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  • キリスト教世界の暴虐は同世界にはね返るか
    ものみの塔 1972 | 10月1日
    • キリスト教世界はそのまいたものを刈り取らねばならない

      9 暴虐をならわしにする者に関してエホバはどんな原則に従いますか。

      9 『汝の行ないのために汝を罰せん』。これはエホバがここで述べておられる原則です。この全地の審判者は,ご自分の律法を忠実に守り,また義と平和を見たいと願う人たちを考慮に入れて行動されます。そして,暴虐をならわしにする者には当人のこうべに必ずそれを返させるようにします。したがって,遺憾と同情の念のゆえに,キリスト教世界とその憎むべき行ないに終わりをもたらすのを躊躇することはありません。

      10 その同じ原則は個人に対すると同様に国家あるいは組織にもあてはまりますか。説明しなさい。

      10 個人でも組織でも,あるいは国民でも,おのおのまくものはやはり刈り取らねばなりません。エホバはご自分のこの法則を変えることはありません。(ガラテヤ 6:7)ですから,キリスト教世界はその不忠実な歩みの結果を自らに招かねばならず,同宗教体制は自分勝手な行ないの実を食べさせられるのです。(箴 1:30,31)エホバはご自分と契約を結んだイスラエル民族に対して,預言者モーセの口を通してこの原則を次のように述べました。「汝らもし然せずば是エホバにむかひて罪を犯すなれば必ずその罪汝らの身におよぶと知べし」― 民数 32:23。

      エホバは親切にも警告を与えてこられた

      11 刑執行者として神に用いられる者たちはキリスト教世界に対してどんな態度を取りますか。

      11 政治支配者および一般民衆の間に今広まっている態度から判断すれば,キリスト教世界の滅びが到来するとき,その憎むべき宗教制度は当然の報いと罰を受けるのみで,憫れみを受けるには値しないことが明らかにわかります。偽善的なエルサレムがそうでした。エルサレムを滅ぼしたバビロニア人はそう感じました。それはネブカデネザル王の護衛隊の長が預言者エレミヤに語った次のことばからもわかります。「汝の神エホバ此処にこの災あらんことを言り エホバこれを降しその云し如く行へり 汝らエホバに罪を犯しその声に聴したがはざりしによりてこの事汝らに来りしなり」― エレミヤ 40:1-3。

      12,13 キリスト教世界はエホバのことを「不吉な予言をする者」と呼べないのは当然です。なぜですか。

      12 キリスト教世界が決してエホバに向かって,「不吉な予言をする者!」と言って叫びえないのは当然です。なぜなら,エホバはエゼキエルに,不忠実なイスラエルの家はもとよりキリスト教世界のことを念頭に置いて次のように語るよう命じたからです。

      13 「主エホバかくいひたまふ 視よ災禍あり非常災禍きたる 末期きたる 其末期きたる 是起りて汝に臨む 視よ来る 此地の人よ 汝の〔花輪〕いたる 時いたる日ちかし 山々には擾乱のみありて喜楽の声なし 今我すみやかに吾憤恨を汝に蒙らせ わが怒気を汝に洩しつくし 汝の行為にしたがひて汝をさばき汝の諸の憎むべきところの事のために汝を罰せん わが目は汝を惜み見ず我汝をあはれまず汝の行のために汝を罰せん 汝の為し憎むべき事の果報汝の中にあるべし 是によりて汝等は我エホバの汝を撃なるを知ん」― エゼキエル 7:5-9〔新〕。

      14,15 宗教家が身につけざるをえなくなる「花輪」とは何ですか。人びとはどんな叫び声を聞くことになりますか。

      14 エホバは警告のことばを強調するため,同じ意味のことを繰り返して述べるとともに,啓発を与える詳細な事がらをつけ加えています。それによれば,偽りの宗教の信奉者の頭には「花輪」がかぶせられます。それは饗宴に連なる偶像崇拝者の身の飾りではなく,混乱と災いで頭が囲まれることを意味します。偽りの宗教は,人びとを襲おうとしている共通の敵に対してさえ困難を切り抜けられるよう彼らを結束させることはできません。ですから,その叫びは宗教的な騒ぎに加わわっている者のそれではなく,狂乱の叫び声です。それは預言者イザヤが現代に対して予告した次のような騒乱の叫び声なのです。

