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ソ連では宗教はどうなっていますか目ざめよ! 1973 | 7月8日
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ソ連では宗教はどうなっていますか
過去55年ほどの間,ソ連という国は,外国人にとっては不可解なところの多い国でした。その間,「鉄のカーテン」の背後の人びとの生活については,あまり知ることができませんでした。
しかし,近年になって,ソ連はしだいに多くの外国人の訪問者を受け入れるようになりました。それらの訪問者は,国内を広く見て回ることや,あらゆる種類の人びとと話すことを許され,同国の政治,経済,科学および文化の状態は徐々に明らかになってきました。
しかし,今ひとつはっきり知ることが困難なソ連の生活の一面は宗教です。ソ連では宗教はどうなっているのでしょうか。共産主義者が50年にわたって支配してきた現在でも,宗教はまだ生きているのでしょうか。もしかしたら栄えているでしょうか。それとも絶えつつあるでしょうか。ソ連の宗教の将来の見込みはどんなものでしょうか。
食い違う報道
近年になって,外国の新聞は,ソ連内の宗教について報道しましたが,その内容は一致していません。一部の報道は,額面通りに受け取ると,ソ連内で宗教の「リバイバル」が生じていることを示唆しています。
たとえば,ニューヨーク・タイムズ紙は,「ソ連に宗教復興の空気」という見出しを掲げました。また,1972年の「ブリタニカ年鑑」は,「国内のほとんどあらゆる大都市で宗教礼拝はつづけられており,一部の若い人びとも,宗教に心を向けつつある」と述べています。
ドイツの雑誌「シュテルン」は,ノブゴロド市の当局者が博物館に変えたある大寺院について述べています。それによると,その博物館を訪れる人びとは,十字を切り,祈りをささげ,宗教音楽を聞きます。そのことが,宗教への関心の高まっている証拠と見られたわけです。
こうした報道から,人は,なるほどソ連では宗教熱が高まっていると結論するかもしれません。
しかしながら,他の目撃者たちの話をも含めてさらに広く証拠を調べるならば,また違った印象がわいてきます。これら他の報告は,一歴史家とほぼ同じ結論を下しています。その歴史家は率直に,ソ連では,「局地的に見られる熱意や献身は別として,組織された宗教は死につつあるようだ」と述べています。
したがって,裏面をさぐってみる必要があります。今日のソ連における宗教の実情を知るには,多くの事柄を考慮しなければなりません。すべての要素を検討したときにはじめて明確な結論を下すことができます。その結論のひとつは,非常に驚くべきものであるかもしれません。
この研究に役だつのは,ソ連における教会と国家との関係の歴史を調べてみることです。これを調べると,なぜある事柄が起きたのか,現在はどんな傾向にあるかをよりよく理解することができます。
宗教の強力な支配
ソ連における宗教の歴史を調べるには,ロシア正教会の足跡をたどらなければなりません。ロシア正教会は,同国内の最大の教派です。
同教会が始まったのは西暦988年で,キエフの大公ウラジミルがバプテスマを受けて,キリスト教世界の一教派である東方正教会に帰依した時でした。彼が異教から改宗したのは,その妻アンナを得るためであったと言われています。アンナは,当時優勢であった東ローマ帝国の皇帝の妹でした。同帝国の首都は,東方正教会の本拠であったコンスタンチノープルでした。
ウラジミルはその臣民に,ひとり残らず正教会のクリスチャンとしてバプテスマを受けることを命令しました。そうしない者はみな国家の敵と考えられました。したがって,ロシア教会は発足当初から,世俗の権力に支援されていたと言えます。1453年に東ローマ帝国が滅亡したとき,ロシア正教会はコンスタンチノープルの支配からの独立を宣言しました。その後,モスクワの教長は,コンスタンチノープルの総大主教と同等の総大主教とされました。しかし,1692年にはピョートル大帝が総大主教の地位を廃して自ら教会を支配しました。そして1721年に,ロシア正教会は正式に国教会とされました。
時がたつにつれ,教会は,ツアー(王または皇帝。ラテン語のカエサルからきている)たちの圧政と,ますます密接な関係を持つようになりました。ツアーたちは,ロシア正教会に従うことを民衆に要求し,別の宗教への改宗を違法としました。無慈悲なツアーと利己的な教会とは協力して,民衆を無知と貧困に閉じ込めました。
しかし,1917年の3月,自由思想を持つ政治グループが革命を起こし,ツアーを追放しました。ツアーなきあと,ロシア正教会は,国家の支配から独立する機会を得ました。そして新しい臨事政府はその努力を奨励しました。その記憶すべき年の8月に総大主教の地位は回復され,新しい総大主教ティホンと新しい自由とを得た教会は,以前にもまして強力になるかもしれないという予想さえありました。
無気味な風向きの変化
しかし,そうなる前に,政治上の大暴風がロシア全土を吹きまくりました。1917年の11月には別の革命が起こり,これによってボルシェビキ派(のちほど共産党と呼ばれるようになった)が勢力を得ました。彼らは臨時政府も含めて,存在していた秩序を一掃しました。
