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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1967
塔67 11/15 690–695ページ

安全への道

「わたしは道であり,真理であり,命である」― ヨハネ 14:6。

1 のがれの町は何を表わしていますか。

古代イスラエルの人々にとって,のがれの町の備えが生命を救うことになった場合はしばしばあったに違いありません。その目的は,正当な血の復讐者に命を狙われている,故意でない殺人者を安全に保護することでした。これらの町は犯罪者を保護したのではありません。律法に含まれる多くの「影」と同じく,これらの町の備えは,クリスチャンに多くのことを教える預言的なひな型であるゆえに,それは,流血の罪に対する刑罰から救ってあらゆる種類の人を益するためにエホバ神が施行された救いの偉大なご準備を予表するものと結論しなければなりません。どのようにそうですか。―ヘブル 10:1。

2 イエス・キリストが地にこられた理由にどんなものがありますか。

2 この備えに関する偉大な真理を知らせるため,神は最高の御子イエス・キリストを地に遣わされました。それはまたイエスにほんとうの信仰を働かせる人々を確かな永遠の死から救って,終わることのない生命を得させるために,イエスが犠牲の死を遂げるためでもありました。エペソ人への手紙 1章7節はそのことを次のように述べています。「わたしたちは,御子にあって,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」― マタイ 20:28。

3 イスラエル人と他国人の両方がのがれの町に避難できた事実は,何を示していますか。

3 ひな型となったのがれの町の場合と同じく,実体的なのがれの町もまた,神の律法を破っても悔い改めた人をイエス・キリストのあがないに基づいて許し,その世話と保護の下に受け入れるための,あわれみ深い神のご準備です。使徒パウロは次のように書いています。「それだから,キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは,彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果,召された者たちが,約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない」。(ヘブル 9:15)実際ののがれの町には,イスラエル人と他国人の住民の両方が避難できました。(民数 35:15)それは実体的なのがれの町が,霊的なイスラエル人すなわち天的な級の成員となり,キリスト・イエスとともに治め,祭司として勤める人々のみならず,地上に永遠の生命を受けるすべての人々,「他の羊」にも強力な保護をさしのべている事実を表わしています。―ヨハネ 10:16。

4 (イ)救いのご準備の中で何を見すごすことができませんか。(ロ)神のみたまと天使は,なんのために働きますか。

4 イスラエルにおいて故意ではない殺人者は自国を去って国外にのがれたのではなく,のがれの町を目ざしました。それらの町は祭司以外のレビ人に属し,ヘブロンの町はアロンの家の祭司に属していました。これは救いのご準備がエホバの組織と密接に結びついていることを意味しています。霊的な祭司の級の人々の残れる者は今日なお地上にあり,エホバの民の中核を成しています。救いのこのご準備の中でエホバの証人の見える会衆がはたす役割を無視することはできません。使徒行伝 2章47節には,「〔エホバ〕は,救われる者を日々仲間に加えて下さったのである」と述べられています。〔新世訳〕これは「救われる」者が初期クリスチャン会衆の見える組織に加えられたという意味です。彼らは一致したひとつの信仰の家族の中に集められました。それで神の民の見える会衆は,今日,救いのご準備と関係があります。確かにそれは救いのご準備の中で重要な位置を占めているのです。どの会衆も神の民の一小部分を成しています。エホバの保護を受けたいなら,神の民の組織から離れてその外にいることはできません。エホバのみたまと天使は,考えと目的および行動の一致をもたらす方向に働いています。こうして実体的なのがれの町におけるエホバの保護は,「忠実な思慮深い僕」の督監下におかれた霊的イスラエル人の見える会衆と切っても切れない関係にあります。―エペソ 4:3-6。マタイ 24:45-47。

