待します。著述家エドワード・エデルソンは,ケンプ博士を主任として行なわれた研究について注解を述べ,次のように説明しています。

      「それぞれの事例が異なっていることは明白である。しかし,ケンプ博士の研究グループは,ほとんどすべての事例に共通する要素を見いだした。すなわち,虐待された子供は虐待する親になるという点である。自分の親から退けられ,自らの無力さを思い知らされた人々は,他の人々と正常な関係を保つことに困難を覚え,自分の子供に多くのものを期待しすぎる。そうした期待は決して満たされない。正常な子供であれば,そうした親たちの望むような完全な人間にはなれないからである。こうして子供は殴打されることになり,再び同じことの繰り返しが始まる」。

      マサチューセッツ州幼児虐待防止協会の研究結果も,ほぼ同じようなものでした。このグループは,合計180人の子供のいる115家族で,子供に対する虐待の事例を調査しました。その結果によると,子供を虐待する人十人のうち九人までは「深刻な対人問題」を抱えています。そうした人々は大抵孤独で,集団との付き合いというものが,ほとんど,あるいは全くありません。そのような親の多くは,子供(あるいは子供たち)によって,自分の必要とする交わりや愛情の大半を満たそうとします。そして子供を“小さな大人”とみなし,大人としての愛情,動機付け,自制心を示すよう子供に要求するのです。もちろん,幼児やよちよち歩きの子供はそうした期待に添うことができません。ところが,そうした子供たちの失敗は意識的な不従順とみなされ,それ相応の罰が加えられることになるのです。

      “新しい道徳”の影響

      近年,性道徳に対する見方は著しく変化しました。今日では,男女ともに,性関係を持つ相手を気ままに変えることが一般化しています。これに対してどんな見方を持っているとしても,こうした変化が子供に対する虐待増加の一因となってきたことに気付いておられますか。一体どうしてそう言えるのでしょうか。

      米国オレゴン大学医学部の小児神経科医ペギー・フェリー博士はこう述べています。「新しい男友達は,小さくて,かんしゃく持ちの子供に対し,しばしば怒りを爆発させる。その子供は,母親の以前の愛人を思い起こさせたり,二人の遊びの邪魔になったりする場合があるからであろう」。この記事の初めに挙げた拷問の手を考え出したのも,そうした“男友達”でした。

      何もできない子供を殴り,拷問に掛け,さらには殺すというような報道が増加しているのは確かに痛ましいことです。これまでのところで,子供に対する虐待の主な原因について考えてきました。では,どうすればこうした原因と取り組み,小さな子供を痛め付けようとする傾向を克服できるでしょうか。

  • 子供に対する虐待 それに関してあなたの行なえる事
    目ざめよ! 1976 | 11月8日
    • 子供に対する虐待 それに関してあなたの行なえる事

      子供に対する虐待という“流行病”は,今や驚くほど多くなっています。前の記事にも述べたとおり,親に影響を与える様々な情況や態度が,子供に対する虐待につながっています。

      親および他の大人たちは,子供を虐待しようとする傾向にどうしたら打ち勝つことができますか。一つの方法は,子供に対する虐待がもたらす有害な結果を自覚することです。この点について真剣に考えたことがありますか。

      ピッツバーグのある研究チームは,虐待を受けた20人の子供たちを調査しました。その調査の報告書は次のように説明しています。

      「子供たちの大半は,精神的,肉体的,そして感情的に,もはやいやすことができないほどに損なわれている。全く正常であると言えるのは,20人中2人にすぎない。半数以上は体重が平均以下で,中には極端な栄養失調に陥っている子もいた。さらに六人の子供は中枢神経系統に障害の徴候を示した。そのうちの二人の場合,それは明らかに頭部を殴られた結果である。この子供たちのうち三人には,はっきりした身体上の欠陥が見られた。一人は頭蓋骨の奇形,もう一人は下半身の麻痺,三人目は目に永久的な損傷を被っていた。身長も体重も平均以下の子供が二人,知能指数が80以下の子供が,四人そして情緒面での問題を持つ子供が四人いた。この子供たちの半数以上には言語障害も見られた」。

      幼い子供の体を激しく揺することも,同じように悪影響をもたらすのをご存じでしたか。そうすることも,脳に永久的な損傷を与えることになりかねません。子供たちに対して絶えず叫び声を上げたり,子供たちをののしったりするのは,消し去ることのできない害を子供に与える別の事柄です。

