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偉大な教え手から学ぶものみの塔 1972 | 6月1日
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直面して,それに対処する心構えができていなかったので当惑して恐れ,もしかすると,まちがったことをしてしまったのではないかと思って泣きながら家に帰って来るまで手をこまねいて待っていますか。それが小さな子どもをどれほど当惑させるものとなるかを知ってください。お子さんに対して憫れみ深くあってください。皆さんはご自身の人生経験から,お子さんの生活にどんな問題が起こるのが必至かをご存じのはずです。天の父が何を望んでおられるかを知るよう,愛をもってお子さんを助けてください。ほかのだれにもまさってエホバ神を喜ばしたいという欲求をお子さんのうちに築かせ,ほんとうに大切なのは神がわたしたちをどう見ておられるかという点であることを認識させるようにしてください。―箴 29:25。詩 119:11。
23 (イ)クリスチャンの親はどんな点で,この世的な知恵だけで導かれている人々よりも有利ですか。(ロ)人生に首尾よく対処するには,子どもには何が必要ですか。それはいつ必要ですか。
23 偉大な教え手の弟子として,クリスチャンの親である皆さんには,この世的な知恵だけで導かれる人々に比べて,はかり知れない利点があります。世の人々には,神のみことば聖書の与える知恵と慰めと励みがありません。クリスチャンの親であられる皆さんは,子どもたちに対する供給者,保護者,教育者,訓練者としての任務を果たすにさいして,神の後ろだてに頼ることを知っています。皆さんは,ただお子さんに衣食住を与え,お子さんを学校に送れば,それで自分の務めは終わったのだと考えるような愚かな人ではありません。お子さんが人生に首尾よく対処するには,道徳上の指針,つまりそれにのっとって生活する原則が必要なことを皆さんはご存じです。そして,必要な導きと保護を受けるには,お子さんはそうした指針や原則を幼少の時に学びはじめることが必要です。
24 聖書の箴言は,適切な訓練を子どもに与えることの大切さをどのように強調していますか。
24 神のみことば聖書は,「子をその道に従ひて教へよ然ばその老たる時も之を離れじ」と命じています。(箴 22:6)一方,「任意になしおかれたる子はその母を辱しむ」,また,「愚なる子は其父の憂となり亦これを生る母の煩労となる」と述べています。(箴 29:15; 17:25)もちろん,愚かさは知恵の反対です。もし親が自分の子どもを偉大な教え手に,つまり『知恵と知識とのすべての宝がかくされている』方に導かないなら,子どもが無分別で愚かなこの世の道に従う場合,その親は重大な責任を負うことになるのではありませんか。そうです,子どもが助けを受け入れず,また生涯のじゅうぶん早い時期に助けを受け入れないと,痛ましい事態が起こるおそれがあり,またまさしく起きているのです。
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子どもを教えることはどれほど早くから始めるかものみの塔 1972 | 6月1日
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子どもを教えることはどれほど早くから始めるか
1 進化論によれば,幼少時の教育に対するどんな見方が薦められていますか。
お子さんを教えることをどれほど早い時期に始めれば,「じゅうぶん早い」といえるでしょうか。生まれてまもない最初の二,三年間は一種のきまりきった「過程」にすぎず,子どもは多かれ少なかれ一定の「段階」を自動的に経過するので,そうした誕生後の何年かの間に起きる事がらは子どもの後の人生に大きく影響するものではないと感じている人は少なくありません。しかしこれほどまちがった考えはありません。こうした考えはおおむねダーウィンの提唱した進化論を通じて一般化されたものであることが今や認められています。「今日の学齢期前の教育」と題する本は,こうした考えに反論し,そのような考え方がどんな結果をもたらすかを示して,その30ページでこう述べています。「こうして,幼いジョニーが何か『悪い』ことをするたびに,その行動は子どもが順々に進む一つの段階にすぎないのだと説明される。そのうえ,尾を切ると後ろ足が育たないという,オタマジャクシにかんする[ある進化論者の]たとえ話に従って,ジョニーの好ましくない行動を押えてはならない。さもないと,何か望ましい特性が将来現われなくなるかもしれない,とされている」。さて,あなたは子どもの訓育にさいして,こうした進化論的な考え方にならいますか。それとも,神のみことば聖書を指針となさいますか。
