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第1部 ― ドイツ1975 エホバの証人の年鑑
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犯した大きな間違いは,そうした非常な発展をエホバの霊によるものとする以上に自分自身の能力のせいにしたことです。ベテルの食卓でのある食事のさい,バルツェライトはベテルの家族に対して,世の人々がいる所ではもはや彼を「兄弟」と呼んではならないと要請しました。そのような場合には「所長」と呼ばれることになりました。しかも彼は自分の執務室のドアに「所長」という標示をさえつけさせました。
そのころ,バルツェライトはエホバに対する誠実さの点で別の方面から脅威を受けました。彼は明らかにいつも迫害を恐れていました。彼はドイツの支部事務所の責任ある指導者として,「告発される聖職者たち」と題する決議文の配布に関連して起訴されていました。そして,確かに無罪放免の判決を受けたものの,今後そうした強烈な説明を協会の出版物に記さないよう裁判官から要請されるに及んで,バルツェライトは明らかにその忠告に従うことに決めました。というのは,「ものみの塔」誌やブルックリンから送られて来る他の出版物中の表現や説明があまり強烈すぎると思われる場合,「そのような箇所に手加減を加え」たからです。
物質主義に根ざした欲望も大きくなりはじめました。詩を書くことを楽しみにし,パウル・ゲルハルトという雅号を用いて自作の詩を「黄金時代」誌に発表していた彼は今度は,1冊の本を著わして,それをライプチヒで出版しました。次いで,その本が諸会衆の配布する文書類の一覧表に加えられたので,実情を知らない会衆はそれを注文したため,バルツェライト兄弟は相当な額の財政上の収益を得ました。同兄弟はまた,ある時には家族全員のためどころか,むしろ自分個人用としてテニスコートをベテル内に作りました。
また,新しい建物の建設をラザフォード兄弟の訪問中に行なわれる献堂式に間に合うよう仕終えるためにバルツェライト兄弟は,1930年の12月末までにベテルの奉仕者を165人から230人に増やしましたが,そのことで彼は正直に振る舞いませんでした。ベテルの成員の人数をラザフォード兄弟に認めてもらえないのではなかろうかと恐れたバルツェライトは,50人の兄弟たちを「伝道旅行」という名目で外部に送り出して実情を隠しました。戻って来たそれらの兄弟たちは,家に帰るか,それとも開拓奉仕に携わるかどちらを希望するかを尋ねられました。それらの兄弟たちの多くは,関係しているのはエホバのわざであって,人間の個性の問題ではないことを悟り,その機会を捉えて開拓奉仕を始めましたが,他の人たちは苦々しい思いを抱かされて去って行きました。
増大する迫害
1931年のこと,ババリア州の当局者たちは再び先頭に立ってエホバの民に対する戦いを開始しました。当局者側は同年3月28日にできた,政治的騒乱に対処する非常事態令を誤用して,突如聖書研究者たちの文書を発禁処分に付す機会を見つけました。ミュンヘンでは1931年11月14日に協会の書籍は没収されました。それから4日後,ミュンヘンの警察当局はババリア州全域に適用される声明を発表して,聖書研究者たちの配布していた文書すべてを発禁処分に付しました。
当然のことですが,兄弟たちは直ちに上訴する処置を講じました。1932年2月には上ババリアの行政当局がその発禁処分を支持しました。協会は直ちにその件でババリアの内務省に訴えましたが,1932年3月12日にその訴えは「根拠なし」として退けられました。
法廷の下したその裁定について言えば,1932年9月14日,マクデブルクの警察庁長官は私たちを弁護する意見を表明して次のように述べました。「このことにより我々は,国際聖書研究者協会は専ら聖書および宗教上の事柄にのみ関係している団体であることを確言する。同協会は今までに政治活動を行なってはおらず,国家に対する敵意を示すような傾向は少しも示したことがない」。
しかし月日が経つにつれて問題は増大し続けました。ドイツの他の州でさえもそうでした。当時,パウル・ケッヘルが6人の特別開拓者と一緒にジンメルンに来ていました。それは短くした「写真-劇」をその町で二晩にわたって上映するためでした。しかし彼はその上映を中止させられました。というのは,竪琴を携えたダビデが写し出され,その詩篇の一つが引用されたところ,場内全体が狂乱状態に陥ったためでした。そして,出席者はほとんど全部がヒトラーの突撃隊員だったことがすぐわかりました。
ザール地方でも同様の経験がありました。1931年12月のこと,協会のわざを妨げないよう,その地域の警察当局者に通知するため,行政当局に対して訴えがなされました。そして,その指示が出されたのですが,それに憤慨した僧職者たちは,聖書研究者たちに対する警告の言葉を毎週のように説教壇から発するほどになりました。敵意はいよいよ募り,1932年の終わりまでには,2,335件もの裁判事件が係争段階に持ち込まれるに至りました。それにもかかわらず,文書類の出版に関するかぎり1932年はそれまでの最良の年となりました。
