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  • エホバの証人はエホバ神の至上権のために耐え忍ぶ
    ものみの塔 1966 | 12月15日
    • も1919年以来,霊的楽園のような状態を復興しました。この復興はエホバの御国奉仕にたずさわる彼らにとって霊的な繁栄と幸福を意味するものになりました。そして,これに加えて彼らの喜びは,羊のような人々の大群衆が大いなるバビロンから導き出され,彼らと共に霊的な恵みを受けるようになったことです。事実1934年に,「他の羊」は献身してバプテスマを受け,油そそがれた残れる者の霊の子供となることを求められました。j しかし,ヨブが新たに10人の子供を得たことに対応するできごとが大規模に起きはじめたのは1942年です。k この時以来,「十人の子供」によって表わされた幾十万の人々が現代のヨブである油そそがれた残れる者を助けるために集まってきました。―イザヤ 2:2,3。ゼカリヤ 8:23

      以前牧師で今証人となった人

      21,22 (イ)ヨブ記 42章8,9節は今日どのようにあてはまりますか。(ロ)最近の経験に見るとおり,それら悔い改めた人々はどんなことをしましたか。

      21 ヨブが元の状態を回復した時,エリパズとゾパルとビルダデはエホバのことばに従って自分の偽りの宗教的な態度を改め,ヨブの祭司職を受け入れて,「愚か」な目にあうのを免れました。(ヨブ 42:8,9)またイエスが復活して天に上げられた後,『多数の祭司たちも』イエスの有効な祭司職を認めて「信仰を受けいれるように」なりました。(使行 6:7)今日の終わりの時代にもこれに相当するものがありました。1919年以来の回復の時期に,各地のいろいろな宗派の牧師で,ヨブに似た油そそがれた残れる者の祭司的な奉仕を受け入れ,自分の道を改めてバプテスマを受け直し,エホバの真の奉仕者として任命を受けた者は少なくありません。l かつてギリシヤ正教会の主教であった人をも含め,高い地位にいた牧師でこうした変化を遂げている人々もいます。こうして改心した多数の牧師はもはや世俗的な名声を求めず,自分がそれまで牧師として働いてきた区域で御国の福音を熱心に伝道しています。こうした人々は教会堂の説教壇で説教するのではなく,人々の家をおとずれ,その戸口を自分の説教壇としているのです。

      22 謙遜な態度で正しい道に従ったこれら以前の牧師たちにはその後どんなことがありましたか。以前の牧師「仲間」から多くのバビロン的な敵意と非難をあびましたが,彼らは勇気と忠実さとをもってそれに耐えました。イエス・キリストのごとく神の御名を擁護し,エホバ神の至上権を家から家に宣べ伝える彼らは,至上の神エホバの善意を得ています。こうしたかつての牧師の中には正しい伝道活動を何年も続けた後,土地のエホバの証人の会衆の主宰奉仕者に任命された者もいます。彼らはまた,奉仕者としての訓練をさらに受けるため,ものみの塔協会の御国宣教学校に入学する特権にもあずかりました。エホバが大いなるバビロンの存続を今しばらくの間許しておられる理由はここにもあります。それはエホバのあわれみであり,謙遜で正しい心をもちながらなおとらわれている牧師が,早く出た人に従って大いなるバビロンを離れ,そこに残る者すべてにやがて臨む罰を避けるためです。

      牧師の敵意はまだ続く

      23,24 牧師の敵意がまだ続いていることについて,(イ)エジプトのヨセフの例,および(ロ)イエスのたとえ話から説明しなさい。

      23 しかし,油そそがれた者たちにとって今が復興と繁栄の時であるとするなら,現代のヨブである彼らが心のかたくななバビロン的な牧師からまだ激しい敵意をあび,その度合が強まっているのはなぜですか。この状態はヨセフが為政者であった時代のエジプトの7年のききんと7年の繁栄の現代的な意味に似ています。a (創世 41:29-32)現代において昔の二つの7年の期間に相当するものは同時に起きています。キリスト教国の国土ないし領域には霊的な大ききんすなわち,神のことばを聞くことのききんがあります。(アモス 8:11)他方,真に油そそがれた者たちの国ないし領域には霊的な豊饒が見られます。

      24 こうした同時的な成就は金持ちとラザロのたとえ話によっても裏書きされています。(ルカ 16:19-31)「金持」すなわち牧師級と「ラザロ」グループすなわち油そそがれた残れる者との対照的な状態は同時に,つまり1919年以降の今の時代に見られます。豊富な証拠から明白に言えるとおり,油そそがれたエホバの証人は1919年以来,その宣教活動において霊的な繁栄を楽しんできました。他方,同じ期間に,牧師たちの宣教活動は失敗とざ折を重ねてきました。これは彼らの「苦しみ」のしるしです。この記事の初めにあげたことはこの点で別の説明になります。すなわち,大いなるバビロンは1919年以来キリスト・イエスの包囲下に置かれていますが,そこにとらわれている人々の救出が完了するまで,大いなるバビロンは存続を許され,敵意と腐敗の力とを働かせることを許されています。しかし,救出のわざの完了と共に,大いなるバビロンは全く滅ぼされます。―黙示 18:4; 17:15-18。