2,3 (イ)聖書は子どもの生活の幼少期をどう見るように教えていますか。(ロ)マルコ伝 10章15節に示されているように,子どものための宗教的訓練はいつ始めるべきですか。
2 そうした考え方とは全く逆に,聖書は,そうした初期の何年間が貴重で,肝要で,重大な時期であり,親がその時期を無駄にすべきではないことを示しています。イエス・キリストが,「凡そ幼児の如くに神の〔王国〕をうくる者ならずば,之に入ること能はず」と言われたのを思い出してください。(マルコ 10:15〔新〕)「幼児」と訳されているギリシア語はパイディオンです。この語は,マルコ伝 5章40-42節で,イエスが復活させた少女のことが述べられている場合のように,12歳の子どもについても用いられます。しかしそれは,羊飼いたちが尋ねた時の子どものイエスについて用いられているように,生まれたばかりの赤ん坊にもあてはまります。―ルカ 2:17。
3 イエスの述べられたことから見て,子どもの幼年期が過ぎるのを待ってから,聖書の肝要な教えを授けることについて真剣に考えはじめるのは,なんと愚かでしょう。そのときになると,親はこう言わねばならないのです。『あなたはもう小さな子どもではないのだから,さあ,「身をめぐらして」,もう一度幼子のようになり,神の王国の真理を学んで,それを受け入れられるようになりなさい』。まだ幼子としての貴重な特質のある間に,どうして子どもを教えないのですか。息子あるいは娘のいずれを問わず,お子さんが謙そんで,すなおで,物事を進んで熱心に学ぼうとする幼子である絶好の時期をなぜ無視するのですか。では,神の恵みのうちに受ける命を亭受するよう子どもをいつから訓練しはじめるべきでしょうか。誕生の時からです。一刻もおくらせてはならないのです!
4 生後最初の2年間に子どもの脳はどの程度発達しますか。
4 それは実際的なことですか。現実にかなっているでしょうか。まさにそのとおりです。生まれたばかりの赤ん坊が呼吸し,食べ物を消化し,感じ,泣き,あくびをし,眠ることはできても,それ以外にあまりできないことは確かです。でもすでに,数日また数週間のうちに,赤ん坊の脳裏にはさまざまな印象が刻まれています。その能力はすでに働きはじめているのです。親がおかしかねない最大のあやまりの一つは,こうした早い時期における子どもの知力を軽視することでしょう。誕生時における子どもの脳の重さは,成人のそれの4分の1にすぎません。しかし,わずか2年のうちに,その脳は急速に成長し,成人のそれの4分の3に達するのです。
5 (イ)研究者たちは,子どもの知力の発達についてどんな興味深い注解を述べていますか。(ロ)子どもの知能を例を上げて説明しなさい。
5 子どもの知力もまた発達してゆきます。研究者によると,最初の4年間における子どもの知力の発達は,その後の13年間のそれに匹敵します。「子どもは,5回目の誕生日を迎えるまでに,生涯中に遭遇する最もむずかしい概念の幾つかを学び取る」と言う人もいます。子どもが学び取るそうした概念の一つは言語です。別の研究者はそうした言語の修得を「おそらくひとりの人間に求められる最もむずかしい知的業績」と評しています。もしこのことを疑われるなら,何か新しい言語をちょっと学んでみてください。ちょっとのあいだに話し方を覚える赤ちゃんが,知的な面で驚くべき芸当をやってのけていることに気づかれるでしょう。しかも,忘れないでください。あなたが新しいことばの勉強をはじめるときには,すでに一つの言語を知っており,言語がどのように働くかを知っていますが,赤ちゃんは何も知らないのです。また,国籍の違う親を持つ子どもや,二つの言語が用いられている土地に住む子どもの場合も考えてごらんなさい。ほんの四,五歳の時に,そのような子どもが,一つではなく,二つの言語でやすやすと会話をし,しかもなまりもなくそうしている場合が少なくないのです! そこに知力が働いているのは明らかです。小さな子どもたちは驚くほどの修得能力を備えています。しかし,その能力は活用し,発展させ,指導することが必要です。それにはあなたの助けが必要です。あなたに大きく依存しているのです。
