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神との関係におけるあなたの立場はお子さんにどのように影響しますかものみの塔 1972 | 9月15日
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の慣用にも,宗教的,霊的,道徳的な意味がありました。したがって清められたものは何であっても,清浄で聖く,神への奉仕のために取り分けられたものでした。
神のみまえにおけるこの清い立場は,神がみ子をとおして行なわれた備えに信仰を働かせることによって得られます。この信仰を働かせない者は,親から受け継いだ不完全さや罪深さを清められていないのです。使徒パウロが「不信者」と呼んでいるそのような人々は,正直に生き,道徳にかなった生活を送っているかも知れません。しかしその人たちは清くない世から離れていません。彼らの罪深い状態を除くための神のご準備を受け入れておらず,主イエス・キリストの真の弟子となることによって罪の奴隷という状態から解放されていません。そのような人々は,そのままの状態では,神の目に清い者ではありません。―コリント後 6:17。ヤコブ 4:4。ヨハネ 8:34-36。
コリント前書 7章14節の使徒のことばは,不信者そのものが結婚のきずなによって清く,あるいは神聖にされる,と述べていないのに注意してください。不信者は実際には悪事や不潔な行ないを常習的に行なっているかもしれません。むしろパウロは,不信者は信者に「関連して」神聖にされると言っているのです。ですから神はそのような結婚関係もしくは間柄を,信者とその幼い子どもたちに対する愛に満ちた親切ゆえに清いものと見なされるのです。
神は何を根拠にして,宗教的に分裂した家族の幼い子どもたちにそのような好意を示されるのでしょうか。それは,結婚は神がお定めになったものであり,結婚関係は人間のために正しい取り決めだからです。ですから正式の結婚はすべて神の是認を得ます。神はその結婚の当事者を「一体」と見なされます。(マタイ 19:5)したがって,当事者の片方が忠実なクリスチャンである場合,その当事者は不信者の配偶者との生活をつづけることによって汚されることはありません。その結婚は神に受け入れられるものです。もし受け入れられるものでなければ,その子どもは私生児のようになります。しかし,今子どもは神聖なもの清いものと見なされているのです。もし結婚当事者が不信者同志であるならば,その結婚自体は非とはされませんが,子どもたちは両親と同様,神のみまえに清められていない者,あるいは清くない者と見なされます。
とはいっても,神が親の功績にもとづいて神聖と見なされる子どもというのは,神の奉仕者に対するすべての要求を十分に理解できるだけの年齢に達していない子どもたちのことです。そういう子どもたちは,バプテスマを受けて主イエス・キリストの弟子となる人々に要求されていること,すなわち自分で重要な決定を下す,ということができません。しかし次のことは心にとめておかねばならない重要なことです。それは,たとえ幼くても子どもたちは,従順の意味するところを知っていなければならない,ということです。子どもは両親に従順でなければなりません。わがままな子,悪いことばかりする子であってはなりません。(箴言 20:11)そうなると,両親が,あるいは信者である片方の親が,子どもたちに従順であることを教え,またあらゆる機会を捕えて聖書の真理を教えることが絶対に必要となってきます。
父親はエホバの「薫陶と訓戒とをもて」子どもを育てることを義務づけられていますが,そればかりでなく,子どもにも次のような命令が直接に与えられています。「子たる者よ,すべての事みな両親に順へ,これ主の喜びたまふ所なり」。「子たる者よ,なんぢら主にありて両親に順へ,これ正しき事なり。『なんぢの父母を敬へ(これ約束を加へたる誡命の首なり)。然らば,なんぢ幸福を得,また地の上にいのち長からん』」― エペソ 6:1-4。コロサイ 3:20。
したがって,もし若い子どもが不従順で,親の命令や要求に反抗するなら,もし親から離れているときに,親の意に反する,あるいは神の目に正しくないことをあえてするなら,またもし非行者の友だちと行動をともにするなら,たしかにその子どもは,家族の功績の恩恵のもとにあることを主張することはできません。クリスチャンである片方の親,または両親が,神のみまえに示す功績を消してしまうのですから,その子どもは,非行をともにする者たちと同様,清くありません。―詩 50:16-20。
クリスチャンの親または両親の功績にあずかるということは,従順な子どもにとって何を意味しますか。それはその子どもが神の恵みを受けることを意味します。その子にはクリスチャンの親と同様に,神の保護と助けがあります。また,世が受けるような不利なさばきを受けません。(ペテロ後 2:9。詩篇 37:25,26と比較してください。)悪人に対するさばきを執行するとき,神はそのような子どもたちを,信仰のある両親同様に,清い,神聖な者と見なして救われるのです。
その逆のことについては,聖書は次のように宣言しています。「万軍のエホバいひ給ふ視よ炉のごとくに焼る日来らんすべて驕傲者と悪をおこなふ者はわらのごとくにならんその来らんとする日彼らを焼きつくして根も枝も残らざらしめん」。(マラキ 4:1)西暦70年,エルサレムが神に対する不忠実のゆえに破壊されたとき,子どもたちは親とともに殺されました。一方,ローマ人が町を封鎖しないうちに滅びに定められた町から出なさい,というイエスの預言的な警告に従ったクリスチャンたちは,その子どもとともに救われました。
