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  • 原子物理学者で“あるべきか,あらざるべきか”
    ものみの塔 1979 | 8月1日
    • と,周囲がへいで囲まれた大きな敷地から成っていました。係の将校 ― 背が低く,ずんぐりした体格で雄牛のような声の男 ― は,何が要求されているかを,間違いようのないほど明瞭に私たちに告げました。しゃべることは一切許されず,万事“かけ足で”行なわねばなりません。私たちは手がひび割れてすりむけるまで床をこすらされ,次いで炎天下の構内を,汗が滝のように流れるまで走らされました。おくれそうになる者がいると,見張りの兵士の銃の台尻が彼をせき立てます。次には水を入れた容器を頭上に持ち上げ,今度もかけ足で,こぼれる冷たい水を浴びながら構内を走らされるのです。これは日課でした。

      私たち三人の証人がこの収容所に入れられていました。しかし程なくして一人は兵役につくことに決め,釈放を待つ間,私と話し合う自由を与えられました。それは彼のとった道にならうように私を説得するためです。しかし神の目的について知識を得たのはエホバの証人と交わった結果であることを認識していたゆえに,私は彼らに堅くつくことを決意していました。

      収容所の厳しい環境の中で時間のたつのが遅く感じられました。しかし遂に釈放の時が来て,私は兵営に戻されました。同じ事が繰り返されて,すぐに私は二回目の軍法会議の通知を受けました。

      今度の刑期も6か月でしたが,服役したのはオンタリオ州北部のバーウォッシュにある普通の重労働刑囚人収容所です。そこへ送られた時のことは忘れられません。二人ずつ手錠でつながれ,さらに全員が太い鎖でつながれた囚人の群れの一員として護送されたからです。トロントの下町を駅に向かって歩き,列車の中の席に落ち着くまでの間中,鎖につながれたままの私たちは好奇心に満ちた視線にさらされました。その群れの中で証人は私ひとりでした。

      バーウォッシュでの生活は軍の収容所よりもましでした。1944年の冬の間,私たちは戸外で木を切り倒し,雪の上でそれを引いて積み出す仕事をしたのです。晩には読書やおしゃべりをすることもできました。それで私は他の囚人たちに,かなりの証言をすることができました。約5か月後,私は不名誉な除隊を言い渡されたので,出所できる身となりました。私はPULHEMS健康テストの結果,欠陥ありと認められたのです。このテストではそれぞれの文字が人体の各部を表わします(Uは上肢[Upper limbs]を表わすというふうに)。どれかの文字の表わす項目に“8”をつけられると,だれでも除隊になるのです。私は“S”(感覚による認識力)の点で“8”になりました。簡単に言えば精神の平衡を失っている者とみなされたのです。

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      このように“能力のおぼつかない”者とされたにもかかわらず,私はものみの塔協会によって使われていた印刷工場で働くように招待されました。グレイスはすでにそこで働いていました。印刷機械の操作は初めてでしたが楽しい経験であり,信者同士のすてきな仲間と一緒に働くことは喜びでした。約4年後の1944年6月に禁令が解かれると共に協会のトロント事務所は再開され,王国伝道の業を公に推し進めるための計画がすぐに実施されました。

      1945年の12月に私たちは協会のバンクーバー文書倉庫で働くように任命され,その2年後には巡回の仕事に携わって風光の美しいフレーザー・バレーの諸会衆を訪問しました。興味深いこの仕事を始めて1年後に,私たちは宣教者としての訓練を受けるため,ものみの塔ギレアデ聖書学校に招待されて心を躍らせました。微小な原子の中に明白にみられる「動的勢力」の源である神に対する私たちの信仰は,なんと強められたのでしょう。(イザヤ 40:26,新)卒業の日はまたたく間に来て過ぎ去り,私たちは外国の任命地に向けて荷造りをしていました。不要品をえり分けながら,私は原子と分子の構造に関するヘルツベルグ博士の著書2冊をどうすべきか長い間ためらっていました。それは私の研究の基礎になっていたものです。遂にそれらを処分しました。問題はすでにはっきりと決定済みでした。