      25 (イ)エホバがバビロン的な敵意の存続をなお許しておられることにはほかにどんな目的がありますか。(ロ)次の記事ではどんなことを学びますか。

      25 知恵の神エホバがバビロン的な敵意の存続をなお許されていることにはもう一つの目的があります。それは,そうすることによって,「他の羊」の「大ぜいの群衆」にも,油そそがれた者たちと共に,エホバをそしり,エホバ神の至上権に挑戦したサタンに答える機会を与えることです。以上の背景を知ったうえで,エホバの神権を擁護する油そそがれた者たちと,キリスト教国のバビロン的な牧師の間にあるはげしい宗教上の論争の実例を取り上げましょう。印刷された文書の形をとっているとは言え,昔のヨブやイエスに対する攻撃が,現代の証人たちを相手として,詳細に,しかし敵意をさらに強くして,再び繰りかえされているのをごらんになるでしょう。

  • 油そそがれた証人に対するバビロン的な敵意はエホバをそしるものとなる
    ものみの塔 1966 | 12月15日
    • 油そそがれた証人に対するバビロン的な敵意はエホバをそしるものとなる

      「わが子よ,知恵を得て,わたしの心を喜ばせよ,そうすればわたしをそしる者に答えることができる」― 箴言 27:11。

      1,2 (イ)だれがそしられていますか。だれによって? どのように?(ロ)ヨブの経験と今日の経験との類似性をどんな方法で調べますか。

      古代アッシリアの邪悪な王セナケリブがそしったごとくサタンは今日,エホバの油そそがれた証人たちをとがめだてて,まことの神エホバをそしりつづけています。(イザヤ 37:21-33)現代のヨブと言うべき油そそがれた者たちは,自分にあびせられるバビロン的な敵意に忠実に耐えており,それによってエホバは,ご自身が言われるごとく,「そしる者〔サタン〕に答えることができ」ます。(箴言 27:11)地上においてエホバ神の至上権を擁護する忠実な証人たちは,自分をののしる者たちの攻撃に耐えねばなりません。「わたしのあだは骨も砕けるばかりにわたしをののしり,ひねもすわたしにむかって『おまえの神はどこにいるのか』と言う」― 詩 42:10。

      2 現代のエホバの証人の経験と昔のヨブの経験との共通点をつぶさに知るため,昔のヨブに対するバビロン化した3人の友の非難の一つ一つを,現代の油そそがれた証人に対するバビロン的な牧師の敵意の現われと比較してみましょう。そのため,ヨブの友人のことばを順に取り上げ,昔のサタンの手先と今日のキリスト教国牧師とに,等しくセボレテ的な話し方のあることを調べます。(士師 12:6)こうした比較が進むにしたがって,宗派的な牧師のことばの中に昔のエリパズ,ゾパル,ビルダデの意見と同じような敵意のひびきがあることを観察できるでしょう。ヨブのような油そそがれた者たちは宗教上世界第1の悪者とされ,毒物のごとく,彼らからあしらわれています。―ヨブ 22:5。

      偏見による偽りの非難

      3 どんなかたよった非難がなされていますか。だれによって? これはヨブの経験とどのように比較できますか。

      3 エリパズは,宗教的に汚れた者,罪人,偏見をもつ者などが自分の身に災いを招き,神の罰を受けると唱えましたが,牧師は実質的にこれと同じことを述べています。(ヨブ 4:2-8)ローマカトリックの一高位聖職者は,アメリカの全国的なカトリック新聞の中で,エホバの証人の聖書協会を可酷なことばで非難しています。

      「この聖書協会のほん訳〔クリスチャン・ギリシャ語聖書の新世界訳,1950年〕は,聖三位一体の考えを退け,欽定訳に何度も〔一回〕使われている『父,子,そして聖霊』の表現を,『霊と水と血』という語に置きかえている。(ヨハネ第一 5:7)……この派の名前にエホバの語が含められていることは,この派の学問の浅薄さを物語るものであり,そのことは『カトリック聖書百科辞典』のこの語の扱いによく示されている」。a (角かっこは本誌の編者)

      4,5 (イ)かたよったほん訳,(ロ)エホバの名の使用に関して,証人はどのように弁明していますか。(ハ)これはヨブ記 6章10節とどのように一致しますか。

      4 現代の証人たちは,昔のヨブのごとく,自分の正しさを正当に弁護するだけでなくエホバ神の至上権をも擁護して,「わたしは聖なる者の言葉を否んだことがない」と語ります。(ヨブ 6:10)この非難に対するエホバの証人の答えは1950年10月11日付の公開状のかたちで1950年12月1日号の「ものみの塔」誌(英文)に6ページにわたって掲載されました。(469-474ページ)その中では,エホバの証人の「新世界訳」がかたよったほん訳ではなく,原語原本の意味と語法を正直に再現するものであることが,圧倒的な証拠をあげて疑問の余地なく論証されました。聖書の不正な変更であるという非難に対する左の「ものみの塔」誌の回答に注意してください。

      「『新世界訳』がギリシヤ語原本を書き換えているところは一つもありません。エホバの証人が三位一体説と衝突するところとして貴下の記事に言及されているヨハネ第一の手紙 5:7の場合もそうです。……これは上記イエズス会のアウグスチヌス・マークによるギリシャ語原本の字義訳です。……これはまた他のローマカトリック学者つまりイエズス会のジョセフ・M・ボーバー編集のギリシヤ語原本の字義訳でもあります。……貴教会の宝蔵するバチカン写本1209番は4世紀初めのものですが,これもこのことばを含んでおらず,むしろそれをにせ物であるとしています」。