6 (イ)子どもの知的な面での発達以上に注意を受けるにふさわしいのは何ですか。(ロ)こうした点で生後最初の1年間に何が起きますか。
6 しかし,キリストの真の弟子として,あなたはお子さんの思いとその知的な発達だけに関心を持つべきではありません。お子さんの心,および正しい動機を与えるという面での心の発達にはるかに大きな関心を払うべきです。(箴 4:23)誕生時の子どもの心臓は比較的大きいのですが,最初の1年間でその大きさは倍になることをご存じでしたか。その後はもう少しゆっくりと成長してゆきます。幼子には生後1年目にすでにいろいろなくせがつきはじめます。その1年の間に子どもはおとなの求めに進んで応じる態度,あるいはそうした態度の欠如を示しはじめます。神の恵みを受けるための要求のうちで最も基本的なのは従順です。それは生死の違いを意味する場合があります。では,子どもの性格形成を,その誕生時から始めるのはなんと大切ではありませんか。―伝道 12:13。エレミヤ 7:23。
7 (イ)性格形成に関して研究者たちは何といっていますか。(ロ)この点を正しく認識していない母親が多いということを何が示していますか。
7 このことを確証しているのはサイエンス・ダイジェスト誌1969年3月号の一記事です。その中でマーピン・アック博士は,「人の性格の大半は就学以前に確立される」ことが研究によって示されており,「学齢期以前の子どもがきわめて感受性が強く,また順応性に富んでいるということは言うまでもなく広く知られている」と述べています。そして,さらにこう述べました。「しかしながら,われわれが発見したところによれば,子どもが態度や経験という点で幼少時に遭遇したものは,永続する,時には不変の行動様式を形成する場合が少なくない」。このことは,5歳以後では,そうした行動様式は変えられないという意味ですか。別の研究者はこの点に否と答えて,こう述べます。「子どもは最初の7年間はかなり順応性に富んでいるが,長く待てば待つほど,その環境をいっそう徹底的に変えなければならなくなる……そして,変化の可能性は年ごとに小さくなる」。すべての親がこの事実を認識しているわけではありません。アメリカの場合だけを見ても,学齢前の児童およそ400万人の母親が家庭の外で働いています。おそらく,やむをえずそうしている母親もいることでしょう。しかし,そうした幼少時に子どもに教えうるようなことはとにかくほとんどないと思い込んでいる親が多いことも明らかです。なんと痛ましい誤った考えでしょう。
8 家庭環境は善かれ悪しかれ子どもにどう影響するかを説明しなさい。
8 そうした幼少時にお子さんのために整える環境は,お子さんの人格形成において非常に大きな役割を果たします。問題は単にどんな家に住むかということではなく,その家でどんな家庭を営むかということなのです。それは清潔で,きちんとしており,整然としていますか。それは,言い争ったり,叫んだり,怒ったりするようなことのない平和な家庭ですか。親は互いに対して敬意をいだいていますか。もしそうでないなら,幼い子どもにそれとは違って,親に敬意を示すよう正当に期待できますか。親である皆さんは,自分のあやまちを認めますか。もし子どもが父親や母親が謙そんさを示すのを一度も見たことがないなら,どうして子どもは謙そんさを自分の従うべき規準とすることができるでしょうか。また,次のような危険もあります。つまり,もし親が自分は決して間違いをしないというような印象を子どもに与えるなら,子どもは,なんでも親のすることならしてもだいじょうぶだ,それは常に正しいのだと考えるかもしれません。もし親が,「ちょっとした」うそとみなすものを,ひょっとして隣人や集金人に語るなら,子どもは自分もちょっとしたうそなら,うそをついてもかまわないのだと感ずるでしょう。そして,もし両親が子どものしつけの問題で意見が食い違う場合,あるいはいつも子どもを戒めておきながら,めったに戒めを履行しないなら,子どもはすぐにそれに気づき,親が定める規則に対する敬意はたちまち薄れるでしょう。このことを決して疑ってはなりません。―こうした事柄は若い人たちの感じやすい思いに強い,ほとんど消しがたい印象を与えるのです。子どもの生来の無邪気さ,また生まれつきの正直さや公正さが,人生の経過とともに打撃を受けるのは避けがたいことです。しかし,そうした打撃が,どうか,あなたからもたらされるものではないようにしてください。
聖書そのものを用いる ―『幼い時から』