数年のうちに,共産主義はレーニンの指導のもとで,ロシアとその周辺の地域でその地歩を堅め,そして1922年の12月30日に,ソビエト社会主義共和国連邦(U.S.S.R.)の成立が宣言されました。最後には,最大の共和国ロシアを含め,15共和国がソビエト連邦を形成するに至りました。今日ソ連は,どの国よりも広大な地域を有しており,その総人口は2億5,000万に近く,中国,インドに次いで世界第三位を占めています。
100余の国家群の上に政権を取った共産主義の支配者たちは,種々の宗教的信仰を持つ人びとに直面しました。むろん,ロシア正教会は最大の宗教ですが,他にもたくさんの宗教ありました。近年,共産主義者の支配下にはいった地域はとくにそうでした。
それらの宗教はすべて,新しい政府との関係において自分たちの地位はどうなるのだろう,と考えていました。それはやがてわかりました。それらの宗教はすべて,1917年の11月に吹きはじめた変革の大暴風に思いきりたたきつけられました。
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ソ連の宗教撲滅運動目ざめよ! 1973 | 7月8日
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ソ連の宗教撲滅運動
共産主義者はロシアの政権を獲得すると,時を移さず,宗教に対する彼らの目的を明らかにしました。その目的というのは,宗教を撲滅して国を無神論の国家に変えることでした。
1990年代の初めに,レーニンが,信教の自由を認めるべきことについて書いていたのは事実です。しかし,いったんボルシェビキ派が政権を握ってからは,政府が宗教を敵と見みなし,宗教を葬り去ろうとすることが明らかになりました。「労働者党の宗教に対する関係」という論文の中で,レーニンは次のように言いました。
「『宗教は人民のアヘンである』― マルクスのこのことばは,宗教の問題についてのマルクス主義の世界的概念の基礎である。マルクス主義は常に,今日の宗教,教会,宗教組織をことごとく,[敵である]ブルジョア的な反動勢力の機関と見る」。
攻撃の開始
1917年の11月に政権を獲得するや新政府は直ちに,教会の所有地を含め,すべての土地は人民(実際には政府)の所有に帰すという法令を発布しました。この法令は,のちの教会財産没収への道を開きました。
もうひとつの法令は,どの宗教を信奉していようと,またたとえ宗教を持っていなくても,すべての市民は平等である,というものでした。この法令は,結果的には無神論を許しかつ助長するものでした。
ついで1918年の初め,政府はロシア正教会と国家との完全な分離を発表しました。この時,教会の財産はすべて,共産主義者によって引き継がれ,学校での宗教教育も禁止され,また,政府の教会に対する支払いはすべて廃止されました。
これらの措置は,攻撃の一部にすぎず,本番はこれからでした。政府の見地からして重要なことは,人びと,とりわけ若い人びとの考え方を変える必要があったことでした。1918年に制定された最初の憲法は,「すべての市民は,宗教的宣伝および反宗教的宣伝を行なう権利を認められている」となっていました。しかし1929年に同憲法は修正され,『宗教的宣伝を行なう権利』は取り消されました。一方,『反宗教的宣伝を行なう権利』はそのまま残され,「宗教的信仰を告白する権利」だけが許されました。
1929年のこの決定は宗教に非常な打撃を与えました。これによってすべての宗教は,いっさいの社会的,教育的,慈善的活動を禁じられ,宗教団体は,当局によってあてがわれた建物に閉じ込められ,宣教のための活動は何ひとつできなくなりました。そして子どもたちは学校で無神論しか教えられなかったので,宗教の前途は暗いものでした。
その影響
こうした合法的な手段や,政府の敵対的な態度は影響をおよぼさずにはいませんでした。革命発生以降,ロシア全土の教会は攻撃を受け,略奪され,破壊され,あるいは変えられて工場,倉庫,政治集会所,博物館などになりました。
攻撃されたのは正教会ばかりではありません。他の教派も攻撃を受けました。たとえばローマ・カトリックの僧職者たちは投獄され,教会の財産は没収され,カトリックが行なう学校教育にも制限が課されました。共産主義者の標準的なやり方は,法王の権威をくつがえして,モスクワのみに忠誠を尽くす僧職者の社会をつくることでした。
一部の教派は,激しい圧迫に耐えきれず完全に消滅しました。合同東方カトリック教会もそのひとつでした。この教会は,ローマ・カトリック主義と正教会の混合したもので,ウクライナ人の間で優勢でした。しかし,共産主義に反対した僧職者たちは投獄されるかまたは追放され,その他の僧職者は法王への忠誠を捨てて自分の宗教を放棄し,正教会のモスクワ総大主教の傘下にはいりました。
教会財産の没収,反対する僧職者たちの投獄や追放,教会の閉鎖などと平行して,共産主義が,新聞,ラジオ,映画,学校などを通し,猛烈な勢いで吹き込まれました。ことに破壊的だったのは,学校における反宗教的なふんいきでした。ソ連内で発行された9年生の一教科書などは,共産主義を吹き込む方法の典型をなすもので,それには次のように書かれています。
「生物界の進化の法則の研究は,唯物主義概念を解くのに役だつ…
「加えて,この教理は,生物界に現われている目的について唯物論的説明を与え,同時に下等動物から進化した人間の起源を証明することにより,反宗教闘争のための武器を与えてくれる」。
子どもたちは,無神論の教師たちの意のままになりました。しかし,一般的に言って,教会に通う親たちには,その影響を中和させる力がありませんでした。ほとんどの親は,自分の宗教の教理の根拠や,儀式が行なわれる理由についてはほとんど,あるいは全く知らなかったために,その勢いに抗する備えはありませんでした。