      聖書は,神の是認を求める人すべてに対して,次のような訓戒を与えています。「すべての悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪とともにあなたがたから除き去りなさい」。(エフェソス 4:31)これは,子供に対する虐待のほとんどすべての根,すなわち制御されない怒りを非とするものです。

      「しかし,わたしは気性が激しいので」

      というのがあなたの問題ですか。どうしたら怒りを爆発させないようにすることができるでしょうか。

      怒りに対する正しい見方を持つことが肝心です。今日の世界が問題や圧力に対処する方法として怒りや暴力を容認していることを,ご自分の経験から知っておられるに違いありません。しかし,そうした態度から生じた二つの世界大戦や他の多くの紛争は,それが有益であることを示していますか。

      聖書によると,怒りや暴力は,強さではなく,むしろ弱さの表われです。こう書かれています。「愚かな者は怒りをことごとく表わし,知恵ある者は静かにこれをおさえる」。(箴 29:11,口)聖書は,怒り狂った人の弱さを例えで描写し,さらにこう述べています。「自分の心を制しない人は,城壁のない破れた城のようだ」― 箴 25:28,口。

      どうしたら怒りを抑えることができるようになりますか。基本的な段階は,聖書の助言をさらに聴くことです。『怒る者と交わることなかれ 憤る人とともに行くことなかれ 恐らくは汝その道にならいてみづからわなに陥らん』。(箴 22:24,25)この助言に従うのは難しくはないはずです。どんな人と交わるかは自分の力でどうにでもなる事柄だからです。穏和な人々との交わりを求めることは,自制心を保つのに役立ちます。

      子供のためにあなたが怒り立たせられるような情況を避けることができますか。買い物をする間子守りを頼んだり,家族の他の人が子供の面倒を見ていてくれる時にまとめて買い物を済ませたりするのはいかがですか。子供が疲れ果ててむずかる場合,自分のしていることを何であれ途中でやめ,ベンチや近くにあってそれと同じ役をする設備のところで子供と一緒に腰を下ろす賢明な親も少なくありません。厳しい言葉よりも,慰めとなる言葉を二言三言語れば,子供たちは大抵静かになります。

      それは,そうした騒ぎを起こすべきでないことぐらい「知っているはず」の子供たちを甘やかす結果になると考える人もいるでしょう。しかし大抵の場合,子供たちは数時間歩き続けたり,エネルギーを消耗したりして,ただ疲れているだけなのです。そのような場合,聖書は不平に耳を傾けるようにと諭しています。「耳を閉じて貧しい者[困っている者,新英語聖書]の呼ぶ声を聞かない者は,自分が呼ぶときに,聞かれない」― 箴 21:13,口。

      自分の幼かった時のことを思い出せますか

      子供に対していら立ちを覚えないようにするための大切な方法は,自分が幼かった時にはどうだったかを思い出すことです。子供を持つ女性ジャーナリストの語る次の経験は啓発的です。

      「ある日ひとりの若い男の人が,叫び声を上げてもがいている子供を腕に抱いてバスに乗って来た。その男の人は,女の子を押さえておくだけで精一杯であった。彼は,子供が声を張り上げて泣くので,バスの乗客がいやな顔をするのを百も承知していた。やっと席に座ると,その若い父親は泣き叫ぶ子供をしっかりと腕の中に抱いて,低い落ち着いた声で女の子に語り掛けた。『ジェニーや,いい子だね。お前がどんな思いをしているかはよく分かるよ。おなかがすいて,疲れているのだろう。それはいやだろうね。何が何だか分からなくなっているんだ。どうしても泣きやむことができないのだろう。どうしようもないのはよく分かるよ。そうだ,ゆりかごみたいに揺すってあげよう。もうすぐ家に着くからね。そうしたら,お前のベットに連れて行って,子守り歌を歌ってあげるよ。かわいそうに,泣きやむことができないんだね』」。

      子供に対する父親のこの優しい同情心はどんな結果になりましたか。「数分後,疲れ果てたうえ,物分かりのよい言葉を耳にしたジェニーはおとなしくなり,親指を口にして眠り込んでしまった」。それを見ていたそのジャーナリストは,次のような結論を引き出しました。

      「親が子供の経験していることに対して感情移入を行ない,自分もずっと昔には同じように感じたことを認めるなら,事態は全く違って来る。子供が親をいらだたせようとしている手に負えない小僧であるなどと考えるなら,無性に殴りたくなる。しかしもし,『子供は疲れると前後の見境いが付かなくなるものだ。自分も小さいころはそうだったのだろう』と考えるなら,親と子供の双方にとって有益な育て方ができるようになる」。