実体における故意ではない殺人者

5 故意にではなく人を殺した者はだれを表わしていますか。

5 しかし,あやまって人を殺し,保護の町にのがれた者は,だれを表わしていますか。それは,なんらかの面で,またエホバの見地からみて流血の罪にあずかっていることを意識するようになった人すべてを表わしています。このような自覚は,誠実な人が,人間の生命の神聖さを教える神のことば聖書の音信に接して啓発される時に得られます。古代イスラエルにおけると同様,今日においても,人は事故により他の人あるいは人々を死なせることがあります。交通事故のため,毎年何万人の人が世界各地の路上で生命を失っています。そこになんらの悪意がなかったとしても,ある程度まで罪があることは確かです。それで国家の法律はこのような場合に対する罰を規定しています。

6 現代において多くの人はどのように流血の罪にあずかりましたか。

6 しかし現代の実体において,故意でない殺人者の意味はもっと広い範囲に適用され,前述のような場合に限られていません。今は人類史上にその例を見ない戦争の時代です。第一次,第二次世界大戦のことを考えてごらんなさい。何百万人の人が心ならずもこれら流血の行為に加わることを余儀なくされました。1914年以来,世界支配をめぐる戦い,またイデオロギーの闘争と革命のために何千万人の人が死んでいます。西暦1914年以後のことを考えてみただけでも,人類は歴史上かつてなかったほどの重い流血の罪を負っているのです。生命の神聖なことを宣言された人間の創造者が,このすべてをごらんになって大きな不興を感ぜられていることは言うまでもありません。―ハバクク 1:13。

7 (イ)偽りの宗教には,どうして重い流血の罪がありますか。(ロ)そのことは黙示録 17章5,6節にどう描かれていますか。

7 このように組織的また大量に人間の血を流すことに対して世界中の宗教指導者が祝福と支持を与えたために,多くの人はそのような流血が神のみこころであり,キリスト教とも相容れるとさえ考えています。それで大ぜいの人は自分の行ないを正しいと信じて悪をしていたと言えるでしょう。多くの教会またキリスト教国の内外を問わず宗教が組織的な流血を支持したことは,一つの事すなわち全世界の偽りの宗教に重い流血の罪があるという事実を明白にしています。この流血の罪は過去何十年のみならず何世紀にもわたって重ねられてきたものです。宗教戦争,宗教指導者が扇動し,また支持した戦争,十字軍,異端審問所,キリストの時代以前また以後における神の忠実なしもべたちの迫害によって,おびただしい血が流されました。黙示録 第17章において,偽りの宗教のこの世界帝国は,「大いなるバビロン」と呼ばれる不道徳な女によって象徴されています。「その額には,一つの名がしるされていた。それは奥義であって,『大いなるバビロン,淫婦どもと地の憎むべきものらとの母』というのであった。わたしは,この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た」― 黙示 17:5,6。

8 教会はどのように人々を惑わしてきましたか。

8 教会が神の目的をいかにあやまり伝え,戦争を正当化したかは,第一次世界大戦中,ドイツの新教の一日曜新聞に出た次の記事からもよく伺われます。「わが国の兵士は故国と家と国王と祖国のために戦っているのみならず,神の器,神の執行者として神のために戦っている神の軍隊である。これらクリスチャンの兵士が自分の携わる崇高な軍役と務めを知り,自分たちが神のわざを行なっているゆえに,戦争を首尾よく終結させるために主がくすしくも我らとともにいますことを知るのは良い。神のみにほまれあれ」。(ウォルター・デグナス,Kirche,Krieg,Kriegsdienst,51頁)預言者エレミヤのことばは,キリスト教国の偽りの宗教組織の流血の罪を的確に言い表わしています。「あなたの着物のすそには罪のない貧しい人の命の血がついている」。(エレミヤ 2:34)しかし異教の宗教組織にも流血の罪があります。