1933年1月30日,ヒトラーがナチ・ドイツの首相の地位を得ました。そして,同年2月4日,『公共の秩序と安全を危くする』文書を差し押える職権を警察に与える法令を出しました。その法令はまた,集会および出版の自由をも拘束するものでした。
残れる者の感謝の証言期間
同年の記念式の日付は4月9日に当たったので,記念式と関連して「残れる者の感謝の証言期間」の活動が4月8日から同16日まで行なわれる計画が立てられました。そして,「危機」と題する小冊子を用いて世界的な証言が行なわれることになりました。
しかし,ドイツの兄弟たちはこの八日間にわたる証言期間の活動を平安のうちに仕終えることはできませんでした。「危機」と題するその小冊子を用いた運動は,4月13日ババリア州でのわざの禁止処分を招きました。それに続いてザクセン州では4月18日に,またチューリンゲン州では4月26日,そしてバーデンでは翌5月15日にそれぞれわざが禁止され,さらにドイツの他の州でも同様の事態が次々に生じました。当時,マインツで開拓奉仕を行なっていたフランケ兄弟が伝えるところによれば,60人余の伝道者で成るその地の会衆には配布用の小冊子が1万冊ありました。それを配布するにはじん速に行動しなければならないことを知った兄弟たちは,それらの小冊子のうち6,000冊をその運動の初めの3日間以内に配れるよう,時間を組織的また有効に費やす計画を立てました。ところが,四日目には多くの兄弟たちが逮捕され,家宅捜査が行なわれました。しかし,警官はほんの数冊の小冊子しか見つけ出すことができませんでした。というのは,兄弟たちは警察側のそうした処置を考慮に入れて,他の4,000冊の小冊子を安全な場所に隠しておいたからです。
逮捕された兄弟たちは全員その日のうちに釈放されました。彼らはすぐさま組織的活動を取り決めて,その4,000冊の小冊子を,配布活動に参加できる会衆内の兄弟たちすべてに配りました。その晩,兄弟たちは自転車に乗り,約40キロ離れたところにあるバト クロイツナハ市に行って,その残りの小冊子を一般の人々に配布し,あるものは無料で配りました。この処置が適切だったことは翌日になってわかりました。というのは,その間,ゲシュタポ(ナチ・ドイツの秘密国家警察)が,聖書研究者として知られている人たちすべての家を捜査していたからです。しかし,その1万冊の小冊子はすべて既に配布されてしまいました。
マクデブルクでは政府当局者が支部事務所に通達を出し,表題の載せられている表紙のさし絵(血のしたたり落ちる剣を持った兵士を描いた絵)は気に入らないので,その表紙を切り取るよう要求しました。妥協を好む態度をそれまでも繰り返し示していたバルツェライト兄弟は,直ちにその色刷りの表紙を小冊子から取り去るよう指示しました。
その証言の週は実に気のもめる一週間でした。敵側は日ごとに,容赦ない力をふるって攻撃する決意をいよいよ明らかに表わしました。それだけに,報告が集計されて,記念式の祝いの出席者数が前年の1万4,453人に比べて合計2万4,843人であることがわかったときは本当に励まされました。その証言期間中に活発に働いた伝道者の人数も同様に大きな喜びをもたらすものとなりました。それは1年前の「王国」と題する小冊子の運動のさいの伝道者数1万2,484人とは対照的に1万9,268人に達したのです。そして,八日間にわたるこの運動の期間中に「危機」と題する小冊子は合計225万9,983冊配布されました。
ゲシュタポによるベテル・ホームの捜査
同年4月24日,ナチ当局は協会の事務所と工場を占拠しましたが,それは私たちのことを共産主義運動と結びつけられるような資料を見つけたかったからです。その種の資料を入手できるとすれば共産主義者の所有する建造物に関して既に行なっていたようなこと,つまり新しい法律を適用して協会の建物や地所すべてを没収して国家のものにすることができたのです。建物を捜索した後,警察はある晩政府当局者に電話し,罪証物件は何も見いだせなかったことを伝えました。しかし,「必ず何かを捜し出せ!」との命令を受けました。とはいえ,何も捜し出せなかったため,協会の建物と地所は4月29日に兄弟たちに返還せざるを得ませんでした。その同じ日にブルックリンの事務所はアメリカ政府を通して,(アメリカの法人団体の所有する)その建物や地所に対する不法差押えに抗議しました。
1933年6月25日のベルリン大会
1933年の夏までにはドイツの大多数の州でエホバの証人のわざは禁止されました。兄弟たちの家は定期的に捜索され,多くの兄弟たちは逮捕されました。単に一時的ではありましたが,霊的な食物のよどみない流れは部分的に妨げられました。また,多くの兄弟たちはいつまでわざを続けることができるのだろうかとなおも尋ねていました。こうした事情のもとで,諸会衆は6月25日にベルリンで開催される大会に出席するよう,そのほんの少し前に知らせを受けました。各地でわざが禁止されていたので大勢の人々の出席は無理だと考えられたため,会衆は少なくとも一人あるいは数人の代表者たちを出席させるよう勧められました。ところが,7,000人もの兄弟たちが集まることになりました。多くの人々は出席するのに3日もかかりました。ベルリンまでの道のりを自転車で走り通した人たちもいましたし,他の人々はトラックでやって来ました。活動を禁じられた団体にバスの便を供することをバス会社が断わったからです。