      「いらだたせる」ことのない懲らしめ

      これは,しりをたたくといった体罰すべてを非とするものでしょうか。決してそうではありません。そうした種類の罰が必要な場合は少なくありません。聖書はこう述べています。『子を懲らすことをせざるなかれ むちをもて彼を打つとも死ぬることあらじ もしむちをもて彼を打たばその魂を陰府[墓]より救うことをえん』― 箴 23:13,14。

      しかし,いつでも体罰が必要であるわけではありませんし,どんな子供にも体罰が効果的であるとは限りません。また,極端なまでに体罰を加える親が少なくないことに気付いておられますか。そうした親は理性を失い,矯正のために必要以上に危害を加えるのです。種々の調査の示すところによると,子供を虐待する親の中で圧倒的多数を占めているのは,子供を過度に懲らしめる親です。

      聖書はこの点を警告しています。子供を「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」育てるように勧める一方,使徒パウロは,「あなたがたの子どもをいらだたせ(てはなりません)」と警告しています。(エフェソス 6:4)別の箇所でパウロはこう諭しています。「父たちよ,あなたがたの子どもをいらいらさせ(る)……ことのないようにしなさい」。(コロサイ 3:21)この言葉に従うなら,残忍な殴打などの身体的な拷問はもちろん,絶え間なく叫び声を上げて子供を責めたり,その他の心理的な侮べつを浴びせたりすることもなくなるでしょう。神に喜ばれる態度として,聖書は,子供を『慈しみ』,子供に対して「物柔らかな者」となる親のことを挙げています。―テサロニケ第一 2:7。

      子供を虐待する親に対する助け

      子供に対する虐待の問題を克服するためにはまず親を助けなければなりません。エドワード・エデルソンは,「助けが必要なのは親」という記事の中で次のように指摘しています。

      「ほとんどの場合,子供に対する虐待を治療するには,親が必要としている親密な友情を得させるため,親にそれなりの自尊心や尊厳を培わせることが必要である。そうした親たちの大半は,言い知れぬ孤独を味わいながら生活している。というのは,自分の親から退けられたと同じ仕方で,知人たちから退けられるのではなかろうかと恐れているからである。そうした友情だけが,子供に対する正しい見方を親に持たせることができる。すなわち,子供を親の必要を満たすための小さなおもちゃとしてではなく,命と自らの要求を有する一個の人間とみなすようになれるのである」。

      他の大人との肝要な個人的関係を培うために,子供を虐待する親たちの中には,“子供を虐待しないようにする親の会”や“子供を虐待しないようにする母親の会”などの組織に参集した人々もいます。彼らは,親子の関係を良いものにするため定期的に会合を開いています。場所によっては,事態が険悪になった場合に親が子供を預けておくことのできる,緊急託児所のあるところもあります。そうした施設が近所にありますか。掛かり付けの医師や近くの病院を尋ねてみたり,電話帳を調べてみたりすれば,子供に対する虐待の問題について助けを与えてくれるような人と接触できるかもしれません。

      しかし,有意義な人間関係を培うということになると,そうしたこの世の援助よりも,ずっと効果的なものがあります。それは一体何でしょうか。

      本当に役立つ導き

      記された神のみ言葉に関して,使徒パウロはこう書いています。「聖書全体は神の霊感を受けたものであり……物事を正(す)……のに有益です」。そうした物事の中には,損なわれた親子の関係も含まれています。(テモテ第二 3:16)そうした関係を改善するのに役立つ基本的な原則を幾つか検討してみましょう。

      子供に対する虐待の問題を研究する人々によると,子供を虐待する親は子供の能力を超えた法外な期待を子供に対して抱きます。聖書はそのような利己的な態度を正すのに役立ち,こう述べています。「あなたがたの中のすべての者に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません」。(ローマ 12:3)聖書の明らかにする,次のような真理をさらに認識するなら,そうした助言に従いたいと思うようになるでしょう。『正しくして善を行ない罪を犯すことなき人は世にあることなし』。(伝道 7:20)大人であれ子供であれ,すべての人には欠点があります。そのことを考えれば,幼児やよちよち歩きの子供たちの欠点は,大人の不親切な行為(時には計画的であることもある)ほどとがめ立てすべきでないのではありませんか。