血の復讐者の実体

9 (イ)流血の罪を持つ者の上にいつ罰が臨みますか。(ロ)実体において血の復讐者となるのはだれですか。

9 重い流血の罪に対して,避けることのできない罰が臨まなければなりません。それは必ず,そしてすみやかにこの時代のうちに臨みます。神からのこの罰について預言者イザヤは次のように書きました。「見よ,〔エホバ〕はそのおられる所を出て,地に住む者の不義を罰せられる。地はその上に流された血をあらわして,殺された者を,もはやおおうことがない」。(イザヤ 26:21,〔文語〕)古代イスラエルにおいて,流血の事件を清算し,罰を加えたのは血の復讐者でした。では実体において,だれが血の復讐者となりますか。それは「天においても地においても,いっさいの権威を授けられた」イエス・キリストです。黙示録 第19章に描かれているとおり,キリストは白い馬に乗って天の軍勢をひきい,正義の戦いをします。およそ19世紀前にイエスは完全な人間として地上に生まれ,この理由でご自分のことをしばしば「人の子」と呼ばれました。(マタイ 28:18; 25:31)そのことのゆえにイエスはいわば人類に最も近い親族となられ,したがって実体における血の復讐者の資格を備えていられます。

10 のがれの町の表わすものが特に適用されるのは,いつからですか。なぜそうですか。

10 西暦1914年,人間社会の現在の秩序に「終りの時」が臨みました。そして特にその時以来,のがれの町の表わすものが時宜を得,適用されるようになりました。それはなぜですか。イエス・キリストが偉大で強力な血の復讐者として行動されるのは,この時代のことであり,この世代のうちのことだからです。キリストは,流血の罪を持つこの社会すなわち秩序を完全に終わらせます。(ダニエル 2:44)血の復讐者とそのぼう大な天使の軍勢は,保護を与えるのがれの町に前もって逃げなかったすべての人に追いつくでしょう。何ものも,この迫っている災害を決して阻止できません。どんな国家もそれを免れないでしょう。しかし各人は免れることができます。―箴言 1:24-33。

安全を求めて逃げる

11 どのようにすれば,血の復讐者の手にかかることを避けられますか。

11 しかしどうすれば人は,迫ってくる血の復讐者イエス・キリストに追いつかれないようにできますか。時間のあるうちに安全なところに逃げるというのがその答えです。安全を求めて逃げることは確かに可能です。古代イスラエルにおいては,6つののがれの町が国の領土全体にほぼ均等に配置されていました。それで必要に迫られた人にとり,安全を求めてのがれる道が遠すぎることはありませんでした。安全は手の届くところにありました。この預言的なひな型の成就においても同じことです。正直で真理を愛する,そして真の安全を見いだすことを真実に望んでいる人は,それを見いだすことができます。救いは得られるのです。保護を与える町すなわち神の救いのご準備は近くにあります。しかしそこに達するにはある程度の努力が必要です。安全への道は春の散歩のようなものではありません。それは勤勉な働き,「信仰の戦い」をすることを意味します。―テモテ第一 6:12。

12 流血の罪を持つ人がどのように行なうべきかを示す良い手本となっているのは,だれですか。

12 この点で使徒パウロはすぐれた手本です。彼もサウロと呼ばれた時代にはユダヤ人の宗教組織の負う流血の罪にあずかっていました。彼は真のクリスチャンが殺されるのを見てそれを是認していたのです。たとえばステパノの殺害について「サウロは,ステパノを殺すことに賛成していた」と述べられています。(使行 8:1)しかしその後キリスト教に改宗したサウロは,真の信仰のために目ざましい戦いをしました。最後まで走りぬいて救いを確実にするために,彼は大変な努力をしました。伝道し,クリスチャンの兄弟にあてて多くの手紙を書き,あらゆる苦難を経験し,遂にはクリスチャンとして殉教したのです。パウロや他の多くの人の例は,永遠の生命を得るために真の努力が必要なことを示しています。―コリント第二 11:23-27。テモテ第二 4:6-8。

