ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • ピアノ ― 表現力豊かな万能楽器
    目ざめよ! 1977 | 11月22日
    • “ウナ・コルダ”あるいは“ソフト”ペダルと呼ばれています。ソフトペダルは,ハンマーのたたく弦の数を減らして弱目の音を出すように,アクション全体を一方の側へ移動させます。

      しかしアクションによって弦を動かすだけでは不十分です。細い鋼鉄線が作る空気の波動は小さすぎて,その音はほとんど聞き取れないからです。そのためピアノには,すべての弦楽器に共通の“響板”が付いています。響板とは,ピアノの下側全体(アップライト・ピアノの場合は裏側)を覆っている一枚のトウヒ材の薄板のことです。弦から響板に振動を伝えるため,弦は,にかわで響板に接合された木製の駒に張り渡されています。振動は駒に伝えられ,響板を振動させます。美しい音域が聞かれるのは,響板が空気の波動を増幅するためです。

      ピアノ製作者は,第二の響板としての役目も果たしているりっぱな箱の中にこの楽器を収めることにより,ピアノを,耳に快く響くだけでなく見た目にも美しいものにしています。多くのピアノの箱は,マホガニーやクルミ,またその他の上質の木の美しい薄板で仕上げられています。ピアニストの中には,伝統的なコクタンで仕上げられたピアノの飾らない上品さを好む人もいます。現代のピアノは,完成した時点で,1万2,000以上の部分から成っています。それは,工学とデザインの点で驚嘆すべきものであり,250年以上にわたる絶え間ない発達の所産です。その結果,ピアノは多彩な音を造り出しています。作曲家がその無限と思えるほどの音楽的可能性に魅了され,ピアニスト自身その演奏に決して飽きることがないのも不思議ではありません。

      わたしたちは,美しい音楽を聞いたり,自分や他の人々のために美しい音楽を作ったりする能力を人の思いと心に付与された人間の創造者に感謝することができます。また,ピアノのような楽器を考え出し製作する能力や発明の才を創造者が人間に与えてくださったことにも感謝できます。

  • 日本の空高く舞い上がる
    目ざめよ! 1977 | 11月22日
    • 日本の空高く舞い上がる

      日本の「目ざめよ!」通信員

      冬の日の見事な夕焼けを背景に人影がぽつんと橋の上に見えます。彼の注意は,空に躍っている何か黒い物に全く向けられています。彼は何に熱中しているのですか。凧です。

      あなたはたこを上げたことがありますか。このような趣味を持つ人は,強い風が吹く空き地に足を運ぶことになります。西欧ではたこ上げをするおとなもわずかいるとはいえ,たこは一般に子供のおもちゃと考えられています。しかし日本ではあらゆる年齢の人々が,そう快でくつろぎを与える娯楽としてたこ上げを楽しんでいます。

      ここではたこ作りが芸術のひとつになっています。色彩,形,デザインが競われます。日本人の持つたこ作りとたこ上げの技術は,この国において今に至るまでたこの大作を生み出してきました。

      古い起源

      日本で記録に残る最初のたこは西暦931年にさかのぼります。それはたこの発祥地である中国から渡来したものです。当時,仏教と共に和紙(東洋で発達したきわめて丈夫な紙)が日本にもたらされました。この事が同時であったのは,たこは和紙で作られ,また仏教の行事に使われたからです。

      11世紀にはたこは軍事的な象徴として使われ,また後の時代には戦闘中,友軍に情報や食糧を送るために用いられました。アメリカインディアンが煙でのろしを上げたように,日本人は戦争の

  • あなたのお子さんは喜んで分け合いますか
    目ざめよ! 1977 | 11月22日
    • あなたのお子さんは喜んで分け合いますか

      「ぼくにそれちょうだい! それぼくの!」 こういった言葉をよく耳にしますか。他の人と分け合うことを求められた時,あなたのお子さんはこの言葉に言い表わされている気持ちを抱きますか。利己心のきざしを見せ,所有欲が強い子供の場合,これはよくある事です。

      子供たちがこれらの望ましくない傾向を身につけてそれを示す時,親が心配するのは当然です。しかしこのような傾向を阻止するために親はどうすればよいですか。どうすれば,気前よく物惜しみせず,喜んで与えるように子供を教えることができますか。