ラザフォード兄弟は大会の何日か前に,協会の地所や建物の安全を確保するにはどうすればよいかを知るため,ノア兄弟と一緒にドイツを訪れ,バルツェライト兄弟を通して同大会に提出し,出席者たちの賛同を得て採決する宣言文を用意しておきました。それは私たちの行なっていた宣べ伝えるわざに対するヒトラー政府の干渉に抗議したもので,ナチ国家の大統領をはじめ,政府高官全員に,その宣言文の写しを1部できれば書留めで送り届けることになりました。ラザフォード兄弟はその大会の始まる数日前にアメリカに戻りました。
しかし,出席していた人たちの多くはその「宣言」に失望させられました。というのは,その内容は多くの点で兄弟たちの期待していたほど強烈なものではなかったからです。当時までバルツェライト兄弟と密接な関係を持って働いていたドレスデン出身のミュツェ兄弟は後に,その原文の真意を弱めたことでバルツェライト兄弟を非難しました。政府機関との関係で問題を避けようとしてバルツェライト兄弟が協会の出版物の明確で間違えようのない言葉づかいに手加減を加えたのは,これが最初ではありませんでした。
相当数の兄弟たちはまさにそうした理由のゆえにその宣言の採択を拒否しました。事実,以前の巡回旅行者でキッペルという兄弟は採択を求めるためのその宣言文の提出を断わったので,別の兄弟が代わって提出しました。後日,バルツェライト兄弟は同宣言が満場一致で採決された旨ラザフォード兄弟に伝えたとは言え,正しくはそうは言えませんでした。
大会出席者は疲れて家に帰りましたが,失望させられた人は少なくありませんでした。とは言え,兄弟たちはその「宣言」書を210万部携えて帰宅し,早速それを配布し,政府の責任ある地位に立つ大勢の人々に送りました。ヒトラーに宛てて送られたその宣言書には,一部次のように記された手紙が添付されました。
「ものみの塔協会のブルックリンの会長事務所はこれまでも,また現在もドイツに対してきわめて友好的態度を取っております。1918年にはアメリカの当協会の会長および理事会の七人の理事は合計八十年の懲役刑を課せられましたが,それは同会長の編集する二つの雑誌がアメリカでドイツに対する戦争宣伝に供されることを会長が拒んだためでした」。
その宣言の真意は弱められ,また兄弟たちの多くは同宣言の採択に心から賛同することはできなかったとは言え,それでも政府は憤り,その宣言書を配布した人たちに対する迫害を開始しました。
再び占拠されたマクデブルクの事務所
プロイセンでわざが禁じられてからわずか1日の後,ベルリンで採択された宣言書がドイツの至る所で配布されましたが,それはヒトラーの警察に行動を起こさせる合図となりました。6月27日には警察当局者全員に対して,『あらゆる地方団体や会社を直ちに捜索し,国家に対する敵意を示す資料を一切没収する』よう命ぜられました。翌6月28日,マクデブルクの事務所の建物は30人のヒトラー突撃隊員により占領され,彼らは印刷工場を閉鎖し,建物の屋上にかぎ十字の旗を掲げました。警察当局者側の出した公式の制令によれば,聖書を研究したり,協会の建物や地所に関して祈ったりすることさえ禁じられました。6月29日にはこの処置がラジオを通じてドイツ全土に知らされました。
スイスの支部の監督ハルベク兄弟が文書の焼却処分を阻止しようとして精力的な努力を払ったにもかかわらず,8月21,23そして24日にわたり合計6万5,189キロもの重量の書籍や聖書や写真類が協会の工場から運び出され,25台のトラックで運搬され,マクデブルクのはずれで公に焼却処分に付されました。それら文書類の印刷費はおよそ9万2,719.50マルクにも達しました。それに加えて,各地の会衆でもおびただしい数の出版物が押収され,焼却その他の方法で処分されました。例えば,ケルンの会衆では少なくとも3万マルク相当の出版物が焼却処分に付されました。1934年6月1日号の「黄金時代」誌は,処分された物財(家具,文書その他)の価格は恐らく総額200万ないし300万マルクに上るであろうと報じました。
もしも,文書類の大半を船その他の方法でマクデブルクから運び出し,他の適当な安全な場所に貯蔵しなかったなら,損害はそれよりもなおいっそう大きくなっていたことでしょう。こうして,相当の量の文書類を何年もの間,秘密警察の目から隠すことができました。それらの文書の多くはその後何年かの間,地下活動による宣べ伝えるわざに際して利用されました。
次いで,アメリカ政府の介入により同年の10月,協会の建物は返還されました。1933年10月7日付の差押え解除書類はこう述べています。『協会の建物および地所は差押えを解除され,完全に返還され,自由に使用できるようになったが,文書を印刷したり,集会を開いたりするなどの活動をそこで行なうことは依然として一切禁じられていた』。
『世との友好関係』