安全への道

13 (イ)のがれるには,どんな要求をはたすことが必要ですか。(ロ)信仰とは実際に何を意味しますか。

13 安全を目ざしてのがれるため,まず根本的に必要なのは,自分がエホバ神の前に悪を行なった者であり,神の目には罪人であるという自覚です。(詩 51:3-5)このことから,誠実な人は悔い改めに導かれます。それはまた心の変化を意味します。聖書,エホバ神,イエス・キリスト,神の国に対する信仰がそれに伴います。(使行 3:19。ヘブル 11:6。使行 16:31)しかし信仰は神の存在,またイエス・キリストが罪人を救うために来られたという事実を信ずるだけのことではありません。単にそれだけを信じている人は大ぜいいますが,それではとうてい不十分です。聖書によれば信仰はそれ以上のこと,すなわちエホバに全く信頼すること,神への全き従順を意味します。それは行動を意味します。(ヘブル 11:1)それはエホバに献身してキリストの追随者すなわちキリストの弟子,聖書にしるされた神のみこころに従って生きる者になることです。普通に考えられている意味での信仰は,真実の,深い聖書的な意味においての信仰とは全く違うことがおわかりでしょう。イエス・キリストはこう言明されました。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は,またわたしのしているわざをするであろう」。(ヨハネ 14:12)生命を救う実体ののがれの町に逃げて安全を得る道は,イエスが言われた狭い道と実際には同じものです。「命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」― マタイ 7:14。

14 人は何から離れねばなりませんか。なぜですか。

14 この狭い道を歩むと同時に,滅びに通ずる広い道を行くことはできません。つまりわたしたちは現存する悪の事物の制度から離れなければなりません。(ローマ 12:2)真のクリスチャンは流血にまき込まれるおそれのあるどんな運動にも関係しないでしょう。そしてこの世の事柄に対して中立の立場をとります。(ヨハネ 18:36)すでに述べたように,この世そして特にその宗教は重い流血の罪を負っています。その中にとどまる人はその一部であり,これらの組織が全体として負う流血にあずかることになります。ゆえに使徒パウロが,流血の罪を持つユダヤ教から離れたように,今日でも誠実な人は大いなるバビロンから離れることでしょう。それはあらゆる偽りの宗教と縁を切るということです。偽りの宗教に臨む滅びのさばきにまき込まれたくないとすれば,だれでもそうしなければなりません。聖書はそうすることの必要を明らかにしています。「わたしの民よ。彼女から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており,神はその不義の行いを覚えておられる」― 黙示 18:4,5。

15 キリスト教国の教会が大いなるバビロンの一部であることは,どのように認められていますか。

15 キリスト教国の諸教会が大いなるバビロンの一部であることは,その著名な成員によっても認められています。世界教会協議会の前事務総長フーフト博士は諸教会のおかれている事態に通じていたに違いありません。同博士の最近の講演を論評した一宗教出版物は次のように述べていました。「[宗教上の]一致をはばむ別の要因として,フーフト博士は教会の“バビロン捕囚”をあげた。あらゆる教会は世の権力者,国家および国民のみならず,民族,文化,国家の実体ともなんらかの形で手を結んできた」― Schweiz.evang.Pressedienst, 1964年9月30日付。

16 のがれることを,なぜおくらせてはなりませんか。

16 命を愛し,神の目に正しいことを行なおうとする賢明な人は,政治,社会,宗教のいずれを問わず自分がこの世のどんな面に関係していたとしても,流血の罪があるこの世から離れることをちゅうちょしないでしょう。今はのがれる絶好の時です。血の復讐者が刑罰の執行を始めてからではまにあいません。時があるうちにのがれることの必要を強調して実体における血の復讐者イエス・キリストはこう言われています。「あなたがたの逃げるのが,冬または安息日にならないように祈れ。その時には,世の初めから現在に至るまで,かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである」。(マタイ 24:20,21)逃げおおせることを不可能にする事態がやがて起きます。それは大いなるバビロンの滅びと,それに続くハルマゲドンの戦いの時です。―黙示 16:14から17:18。