そのうえに,若い人びとのための大きな組織がつくられました。子どもたちのための「若い開拓者たち」,16歳から23歳までの年齢層のための「共産青年同盟」などがありました。これらの組織には,マルクスとレーニンの思想がみなぎっていました。加盟は強制的でなかったとはいえ,それに同調させようとする社会的圧力は非常に大きなものがありました。人気のあるものに参加したいという若い人びとが持つ自然の欲望も若い人びとに影響を与えました。
こうして共産主義者はいったん政権を握ると,伝統的な宗教を根絶することに力を注ぎました。そして1917年以後,第一四半世紀の間,攻撃に強弱の波はありましたが,宗教反対運動はつづきました。
なぜそれほどに反宗教的か
諸外国の人びとの多くは,こうした攻撃に反感を持ちました。しかしロシアの民衆は違っていました。彼らの多くは,起きつつあったことを,教会が犯してきた罪の報いと見ました。
多数のロシア人がどう感じたかを理解するには,教会,とりわけ正教会が,ツアーたちの人民圧制における主要分子であったことを知る必要があります。僧職者たちは,利己的にも自分が有利な地歩を得るために,幾世紀にもわたって支配者に迎合し,民衆の必要を無視し,彼らを無知のままにしておきました。大多数の民衆は事実上,支配者や富裕な階級の奴隷でした。そして僧職者たちはその状態を維持することに努めました。僧職者の多くは貪欲になり,不道徳で,権力に飢えていました。
歴史家たちは,正教会がとくに腐敗していたことを認めます。モーリス・ヒンダスは,「ハウス・ウィズアウト・ア・ルーフ(屋根のない家)」の中で次のように述べています。
「村のバツシュカ[司教]は,多くの場合彼自身無知で,ウォッカにおぼれ,教区民の中の魅力的な女性を誘惑することにやぶさかではなかった。…
「ムジク[農夫]は善悪について,教区の司祭よりも,放浪するこじきや巡礼者が語る物語,彼らが歌う民謡などから学ぶほうが多かった。…
「ロシア正教会が,ツアーの国家に完全に従属し,屈従した責をのがれることはできない。ツアーの国家は,ミルユコフに言わせると,『宗教の生きた若芽をすべてまひさせたものである』」。
この著者はまた,ロシアの文芸批評家ビサリオン・バイリンスキーの次のことばを指摘しています。「すべてのロシア人の目には,司祭は,大食,けち,追従,破廉恥の生きたシンボルではないだろうか」。
正教会が自分自身の目的を推進するためにツアーの軍隊を用いたことについて,ロシアの哲学者,故N・ベルディフは,「ロシア共産主義の起源」という本の中で次のように評しています。
「高位僧職者たちは,そのような反キリスト教的『政策』を正当化できるであろうか。なぜ彼らは愛の行為に訴えずして力に訴えるのか。…この忌むべき働きにおける教会と国家の連合を,われわれは驚きをもって見るのである。多数の人びとが信仰を失うに至った原因は,まさにこの教会の国家に対する屈従にある」。
ロシアに起きた事柄に対する責任の大半が宗教の犯した罪にあることは,宗教指導者自身も認めています。ある共産国に住む一神学者は,ハーパーズ誌に掲載されたある記事の中で,次のように述べています。
「私は共産主義者ではなくてクリスチャンである。しかし私は,共産主義の台頭に対して責任があるのはわれわれ,すなわちわれわれクリスチャンだけであることを知っている。われわれは世界で果たすべき責務を有していた。イエス・キリストは,その責務がなんであるかをわれわれがいぶかる余地を残してはいない。われわれは失敗した。『言うだけで行なわなかった』。…共産主義者もかつてはクリスチャンであったことを忘れてはならない。もし彼らが正義の神を信じないとすれば,それはだれのせいだろうか」。
疑いもなく,ロシアの教会の腐敗は多くの人びとを,神から,聖書から,キリスト教から引き離しました。『もしこれが神を信ずる宗教であるなら,神はいないと信じるほうがましだ』と人びとは考えました。
したがって,ソ連の指導者たちは理由があって宗教に猛烈な反対をしているのです。しかし,不幸にして彼らは,神への真の信仰と偽善的な宗教とのちがいを見分けることをしませんでした。憤慨のあまり,宗教という宗教をすべて追放する決意をしました。
僧職者の妥協
最初のうちは多数の僧職者が,共産主義者の宗教への侵入に抵抗しました。しかし,時がたつにつれて,しだいに多くの僧職者が妥協し,共産政府の道具になりました。しかしその政府は,宗教を葬り去ろうとしていたのですから,妥協したそれらの僧職者たちは,実際には自分の墓穴を掘る手助けをしているのです。
そのひとつの例は,総大主教のティホンです。真理をまげるよりも死に甘んじたイエス・キリストとはおよそ異なり,ティホンは妥協しました。1923年,獄から釈放されたのち彼は,国益に反する事柄にはいっさい携わらないことを約束する宣言書に署名しました。彼は1925年に死亡しましたが,その少し前,全ロシア国民に,「ソビエト政権を誠実に支持し,公益をはかり,国家の新秩序に反対する公然の,あるいはひそかな運動を排斥するよう」要求しました。
彼の死後,教会はもはや総大主教の選出を許可されませんでした。しかし教会の他の高位僧職者たちは,たいていの場合彼の指導に従いました。そのことは,1927年に,(総大主教の次に位する)首都大主教セルゲイが声明を発表したときに明らかになりました。「ザ・ファースト・フィフティ・イヤーズ(最初の50年)」という本によると,セルゲイはその声明の中で,「教会とその追随者たちの支持および政治的協力を約束」しました。彼は僧職者たちに,ソビエト政府に対する忠誠の保証書を提出することを要求し,それをしない者は教会から放遂すると言いました。