      気前のよさは教えることが必要

      生まれたばかりの赤ん坊にとっては,自分の欲求と要求が何よりも大切です。それで夜の目も寝ずにミルクを飲ませ,おむつを替え,赤ん坊の渇望する世話をする親の苦労などは分かりません。もちろん時のたつにつれて子供は他の人々のことに気づくようになります。しかし気前のよさは他の好ましい性質と同様,教えられることが必要です。

      こうした事柄を教えられてそれを吸収できる年齢は,それぞれの子供によって異なります。学齢期に達する頃までには,友達と遊ぶことができ,友達を持つことと,それに伴うすべての事に対して用意のできている子供もいます。しかし同じ年齢であっても,ある子供はこの点でまだ適応していないかもしれません。そのような子供は赤ん坊の性癖に固執しています。これらの子供を教えることは,特に独りっ子の場合,いっそう困難です。

      大家族の場合,大勢いる子供たちは自分個人の欲求や必要が最重要視されるのではないことを必然的に学びます。彼らは幼い時から,考える事はたとえ別でも食物,着るもの,その他の物質的な物を兄弟,姉妹そして家族の他の者と分け合うことを学びます。それで大抵このような子供は,順応性のある,平衡のとれ,円熟した人間に成長します。

      あなたのお子さんはいかがですか。気前がよいですか,それとも利己的ですか。物惜しみしませんか,それとも所有欲が強いですか。おうようですか,それともけちですか。彼らをこの前,客観的に眺めたのはいつでしたか。「まだ幼い,柔軟な子供の場合,どうすればその事をできますか」と言われるかもしれません。簡単な方法は,他の子供たちと遊んでいるところを観察することです。利己的な傾向のある子供は,多くの場合,自分のおもちゃに対する所有欲が強く,他の子供にそれを触らせることさえしません。そのくせ自分は他の子供のおもちゃで遊びたがり,自分の思い通りにならないと怒ることさえあります。それとは対照的におうような子供は大抵の場合,自分の物を他の人と快く分け合います。なかにはそうしたがる子供さえいます。彼らはそれほど恵まれていない子供の必要物に気づき,親に促されなくても喜んで分け合います。

      興味深いことにこのタイプの子供は,与える点で両親が良い手本を示している家庭の子供である事がしばしば注目されています。その子供はまた家庭で多くの愛を受けています。それで彼の抱く安心感は,自分がつかむことのできる物質の物に依存していません。彼は両親の愛を受けて安心しており,家庭という愛ある取り決めの中で自分が安全なことを知っています。これはあなたのお子さんについても言えますか。

      両親にできること

      おうようで外向的になるよう子供を助けるうえで大切な要素のひとつは,親から絶えず受ける励みです。この点で成功した,4人の子供の母親の例を考えてみてください。子供に理解力がつくと彼女は早速,子供と一緒に座って話し合います。母親は次の事を認識するように各人をやさしく助けます。つまり兄弟姉妹のいる家庭というものは神からの貴重な賜物であって,きょうだいは成長するにつれ,互いに面倒をみなければならないということです。それで年上の子供は下の子が生まれると,彼らを助けます。彼女はよその子供たちの愛のない乱暴な態度を指摘し,それとどのように異なることができるかを自分の子供に教えます。子供が正しい道からそれると,彼女は忍耐強くそのことを子供に気づかせます。この若い母親は,できるだけ子供たちに彼らの問題を解決させます。彼女はこう語りました,「きょうだい間のねたみが自然のものであるとは思いません。兄弟姉妹がいつまでも争ったり,口論したりする理由は少しもないと思います。わたしはそれぞれの子供にその必要とする愛と世話をすべて与えて,きょうだいげんかをわたしたちの家庭から根こそぎにすることに努めてきました。それは容易ではありませんが,それなりの成果はありました」。この取り組み方は確かに効果的です。時として一般に見られるきょうだいげんかは,この家庭にはありません。