      こうして「新世界訳」の信頼性は反論の余地なく証明され,また油そそがれた証人に対する非難の空しさも明らかにされました。

      5 これだけでなく,「ものみの塔」誌は「エホバ」の名を使うことの正しさをも立証しました。

      「それでは,『新世界訳』がエホバの名を本文中に237回も使っているのはなぜですか。それは貴下の言われるとおり,『学問の浅薄さ』のあらわれですか。決してそうではありません。……『新世界訳』は,19のヘブル語訳のほか,英語とヘブル語以外で,ヘブル語テトラグラマトン〔神の名のヘブル語表記法〕の音訳を使っている『新約聖書』のほん訳例38をあげています」。

      ついで「ものみの塔」誌は,トーマス・デ・ビオ・カジェダナス枢機卿の「モーセの五書の注解」など,カトリック権威者のエホバの名の使用例を時代を追って豊富に上げています。それではかたよった見方をしているのは,カトリック牧師とエホバの証人のいずれですか。読者ご自身が判断してごらんなさい。

      悪霊の影響

      6 悪霊の力に頼ることに関するヨブ記 4章15節とその結果とに対応するものは何ですか。

      6 昔のバビロン時代以来,エリパズのような宗教指導者は,自分の宗教心を築くのに,聖書に基づく信仰を立てようとはせず,見えない霊者つまり悪霊に感情的な導きを求めてきました。(ヨブ 4:12-17)最近,ペンテコスト派の一派はエホバの証人およびそれと交わる人々の聖書の知識を感情的な態度で軽視しました。

      「わたしは,ものみの塔協会のすべての者,つまり150万を越える奉仕者とそれに洗脳される5000万以上の信奉者すべてが,わたしの知覚することを知覚し,わたしの感じることを感じられたらどんなに良いだろうと思う。……彼らが神ならぬ力でそれ〔彼らの世界的な活動〕を行なえるなら,我々は神の霊に清められるとき何をなし得るであろうか。……我々は,『主よ御国会館を見いだし,霊を注いで彼らを満たしたまえ。彼らをかき乱し,……かつてなかったほどに彼らを震いたまえ』と祈ろうではないか」。b (傍線は本誌編者)

      ここで宗教家は目に見えず,名状しがたい何物かの「知覚」や「感じ」に訴えています。その結果は? 彼らは「かき乱す」とか「震う」ということばを使って,暴力と敵意をすすめています。しかしイエスは,「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言われました。―マタイ 22:39。

      従順さのゆえに非難を受ける

      7 ヨブ記 4章18節について昔と今の対応性を述べなさい。

      7 エリパズ的な宗教指導者はまた,神とキリストからの独立を楽しんでいます。(箴言 3:5)神のしもべが従順さと忠実さを表わしても,神は特にそれに心をとめられないというのが彼らの考えです。(ヨブ 4:18。マタイ 17:12,13; 24:45)ドイツのある宗教著述家は,エホバの証人がクリスチャン的な仕方で考えと組織の一致を保っていることを非難しています。(イザヤ 55:8。箴言 12:15)彼は次のように書いています。

      「この〔エホバの証人の〕組織のメンバーは無条件の服従をしいられている。彼らはブルックリンの出版物に説明されるとおりに神のことばを理解しなければならない。ものみの塔協会は神のような権威をもっており,それゆえに真理と福音の宣明法とについて一種の専売権をも所有している。自分をほかのもので養うこと,また自分自身の考えをもつことは禁じられている」c (傍線は本誌編者)

      8 証人は非難にどう答えましたか。

      8 この非難に対する答えの中で,エホバの証人は,統一され,霊的に豊かな自分たちの真理の源と,「独立」を叫ぶ牧師の吐き気をもよおさせるような食卓とを比較しています。

      「キリスト教国の正統的な宗教組織のうち,今日の危険な時代に必要な,新鮮な霊の食物を提供しているものがありますか。基本主義者は今なお無味乾燥なもみがらを提供し,何世紀も昔の信条をつぶやき,異教から借りた二,三の基本教義をものうげに繰り返しているだけではありませんか。まさに,『彼らの宗教はもの笑いであり,機械的に憶えた言い伝えにすぎ』ません。(イザヤ 29:13,モハット訳)現代主義的な教会は時代に合わせて新しい教えを作っていますが,彼らの新しい供え物は福音の伝道に合いません。彼らは聖書の権威を軽んじ,聖書を神話や伝説,あるいはせいぜい良い文学書と同等視し,物質文明の歓心を求めて科学,進化論,心理学,精神病学などを提供しています。神は,キリスト教国の『食卓は吐いた物で満ち』とはっきり言われます。〔イザヤ 28:8〕そこで勢いをふるっているのは霊的なききんです。それに従う者のありさまとエホバの証人のありさまとはいかにも対照的ではありませんか」。d

      望むなら,牧師はどこまでも「独立」を求めるのがよいでしょう。それは霊的な無政府状態を招くにすぎません。一致したエホバの証人は,ぶどうの木にも似た唯一の径路に堅く従って離れません。―ヨハネ 15:5,6。