僧職者たちのそうした妥協にもかかわらず,共産主義者たちは多方面にわたって宗教反対運動を継続しました。とくに,1936年から1938年にかけて政治的粛清が行なわれた時,教会は残忍な攻撃を受けました。1930年のセルゲイの主張によると,163名の司教は政府の忠実な支持者でしたが,1939年に残っていたのは12名以下でした。40人の司教は銃殺されていたと言われました。そして推定一万の教会が閉鎖されました。「最初の50年」が述べているように,「1939年の教会は崩壊寸前の状態」でした。
しかし1939年になって,変化をもたらすあることが生じました。それは第二次世界大戦のぼっ発でした。同大戦はソビエト政府と宗教との関係に影響をおよぼしました。
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第二次世界大戦がもたらした変化目ざめよ! 1973 | 7月8日
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第二次世界大戦がもたらした変化
第二次世界大戦は1939年の9月にぼっ発しました。ヒトラーの軍隊は,2年以内に,西部ポーランド,フランスその他ヨーロッパの数か国とバルカン諸国の大部分をじゅうりんしました。ついで1941年には,勝利を得たナチスは東方に注意を向けました。
同年の6月,ドイツ軍はソ連に突入しました。そして12月までには同国の西部一帯をほとんど手中に収め,モスクワの郊外にまで達していました。ソ連は,生き残れるかどうかわからない不安な状態にありました。
しかしながら,きびしい冬の気候と,ソ連軍の頑強な抵抗と,パルチザンとは,年末になってドイツ軍の進撃を食いとめました。しかし,春になればさらに激しい攻撃が再開されることは必至でした。ソビエト政府は,その前途に備えて国民の士気を高めねばならないことを知っていました。最大限の努力が必要とされていました。
この仕事を容易にしたもののひとつは,ドイツ侵略軍の悪らつさでした。彼らがもたらした破壊,人びとの大量殺りく,最優秀民族という彼らの主張,そしてスラブ民族の多くを一掃するという彼らの明白な意図は,ソビエト人を激怒させました。
しかし,さらに大きな動機づけが必要でした。国の資源を総動員し,全国民の心からの協力を得るには,政府は宗教指導者たちの支持を得なければなりませんでした。なぜですか。
なぜなら,国内にはまだ宗教的な人びとが何千万もいたからです。共産主義が国を支配するようになってから24年を経ていたことは事実です。しかしそれだけの年数では,無神論者の若い世代が数代育ち,彼らが古い,死にゆく信者たちにしだいに取って代わっているというところまでとてもいっていないことを共産主義者は考えました。20歳以上の人びとの多くは,そしてとくに女性は,まだいわゆるクリスチャンでした。
宗教に対する態度の変化
そのために,スターリンも含めて共産主義者の指導者たちは,宗教に対する彼らの態度を変える必要のあることを悟りました。彼らは,自分たちの宗教反対運動が多数の宗教的な人びとを離反させていることに気づきました。そこで彼らは,1941年の秋から宗教に譲歩する態度を示し始めました。
その努力は直ぐに効を奏しました。1942年に,首都大主教のセルゲイは,スターリンを「神が任命した指導者」とほめたたえました。ついで1943年,スターリンは正教会の高位者たちをクレムリンの彼の事務所に招いて,セルゲイを新しく総大主教に選ぶことを許可しました。こうして,ロシア正教会の首長のいなかった18年の期間は終わりを告げました。
共産側の譲歩は続き,教会雑誌の発行が許可されました。多くの教会が開かれるにつれ神学校も数校再開されました。宗教撲滅運動は鳴りをひそめました。他の宗教に課されていた制限も緩和されました。
総大主教セルゲイは1944年に死去し,アレクセイがそのあとを継ぎました。大英百科事典の述べるところによると,アレクセイはスターリンに,すべての「教会関係者」が「深い愛と感謝」をいだいていることを伝えました。今やあらゆる場所の教会指導者たちは,彼らの追随者たちに,共産政府を支持するよう要請しました。そして政府は,一部の僧職者たちに勲章を与えて,その努力に報いました。
ナチの侵略者たちに対する戦いは,ソ連のみならず,キリスト教をも守る戦いである,と教会指導者たちは追随者に説きました。諸教会は武器を購入するための募金を行ないました。1943年の1月までには,1飛行中隊分の戦闘機を備えるに足る寄付が集まりました。別の献金は戦車部隊を備えました。そしてこの部隊を共産軍に引き渡す厳粛な式の席上で,首都大主教のニコロイはスターリンを「われらの共通の父」とたたえました。
1945年までにはドイツ軍はついに撤退し,ソビエト軍はドイツに進撃しました。これらのことを記念するため,総大主教アレクセイの指示で大会が招集されました。そしてその大会では,共産軍の勝利を暗黒の勢力に対するキリストの勝利としてたたえる宣言が採択されました。同宣言の内容は次のとおりでした。「主イエス・キリストがだれの武器[ソビエトの武器]を祝福し,だれの武器[ドイツの武器]がその祝福を受けなかったかは,すべての人の目に明らかである」。数日後,共産主義者の指導者たちは,教会が払った努力に感謝の意を表しました。
心の変化?