      知恵遅れの子供ひとりを含め,大ぜいの子供を持つ別の夫婦も,愛と寛大さのふんい気の中で子供を育てることに成功しています。同様な家庭で時に見られるのとは正反対に,この知恵おくれの子供は年上また年下の兄弟姉妹に対して寛大であるように励まされ,また期待されています。しかも彼は家族の注意を一身に集めている訳ではありません。また反対に軽視されたり,劣等感を抱くように仕向けられたりすることもありません。この少年の情愛のある性質,とくに見知らぬ子供に対してさえ示す気づかいは,彼に接する人の心を暖めます。母親の言葉によれば,彼女も夫も子供たちが互いに対して情愛深くあることを期待しています。子供たちがこのような愛を示す時,驚きを示すかわりに,またほうびやわいろを与えるかわりにこの親は,子供たちが互いを情愛深く扱わない時に驚きを示し,意外そうな顔をするのです。この態度は,長々とお説教したり,叱ったりしなくても子供たちに自然に移ります。

      あなたはお子さんをこのように扱っていますか。それとも子供に見られる利己心は成長の一過程であって,成長すればなくなるものと考えていますか。そのように考え,子供の利己心をきょう正する必要に気づいた時には,それがすでに深く根づいているため手おくれであることを経験した親はあまりにも多いのです。

      このような悪い傾向に最初に気づいた時,親はそれを根絶やしにすることを目ざして直ちに手を打つことができます。とくに母親は,ふつう父親よりも多くの時を子供と共に過ごすゆえに,このような努力をすることが必要です。しかし子供たちが安心感を抱くようにするためには,母親は夫と一致していなければなりません。両親の互いに対する愛情に不確かなものを感ずることほど,子供を不安にさせ,所有欲を強めさせるものはありません。両親の不和を感じとる時,子供は物質のもの ― 持っていて安心できる,そしてしがみつくことのできる物 ― にますます頼るようになるでしょう。またその子供は性格においても,他の人との交際においても非常に内向的になります。

      時に親はどんなに手を尽くしてもさっぱり成果が得られないので落胆します。あるいはそのように思われます。にもかかわらず,親のした事は子供の心に残るものです。例えば,子供時代を回想してある人は8歳ぐらいの時のある出来事をおもしろおかしく思い出してこう語りました,「お小遣いをためて好きなキャンデーバーを数個買ったのを覚えています。わたしはそれを持って独りだけで木の下に座り,自分独りで全部食べるつもりでした。ところがキャンデーを買うやいなや,だれあろう母親と偶然に出会ったのです。母はもちろん兄弟姉妹に幾らか分けてやりなさいと言いました。それを考えただけでもぞっとしたのを覚えています。きょうだいの数人はキャンデーバーの数よりも多かったからです。全部食べられてしまうのではないかと,はらはらしていると,彼らはキャンデーの大半を返してくれました。そしてわたしは去って行きました。しかしその事があってから,わたしは何かを買った時にはきょうだいたちの事をもっと考えるようになったのを覚えています」。

      彼はまたパイのことで,どちらが大きいほうを取るか弟と争ったことがあるのを覚えています。父親はひとつのルールを定めて問題を解決しました。それ以後,ひとりが切ること,そして切らなかった者が好きなほうを先に取るというルールです。その結果は? 彼らはそれぞれ同じ大きさに切ることに上達しました。しかし時がたつにつれて彼らは互いに細かい事をあまり言わなくなり,もっとおうような気持ちが支配的になりました。

      独りっ子

      独りっ子には一緒に生活し,物を分け合う兄弟姉妹がいないので,かなり貪欲また自己中心的になりがちです。阻止することをしなければ,この利己的な傾向はおとなになってからも表われてきます。このような子供は,いちばんの上席,また食物などであれば好きなものを真っ先に取ることをいつも望む人になるかもしれません。