キリスト教世界の僧職者たちは,エホバの証人を迫害するヒトラーと彼の努力を支持する態度を公に示すのを恥ずかしくは思いませんでした。1933年4月21日付,オシャツェル・ゲマインニュツィゲ誌が報じたように,ルーテル派の牧師オットーは4月20日,ヒトラーの誕生日を祝ってラジオを通じて行なった演説の中で次のように述べました。
「ザクセン州のドイツ・ルーテル教会は,この新たな情勢に関して合意に達したことを自覚しており,わが国民の政治指導者たちときわめて親密な関係を維持して協力しており,イエス・キリストの昔の福音の威力を全国民のために役立たせるよう今一度努力いたします。このような協力の最初の成果として,ザクセン州における熱心な聖書研究者たちの国際協会とその下部組織の活動が本日禁止されたことをお知らせできます。そうです,これは神の導きによってもたらされた何という転機でしょう。今日までのところ,神は私たちとともにいてくださいました」。
地下活動の始まり
ナチ党が政権を取った最初の年には地下活動による証言のわざは実際のところ組織されぬまま行なわれ,小グループによる集会がどこでも行なわれたという訳ではありませんでしたが,それでもゲシュタポは新たな理由を見つけて兄弟たちを逮捕しました。
最初に兄弟たちが逮捕され,家宅捜索が行なわれて間もなく,物事を客観的に考えた人たちは,そうした処置はいっそう激しい迫害を展開するほんの始まりにすぎないことに気づきました。こうした問題を交渉で解決しようとするのは全く無意味なことを承知していました。取り得る唯一の正しい道は,真理のために戦うことでした。
しかし,相当数の人々は躊躇し,エホバは必ず何らかの方法を講じてご自分の民にそうした迫害を被らせないようにしてくださるに違いないのだから,時機を待つのが最善の策だと考えました。そのグループの人々がぐずぐずして時間を浪費し,何らかの処置を自分たちで講じて事態を悪化させないようにしようと気をもみながらいろいろ試みている一方で,他の伝道者たちは意を決してわざを続行しました。勇敢な兄弟たちは間もなく自分たちの家で小グループに分かれて集会を開き始めました。もっとも,そのために,やがては逮捕され,厳しい迫害を受けるようになることは承知の上でした。
幾つかの場所では,兄弟たちは近隣の国々から常時ひそかに運び込まれてくる数冊の「ものみの塔」誌を謄写版で印刷し始めました。その取決めを最初に設けたのは,ケムニッツ出身のカール・クライスです。彼は原紙を切り終わると,それをシュヴァルツェンベルクのボシャン兄弟の所に持って行き,二人で謄写版を使って印刷しました。当時この面で特に活躍した人たちの中にはヒルデガルト・ヒーゲルやイルゼ・ウンテルデルフェルがいます。それらの人たちは,わざが禁止されるや否や,神から与えられた自分たちの使命の遂行を何ものによっても妨げられるままにはすまいと決心しました。ウンテルデルフェル姉妹はモーターバイクを買って,ケムニッツとオルベルンハウの間を往復しては,謄写版刷りの「ものみの塔」誌を兄弟たちのもとに運びました。近くにいる人たちの所へは自転車で訪ねて,あまり人目を引かないようにしました。
ヨハン・ケルブル兄弟は謄写版刷りの「ものみの塔」誌500部をミュンヘンで作る取決めを設け,次いでそれらの雑誌を兄弟たちの間で,またババリア森の広範な地域の兄弟たちの間にも配りました。
ハンブルクではニーデルスベルク兄弟が早速その面で率先して事を運びました。彼は多発性硬化症にかかる以前の何年もの間巡回旅行者として奉仕し,そうした障害があったにもかかわらず,できるかぎりの事を行ないました。さて,この試練の時期にさいして,兄弟たちは彼を訪ねては喜びを得ました。というのは,訪問すると必ず信仰を強められる結果になったからです。ほどなくして,兄弟たちに対する愛に動かされた彼は,兄弟たちが霊的な食物を再び確実に定期的に受け取れるような処置を講じました。彼は自宅で「ものみの塔」誌の謄写版刷りの製作を始めたのです。彼は原紙の切り方や謄写版の操作方法をヘルムト・ブレンバハに教え,次いで自分がいなくとも仕事をやれるようにし,今度はシュレスウィヒ・ホルシュタイン州西海岸に旅行し,その地方の諸会衆を訪問して兄弟たちを励まし,「ものみの塔」誌を彼らに届ける手はずを整えて来るという計画を他の兄弟たちに話しました。そして,どうすれば雑誌を送れるかについてもう一度兄弟たちと慎重に話し合い,また彼の通信文から,雑誌を各会衆に何冊送るかを判読する暗号を兄弟たちと一緒になって工夫しました。
1934年1月6日,ニーデルスベルク兄弟は病身を押して家を後にしました。杖にすがって力をふりしぼってやっと歩ける状態でしたが,エホバにすべてを委ねて出かけました。幾つかの会衆を訪問した後,同兄弟からの最初の暗号電報がハンブルクに届き,謄写印刷による「ものみの塔」の写しが送られ始めました。彼がメルドルフの近くに着いたときのことですが,そのほんの少し前に同地方でよく知られていたある兄弟が亡くなりました。そして,近隣の諸会衆から多数の兄弟たちがその葬式に出席することになったので,ニーデルスベルク兄弟は葬式の話をするよう依頼されました。彼はその機会を利用して,何か月もの間全然集会に出席できなかった同席の兄弟たちを強める目的で強力な話を行ないました。予想どおり,たいへん多くの人々が出席し,彼らは聞いた事柄により大いに励まされて,それぞれ割り当てられている区域に帰りました。