      15 「騒乱るこえ[当時のエルサレム,そしてキリスト教世界]の邑よりきこえ声ありて宮よりきこゆ 此はエホバその仇にむくいをなしたまふ声なり」― イザヤ 66:6。

      16,17 悪行にふける頑固で高慢な人びとは何に気づいてはいませんか。

      16 神は見てはいない,あるいは気にかけてはいないなどと考えて悪行にふける頑固で高慢な人びとは,自分たちを召して申し開きをさせているのは神であることを知らなければなりません。使徒パウロは,「真理より外れ…ある人々の信仰を覆へ」したある者たちについて語ってから,こう述べました。「されど神の据え給へる堅き基は立てり,之に印あり,記して曰ふ『〔エホバ〕おのれの者を知り給ふ』また『凡て〔エホバ〕の名を称ふる者は不義を離るべし』と」― テモテ後 2:18,19〔新〕。

      17 ゆえに,自らクリスチャンと称えながら,偽善的なことにクリスチャンにふさわしい生活をしない人たちは,不義をならわしにして罰されずにすむものではないことを知らねばなりません。エホバ神は,「汝等は我エホバの汝を撃なるを知ん」と仰せられたように,彼らに思い知らさせます。―エゼキエル 7:9。テモテ前 1:20と比べてください。

      暴虐をはね返らせる器

      18-20 神は次にエルサレムに対して,またその対型であるキリスト教世界に対して何を語っておられますか。神はなぜ繰り返し「日」に注意を促しておられますか。

      18 そののちエホバはまた,やがてエルサレムで生ずる事態を明らかにし,その都に対して刑を執行するのに用いる手段を示しています。今日,それに対応するものを考慮すれば,キリスト教世界で同様の事態が生じていること,また同世界を荒廃させるのにエホバはどんな器を用いられるかがわかります。神は仰せられました。

      19 「視よ日きたる 視よ来れり 〔花輪〕いたりのぞむ 杖花咲き驕傲茁す 暴逆おこりて悪の杖と成る(彼らもその群衆も,その富も消え,また彼らの名声も消えて何も残らなくなる)」― エゼキエル 7:10,11〔新〕(口語)。

      20 エホバはなぜ繰り返し「日」に注意を促しておられるのでしょうか。なぜなら,偽善的に神のしもべを装う者すべてに臨む災いが厳しいものであり,その「日」は切迫しているからです。「杖花咲き」とエホバは述べておられます。つまり,処罰の杖が近づいており,行使されるのです。

      21,22 (イ)エゼキエルの日に花咲いた「杖」および,『芽した』驕傲とは何ですか。(ロ)今日における「杖」は何を意味していますか。暴虐はどのように『おこって悪の杖』となりましたか。(ハ)「彼らもその群衆も,その富も消え,また彼らの名声も消えて何も残らなくなる」というエホバのことばは何を意味していますか。―エゼキエル 7:11。

      21 エゼキエルの日におけるその「杖」はバビロニアの軍事力であり,その騎傲は『芽し』ていました。バビロニアは主要な世界強国として興隆し,エルサレムのダビデ王の王統によって代表される神の王国をさえあえて取りました。現代における破壊的な「杖」は,この事物の体制の政治的また世俗的分子です。―エレミヤ 50:31,32と比べてください。

      22 特に西暦1914年以来,世界は暴虐の時代にはいりました。暴虐は,それも特にキリスト教世界においてきわめて激しいものとなったため,それは『おこって悪の杖』となりました。暴虐はそれ自体の悪に対して,「杖」によってもたらされるように,自ら処罰を招きます。キリスト教世界の宗教家は「風」をまきましたから,『狂風をかりとる』のです。(ホセア 8:7)こうして,「わざはひは罪人を追ひ義者は善報をうく」という神の不変の原則が施行されます。(箴 13:21)それら宗教家には,神の目に「名声」とみなされるものは何もありません。彼らの組織や富,あるいは彼ら自身からも,彼らの受くべき処罰を免れさせるものは何一つ生じてはきません。