      確かに,子供が故意に“わんぱくな”振舞いをするため,親が不愉快に思うのも当然な場合もあります。そして,前述のとおり,文字通りの「むち」を使って懲らしめることが必要になるかもしれません。しかし,親は懲らしめを与える際に決して自制心を失ってはなりません。親は次のような聖書の助言を思いに留めておくべきです。「引き続き互いに忍び,互いに惜しみなくゆるし合いなさい」。しかもこの原則は,「だれかに対して不満の理由がある」と正当に言えるような場合にも当てはまります。―コロサイ 3:13。

      性道徳に関する聖書の高潔な規準も,子供への虐待を防ぐものとなります。「淫行から逃れなさい」という聖書の戒めに従う親を持つ子供は,自分の親のところを訪れる“男友達”あるいは“女友達”から残忍な扱いを受けることを恐れる必要はなくなります。―コリント第一 6:18。

      他の人々に対する関心のもたらす喜び

      神の言葉は,子供を虐待する親が他の人々との実りある関係を培うという必要を満たす点で,特に優れた助言を与えています。フィリピ 2章3,4節にある次の原則に従えば,物事はうまくゆくに違いありません。「何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち,自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」。

      しかし,それは道理にかなったことですか。今日の敵意の満ちた世にあって,他の人々を自分より「上である」かのように扱うのは実際的でしょうか。イエス・キリストは,そうすることが道理にかなっているだけでなく,それによって他の人々が同じように利他的な仕方で当人を扱うようになることを保証しました。イエスはこう言いました。「いつも与えなさい。そうすれば,人びとはあなたがたに与えてくれるでしょう。……あなたが量り出しているその量りで,今度は人びとがあなたがたに量り出してくれるのです」。(ルカ 6:38)こうした助言を実際に適用し,神のみ子が真実を語っていたということを自ら証明してみてはいかがですか。

      上記の聖書的な原則を適用するなら,それは本当に役立ちます。自分でもそれを当てはめることができればよいとは思いませんか。そのためには,自分の家族を含む仲間の人間との関係を改善しようと努めている人々と定期的に交わらねばなりません。そのような人々をどこに見いだせますか。

      エホバの証人は,毎週五つの集会を開くために王国会館に集まります。こうした集会では,しばしば,幸福な家庭生活を築くための聖書の原則や親子のだんらんを本当に楽しいものとする方法などについて話されます。最寄りの王国会館に足を運んでみるよう心からご招待いたします。寄付が集められるようなことは決してありません。さらにエホバの証人は,お宅かあるいは他の都合の良い場所で,あなたとご家族のために,喜んで無料の家庭聖書研究を司会いたします。もしそうした取決めをお望みであれば,最寄りの王国会館のエホバの証人と連絡を取るか,この雑誌の発行者に手紙を書くかしてください。

  • 家族を一致させた良い振舞い
    目ざめよ! 1976 | 11月8日
    • 家族を一致させた良い振舞い

      人が自分の生活を変化させて,それを神のご意志にかなったものにしようとするとき,家族の者たちはそれに対して最初から良い印象を持つわけではありません。しかしやがて,その人の示した良い変化を認め,その結果聖書を研究するようになることもあります。

      サン・マリノ共和国に住むある男の人は,そうした経験をしました。その人は,自分の悪い習慣のために,幸福な家庭生活を送ることが不可能になっていました。その人は,家で家族と一緒に時を過ごすより,毎晩のようにバーに入り浸っていたのです。自分の生き方にいや気が差したその人は,その悪習をぬぐい去るために助けを与えてくださるよう神に祈りました。後日,自分の母親を訪ねた際に,母親がエホバの証人と聖書を研究していることを知りました。そこで,この人はその研究に参加するようになりましたが,それは家族の反対を引き起こすにすぎませんでした。その人の妻は,夫の学んでいる事柄に少しも関心を示しませんでした。それどころか,子供を連れて,夫のもとを去るとまで言い出したのです。

      そしてある日のこと,この男の人は妻の父と家族の問題について話していて,論争になってしまいました。義父は非常に怒って,彼をこぶしで殴りつけました。彼は自分が正しいことを確信してはいましたが,仕返しをしませんでした。彼は義父を許し,義父に対して敵意を抱かなかったのです。この問題で夫の振舞いに心を動かされた妻は,夫の受け入れた信仰を調べるようになり,エホバの証人の集会に出席し始めました。その後の成り行きについて,夫はこう述べています。「わたしは妻や子供たちとの聖書研究を始めました。妻が進歩するのを見,今や家族が一致しているのを見るのは喜びです」。

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