政府の態度の変化は,宗教に対する心の真の変化を示すものでしたか。決してそうではありません。「1939年以降のヨーロッパ」という本は次のように述べています。
「唯物主義の無神論者であるソビエトの支配者たちをして宗教感情に譲歩せしめたのは,あくまでも俗世間的な目的であった。ソ連内の宗教的傾向を持つ市民はより十分に国家の戦争を支持し,西の連合国内のクリスチャンの間に見られる,共産主義的生活様式に対する敵対感情は和らげられ,バルカン半島の熱心な正教会派のクリスチャンは,ロシアにもっと暖かい共感を示すであろう,と考えられたわけである」。
これらの作戦は成功しましたか。前述の本の著者である,ロチェスター大学のアーサー・J・メイは,「程度に差こそあれ,これらの目標はすべて,クレムリンのとった穏健な政策によって達成された」と述べています。また同著者が指摘しているもうひとつの結果は,それによって「宗教界においても,他の領域におけると全く同様に,スターリン崇拝が盛んになった」ことです。
宗教は共産主義者たちに役立ったのです。その有用さは,戦後になっても見られました。ハリソン・サリスバリーの著書,「ソビエト連邦の50年」は次のように述べています。「戦争が終わると,教会指導者たちは,スターリンの対外政策における冷戦の要求に同調した」。
1949年の復活祭には典型的な事件が起きました。モスクワのイエロコフスキー大寺院で行なわれた深夜礼拝で,総大主教のアレクセイは,ソビエト国家の指導者,ヨセフ・スターリンの上に神の祝福があることを宣言しました。そして1950年にはアレクセイは,「アメリカの朝鮮侵略」に抗議する電報を国連の安全保障理事会に送りました。
ですから,ソビエトの指導者たちの譲歩が政治的な動機を持っていたことは明らかです。この手段によって教会はより協力的になりました。それに加えて政府は国家に忠誠をつくす僧職者だけを認めるのですから,宗教は共産主義者の目標に合わせて完全に統制することができました。
共産主義者の態度の変化が,心の真の変化を表わすものでなかったことは,疑問の余地がありません。共産主義者の目的は依然として,すべての宗教を窒息させることでした。しかし彼らの戦術はますますこうかつになっていました。彼らは,宗教の力と支持を徐々に減らすには「サラミ戦術」を用いるのが得策と見ました。この方法は,最初に用いられた正面戦術とは異なり,ひどい反対を引き起こしたり,殉教者を出したりすることを避けることができるからです。
もとより,ソ連の外の人びと,あるいはソ連内の人びとでさえも,みながみな,教会の高位僧職者たち全部を純粋の教会人と確信しているわけではありません。彼らのあまりの妥協ぶりに,一部の僧職者は,教会を支配するために置かれた政府の手先と非難されました。非難者たちは,共産主義に反対した僧職者たちが投獄されるかまたは殺されたことを指摘しました。しかし,共産主義者の好意を得ていた僧職者たちは自由に動き回ることができ,彼らの地位にひきつづきとどまることができました。
行動は目的が変わっていないことを示す
政府の長期的宗教撲滅政策が変わっていないことは,当局者の行動や発表に見ることができました。たとえば,宗教が与えた支持に対する報いとして譲歩が示されたにもかかわらず,宗教を広める権利は依然として禁じられていました。無神論の宣言はやはり共産党に入党するためのひとつの条件でした。
また,学校では宗教教育がひきつづき禁止されていました。無神論は依然として公式の教義で,それには反宗教的プロパガンダが含まれていました。「若い開拓者たち」や「共産青年同盟」の間で無神論を促進することには特別の注意がそそがれました。党の公認の方針は,同青年同盟の機関紙,コムソモーリスカヤ・プラウダに掲載された次の助言に要約されています。
「青年共産主義者たちは,確信をいだいた無神論者,すべての迷信[宗教]に反対する者でなければならないだけでなく,青年たちの間に迷信と偏見が広まらないよう活発に戦わなければならない」。
宗教に反対するソビエトの長期目標は,スターリンが死んでも廃止されませんでした。1950年代の終わりに,そして特に1960年代の初めに,ニキタ・フルシチョフの支配のもとに,大きな圧力がすべての宗教団体に加えられました。その規模はのちほど明らかになりました。ニューヨーク・タイムズ記者ピーター・グロースは次のように伝えました。
「1964年前の5年間に,ソ連全土の宗教組織に加えられた害がどの程度であったかは,今明らかになりつつある。ソ連内の,反対意見を持つ教会人たちの主張によると,同期間に1万の教会が当局者によって閉鎖された…
「ソ連全土の教会の運営が俗権の効果的な支配の下に置かれるのを確実にするために,巨大な官僚組織が徐々につくられていった」。
したがって,共産主義者の指導者たちは,宗教に対する戦いに調整を加えたとはいえ,その目的は変えませんでしたし,現在も同じ目的を持ちつづけています。彼らは,ソ連から宗教を拭い去るという目標に向かって,たゆみなく努力しています。
こうして多年反対を受けてきたソ連内の宗教はどうなっているでしょうか。今日のソ連における宗教にはどれほどの力がありますか。
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今日のソ連における宗教にはどれほどの力がありますか目ざめよ! 1973 | 7月8日
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今日のソ連における宗教にはどれほどの力がありますか
ソ連はもはや宗教に関する公式の統計を公表しなくなりました。しかし,かつてはそれを公表していました。それらの統計は,目撃者たちの説明や,幾年かにわたる他の報告とともに,宗教の全ぼうをかなりはっきり示すものとなっています。
その資料は,伝統的な宗教の「信者」や僧職者たちに何が起きたか,それらの宗教の力,教会や神学校や修道院の状態などがどうなったかを示しています。また宗教がたどっている傾向をはっきりと示します。
「信者」はどのくらい?