      長期間に及ぶ影響

      23-25 (イ)エホバの裁きはどれほど長期間に及ぶ影響をエルサレムとユダにもたらしますか。(ロ)土地を売る者も買う者もなぜ喜ぶことができないのですか。

      23 続いてエホバは,その日がどれほど不幸で悲惨な日か,またその長期間に及ぶ影響が偽善的な宗教家にどのように臨むかを強調して,こう仰せられます。

      24 「時きたる 日ちかづけり 買者は喜ぶなかれ 売者は思ひわづらふなかれ怒その群衆におよぶべければなり 売者は仮令その生命ながらふともその売たる者の帰ることあたはじ 此地の全の群衆をさすところの預言は廃らざるべければなり 其悪の中にありて生命を全うする者なかるべし」― エゼキエル 7:12,13。

      25 律法契約下のユダヤ人にとってこのことばは容易に理解できるものでした。なぜなら,律法の規定によれば,売った相続地を買い戻せない人は,50年ごとに来るヨベルの年に無償で取り戻せたからです。前述のエホバのことばによれば,たとえ土地を買っても,ヨベルの年まで毎年その土地から作物を収穫できると考えて喜べるものではありません。予告された「日」が来て,そのような喜びの時が訪れないうちに土地は奪われてしまうのです。一方,経済的に困って自分の土地を売らざるをえないイスラエル人は,ヨベルの年までその土地はどうすることもできないからといって思いわずらふには及びません。とにかく,生き残って自分の土地の益にあずかれるわけではないからです。神の怒りはその地の「全の群衆」や買う者や売る者に等しく「およぶ」のです。

      26 (イ)買う者も売る者も,たとえエルサレムの攻囲を生き残っても,なぜ売買の益にはあずかれませんか。(ロ)だれひとりとして自らの『悪の中にあって』命を全うできません。どうしてですか。

      26 中には,その地から連れ去られたのち,たとえ次のヨベルの年まで生き延びる者がいるとしても,そのヨベルの年に関する規定は履行されないでしょう。なぜですか。なぜなら,エホバの布告によれば,その地はヨベルの50年の周期よりも長い期間,すなわち70年間荒廃したままになるので,次のヨベルの年はとうに過ぎ去ってしまうからです。そのうえ,その地に再び人びとが住むにしても,ヨベルに関する制度がもう一度実施されることはないでしょう。それで,相続地を買う人,また売る人のどちらのものにもなりません。すべて無差別に災いをこうむります。何らかの企てを実行したところで,まして神もしくは律法に対する彼らの「悪」ゆえに,「生命を全う」できるものではありません。

      キリスト教世界に対する支持は失われる

      27 エルサレムに対する処置に示されている神の原則をあてはめると,キリスト教世界と関係している人たちに対してどんな結論を下せますか。

      27 イスラエルの場合と全く同様,神との契約関係にあると唱えるキリスト教世界については,神の方法およびイスラエルに対する神の処置に関する原則を適用して,現代に対する次のような唯一の結論を引き出すことができます。すなわち,キリスト教世界にしがみついている人はみな,きたるべき災いの日に損失をこうむります。エゼキエルに対する次のことばの中でエホバは,キリスト教世界を支持する人たちの状態を述べておられます。

      28,29 エゼキエルに対する神のことばは,キリスト教世界の災難が始まるとき,同世界がどんな状態に陥ることを示していますか。

      28 「人衆ラッパを吹て凡て預備をなせども戦にいずる者なし 其はわが怒その全の群衆におよべばなり 外には剣あり内には疫病と饑饉あり 田野にをる者は剣に死なん 邑の中にをる者は饑饉と疫病これをほろぼすべし その中の逃るゝ者は逃れて谷の鴿のごとく山の上にをりて皆その罪のために悲しまん 手みな弱くなり膝みな水となるべし 彼等は麻の衣を身にまとはん 恐懼かれらを蒙まん諸の面には羞あらはれ 諸の首は髪をそりおとされん」― エゼキエル 7:14-18。