      宗派的な伝統主義者に非難される

      9 ヨブ記 8章8節どおり証人はどんな非難を受けていますか。

      9 「不法の者」級の牧師の多くが正統派的な慣行の支持者また擁護者であり,昔のビルダデのごとく,「先祖たち」から伝わる「先の代」のバビロン的な知恵に固執していることはよく知られています。(ヨブ 8:8)彼らはバビロン的な伝統を高く掲げ,聖書の教育を受けたエホバの証人を見下しています。カトリック・イエズス会の一週間誌がエホバの証人の国際大会について述べるところをお聞きください。

      「これ〔エホバの証人の大会〕は,原始的な ― そして正道をそれた ― 宗教が人間性の混乱した時代に単純な心を動かすということを如実に証明するものであった。これはまた,二,三の考えを信じこむことが,人を動かす大きな力になるのを例証するものでもあった」。e (傍線は本誌編者)

      10 ヨブのような者たちの答えは何ですか。

      10 ヨブのような油そそがれた者たちは,伝統を退けたことを非難する牧師のことばに答えました。その答えを以下にしるします。

      「聖書に含まれる真理を捨て,そのかわりに古代の異教や現代の哲学を採用しているキリスト教国の諸宗派は,エホバの民と唱えながら背教に走った昔のイスラエル人によく似ています。『牛はその飼主を知り,ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず,わが民は悟らない』。(イザヤ 1:3)彼らは偏狭であるとして〔わたしたちに〕罪を求めていますが,実際には自分の罪をあらわにしています。しかし,彼らが牛やろばより無分別な者であることを,神ご自身がここで語っておられるではありませんか」。f

      これら言い伝えの教師,宗派的な伝統主義者は,エホバの証人の宗教が「原始的」であり,「正道をそれている」と唱えます。しかし,聖書に立脚するエホバの証人の宗教はエホバ神の至上権の擁護を第一に求めているのです。(ヨブ 8:3)しかしこれを非難する人々は,「子たち」つまり油そそがれた者と交わる者たちが「罪」人(『心の単純な者』)であり,世界の混乱の時に背教諸宗派の伝統に「とが」を犯している(「正道をそれた」)と唱えます。しかもその混乱の原因はおおむね牧師自身にあるのです。―ヨブ 8:4,9,10。

      聖書の正確な知識を求めていることを非難される

      11 ヨブ記 11章7節に対応する経験をあげなさい。

      11 キリスト教国の諸宗派に従う人々の中には,『多くの言葉』つまりヨブのような証人たちが広める正確な考えによって,偽りの暴露されてゆくことをさながらゾパルのように苦々しく感じる者が多くいます。(ヨブ 11:2-4)彼らは,証人たちが聖書の新しいほん訳を作り,以前のほん訳を越えて,より正確に「神の深い事を窮め」ようとするのを非難します。(ヨブ 11:5-8)アメリカの一宗派の刊行物がどのような攻撃をしているかに注意してください。

      「しかし,『証人たち』の試みのうち最も重要なのは新しい聖書を作ろうとしていることである。彼らはネイサン・H・ノアを通じ,聖書の『新しいほん訳』を出版するとの発表を行なった。現行のほん訳は彼らに合わないというのである……教義が……奇異なほどに神に逆らうものになると聖書の『新しいほん訳』が必要になってくる。つまりその教義のために別の『聖書』が必要になるのである。新しい宗教を立てるのに神の与えられた聖書だけでは足りない」。g

      12 証人の答えからいくつかの点をあげなさい。

      12 証人はこれにすぐ答えましたがその一部は次のとおりです。

      「『神の与えられた聖書』とはどの聖書のことですか。貴紙は『アメリカ改訂標準訳聖書』を引用しておられますが,これをさして『神の与えられた聖書』と言っておられるのではないでしょう。それとも,神がそのほん訳を我々に与えたとでも信じておられるのですか。神が与えられた聖書とは神が霊感された聖書であり,それはヘブル語,アラミヤ語,一般ギリシヤ語で記録されました。今日これらは事実上,死語となっています。聖書に関する最新の研究をもとにして現代語による『新しいほん訳』を作ることが,『新しい聖書』もしくは『別の聖書』を作ることになるのなら,次のことはどうなりますか。貴紙がおもに引用しておられる『アメリカ標準訳』を出したアメリカ改訂訳委員会が,1946年に新約聖書の『改訂標準訳』を作り,また間もなく旧約聖書の改訂訳を出すのはなぜですか。この委員会に対しても『新しい聖書を作っている』との非難を向けるのですか。この委員会は『奇異なほどに神に逆らうもの』になり,新しい宗教を立てるために新しいほん訳が必要なのですか」。h

      牧師は,望むなら,ゾパルと同じように考えるのが良いでしょう。エホバの証人は,ひき続き,神のことばをより正確に理解することに努めます。

      復活に関して「異端」として非難される

      13 油そそがれた者たちが「異端」視された聖書の教義について背景となる事柄をあげなさい。

      13 ヨブは人間個人の復活を信じていました。(ヨブ 14:13,14)また大いなるヨブ,イエス・キリストは,死んだ魂の復活に関する最大の教師でした。(ヨハネ 11:25。マタイ 12:40。使行 2:25-35)聖書は『死んだからだの復活』については何も述べていません。しかしイエス時代のパリサイ人は『からだの復活』を信じていました。i 今日でも同じであり,牧師は今でもセボレテつまり『からだの復活』を支持する非聖書的な見解を教えています。カルビン派神学校の体系神学の準教授は,この点に関し,エホバの証人を「異端」として非難しています。

      「キリスト教会の歴史において,復活が身体的なものではないということを教えた者はいつも異端の刻印を押されてきた。初期の教父たち〔脚注で筆者はポリカープ,ジャスティン・マーター,タチマン,セオフィラス,アテナゴラス,イレニウスなどの名をあげている〕は,キリスト教の特異な教義の一つとして,からだの復活(身体的な意味で)を大胆に弁護した。……しかし今日,聖書だけに従うと主張するエホバの証人は,この昔の異端を再興させている」。j (傍線は本誌編者)

      14,15 (イ)証人はこのことの不合理さをどのように示しましたか。(ロ)異端者は実際にはだれでしたか。なぜ?

      14 1963年4月15日号「ものみの塔」(240,241頁)は,イエスおよび他の者たちの復活が肉体を天にたずさえてゆくのでないことを聖書から十分に論証したのち,この牧師の見解の不合理さを示して次のように述べました。

      「かりにイエスが地的な人間のからだを天で持っていると仮定してごらんなさい。イエスが天で人間のからだを持っていると主張する牧師は,イエスが神ご自身であるとも教えていますから,私たちは神のかたちを知っていることになります。神は地上にいた時のイエスの姿をしていることになり,おそらくは身のたけ6フィート,ユダヤ人の鼻を持ち,たぶんひげをはやした,人間の生殖器官を持ち,体重200ポンドすなわち100キロと思われる人のさまを想像しなければなりません。……イエスが天において人間のからだをしているとすれば,口や胃をも含めて完全な消化器官を持っているはずであり,イエスの忠実な弟子たちも天に行くとき,やはり消化器官を備えているはずだという事です。……考えてごらんなさい! 人間のからだを持つ者が天に来て以来,天には厠,個人専用また公衆用男女別トイレットが必要になるのです。そして牧師によれば神御自身であるはずのイエスは今よりのち永遠に天の厠を使わねばなりません。これはイエスが人となる前,天において全く必要のなかったことです!(列王上 18:27)牧師の論議を論理的につきつめてゆくと,こういう結論になります」。

      15 以上のことを考えて,異端はどちらですか。エホバ神は霊者であり,人間と全く異なり,人間を超越するものであるとして,エホバ神の至上の権威を擁護するエホバの証人ですか,あるいは実質的に,至高の神を小さな人間と等しいものとするキリスト教の牧師およびその尊重する『初期の教父たち』ですか。(民数 23:19)ヨブのような証人たちを「異端」と呼んで嘲笑する牧師は,実際には,自分自身がパリサイ人のごとく聖書の真の教えに逆らう者であり,それゆえに「異端」であることを明らかにしているのです。―マタイ 15:3。

      人々はエホバの証人を避けるように忠告されている

      16 ヨブ記 15章10節によれば,証人を避けよとの警告が出されるのはなぜですか。これを出すのはだれですか。

      16 年月を経た宗派の指導者たちはエホバの証人の知識が「むなしき知識」であると言います。(ヨブ 15:2-6)彼らはエリパズのごとく,ヨブのような者たちが聖書の知識を多くもってうぬぼれていると唱えます。この種の人々は,古い宗教組織の経験に耳を傾けない者としてエホバの証人をとがめます。(ヨブ 15:7-10)アメリカのカトリック・イエズス会の一雑誌は次のような忠告をのせています。

      「エホバの証人はその特異なやりかたにおいては専門家である。概して彼らはたいていのカトリック教徒より聖書に通じている。彼らはいっさいの議論を聖書を根拠にして行なおうとするから,それに巻き込まれるカトリック教徒は不利な立場に立たされるであろう。聖書に対するエホバの証人の見解はきわめてゆがんだものであるが,カトリック教徒は往々にして聖書にはなはだ無知であるから,不利な結果に終わる場合が少なくない。十分な備えのないカトリック教徒は彼らを避けるのがよいであろう。そうしたカトリック教徒は適当な弁明をできないままに,自分の信仰を危うくするからである。十分な教育を受けたカトリック教徒なら彼らにたち打ちできるであろう。k (傍線は本誌編者)

      それで,油そそがれた証人と宗教を論ずるのは,バビロン的な聖伝にひたった,ローマカトリック教会の「しらがの人」や「年老いた人」だけです。―ヨブ 15:10。

      証人は火の地獄に行く者とされる

      17 地獄の火の教理の非聖書性が明らかにされたことに対する牧師の仕かえしの例をあげなさい。

      17 現代のビルダデとも言える宗教代弁者は,バビロン的な地獄の苦しみの教理に固執し,その教理の非聖書性を明確に指摘する証人たちに仕返しを続けます。たとえば人間は魂であり,獣も魂であり,両者の前途には同じものがあり,「これの死ぬように,彼も死ぬのである」ことが指摘されました。(伝道 3:19-21)聖書が明確に述べているにもかかわらず,牧師はさながらビルダデのごとく「なぜ,われわれは獣のように思われるのか。なぜ,あなたの目に愚かな者と見えるのか」と言って,ヨブのような証人たちに不満を表わします。(ヨブ 18:3。ペテロ第二 2:12)地獄で魂が焼かれると説く者が何を言っているかに注意してください。

      「『エホバの証人』7万人のニューヨークでの騒々しい大会がちょうど今〔1950年〕終わったところである。彼らの〔協会の会長〕ネイサン・H・ノアは,『近い将来』のこととしてきわめて興味深い事柄を約束した。その一つは聖書に述べられる地獄の廃止である。……しかし彼らはこの約束のことばが神の使用されることばと全く矛盾することに気づかない。神は地獄というものが存在し,それがよみや墓とは異なることを彼らに告げておられる。しかるに彼らの指導者は,そのような場所は存在しないと彼らに言う。これは明らかに神に逆らうものであり,『証人』が『獣のしるし』をつけていることの証拠である。神は悪人が『永遠の刑罰を受け』ると言っておられるが(マタイ 25:46)『証人』たちはそのような場所はないと言う。しかしこう言う彼らは,自らそこに行く備えをしているのである」。l (角かっこおよび傍線は本誌編者)

      18 証人はどのような回答を公表しましたか。

      18 印刷された4ページの回答の中で証人たちは簡明にこう述べました。

      「あなたがたは自分のことばによって罪せられています。『この約束のことばは神の使用されることばと全く矛盾する』と言っておられますが,どうしてそのように言えますか。『新世界訳』は古い英語のことば『地獄』を使っていませんが,神がご自分の聖書に初めに与えられたことば,すなわちヘーデス,ゲヘナ,タルタラスを使っています。これは別の聖書つまり神がわたしたちに与えられたものと異なる聖書を作ることではありません。神ご自身の使用されたことばを使っているのです。それゆえ,これを『明らかに神に逆らう』とし,『獣のしるし』をつけていることの証拠とするのはこじつけです。エホバの証人はゲヘナを廃止しているのではありません。それはもともと聖書に使われていることばです。……イエスはご自分に逆らう者に,『あなたは,自分の言葉によって正しいとされ,また自分の言葉によって罪ありとされる』と言われました。(マタイ 12:37)しかし,『立証者』誌はエホバの証人に敵対することばによって立証されず,むしろ神および善意の人すべての前で罪ありとされます」。a

      地獄の火に関する牧師のこの教えについて,読者は再びだれが正しいかを判断できます。

      変わり者の扱いを受ける

      19,20 (イ)「新世界訳」を「奇妙」であると評したのはどの宗派ですか。どのように?(ロ)油そそがれた証人たちはどう答えましたか。

      19 ゾパルのような牧師はヨブのような証人たちから,彼らの言う「はずかしめる非難」を聞かされています。(ヨブ 20:3)彼らは今でも,エホバの証人が宗教上,世界第一の悪人であると言います。(ヨブ 20:5)「ザ・バプテスト・レコード」紙の一論説記事はこのような気持ちから,「新世界訳」を奇妙なほん訳であると決めつけています。

      「彼らの奇妙なほん訳の例をさらにあげれば,……『十字架』……のかわりに『杭』ということばが使われていることである。十字架を杭と訳す根拠は全くない」。b

      20 1950年11月15日号「ものみの塔」(英文)は5ページの回答をのせ,その中で油そそがれた証人は,「ザ・バプテスト・レコード」が攻撃した点すべてについて,「新世界訳」の正しさを決定的に弁明しました。右の非難に対する油そそがれた証人の回答の一部を次にしるします。

      「貴紙の見出しは,『十字架は杭ではない』となっていました。そして第4節は,『十字架』のかわりに『杭』を使うのは奇妙であると述べています。……軽率なことばを書く前に,『新世界訳』をひもとき,付録の768-771ページにあるマタイによる福音書 10章38節と『苦しみの杭』に関する説明を読んでいたなら,もっと慎重な論説を書くことができたでしょう。そこを読めばおわかりのとおり,ギリシヤ人がスタウロス,ラテン人がクラックスと呼んだ刑具は,当初,横木のない一本の杭でした。……使徒ペテロはそれを単に『木』と呼び(使行 5:30; 10:39。ペテロ第一 2:24),使徒パウロも使徒行伝 13章29節とガラテヤ人への手紙 3章13節で『木』ということばを使っています。明らかに貴紙はこれらの聖句の意味を読み落としているものと思われます。イエスがつけて殺されたのは単なる杭ではなかったと言うことは容易ですが,貴紙の記事はこの点に関して『新世界訳』を奇妙で,不正確で,非聖書的であるとする論拠を一つもあげていません」。c

      「ザ・バプテスト・レコード」紙に対しては,「ものみの塔」の回答を掲載し,「新世界訳」に関する誤った宣伝を訂正し,聖書の真理に対する妨げを取り除くことが求められました。応答は? ヨブのような証人たちに対する牧師の敵意,エホバに対するそしりがその度合を強くしたことです。

      粗暴な非難

      21-23 (イ)牧師はどのように,ヨブ記 22章5節を今日にあてはめようとしましたか。(ロ)証人は何と答えましたか。

      21 牧師はエホバの証人にあらゆる種類の罪と悪とを着せようとしますが,証人の確固とした応答のために,むしろろうばいを続けています。昔のエリパズのような彼らは議論の最終回において,実質的にこう言います。「あなたの悪は大きいではないか。あなたの罪は,はてしがない」。(ヨブ 22:5)この種の不当な攻撃の一例として,「ホーム・メッセンジャー」と呼ばれる「アメリカ・カトリック・家庭月報」1955年8月号の「彼らはエホバの証人と称する」という記事があります。その記事の筆者はエホバの証人を悪者にしたてるため卑劣な試みをしていますが,そこに35の偽りと誤りのあることが暴露されました。

      22 1956年4月8日号「目ざめよ!」(英文。17,18頁)は,「偽り者の偽善」(テモテ第一 4:1-3)という題で証人の全面的な回答をのせました。回答の一部を抜すいすれば,この牧師の攻撃の卑劣さを知ることができます。

      「さらにこの記事に従えば,エホバの証人は『キリストは空中に漂っている』と考えており,またキリストが1874年に,そしてその後は1914年に目に見える形で到来すると考えていたが,1874年に何も起こらず,ついで1914年にも失望した時,『キリストは1914年に到来したが目に見えないさまで到来したとすまして言うようになった』ということです。しかし事実を言えば,エホバの証人は初めから,キリストの再臨が目に見えないものであることを理解していました。……ついでこの記事によれば,『証人はもともと刑務所を背景としているようだ。彼らの「判事」ラザフォードは,創設者であるチャールス・テーズ・ラッセル「師」が1916年に死んだ時,刑務所にいた』ということです。しかもその記事にラザフォードの服役の理由として扇動と徴兵法違犯とをあげています。しかし,だれでも知るように,1916年当時のアメリカに,扇動を取り締まる法律と徴兵法とはまだありませんでした。事実を言えば,判事ラザフォードが刑の宣告を受けたのは1918年であり,ラッセルが死んで1年半以上たってからです。しかもこの判決はのちに取り消され,その不当なことが法廷で認められました」。

      23 キリスト教国牧者の欺まん的な精神をここに見ることができます。罪と悪とを着せられるべき者はだれですか。キリスト教国において,教会出席者の増加に合わせて,犯罪がうなぎ上りに増加していることに何か不思議がありますか。

      背教者は国家への順応を求め,星を占う

      24,25 (イ)順応することと星を読むことに関して昔のできごとに対応するものは何ですか。(ロ)エホバのしもべの回答のおもな点を述べなさい。

      24 昔のビルダデと同じように,現代の宗教指導者は,人間は神の清さをまねたりそれに近づいたりすることができないという人間的な考え方をします。(ヨブ 25:4)ヨブのような油そそがれた者たちは汚れから離れ,エホバにならって清くなろうと誠実な努力をしていますが(コリント第二 6:17; 7:1。ペテロ第一 1:15,16),それを妥協させようとするのが彼らの議論です。さらに,昔のビルダデは人事と星の動きとの結びつきについて述べて,バビロン的な傾向のあることを示します。(ヨブ 25:5)今日でも,背教者は,エホバの証人と議論をする時,聖書の確かな助言より,バビロンの占星術的な考え方を好むようです。彼らの考え方に注意してください。

      「わたしはひとりの牧師がものみの塔の証人を突きとばして,『畜生…』と言うのを見た。彼らが兵役に応ぜず,がんこに徴兵を拒否するので,我々は彼らを刑務所に押し込めた。……我々はアメリカの国旗とアメリカの思想に対する彼らの態度について公に彼らを非難した。……自分の教会員に対しては,彼らに反対の説教をし,彼らに警戒するようにと忠告した。……わたしはこの点についてまだ星を見ていないが驚くべきエホバの証人は確固たる地位を占めてきているから,彼らがアメリカ国旗の敬礼に対する奇妙な態度を改め,政府と協力し,他の教会を尊敬するようになる兆が星の中に現われればとただ願うだけである……」。d (傍線は本誌編者)

      25 エホバの証人は1958年「ものみの塔」83,84ページ(英文)に,証人の国家への順応を星に祈願するこのバビロン的な態度を取りあげています。その一部は次のとおりです。

      「過ぐる年月の間,反対や迫害にも負けず,確固として神の真理に従ってきたエホバの民が,これから将来にエホバのご要求を放棄するというきざしは一つもありません。エホバの証人が将来どんな行動をするかは星が決めるのではありません。エホバの創造である星を調べてもこれを知ることはできません。事実,星を見て物事を予知しようとすること,また星の『感応力』なるものを信ずることはエホバのみことばに逆らうものです。わたしたちは,見える天の星ではなく,天の天におられる神に将来の導きを求めます。―イザヤ 47:1,13をごらんください。

      背教者は神の名を使わない

      26,27 (イ)背教者は神の名を使うことに関してまだどんな習慣にならっていますか。(ロ)エホバの油そそがれた者たちは最近,エホバの名をどのように目ざとく擁護しましたか。

      26 すでに述べたとおり,バビロン的な影響を受けた宗教指導者は,いつの時代でも,まことの神を暖かさのあるその固有の名で呼ぶことを避けました。その名は,今日一般にはエホバという形で使われています。このことはヨブの3人の偽りの慰め手の場合に見られます。イエス時代のユダヤ教諸教派の指導者の場合もそうでした。また,今日終わりの時代における「不法の者」級つまりキリスト教国の牧師にも十分に認められます。背教した指導者は聖書ほん訳者にバビロン的な圧力を加え,神の名を消し去りました。長老派神学校教授のエホバの証人に対する以下の不公正な攻撃に注意してください。教授は,「クリスチャン・ギリシヤ語聖書の新世界訳」における神のみ名の復元の仕方が不統一であると非難しています。また教授はエホバの証人が「アリウス神学」(反三位一体説)に従う者であり,ギリシヤ語キリオス(主)が定冠詞なしで出てくる所にエホバを復元し,他の所に復元しなかったのは,そのほん訳が反三位一体説に着色されていることのしるしであるとも非難しています。

      27 この敵意に対してエホバの証人は3ページの回答を公表しました。

      「右のことを一読して,わたしたちはプリンストン神学校の教授が前述のはしがきの第9ページのうちほんの一部を引用し,ほん訳者がクリスチャン聖書中の神の名の復元を妥当とした理由の大半を無視していることを不思議に思います……『新世界訳』は一貫しており,コリント前書 12章3節やピリピ書 2章11節において『イエスはエホバなり』とせず,『イエスは主なり』としていても,そのはしがきにあげたほん訳上の原則を破るものではありません。それゆえ『新世界訳』のほん訳者がこの点において,反三位一体説のアリウス神学に影響されているとのとがめを受けるいわれはありません……キリスト教国の三位一体論の神学者にとって,自分の三位一体説に従わない聖書ほん訳のあらさがしをすることはきわめて容易です。しかし,その際に,そのほん訳が一貫して従うほん訳上の原則を隠しておくのは不公正であり,非学問的な態度ではありませんか」。e

      ここにおいても,エホバ神の至上権を否定しようとするバビロン的な習慣が,ヨブのような油そそがれた者たちにより目ざとく暴露されました。―ヨブ 6:10。

      英国教会主教は神がみ名を持たれることを認める

      28 英国教会の一主教は神の名について何を認めていますか。

      28 英国教会の一主教は,神の固有のお名前を避け,それを聖書のほん訳から取り去る,バビロン的な習慣が誤りであることを認めています。彼は次のように書いています。

      「神というのは一般的な呼び名であるから,これ以上に神の属性を表示する固有の名前がないなら,神が我々を愛し,また我々の愛を求められるということは考えがたい。神を愛さねばならないと命令されたとするなら,我々はただ愛するふりをする以外にないだろう……イスラエルに対して,神はヤーベという固有の名により,ご自分が人格的な存在であることを示された。(出エジプト 3:15)ヤーベの名は詩篇の中だけでも665回出てくる……1611年の欽定訳および1885年の改訂(英)訳に,エホバの語がわずか4回だけ出てくることについてはすでに述べた。それら4回はなんらかの理由で名前を省略することがむずかしい場合であった。しかし,1952年の改訂標準訳の中にエホバの名は一度も出てこない……わたしはエホバの証人と呼ばれる熱心な一派の者にまだ会ったことがない……彼らは神に対して熱心らしいが『その熱心は知識によらない』ようである。そしてわたしは,彼らが改訂標準訳およびその訳者に対して抱く憎悪の理由をあるていど理解できる」。f (傍線は著者)

      エホバの証人は神の名の回復という点で初めから正しかったにもかかわらず,この主教が『知識によらない熱心』として,やや温和ながらエホバの証人をなお非難していることに注目してください。

      エホバは油そそがれた者たちを守られる

      29,30 (イ)ここで取り上げた報告の中でどんなことが明らかになりましたか。(ロ)牧師はどんな傾向をもっていますか。(ハ)エホバはご自分の証人をどのように守っておられますか。

      29 ここに提出したやりとりは,昔のヨブのドラマと,エホバの証人を中心として全世界で展開される今日のドラマとの著しい類似性を示しています。(コリント第一 4:9)いずれの場合でも,バビロン化したサタンの手先は偽り,半面だけの真理,事実の隠ぺい,中傷,感情,星占いなどに訴えねばならず,また聖書に対する知識の浅いことをさらけ出して議論しなければなりませんでした。他方,ヨブのような証人たちは真理と,慎しみと,クリスチャン愛とをもって応じ,いつでも事実に従い,聖書の正確で徹底的な知識に基づいて論じ,聖書の真実さとエホバ神の至上性とを絶えず擁護しました。それゆえ,ヨブ自身のことばではなく,ヨブに敵対した者の論議のほうがよく理解できるとして,それを引用する牧師の多いことも不思議ではありません。一権威者はこう述べています。「ヨブの性急なことばより,彼〔ヨブ〕の友人のことばのほうが理解しやすいことが多い」。g

      30 ここに明らかにされるとおり,バビロン的な考えに従う者たちは背教のセボレテしか理解できません。そうした宗派的な人々は,昔のヨブ,ついでイエス・キリストおよび彼の使徒たち,そして今日,現代のエホバの証人たちが擁護するエホバの清い崇拝のシボレテを決して理解できません。サタンおよびバビロン化したサタンの手先にどれだけそしられても,エホバ神の真実さは地上にいるエホバのまことのしもべによって立証されています。どちらの側が正しいかはエホバご自身が示しておられます。現代の宗派的な背教者に向かってエホバはこう言われます。「わたしの怒りはあなた(がた)……に向かって燃える。あなたがたが,わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。(ヨブ 42:7)1919年以来,ヨブのような回復を経験したエホバの油そそがれた者たちは今日は幸福であり,自分にあびせられるバビロン的な敵意に耐えつつ,永遠の王であられるエホバ神の至上権を忠実に擁護しています。「願くは万世の王,すなはち朽ちず見えざる唯一の神に,世々限りなくたふときと栄光とあらん事を,アアメン」― テモテ前 1:17,文語訳。

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