「のがれの町の中にとどまる」

17 今日,のがれの町の大祭司はだれですか。

17 すでにみたように,故意にではなく人を殺して,のがれの町に保護された者は,のがれた時に勤めていた大祭司が死ぬまでそこにとどまらねばなりませんでした。そして大祭司が死ぬと,自分が前に住んでいた土地に帰ることができました。血の復讐者にはその時もはや危害を加える権利はありません。預言的なひな型を成就してイエス・キリストもまた大祭司の役目をはたされます。ヘブル人への手紙 3章1節にあるとおり,イエス・キリストは確かにこのような大祭司です。「そこで……聖なる兄弟たちよ。あなたがたは,わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを,思いみるべきである」。

18 大祭司の死ぬまでのがれの町にとどまることは,(イ)天的な級の人々,(ロ)ハルマゲドンを生き残る人々にとって何を意味しますか。

18 したがってのがれの町の示す興味深い事柄の中で,キリストは二つの役割すなわち血の復讐者としての役と大祭司の役をはたされます。大祭司が死ぬと,町に保護された者は自由の身となりました。では,大祭司が死ぬまで町にとどまることは,実体的なのがれ町の場合何を意味していますか。二つの級の人々,「イスラエルの人々」と「他国の人」すなわち天国の成員と地的な級の成員とがこの町に避難しようとしていることから,次のように言えます。天国の級の人々である霊的なイスラエル人が不完全な人間としての地上の生涯を終え,天的かつ霊的な復活によって報われる時,大祭司は彼らに対していわば“死ぬ”ことになります。つまり彼らに対しては大祭司としての働きをやめます。もはや人間でない彼らは,罪をおおうための大祭司の働きをもはや必要としません。彼らは不滅の命によみがえらされ,キリストとともに王また祭司として千年のあいだ治めるのです。(黙示 20:6)ハルマゲドンを生き残る人々について言えば,キリストの千年統治が終わって,すべての人が地上で完全な人間にされた時,イエス・キリストは彼らのための大祭司としての勤めをやめられるでしょう。のがれの町のひな型に即して言えば,イエス・キリストはそのとき彼らに関しては“死なれた”ことになります。すなわち罪をおおう大祭司としてイエス・キリストは登場しません。そのとき大祭司の勤めはもはや必要ないでしょう。そのとき人々は,義に対していつまでも全く献身していることを証明するため,神の御手の中に直接に来ます。―コリント第一 15:24-28。ローマ 8:33; 6:7。

19 どんな警告が与えられていますか。

19 しかし不完全な人間であってのがれの町に逃げた人が大祭司の死ぬ前に町を離れるようなことをすれば,死の危険つまり合法的な血の復讐者の手で処刑される危険に身をさらすことになります。彼は大祭司のあがないの犠牲の益をもはや受けないからです。これはわたしたちに対する警告となっており,神のご準備に関連してそれが要求されているかぎり,実体的なのがれの町の中にとどまらねばならないことを示しています。永遠の救いを確実にするには,神の大祭司によって監督され,神の見える組織と結びついている,エホバ神の愛あるご準備の境界内にとどまっていなければなりません。永遠の死の危険にわたしたちをさらす欺きの自由を僅かのあいだ楽しもうとして,のがれの町の強力な保護を見捨てるような誘惑に陥ってはなりません。のがれの町にとどまる以上,いくらかの拘束を受けることは事実です。なんでも思いどおりに行ない,また語ることができるわけではありません。神のみこころに従い,あがない主であられる大祭司イエス・キリストの下にとどまることが必要です。それでも正しいことと善を行なう自由はじゅうぶんに与えられています。

20 弟子ヤコブはどんな助言を与えていますか。

20 それで昔のモーセの律法中にあるのがれの町の定めは,生死にかかわる緊急さをもってわたしたちに追ってきます。それは厳しゅくな教訓であり,流血の罪を持つ20世紀の人間社会に住むわたしたちにとって時宜を得た教訓となっています。それはわたしたち各人が,世の集団的な流血の罪と,悪の事物の制度に臨もうとしている神の罰をのがれる道を示しています。神の御要求を読み,聞くのみならず,直ちに,そして熱心にそれを自分の生活の中で実行する人は,ほんとうに幸いです。弟子ヤコブは次のように述べています。「そして,御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない」― ヤコブ 1:22。

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