同じく,この事物の体制の中で悪を行なっている者たちが滅ぼされるときにも,この原則は適用されるでしょう。ひとり立ちになり,義の立場を取ることをしていない子ども(枝)は,親(根)と同じく不利なさばきを受けるでしょう。
エホバ神が忠実なしもべたちを認めておられるということは,神を愛する者に対する神の大きな愛と同情ある理解の現われであり,また,「神を愛する者……のために」「すべてのこと相働きて益となる」ようにする神の英知を示すものです。―ロマ 8:28。
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自分自身の悟りではなく神に信頼を置きなさいものみの塔 1972 | 9月15日
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自分自身の悟りではなく神に信頼を置きなさい
エホバ神に献身している人々は,人類の最後の審判がエホバ神の手中にあることを理解しています。ダビデ王は,世継ぎであるわが子ソロモンに対する最後の訓戒の中で,「エホバは一切の心を探り 一切の思想をさとりたまふ」と述べています。―歴代上 28:9。サムエル前 16:7。
ですからわたしたちは,特定の人やグループがどんなさばきを受けるかについて,心配すべきではありません。しかしエホバ神は,わたしたちが自分に有利なさばきをもたらす道を歩めるように,また他の人々が神のみまえに正しい立場を取るのを助けられるように,わたしたちに道しるべを与えてくださいます。
若い子どもにかんしては非常に微妙な関係や感情が存在するものですし,また前の記事で取り上げられた家族の功績にかんする神の原則を考え合わせると,これに関連して,検討するだけの価値のある疑問がいくつか出てきます。
養子
『養子になった若い子どもはどうでしょうか。そういう子どもたちは養家の家族の一員ではないでしょうか。神のみまえにおける彼らの身分は,養父母の身分によって左右されるのではないでしょうか』と質問する人たちがいます。おそらくそうでしょう。もし養父母がクリスチャンであれば,彼らは子どもに神のことばの真理を教えるでしょう。もしその子どもが養父母,および自分に理解できる神の律法とに従順であるなら,使徒パウロがコリント前書 7章14節で述べていることが,この場合に適用されることは明らかです。
一方,子どもはクリスチャンでない養父母に育てられるかもしれません。その場合子どもは,神のみまえで養父母のさばきにあずかる者と考えられるようです。もちろん,もしその子が善悪の区別が十分できる年齢に達していて,実際にそれを行ない,義に対する愛をはっきり示し,たとえ養父母が真理を知ってそれに従うことを真剣に考えなくても自分でそれをするならば,その子は神の恵みを受けることができるでしょう。―エゼキエル 18:14-18; 33:18,19。
夫婦がひとりの子どもを正式に養子にして,その子に対する責任を引き受けている場合は,良かれ悪しかれ,その子の身分の決定に大きな役割を果たします。しかし,親類の子をあずかっているだけの人または夫婦,あるいはお金をもらって子どもの世話をしている人は,子どもの世話人にすぎませんから,その子が神の恵みのもとに入れられることを期待することはできません。世話人は子どもに対して責任のある者ではありませんから,この場合,家族の功績の原則は適用しません。しかしながら,子どもの世話をしている間に,自分にできる範囲で神のことばに基づいた教育を子どもに施し,もし子どもが,教わる良い事柄に聞き従えば,それはもちろん子どものためになります。
神のしもべたちは,できるだけのことをして他の人々に真理を教えるべきですが,子どもに対して直接の責任のない人は,その子の両親の権利にどうしても干渉しなければならないと考えてはなりません。自分に不信者の親せきがあっても,子どもたちをしつけることは,その不信者の家族の両親の責任です。神は彼らが自分の好みに従って教育することを許しておられます。もちろんそういう子どもたちに真理を語る機会が与えられれば,そうすることもできるでしょう。しかしそれ以上のこと,たとえば,子どもを支配する法的権利を得ようとすることなどは,他人の事柄への干渉になるでしょう。―ペテロ前 4:15。
不信者との結婚は危険
次のことは心にとめておかねばなりません。それは,たとえ神が,片親だけが信者の家族を祝福されるといっても,クリスチャンが不信者と結婚するのはきわめて分別の欠けた行為だということです。というのは,神はその結婚関係を神聖なものと見られますが,それはむずかしい問題が生じないという意味ではありません。宗教的に分裂した家庭で,子どもたちに神の道を教えるのは,ずっとむずかしいのです。不信者は,子どもたちが受ける教えの効果を台なしにしようとするかもしれず,子どもたちが教えを受けるのを妨害しようとさえするかもしれません。それは子どもに好ましくない影響をおよぼします。子どもたちは信者の親から教えられる事を従順に行なおうとしないかもしれません。もしそうであれば,その子どもたちは,不信者のほうの親とともに神のさばきを受けることになるでしょう。
もし不信者のほうが,宗教がちがうという理由で別居を決心するなら,たいへんむずかしい事態が生ずるかもしれません。もし不信者がどうしても別居すると言い張るなら,信者
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