      独りっ子を正しく導くにはどうしたら良いですか。6歳の息子が次第に利己的になってゆくのを心配したある母親は,一部の人の目には思いきった方法ともみえる手段をとりました。話して聞かせてもさっぱり効き目がないので,彼女は別の計画を実行に移しました。彼女とその母(3人が一緒に住んでいた)は,食べる物,着る物,住む家その他同様な物がすべて母と祖母のお陰で与えられていることを子供に気づかせようと決めました。彼が母と祖母の物を何か使うたびに,母と祖母はそれが彼のものではないことを思い起こさせたのです。間もなく彼は“彼のもの”が実際には母と祖母から与えられたものであることを理解するようになりました。それは彼らの所有物であって,彼はそれを使うことを許されているに過ぎません。ほどなくして子供は分かったようでした。別に言われなくても,“彼のもの”をますます多く母や祖母と分け合うようになったからです。これは次第に増えてきた友だちとの間柄にも及んでゆきました。息子が遊んでいるのを観察してこの母親は,初めはいやいやであったにせよ,遊び仲間と物を分け合う息子の,前とは違う態度に気づいています。時を経ずして,寛大さはますます個性の一部となり,とくにそれが母,祖母そして他の人に喜ばれるのを見た時に彼は寛大さを示しました。そして子供はだれでも愛情に飢え,受け入れられることを求めているのではありませんか。確かにそうです。そして独りっ子もその例外ではありません。

      正しい態度が大切

      利己的な子供を育てたいと思う親はいないのであって,これは言うまでもない事です。ところが奇妙に思われるかもしれませんが,時に親は子供を利己的にすることに一役買っています。親の態度が息子や娘の心に貪欲を培うことがあります。ある親は,自分が子供の時に与えてもらえなかった物をすべて自分の子供に与えてやりたいと考えます。子供の時に苦労した親は,子供に安楽な生活をさせたいと言います。あなたは親のこのような言葉を聞いたことがありますか。表面だけを見るならば,この種類の考え方は間違っているようには思えないかもしれません。しかし少し立ち入ってみると,このような考え方には重大な欠陥のあることが分かります。この態度の親は,一般的に言えば若い時の労苦,犠牲的行為,不自由したことが自立と円熟に役立っていることを見落としています。これらの経験の少なくとも一部を子供たちに与えないでおくことは,同様な望ましい資質を培ううえに妨げとなり得ます。

      子供の欲しがる物を何でもその欲しがる時に与えるならば,子供は親以外の人からもすべて同じように待遇してもらえると考えて成長します。その事にはほとんど疑問の余地がありません。欲しいだけの小遣いを与えられる子供は,何も自分自身でかせぐ必要はないと考えるでしょう。また他の人に与える気持ちも持たなくなります。親が子供のためにすべての事をするならば,子供が自発的に事を行なう人になることはまれです。むしろ他の人が自分に代わって責任を果たしてくれるものと期待します。子供が若い時の親の訓練としつけは,非常に大きくものを言います。その事に同感ではありませんか。

      物質的な物を幸福と同一視する親は,まさに正反対なもの ― 不幸と欲求不満を招くことを子供に教えています。子供に残すにはなんとひどい遺産でしょう。

      他方,愛の心を持つ親は,子供が自立できる,しっかりした人,愛情深い,親切な男女に成長することを望みます。そしてこの目標を達成するうえで,親の役割が肝要です。子供は大抵次の二つの事のうちどちらかをします。すなわちするように教えられたこと,あるいはなすがままにまかされたことのいずれかです。愛,愛情そして思慮深いしつけを与えられたために,子供が利己的になったり,増長したりすることはありません。子供が自己中心的になり,利己的になるのは,大抵これらのものを全く,あるいはほとんど与えられない場合です。

      成長した時,子供は親から受けた訓練,しつけ,愛(あるいはそれを受けなかったこと)の結果であり,所産であるのが普通です。子供がりっぱなおとなに成長すれば,親はいわば“表彰”を受けることができますが,そうでなければ,責めの大半を負うという苦痛を受けねばなりません。子供が小さい間に努力を惜しまなければ,大抵良い結果になります。聖書に書かれているとおり,「子をその行くべき道に従って教えよ,そうすれば年老いても,それを離れることがない」のです。(箴 22:6,口)もちろんこの原則は女の子にもあてはまります。

      確かに,気づかっている親は子供がりっぱに成長することを望みます。それで親として必要な努力を払ってください。そうすれば子供たちはおそらくおうようになります。彼らは「受けるより与えるほうが幸福」なことを認識するようになるでしょう。―使徒 20:35。

      [19ページの図版]

      『父は公平に分け合うよう教えてくれた』

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする