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  • 流血の罪をもつ者たちは,神の裁きを免れることはできない
    ものみの塔 1973 | 5月15日
    • 顔に垂れ下がったり,うわくちびるをおおったりすることがないようにしました。また,嘆き悲しんで裸足で歩むこともありませんでしたし,同情者たちに慰めのための食事を自分のために整えさせることも許しませんでした。そのために,エゼキエルの仲間の流刑者たちは驚かされ,『この汝がなすところの事は何の意なるや我らに告げざるや』と尋ねました。(エゼキエル 24:18,19)エゼキエルは答えました。

      19 エゼキエルはその妻の死に続いて自ら取った行動の意味を,仲間の流刑者たちにどのように説明しましたか。

      19 『エホバのことば我にのぞみて言う イスラエルの家にいうべし〔主権者なる主〕エホバかく言う 見よ我汝らの力の栄え汝らの目の喜び汝らの〔魂〕の望なるわが聖所を汚さん 汝らが残すところの息子娘らは剣に倒れん 汝らもわがなせるごとくなし ひげをおおわず人のおくれる食物を食らわず こうべにかぶり物をいただき見にくつをはき嘆かず泣かずその罪のうちにやせ衰えて互いにうめかん かくエゼキエル汝らに兆とならん彼がなしたるごとく汝らなさん この事の至らん時に汝ら我の〔主権者なる主〕エホバなるを知るべし』― エゼキエル 24:20-24〔新〕。

      20 エゼキエルの仲間の流刑者たちはどのようにしてエホバを知るようになりましたか。

      20 エルサレムの住民とバビロンの流刑者たちの不信仰の状態はたいへんひどかったので,聖都と神殿そして子供たちの滅びという形で打撃をこうむって初めて,彼らはエホバが流血の罪や道徳的汚れを許容なさらないかたであることを思い知らされるのです。彼らは,エホバが420年を経たソロモンの神殿をこともあろうに偶像崇拝者の異教徒バビロニア人に攻め落とさせ,略奪させ,滅ぼさせて,ご自分の聖所を汚すなどとは信ずる気になれませんでした。しかしながら,エホバは,それら流刑者の『力の栄え彼らの目の喜び彼らの魂の望み』(つまりエルサレムにあるエホバの聖所,あるいはエルサレムにいる彼らの息子や娘たち)を惜しみません。エホバのことばがそうした驚くべき仕方で成就するとき,それら流刑者たちは,そのようなことを行なうと述べて,実際にそれを行なったかたは同一のかたエホバであることを知らざるをえなくなるでしょう。

      流血の罪をもつキリスト教世界は裁きを免れることはできない

      21 エルサレムに起きたことからすれば,キリスト教世界には何が臨むと言えますか。

      21 エホバ神は流血の罪をもつエルサレムのことをいつまでもがまんしたのではありません。同様に,エホバは,流血の罪をもつキリスト教世界の存在をいつまでも許すことはしません。同世界は神に仕えていると唱えはしますが,同世界の行動はその主張が偽りであることを示しています。同世界は,神の会衆,つまり神が霊によって住まわれる神殿ではありません。(コリント前 3:16)キリスト教世界は自らがそのような神殿であると主張したところで救われるものではありません。それはソロモンの神殿がエルサレムにあっても,その都が救われなかったのと同じです。同世界が完全に滅ぼされるとき,そうした主張は偽りであったことが暴露されるでしょう。

      22 油そそがれたクリスチャンのエホバの証人がキリスト教世界についてふれ告げて来た事がらの真実性はどのようにして確証されますか。

      22 そのような滅びは生じないなどとだれも考えるべきではありません。というのは,エホバ神は流血の罪や道徳上の汚れに関するご自分の見方を変えてはおられないからです。(マラキ 3:5,6)今後のできごとや寄せられるニュースは,エホバのクリスチャン証人の油そそがれた残れる者がキリスト教世界の終わりに関してふれ告げてきた事がらが真実であることを実証するでしょう。「大患難」がキリスト教世界に臨みはじめる時,油そそがれた残れる者はそれを知り,またその結果については何らの疑問も持ってはいないでしょう。その患難の結果についてその時までに彼らがふれ告げている事がらはそれで十分のものとなります。彼らはキリスト教世界のための希望の音信を持ち合わせることはありません。