第一次世界大戦前,1911年版の大英百科事典は,「1905年に[ロシアが]発表した統計によると,ロシア帝国全土の宗教諸団体の信者の数は約…1億2,564万20人であった」と述べています。
当時の人口は約1億4,300万でしたから,当時宗教に属していた人びとの数は人口の87%を越えていました。神を信じていても宗教組織と関係のなかった人びとを加えたなら,信者の数はもっと多かったでしょう。
このことは,次の基本的な事実を表わしています。つまり,共産主義者が政権を握る前のロシアは非常に宗教的な国であったということです。圧倒的に多数の人びとがなんらかの宗教に属していました。つまり神の存在に対する信仰を表明していました。しかしそれ以後どうなったでしょうか。
1937年にソ連は,宗教に対する人びとの態度を知るために,特別の人口調査を行ないました。約5千万の市民が「信者」であることを言い表わしました。1939年のソ連の人口は1億7,000万と発表されました。ですから,1930年代の終わりには,「信者」を自称する人びとは全国民の3分の1以下でした。共産主義者の支配が始まって20年後に,その数は約90%から約30%に低下したわけです。
1970年に,ニューヨーク・タイムズ紙は,ロンドンを根拠地とする研究組織マイノリティ・ライツ・グループの報告を掲載し,次のように述べました。「同報告の推測によると,ソ連人口2億3,700万のうちロシア正教会に忠誠を示しているのは3,000万人である」。そして1971年には,ロサンゼルスのヘラルド・エグザミナーが,「ソ連内のロシア正教会の活発な信者の数を公式に見積ったものはない。非公式の見積りではその数は2,000万を上回る」と述べています。
他の宗教の「信者」の総数がほんの数百万にすぎないことを考えると,宗教がたどっている傾向は明らかです。多くの「信者」は,1917年の革命以前と違って,教会には行かないので,教会にとって事態は実際にはもっと悪いでしょう。
コトルア(ニュージーランド)のデーリー・ポスト紙は,「[ソ連西部の]プスコフ市で最近行なわれた調査の示すところによると,同市の人口の13%は自分は信者だと考えている」と伝えています。その数字は,同地域で宗教が強い勢力を持っていることを意味すると同紙は説明しています。しかし実状はその反対です。その数字が示しているのは,1917年以前には90%だった信者が,今はわずか13%にすぎないということです。
したがって,そうした数字が何かを示すとすれば,それはソ連の国民が,55年間無神論を吹き込まれたのち,宗教を捨てつつあるということです。若い世代には,彼らを宗教から引き離す思想がしみ込んでいます。年老いた「信者たち」が死んでいくので,それらの世代が占める人口の比率は年々大きくなっています。
荒廃した正教会
ロシア正教会の損失は莫大なものです。この損失は,しだいに減少していく「信者」の数のみならず,教会,僧職者,宗教関係の働き人の数にも反映しています。1959年の大英百科事典は正教会について,「1914年にはロシアに5万5,173の教会と2万9,593の礼拝堂とがあった」と述べています。合計約8万5,000の宗教礼拝のための建物があったことになります。しかし1955年には約2万しか残っていませんでした。
同百科事典は次のような表を掲げています。
1914年 1955年
僧職者 112,629人 32,000人
僧院と女子修道院 1,025 70
これらの数字は他の筋が挙げている数字と似通っています。たとえば,「1939年以降のヨーロッパ」という本は,1959年の教会の数は約2万で,僧職者は約3万2,000を数えたと報告しています。また同書は約90の僧院が運営されていたと見ています。
1950年代の後半と1960年代の初めにはまた多くの教会が閉鎖されました。ニューヨーク・タイムズ紙が引用した,「モスクワの二人の正教会司祭が行なった調査によると,フルシチョフ政権の後半に,1万の教会,つまり開かれていた教会の約半数が閉鎖され」ました。同紙はさらに,「1966年のソビエトの一公認出版物は,開かれている教会の数を7,500としている」とつけ加えています。
典型的なのは大都市の状態です。ロサンゼルスのヘラルド・エグザミナーは次のように報じています。「1917年のモスクワには,100万の人口に対して600以上の教会があった。今日では700万の人口に対して40か50の活動的な教会があるだけである。しかもそのうちのある教会は小さな礼拝堂ほどの大きさしかない」。ザ・クリスチャン・センチュリーの編集者は,5回ソ連を訪問したあとこのことを実証しました。「モスクワには正教会がいくつあるだろうか。40である」と彼は述べています。このように,共産主義者時代以前の宗教の中心地であったモスクワで,教会はほとんど姿を消してしまいました。そしてヘラルド・エグザミナーが述べているように,「新しい教会が建てられることはまずない」のです。
レニングラードにおいても状態は同じです。ザ・クリスチャン・センチュリーは,「人口500万の都市レニングラードはどうか。ここには14の教会がある」と述べています。しかしこの報告の示すところによると,それらの教会は,「毎日曜日の朝超満員の状態」です。そう言うと読者は,これは正教会の中で関心が高まっている証拠と結論するかもしれません。
ところが,ぜんぜんそういうことではないのです。例をあげて説明してみましょう。かりに三つの教会がおのおの1,000人の会員を有しているとします。しかし何年かのうちに各教会の会員が500人に減少し,二つの教会が閉鎖されたとしたらどういうことになりますか。おそらく1,500人ほどの人が,残った教会に押しかけるにちがいありません。偶然それを見る人は,そのひとつの教会が「超満員」だったから,宗教熱が急激に高まっている,まさに「リバイバル」だ,と結論するかもしれません。しかし,実際にはどんなことが起きたのでしょうか。その地域の,宗教支持者たちは減少したのです。教会が次々に閉鎖されたので,残ったひとつが満員になっていたのです。