もち論,兄弟たち以外の人々も出席していましたし,ゲシュタポの将校たちさえ列席していました。ニーデルスベルク兄弟が話を終えた後,それら将校たちは同兄弟の住所氏名を求めましたが,彼を逮捕しようとはしませんでした。明らかに,事情が事情だけに,あえて逮捕しようとはしなかったのです。それで,彼はその旅行を続けることができましたが,それは同兄弟にとっていよいよ困難なものになってゆきました。そして,ヘンステットのトーデ兄弟のところに着いてすぐ,突然激しい頭痛に襲われ,その後まもなく脳いっ血で亡くなりました。こうして,彼は最後の力を投じて,精神的励ましを与える霊的な食物が兄弟たちに供給されるよう取り計らうことに尽くしたのです。その二週間後,ゲシュタポは同兄弟を逮捕するためハンブルク市アルトナにある彼の自宅に現われました。
ドイツではこうして「ものみの塔」誌が謄写版刷りで作られたほかに,同誌はスイス,フランス,チェコスロバキア,そうです,ポーランドからさえドイツに送り込まれ,しばしば大きさを変えたりして,さまざまの形で現われました。最初,「ものみの塔」誌の多くの記事は,「ヨナダブ」という表題を付して,スイスのチューリヒから送り込まれました。ゲシュタポがこの方法に気づいた後,ドイツ国内の郵便局すべてに対して,その表題のある郵便物はすべて没収し,その雑誌の受取り人に対しては適当な処置を取るよう通達されました。その結果,多くの場合,受取り人は逮捕されました。
その後,「ものみの塔」誌の表題や包装方法は事実上毎号変えられました。たいていの場合,「ものみの塔」誌の記事の主題が用いられ,例えば,「三つの宴」「オバデヤ」「戦士」「時」「神殿の歌い手」その他の表題が普通1回だけ出ました。それでも,そうした雑誌の幾冊かはゲシュタポの手に落ち,その都度ゲシュタポはその特定の雑誌が発禁処分に付されたことを伝える回状をドイツ中のあらゆる警察署に送りました。しかし,たいていの場合,その情報は手おくれになりました。なぜなら,その時までには,外観も表題も全く異なった別の「ものみの塔」の記事が既に現われていたからです。それで,ゲシュタポは激しい憤りを抱きながらも,戦術の点ではエホバの証人のほうが一手先んじていることを認めざるを得ませんでした。
「黄金時代」誌についても同じことが言えました。しばらくの間,同誌は発禁処分に付された雑誌のリストには載せられませんでしたが,後日,正式に発行を禁止されてからは,普通外国の兄弟たちから,それも特にスイスから個人的に送られました。それらの雑誌を郵送する際にはいつも,必ず宛名は手で書き,また毎回別の受取り人に宛てて送るようにしました。
ゲシュタポはこうした文書類の供給源を切り断とうとする試みに失敗すればするほど,兄弟たちを取り扱う彼らの方法は残忍さを加えるようになりました。ゲシュタポはたいてい何らの理由もなく兄弟たちの家を捜査し,その後兄弟たちを逮捕しました。警察の本部に連行された兄弟たちは,何らかの罪を強制的に認めさせようとする残忍な仕打ちを受けました。
「自由」選挙
一般の人々を脅すために,それも特にエホバの証人を目標にして証人たちに強制的に妥協させようとして行使された武器は,いわゆる「自由」選挙なるものでした。強制投票を拒んだ人たちは,「ユダヤ人」「祖国に対する裏切者」また「ならず者」として告発されました。
オシャツ(ザクセン州)出身のマクス・シューベルトは選挙管理人たちの訪問を5回受けました。彼らは選挙当日,同兄弟を投票所に連れて来たかったのです。同兄弟の妻も,同様の意図を持つ婦人たちの訪問を受けました。しかし,シューベルト兄弟はそのたびに,自分はエホバの証人であって,エホバを支持しているので,それで十分であり,さらにだれか他の人のために投票する必要はないことを訪問者に告げました。
彼はそのために翌日ひどい目に遭いました。同兄弟は駅の改札係だったので,いつも人々と接していましたが,その日にかぎって人々は彼に対して決まって,「ヒトラー万歳」というあいさつを行ないました。同兄弟は,「こんにちわ」とか,その他同様のあいさつを返しましたが,何か「不穏な空気」が流れているのを感じたので,昼食のさいその事について妻と話し合い,万一の事態に備えるよう妻に告げました。その日の午後,勤務を終えた後,5時ごろ,警官に逮捕され,国家社会党の地方所長の家に連行されました。その家の戸口には二頭立ての小型の馬車が止まっていました。すると,シューベルト兄弟は無理やりその馬車に乗せられ,手に手に燃えるたいまつを持って乗っていた数人の突撃隊員の中に立たされました。そして,前に立った一隊員は角笛を持ち,後ろには太鼓を持った隊員が立ち,二人が交互に警報を発したので,人々はみな出て来てその馬車が進むのを眺めました。馬車に乗っている突撃隊員たちのうちの二人は,「私は投票しなかったので,ならず者で,祖国に対する裏切者です」と書いた大きな看板を掲げました。ほどなくして,馬車の後ろについて来た人々は一群となって,その看板に書かれた言葉を繰り返し唱え,その言葉を言い終わるたびに,「彼はどこに行くべき人だろうか」と問うと,群衆の中の子供たちは一斉に,「収容所行きだ!」と叫びました。シューベルト兄弟はこうして人口約1万5,000人のその町の中で2時間半もの間引き回されました。翌日,ルクセンブルクのラジオ放送はこの事件について放送しました。