9 子どもの訓練に聖書そのものを用いるのはなぜ重要ですか。これはどれほど早く始めるべきですか。
9 しかし肝要であるとはいえ,手本だけでは不十分です。子どもは親がなぜその規準に従うのか,またなぜ自分にその同じ規準に従うことを求めるのかを知る必要があります。これはつまり聖書を用いるということであり,これもまた幼い時から行なわれなければなりません。使徒パウロはテモテに対して,こう書きました。「されど汝は学びて確信したる所に常にをれ。なんぢたれよりこれを学びしかを知り,また幼き時より聖なる書をしりし事を知ればなり。この書はキリスト・イエスを信ずる信仰によりて救に至らしむる知恵を汝に与へ得るなり」― テモテ後 3:14,15。
10 ここでパウロが用いているギリシア語は実際に「幼子」を意味していますか。それとも単に『子どもの時代』をさしているのでしょうか。
10 パウロがここで用いている「ブレフォス」というギリシア語は,実際にはただの幼子を意味しているのでしょうか。そうです。事実,このことばは普通,ルカ伝 1章41,44節の場合のように生まれる前の子どもをさして用いられています。エリサベツを尋ねたマリヤについて述べたその記録は,エリサベツがマリヤのあいさつを聞いた時,『エリサベツの胎内で幼子がおどった』と述べています。しかし,ブレフォスは生まれたばかりの子ども,幼子もしくは赤子をも意味します。たとえば,使徒行伝 7章19,20節では生後3か月の赤ん坊であったモーセについて用いられています。それでパウロは,テモテが単に『若い時』あるいは『子どもの時代』からではなく,実際に幼い時から聖なる書を知っていたと述べているのです。どうしてそのようなことがありえたのでしょうか。
11 テモテはどうして「幼子」のときから聖書のことを知っていたのでしょうか。
11 明らかにテモテは,どこまで自分の記憶をたどっても,霊感を受けた神のみことばを母親や祖母から教えてもらわなかった時期を思い出すことなどできませんでした。パウロはそのことを述べていたのです。(テモテ後 1:5)テモテはごく幼いころの記憶をたどっても,聖なる書とその教えのことがその記憶に伴っていました。テモテはエホバに向かって,詩篇 22篇10節のダビデのように,「わが母われを生しときより汝はわが神なり」と言うことができました。あなたのお子さんはそのように言うことができるでしょうか。テモテの母親と祖母が行なった事を,親の皆さんも今日行なうことができますし,テモテの場合のようにすぐれた結果を当然期待できます。
12 (イ)家庭ではだれが子どもを教えるべきですか。(ロ)子どもとともに一時を過ごし,子どもに親しい配慮を示すのはなぜ大切なことですか。
12 テモテの父親はクリスチャンではありませんでした。とはいえ,クリスチャンの父親は子どもを教えることをすべて妻にまかせようとはしません。もしそうするなら,父親に対する子どもの敬意を薄れさせるという報いを刈り取るでしょう。エペソ書 6章4節(新)にある使徒の助言はこうです。「父たちよ,あなたがたの子どもたちをいらだたせず,エホバの懲らしめと精神の調整とによって養育してゆきなさい」。子どもをいらだたせることの一つは,子どもが自然に求める親の配慮を与えないことです。子どもは赤ちゃんの時以来,そうした親の配慮のもとですくすく育つのです。確かに赤ちゃんに少しでも関心を示すと,赤ちゃんは小さな口を大きく開いて(おそらくはえかけの歯を一,二本のぞかせながら),すぐ笑いませんか。父親や母親の配慮を示すちょっとしたしぐさでさえ,赤ちゃんをくっくっと笑わせたり,大はしゃぎさせたりしませんか。年長の子どもたちも親から向けられる関心を渇望します。それを得ようとしてわざわざいたずらをする場合さえあります。そうです,親の皆さんが子どもの年齢を問わず,お子さんに与えうる最もすぐれた贈り物の一つは,あなたの時間であり,親しい配慮と関心なのです。ただ命じたり叱責したりするだけでは不十分です。その種の懲らしめはそれだけで子どもをいらいらさせるおそれがあります。子どもはあなたがいっしょに腰をおろして,ただ単に「こうしなさい」「そうしてはいけません」というだけでなく,「なぜか」また「どうしてか」を時間をかけて説明してもらいたいと思っていますし,またそうしてもらう必要があるのです。お子さんがそのような助けを受けられるようにしてください。なぜなら,そうするのは愛のあることだからです。
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