宗教的なのはどんな人たちか
また,正教会に出席する人びとは一般にどんな人びとでしょうか。ニューヨーク・タイムズ紙の記者ピーター・グロースは次のように伝えています。
「私がソビエトの教会に行くたびに…そこで見たのは,うす暗い片隅にすわって,周囲の生活に関心を失ったかのような様子で香のかおりをかいでいる,カーチフをかぶった身すぼらしい身なりの老女たちであった。
「もしこれが宗教のすべてであれば,共産主義の建設者たちは,現在についても将来についても,憂慮する理由は全くないわけである」。
ロサンゼルスのヘラルド・エグザミナーも,「礼拝に出席する人の数は少なく,ほとんどが老人で,またそのほとんどが女性である」と述べています。
しかし,若い人びとが宗教に心を向けつつあるという報告についてはどうでしょうか。ニュージーランドのデーリー・ポスト紙はそのことについて,「ロシアの一部の若者たち(多くはない)は,霊的な理由におとらぬほど審美的な理由で正統派[の宗教]に心を向けたのである」と述べています。つまり,少数の若者は,神の真理について学ぶためではなく,芸術,文化,好奇心,はては迷信のために教会に出席するということです。1972年の「ブリタニカ年鑑」が述べているとおりです。「正教会の若い新会員たちは儀式文は理解できなかったし,説教にも関心はなかったが,それでもバプテスマを受けて信仰にはいった」。
「屋根のない家」の著者モーリス・ビンダスは,教会内に若い人びとがいくらか見られる事実について,次のような意見を述べている。
「そのことを一般的な動向のように語るのは無謀である。ソビエトの若者は,圧倒的に,無神論者であるか,さもなくば正統派信奉に全く無関心である。
「歴史の上で宗教の最も盛んな地域のひとつであったコサック・グバンの場合ですら,若い人びとが教会に行くことは事実上なくなった。日曜日の朝,車でコサックの村々を通った時,たくさんの若い人たちが散歩したり,公園で遊んだりしているのは見たが,教会へ行っている若者はいなかった。どの教会にも,注目に価する数の若者は見られなかった」。
したがって,次の結論は避けられません。つまり,かつての全能のロシア正教会は死にひんしているということです。ピーター・グロースは同教会を,「ボルシェビキ革命前の教会の薄い陰」と呼んでいます。また,正教会の神学者であり,歴史家であるアナトリー・Y・レビタインは次のように言っています。
「ロシア教会は病んでいる。重態である。最も重い病気は,長い間の国家至上権主義,すなわち教会の俗権に対する服従である。
「教会内には,枯れて,実を結ばない,無益ないちぢくの木の枝である司教たちがいる。また脱疽にかかっている教会員もいる。彼らは…腐敗した発散物でもって悪影響をおよぼし,その穏れた最も深いところに毒物を注入している。
レビタインが示唆しているように,「脱疽は」最も高い所に存在します。1971年には再びそれが見られました。それは,前年に死去したアレクセイに代わってピメンが新しく総大主教に任命されたときでした。1972年の「ブリタニカ年鑑」は,そのピメンについて,「彼は政府の公式の政策に完全な服従を示した」と述べています。
それが目にあまるものであったので,ロシアのある有名な作家は,「ロシア正教会の指導者である総大主教ピメンを,クレムリンの反宗教政策に屈従すると非難した」と,1972年4月3日のタイム誌は伝えています。同誌によるとその作家は,「教会の聖職階級組織が,教会閉鎖,反対意見を持つ僧職者の抑圧,子どもの宗教教育禁止などの措置を承諾したことを非難」しました。
ロシア正教会の僧職者たちが,彼ら自身の宗教の墓穴を掘る仕事を援助しつづけていることは確かです。しかし他の宗教についてはどうでしょうか。彼らは正教会よりもうまくやっているでしょうか。
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他の宗教についてはどうですか目ざめよ! 1973 | 7月8日
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他の宗教についてはどうですか
モスクワの近くのザコルスクで開かれる会議に出席する教会代表者たちのリストによると,少なくとも23の他の宗派がソビエト政府に登録されています。これらの宗派は,それぞれの集会所で礼拝を行なうことを許されています。
回教,ルーテル派,ローマ・カトリック,バプテスト派,グルジアおよびアルメニア正統派,ユダヤ教,仏教,そしていくつかの小さな宗教がこれに含まれます。もちろん,これらの宗教は,ロシア正教会に比較すると少数者です。これらの宗教に属する人びとは,全部をひっくるめても,ソ連全体で2,3百万しかいないでしょう。
しかし,これら他の宗教が政府に『承認されている』という事実はあることを示します。つまり彼らもまた共産主義者の指導者たちに妥協しているということです。そのことを暗示するのは,登録も集会も許されていない宗教があるということです。その中で顕著なのは,エホバのクリスチャン証人です。彼らは,何度も登録を試みましたが許可されませんでした。
『承認されている』宗教は死につつある
ところが,『承認されている』宗教は,ほとんど例外なく死につつあります。たとえば,「1939年以降のヨーロッパ」という本は,「ソビエト・アジアでは,1,500万人ほどの回教徒が,時のたつうちに,共産主義者の生活様式に同化していった。当局の圧力を受けて,回教への忠誠は,回教徒の風変わりな習慣とともに衰えていった」と述べています。また,以前回教国であった,ソビエトのウズベク共和国を最近訪問した一アメリカ人は,「この回教国の市民の大多数は,回教の儀式を断念している」と述べました。