兄弟たちの中には行政事務に携わっている人たちもいました。ところが,それらの兄弟たちは「ドイツ式の敬礼」をしたり,選挙や政治的示威運動に参加したりしなかったので,1934年の夏以来政府は聖書研究者たちの活動を全国的に禁止する法律を成立させて,彼らを行政事務の仕事から追放できるようにする計画を立てていました。彼らを追放するためには,単なる地方の州の法律ではなく,国の法律によってその活動を禁止することが必要でした。1935年4月1日,そのような法律が制定されました。しかし,一部では個々の官庁が既におのおの独自の権限に基づいて処置を取っていました。
フォルツァイムで市役所の会計官として勤務していたルートウィヒ・スティッケルは1934年3月29日,次のように述べた一通の手紙を市長から受け取りました。「私は,あなたが去る1933年11月12日に行なわれたライヒスタグでの選挙の際に投票を拒否したかどで,あなたの罷免を求める刑事訴訟手続きを開始しました。……」。スティッケル兄弟は長文の手紙をしたためて自分の立場を説明したものの,実際には判決は既に言い渡されており,8月20日付で解雇通告を受けました。
当局者の目標は,エホバの証人を職場から解雇して追放し,その会社を閉鎖し,専門職に携わるのを禁じて,生計を立てる手段を証人たちから剥奪することでした。
マインツ出身のゲルトゥルド・フランケもそのことに気づきました。それは彼女が,1936年に夫の五回目の逮捕に遭遇し,警察は二度と再び彼を釈放する考えがないことを秘密警察から告げられた後のことでした。フランケ姉妹はおよそ5か月間投獄されましたが,釈放された後,仕事を捜すため職業紹介所に行きました。しかし,投獄されたことのある自分をだれも雇ってはくれないことを知りました。そして,最後にあるセメント会社が仕方なく彼女を受け入れました。2週間後,自分が同意した訳でもないのにドイツ労働戦線に加入させられ,その会費が給料支払小切手から差し引かれているのを知り二度びっくりさせられました。その組織の政治的な目的を知った彼女は,直ちに事務所に行って,自分が何ら認めていない組織のために自分の給料からお金が差し引かれたことに対して苦情を述べ,事態を正しく処理してもらいたいと要請しました。その結果,彼女は即刻解雇されてしまいました。そして,再び職業紹介所に行ったところ,就職の世話はおろか,失業手当ての支給も一切行なえないと言われました。労働戦線に加入するのを拒んだからには,どのようにして暮らして行くかは本人の問題だったのです。
試練に直面した年若い人々
エホバの証人の子供たちが教育を受ける機会を奪われた例はおびただしい数にのぼりました。ヘルムト・クネラーが自ら述べた経験の一部をそのままここに引用します。
「私の両親は,ドイツにおけるエホバの証人の活動が禁じられた矢先,エホバに対する献身の象徴としてバプテスマを受けました! 私について言えば,その禁令が発表された時,つまり私が13歳のおり,決定の時が来ました。学校では国旗敬礼に関連してしばしば決定を迫られ,その都度私はエホバに対する忠実と献身の立場を支持する決定をしました。そうした事情のもとでは高等教育を受けるために進学することなど考えられなかったので,シュツットガルトで実習生として商業を勉強し始めました。そのために毎週2回商業学校に通いましたが,その学校では毎日国旗掲揚式が行なわれていました。私はクラス中で一番背が高かったものですから,国旗敬礼を拒んだ私は,もち論不都合なことに人々の注意を引きました。
「また,先生が教室に入ると,生徒は起立して右手を上げて,『ヒトラー万歳』と言ってあいさつをしなければなりませんでしたが,私はそうしませんでした。当然のこととして先生は私にばかり注目し,しばしば次のようなやり取りをする場合が生じました。『クネラー,ここに来い! お前はどうして,「ヒトラー万歳」と言ってあいさつをしないのか』。『先生,私の良心が許さないのです』。『なんだと? このけがらわしい奴め! おれから離れろ。臭い奴だ,もっとずっと離れろ。いやらしい奴だ! 裏切者め!』などと言われました。その後,私は別のクラスに移されました。父が校長に会って話したところ,次のような独特の説明を聞かされました。『貴下が頼っている神は,果たして一片のパンでも与えてくれますかな。アドルフ・ヒトラーは与えることができ,またそうし得ることを実証していますぞ』。つまり,国民はヒトラーに敬意を払い,『ヒトラー万歳』と言って彼にあいさつしなければならないという訳でした」。
実習生としての勤務を終えた後,第二次世界大戦が勃発し,クネラー兄弟は兵役に召集されました。彼はその時のことについて次のように伝えています。