      29 エルサレムの攻囲の場合と全く同様に,キリスト教世界がその荒廃者によって攻囲されるとき,大いなる怒りが生ずるでしょう。キリスト教世界の成員は恐れて,同世界を守るためにやってくることはないでしょう。たとえ「ラッパ」の声が鳴り響こうと,守備者たちは現われません。キリスト教世界はその偽瞞的な諸宗派もろとも必ず絶滅されます。同世界が攻撃を受けるとき,その成員が支援を拒むため,宗教家たちはがっかりさせられ,彼らの手は弱って垂さがり,膝は汗でぐっしょりとぬれるでしょう。そして,いわば髪をそって喪服を身にまといます。

      キリスト教世界の「攻囲」が始まる前に同世界を捨てなさい

      30 (イ)キリスト教世界の宗教指導者は,自分たちの歩みが聖書と調和するものでないことを知っていますか。(ロ)聖書はキリスト教世界がどんな裁きを受けることを示していますか。

      30 キリスト教世界の宗教指導者の持っている聖書は,彼らの行動を非とし,警告を発しています。彼らはエホバの証人が繰り返し述べてきた警告を知っています。ですから,「しばしば責られてもなほ強項なる者は救はるることなくして猝然に滅されん」という格言は彼らにあてはまります。(箴 29:1)イスラエルの王ダビデはその生涯を通じて神の裁きが働いているのを知って,「暴ぶるものはわざはひに追及れてたふさるべし」と祈りました。(詩 140:11)キリスト教世界の暴虐が同世界にはね返って荒廃をもたらすのは必至です。

      31 今起きていることを見ている人たちの取るべき正しい道とは何ですか。

      31 キリスト教世界の記録をお調べになりましたか。公正の神が存在することを信じておられますか。では,キリスト教世界の至る所で起きている暴虐を見ているあなたは,同世界が自らまいた種の結ぶ実として狂風を今やまさに刈り取ろうとしていることをご存じです。もしあなたが何らかの点でキリスト教世界の宗教制度と関係しておられるなら,今同世界を捨ててください!

  • 『エホバの名はかたき櫓のごとし』
    ものみの塔 1972 | 10月1日
    • 『エホバの名はかたき櫓のごとし』

      ハインリッヒ・ディックマン

      1937年,私はドイツ,ディンスラーケンのわが家でゲシュタポ(ナチドイツの秘密国家警察)に逮捕されました。ゲシュタポは,私がクリスチャンの兄弟たちを密告することによって彼らを裏切ることを望みました。もし「口を割る」ならそれほど苦しまなくてもすみ,もし口を割らないなら,ゲシュタポにも手がある,ということでした。私はゲシュタポがどんな手を使っても話さないことを決意しました。というのは私はエホバの名に信頼を置いていたからです。

      私は,69年の生涯の最後の40年にわたる経験から,「エホバの名はかたき櫓」であることを知るに至りました。―箴 18:10。

      私は若い時,ルーテル教会に属していましたが,そこでは安心感も希望も得られませんでした。ルーテル教会の賛美歌には,「われ,なんぢエホバにむかって歌う」という歌がありましたが,この名前は重要視されてはいませんでした。妻も私もまだ,エホバの名を知り,その真価を認識しなければならない状態にありました。

      1931年のこと,私たちはふたりのエホバの証人と数時間にわたって討論しました。証人たちは聖書を使ってエホバの名前を前面に押し出しました。その討論の結果,私たちは聖書に真剣な関心をいだくようになり,夜ふけまで勉強したものでした。まもなく私たちは証人の集会に出席するようになりました。私たちの生まれ故郷ディンスラーケンでは,その集会は私宅で開かれていました。数週間のうちに多くの聖書の知識を得た私たちは教会を去り,数か月のちには,エホバへの献身をバプテスマによって表わしました。

      私たちが教会をやめたことを家族がみな喜んだわけではありません。第一次世界大戦中軍隊に召集されたときに涙さえ流さなかった父親がこのたびは泣きました。それでも私たちは聖書の討論をつづけ,4人の兄弟のうちの二人,フリッツとアウグストが聖書の真理を受け入れました。私は自分の職場だったディンスラーケンのアウグスト-トイッセン鉄鋼会社で,いく人かの仕事仲間に,「黄金時代」(今の「目ざめよ!」)誌を定期的に,配布することができまし

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