仏教はかつて東部ソビエト地域で勢力を持っていた宗教です。しかし,ピーター・グロース記者によると,仏教徒は今,「僧職者の数の急激な減少,ラマ僧たちの高齢,そしてなかでも,ソビエトの対外政策に同調して,外国から訪れる仲間の仏教徒たちに,ソ連内に宗教の自由があるように語る仏教指導者たちの従属的な態度,などの問題をかかえて」います。
ユダヤ教の状態も同じです。ソ連の戦術は,「ソ連内のユダヤ教社会に残酷な打撃を加えた」と,グロースは述べています。そして,「ソビエトにいるユダヤ人は,統一体としての存在をほとんど失ってしまった。…ユダヤ教社会の解体的傾向は,ソビエト時代を通して続いている」と彼はつけ加えています。ユダヤ教社会には指導者がいない,とも言っています。あるユダヤ人家族の父親は,「われわれのラビたちはあきらめるのが早すぎる」と言いました。そのうえに,ユダヤ人の両親から生まれた若い人びとはたいていユダヤ教を捨てています。
しかしイディッシュ語への関心が,若い人びとの間でさえ,再び高まっているという報告についてはどうですか。近年になって,政府がイディッシュ語の文芸雑誌,「ソベティシュ・ヘイムランド」の発行を許し,その発行部数が増加していることは事実です。しかし,同誌の主筆は共産主義者です。宗教的な記事を掲載するかと問われた時,彼は誤解したらしく,「いいえ,宗教に反対する記事はほとんどのせません」と答えました。宗教に有利な記事をのせるかどうか聞いたのだ,と言われた時に彼は笑い,「ユダヤ教の会堂の利益などには全く関心がない」と答えました。ですから,イディッシュ語の出版物を通してどんな教育が行なわれていようと,それは共産主義者の目標と一致したものであって,ユダヤ教のそれに調和したものではありません。
ロンドンのマイノリティ・ライツ・グループの報告は,ソ連内でまだ開かれているユダヤ教の会堂の数を,「かなり正確に」推測しています。それによると,1917年に3,000ほどあった会堂が,現在ではわずか40か50に減っています。それに最近ソ連の指導者は,一部のユダヤ人に,イスラエルへ行くことを許す政策をとっているので,ソ連内の宗教的なユダヤ人の数は,時がたつにつれてもっと少なくなるでしょう。
外国の新聞は時折,バプテスト派の間で宗教への関心が高まっていることを示唆するかのような記事をかかげます。バプテスト派は,ソ連内で「認められている」宗教のひとつです。しかし,タイム有限責任会社の出版した「ロシア」という本がなんと言っているかに注意してください。
「モスクワにあるバプテスト教会 ― 首都内の唯一のプロテスタント教会 ― を訪れる人は,2,3百人しかはいれない建物に2,000人ほどの人がはいって込み合っているのを見るだろう。臨時に設けられたバルコニーまで,信者でいっぱいである。
「しかしながら,綿密に調べてみるならば,ソ連内のどの会衆でも,崇拝者の大部分は革命前に生まれ育った人びとで,10人のうち9人は女性であることがわかる。地方都市に行けば,若い人びとの割合いはやや高くなるかもしれない」。
「しかしこれを,大々的な宗教復興のしるしと解釈するのは,人を惑わすことであろう。古い世代が死に絶えたら,ソビエトの生活における宗教の勢力はもっと弱くなるかもしれない」。
それに,バプテスト派はなぜ共産政府に「承認されている」のでしょうか。ニューヨーク・タイムズの記者グロースは,それを知る手がかりを与えています。彼は,この宗派の400人の信者がこの宗派に不満をもち,新しい宗教組織をつくる権利をソビエト政府に要請したときのことに触れています。なぜ彼らは不満をいだいたでしょうか。「問題は,[その400人の]信者の間に,バプテストの指導者たちは国家当局の言いなりになりすぎる,という感情があったことだ」と,グロースは述べています。しかし異議を唱えた人たちは散らされました。幾人かは投獄され,他は国家の組織にもどりました。
これは,ソ連の指導者が,彼らに全面的に屈従する宗教しか『認めない』という事実を示す,いまひとつの例です。少なくとも現在までのところはそういう状態にあります。
避けられない結論
したがって,次の結論は避けられません。つまり,ソ連におけるキリスト教世界と異教世界の諸宗教は,徐々に,しかし確実に締め殺されているということです。
大多数の人びとの思いの中で,宗教に取って代わりつつあるのは,無神論,唯物主義,科学,経済的成功,スポーツ,文化,進歩を国家に期待すること,などです。こうしたものが,より高いもの,すなわち神に頼ろうとする,人びとの持つ自然の傾向に取って代わりつつあるのです。
ソ連で実際に起こっているのは,一歴史家が言った次のことです。「組織された宗教は,局地的な熱意や献身を別にすれば,死につつある制度のようである」。確かにそれは,ソ連以外の多くの国においてさえ死につつある制度です。まして僧職者が真の指導を行なわず,教会や教会員の家庭で神についての正しい教育が行なわれず,政府が50年の間全力をあげて反対してきたソ連では,なおのこと死につつあると言えます。
ということは,将来のソ連は,無神論者だけが住む国となるという意味でしょうか。宗教は最後に完全になくなるのでしょうか。今日ではそういう傾向にありますが,近い将来状態は変化するでしょう。
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白クマの子は寒い?目ざめよ! 1973 | 7月8日
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白クマの子は寒い?
● 北極地方の気温が摂氏−50度にもなると,白クマは,どのようにして生れたばかりの子グマを暖めるのでしょうか。母グマは本能的な知恵でもって,雪の中に掘った穴の中で子グマを生み,乳を飲ませます。雪は寒さをしゃ断する働きをします。耳も聞こえず,目も見えない生まれたばかりの無力の子グマは,この穴の中で,北極の冬の凍りつくような気温と荒れくるう風から保護されるのです。
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