      1949年12月29日,私たちは任命地であるチリのサンティアゴに着きました。初めはスペイン語が問題でしたが,私たちの苦労は,誠実な人々との産出的な聖書研究という形で実を結び始めました。これらの人々の中には聖書を見たことのなかった人もいます。これら愛すべきチリ人の中には,私たちの霊的な兄弟,姉妹となった人々も何人かいます。真理に対する彼らの熱情と熱意はなんと心を暖めるものだったのでしょう。さらに大ぜいの宣教者が加わるにつれて,王国伝道の業は躍進し,国中に会衆が設立されるようになりました。私たちの新しい使命は真に報いのあるものでした。

      年月がたつにつれ奉仕の新しい特権が加えられました。拡張された協会のサンティアゴ支部事務所での手伝い,王国宣教学校の教訓者として奉仕したこと,励みを与え,伝道の業の統一を助けるために近隣9か国の支部事務所と宣教者の家を訪問したことなどがそれです。これらの国々でエホバを賛美する人々の数が増加し続けるにつれて,エホバの祝福を見るのは何という喜び,また満足でしょう。

      1969年4月は私たちの生活に大きな変化をもたらしました。私たちはブラジル,サンパウロの支部事務所に任命されたのです。ポルトガル語という新しい言語を学ぶことが必要になりました。19年間にエホバの民が200人から6,000人にまで増加するのを見た私たちにとって,チリは去り難い国です。その中には何年にもわたって共に働いた多くの人々をはじめ,私たちの霊的な子供と孫も何人かいます。しかし私たちは,「ここに私がおります。私を遣わしてください」をモットーとしてきました。(イザヤ 6:8,新)それで私たちは重い心を抱いて彼ら全部に「アスタ・エルゴ」を言いましたが,これから何年も忘れることのできない多くの楽しい思い出を胸に抱いてそうしたのです。

      ブラジルには「良いたより」を熱心に宣明している人々がすでに5万5,000人もいました。心霊術に心を寄せる人々が非常に多いカトリックのこの国で,業は進歩しつつありました。喜んでエホバに仕える同じ精神がここでも見られ,毎年,何千人という人々が聖書の真理を受け入れて神に献身しています。彼らの勤勉な働きによって,いまブラジルの2,012の会衆に10万6,000人の伝道者がいます。サン・パウロでは,これら会衆の必要物を世話するベテルの家族が40人から155人に増加しました。ポルトガル語の「ものみの塔」と「目ざめよ!」を印刷する新しい工場の落成に喜んだのは5年前のことですが,今ではたいそう手狭になり,新しいベテルの家と工場の建設が再び進められています。それはサン・パウロから140キロ離れた静かな環境の土地に位置しており,エホバの創造されたすばらしい自然環境の中にあります。この国のエホバの民の前途になおどれほどの増加がもたらされるかは,エホバのみがご存じです。

      それで私は「原子物理学者で“あるべきか,あらざるべきか”」という質問に肯定の答えをしなかったことを少しも悔いていません。私にとって原子物理学は今でも非常におもしろく,興味をそそるものです。しかし原子を設計し,創造された偉大な科学者であり,数学者である神を知るようになったことに,どうして悔いがあり得るでしょうか。他の人々に創造者を知らせるのに生涯の大半を用いることに悔いがあり得るでしょうか。エホバに献身した,全世界にわたる霊的な家族の一部となったことに悔いがあり得るでしょうか。後悔するどころか,私は次のように言明したアサフと全く同感です。「わたしにとって神に近付くのは善いことなのです。至高の主,エホバにわたしは避難所を設けました」― 詩 73:28,新。

  • ミツライムの子孫はだれか
    ものみの塔 1979 | 8月1日
    • ミツライムの子孫はだれか

      ハムの息子の一人に,ミツライムという名の人がいます。(創世 10:6)聖書ははっきりと,ミツライムを古代エジプト人の先祖としています。例えば,エジプト人がアタデの脱穀場で喪に服して嘆いているのを見たカナン人は,その地を「アベルミツライム」と呼びました。それは「エジプト人の喪」という意味です。―創世 50:7-11,新。

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