      23-25 エルサレムの攻囲が始まった後,エゼキエルはどんな意味で黙しましたか。その状態はいつまで続くことになっていましたか。

      23 その時点での油そそがれた残れる者にかかわる事態は,次のように告げられたエゼキエルの場合に相当するでしょう。

      24 『人の子よ わが彼らの力かれらの楽しむところの栄えその目の喜びその〔魂〕の望みその息子娘を取り去る日 その日に〔逃れた者〕汝のもとに来たり汝の耳に告ぐることあらん その日に汝〔逃れた者〕にむかいて口を開き語りて再び黙せざらん かく汝かれらに兆となるべし 彼らはついに我のエホバなるを知らん』― エゼキエル 24:25-27〔新〕。

      25 エルサレムの攻囲が始まる時までにエゼキエルはその民にすでに十分のことを述べていました。神からの預言を,いっそう信服させるものとして人びとの耳に響かせるため,エゼキエルがさらに多くを付け加える必要はありませんでした。それで,確証となる信頼すべき報告が寄せられる日まで,エゼキエルは黙する,つまりエルサレムとユダ王国に臨む災厄についてさらに預言することに関しては口をきかないことになりました。難を逃れた者がエルサレムの滅亡に関する報告をもってついに到着するに至るまで,バビロンにいたユダヤ人の流刑者たちは,エゼキエルが彼らに預言した事がらをよく考えることができました。もし彼らがその気になれば,信じないままでとどまることもできたでしょう。しかし,彼らの不信はやがて,エルサレムの陥落の信頼すべき目撃証人の到着によって粉砕されるのです。

      26 エゼキエルは何に関する「兆」の人,または「兆」でしたか。

      26 その時,エゼキエルはできごとに関するより良い背景的知識に基づいて語りうる立場に立ち,新たな清新な音信を持ちます。そして,エホバに仕える霊感を受けた真の預言者として彼の権威は確立されることになります。彼は「兆」の人,もしくは足早に追っていた事がらの「兆」として,偽りを述べていたのではないことが実証されたのです。

      27 今日,人びとは,現代のエゼキエル級が時期を得た「兆」を持っていることをどのようにして知るようになりますか。

      27 流血の罪をもつエルサレムに滅びが臨んだように,流血の罪をもつキリスト教世界にも必ず滅びが臨みます。キリスト教世界が今日その勢力を保持している世界のあらゆる場所からやがて続々と寄せられて来る報告は,現代のエゼキエル級つまりエホバのクリスチャン証人の油そそがれた残れる者が宇宙の主権者なる主から与えられた時期を得た「兆」であったことの真実さを明示するものとなるでしょう。その時,人びとは,エホバが暴力行為や流血行為を罰せずに放置する神ではないことを知らざるをえなくなるでしょう。したがってキリスト教世界が悲惨な最後を迎える時,自らに災厄をもたらす事態を免れるため,エホバのクリスチャン証人がふれ告げている事がらに今耳を傾けるのは賢明な道ではないでしょうか。

  • 信仰を築く
    ものみの塔 1973 | 5月15日
    • 信仰を築く

      ● 何百万人もの「クリスチャン」にとって,宗教とは,子どものころにならった幾つかの聖書の話を知っていることと,気の向いた時に時々教会に行くことぐらいの意味しかない。

      しかし,「神々と人間」と題する本の中で,歴史学の教授,ヘンリー・B・パーカーは,西暦1世紀のキリスト教に関して次のように書いた。「クリスチャンになるということは,イエス・キリストに対する信頼とイエスに倣う決意を中心にした,感情面の変化を遂げることを意味した。キリスト教は理論ではなく信仰を基いにしていた…そして,この信仰が,信者の人格を全く変化させ,新しいふるまいや道徳的な行動をとらせたのである」。―373ページ。

      これと同じ気持ちをいだいて,今日,全世界で何十万人もの人びとがエホバの証人との聖書研究によって同様の信仰を得つつある。人の考え方や行動の全体に大きな影響を与えるそのような信仰は絶対に必要である。なぜなら,使徒パウロは次のように述べているからである。『信仰なくしては神に喜ばるることあたわず』― ヘブル 11:6。

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