「1940年3月17日,私は軍隊に徴兵されました。どんなことが起きるかを私は長い間考慮に入れていました。そして,徴兵センターに出頭はしても,宣誓を拒否すれば,私は軍事裁判に付されて銃殺されるだろうと考えました。実際,私は強制収容所に送られるよりも銃殺されるほうがましだと思いました! ところが,そういうことにはなりませんでした。私は軍法会議で裁かれることなく拘禁され,パンと水の配給を受けました。5日後,ゲシュタポが私のところにやって来て,私はある所に連れて行かれ,数時間にわたる審問を受け,そこでさまざまの脅迫を受けました。その夜,拘置所に戻された私は非常に幸福でした。もはや恐れの気持ちはみじんもなく,あるのはただ喜びと,どんな前途が開けるのか,またエホバはどのようにしてもう一度私を助けてくださるのだろうかという期待の気持ちだけでした。3週間後,ゲシュタポの上層官憲が私に令状を読んで聞かせましたが,それによれば,私が国家に対して敵意のある態度を取っており,また活動を禁止された国際聖書研究者のために活動する恐れがあるゆえに,私を保護拘留処分にするというものでした。つまり,『強制収容所』に入れられることを意味しました。ですから,私が期待していたのとは全く逆の結果になりました。こうして,6月1日,私は他の囚人たちと一緒にダハウ強制収容所に投げ込まれました」。
クネラー兄弟はダハウだけでなくザクセンハウゼンでの生活も経験し,後には他の多くの囚人たちと一緒にイギリス海峡のチャンネル諸島のアルデルニーに移されました。その後,劇的な旅行をしてオーストリアのシュタイルにたどり着き,そこで一緒にいた人々とともに遂に1945年5月5日解放されました。非常な迫害の対象とされたクネラー兄弟はその幾年もの間エホバへの献身を水のバプテスマで象徴する機会についに恵まれなかった事実からも,それがどんなに激しい動乱の時であったかがわかります。もち論,そうした非常に困難な状況のもとで何年間も忠実を保ったことは,彼がエホバに献身していたことを証明するものでした。彼とともに生き残って家に戻った少数のグループの中には,ほかにも9人の兄弟たちがいましたが,それらの人たちも皆,強制収容所で4年から8年もの間忠実に忍耐し,今やパッサウでバプテスマを受ける機会に恵まれて感謝しました。
親から引き離された子供たち
ストレンゲ兄弟姉妹はその動乱の時期の幾年かの間,エホバの証人がその合法的な権利の享受をいかに拘束されたかを経験しました。ストレンゲ兄弟が逮捕され,3年の懲役刑に処せられる一方,子供たちとともに後に残されたストレンゲ姉妹は,あらんかぎりの力をふりしぼって物事に対処しなければならない事態に陥りました。姉妹はこう伝えています。
「息子は学校で愛国主義的な歌や詩を暗誦させられることになりましたが,それは宗教上の信念に反するものでしたから,息子は暗誦するのを拒みました。すると,担任の先生は二人の少年に命じて,息子を囚人同様にして,ハンネベルクさんという校長先生のもとに連れて行かせました。校長先生は息子の指を『しりに差し込めなくなる』ほど青黒くふくれ上がって血だらけになるまで打たせてやると言って脅しました。そして,続けざまに息子を脅迫し,父親には二度と会えなくなるぞ,と言って脅しました。終わりに校長先生は,十歳のこの少年に,兵役を拒否するかどうかについて尋ねました。グンターは聖書のことばを引き合いに出して,『剣を取る者は剣で滅びます』と言いました。そこで,校長先生は『普通の仕方で罰する』ようグンターの担任の先生に命じました。その後,校長先生は,5分後に警察に連絡し,警官を送ってグンターを家で逮捕させ,感化院に入れさせてやると言って息子を帰宅させました。息子が家に帰るや否や警察の大型車が家の前に現われ,数人の警官が荒々しい態度で入口の戸を開けるよう要求しましたが,私はドアを開けませんでした。しばらくすると,警官は退いて隣の家に行き,私に対する罪証となるような事柄を述べるよう,その家の主婦に要求しました。彼女は罪証となるような事柄を何も述べられませんでしたが,あまりにも長時間圧力を加えられたため,とうとう最後に,私たちが毎朝歌をうたい,祈りをささげているのを聞いてきたことを認めました。すると,警官は立ち去りました。
「翌日,午前10時30分ごろ,警官はまたやって来ました。私はドアを開けようとはしなかったので,ゲシュタポの将校は,『聖書研究者の畜生め! 戸を開けろ!』とどなり散らしたかと思うと,去って行き,近くの錠前屋を連れて来て,戸を壊して開けさせました。
「ゲシュタポの一人は連発拳銃を私の胸に突きつけて,『子供たちを渡せ』と叫びました。しかし私は子供たちをしっかりと抱き寄せました。子供たちは身の安全を求めて私にしがみつきました。そして,無理やりに引き離されそうになるのを恐れるあまり,私たちは声を限りに助けを叫び求めました。
「窓は開いていたので,家の前に集まっていた大勢の人々は,私が死にもの狂いになって,『私は非常に苦しい思いをして生んだわが子をあなたがたには決して渡せません。どうしても奪いたいのなら,まず最初に私をなぐり殺しなさい』と絶叫するのを聞きました。そのあと,興奮がこうじて私は気絶しました。正気を取り戻した後,私は3時間にわたってゲシュタポによる尋問を受けました。ゲシュタポは私の夫に対する罪証を私から得ようとしました。しかし,私が発作を起こして気絶したため,その尋問は数回にわたって中断しました。その間,家の前に集まった群衆は増える一方で,しかも人々の騒ぐ声はますます大きくなり,私の家で起きている事柄に対する反感が表わされるようになったので,遂にゲシュタポは所期の目的を果たせぬまま,またもや退散して行きました。ところが今度は,ひそかに子供を奪い去る方法を企てました。何日かの後,明らかにその計画を遂行する一環として,私はエルビングの特別法廷に出頭するよう求められました。その同じ日に私の子供たちはその後見人として指名された人のところに行かねばならなかったのです。私は最悪の事態のことを考えて,その前日ふたりの子供を連れて問題の後見人を訪ねてみました。その後見人の話によれば,私の十五歳の娘は勤労奉仕隊に入れられ,十歳になるグンターは国家社会主義の線に沿って教育を施すある家庭に預けられることになっていました。そして,もし二人がそれを拒むなら,両人とも感化院に入れられるというのです。興奮した私はこう尋ねました。『いったい私たちは既にロシアで生活しているのでしょうか,それともやはりドイツにいるのでしょうか』。すると,彼は答えました。『奥さん,あなたの今の言葉を私は聞かなかったことにしておきます。私も教会員の家族の者で,私の父は牧師なのです!』。せめて娘を見習生としてどこか別の所に預けてもらいたいと願ったところ,その弁護士は次のように鋭く言い返しました。『私はあなたの件で問題を起こしたくありません。聖書研究者の子供一人を扱うよりもむしろ私は,ほかの子供らを20人扱うほうがましです』。
「土曜日がやって来ました。それはエホバとその約束に対する私の信仰を弁明するためにエルビングの裁判所に行く予定の日でした。私は自らを強め,またそうすることによって,もう一度自分の心中を打ち明けることができるようにと願い,出かける前に刑務所にいる夫を訪ねました。夫が連れて来られた時,私はその両腕の中にくずおれて,むせび泣きました。それまでの何日間かの悲しみや恐ろしいできごとに関する記憶がまたもや私の内にどっと甦ってきたのです。夫は懲役3年の刑に処され,子供たちは私から引き離され,その時点で私たちは互いに分かれ分かれにされていたのです。私は気力をくじかれ,忍耐の限界に達していました。しかし,さまざまの苦しみに遭遇しながら,なおかつ神に対する破れることのない忠実を保ち,あらゆるものを失ったにもかかわらず,なされた悪事に関して神を非難しなかったヨブの経験について語ってくれた夫の声は,まるでみ使いの声のようでした。また夫は,たび重なる審問や裁判のもたらした厳しい試練に遭った後,やはりエホバからどんなに豊かに祝福されたかを話してくれました。夫の話を聞いて私は新たな力を与えられました。今や私は頭を上げて聴聞会に赴き,私の子供たちがエホバとその王国に対し,また自分たちの信仰に対して先生や他の高官の面前でいかに熱心に証言したかに関する説明を誇らしい気持ちを抱いて聞きました。そして,『ドイツの法廷』は判決を言い渡しました。国家社会主義の考えに従って子供を養育せず,またエホバを賛美する歌を子供たちと一緒に歌ったという理由で,私は懲役8か月の刑に服さねばならなくなりました」。
同級生からも排斥される
カールスルーエ出身の十二歳のヴィリ・ザイツ兄弟は次のような異なった経験をしました。彼はこう伝えています。
「これまで耐え忍ばねばならなかった事柄は言葉ではとても表わし尽くせません。学校では私は仲間の生徒たちからたたかれてきました。ハイキングが行なわれるときは,同行することがたとえ許されても,私は独りで歩かねばなりません。また,私にもやはり学校の友だちがいますが,そのような友だちに話しかけてもならないのです。言いかえれば,『私は汚い犬のように嫌われ,あざけられているのです』。神の王国が間もなく到来するということが私の唯一の慰めとなっています……」。
そして,1937年1月22日,ヴィリは,「ドイツ式の敬礼をしたり,愛国主義的な歌をうたったり,また学校での祝賀行事に参加したりすることを拒んだかどで」放校されました。
祈りをささげることも歌うことも罪とされた
ポキング出身のマクス・ルエフもまた,エホバの証人の誠実さを強制的にくじかせようとしていかに組織的な企てが行なわれたかを知りました。彼は生計の手段を完全に奪われたのです。彼は建物を改築するため,それを抵当にして融資を受けましたが,その抵当が無効にされてしまいました。しかし資金を直ちに返済できなかったため,1934年の5月,その建物と地所はすべて競売に付されてしまいました。
ルエフ兄弟は次のように述べています。「迫害はそれで終わったのではありませんでした。それどころか逆に,政治指導部にそそのかされた人々のために私は訴えられ,法廷に引き出されました。当局者側には私を責め得る理由は何一つなかったため,ミュンヘンの特別法廷は私に対して,自宅で禁じられた祈りをささげ,禁じられた歌をうたったかどで6か月の懲役刑を言い渡しました。そして私は1936年12月31日から服役し始めました。そのころ三番目の子供を身ごもっていた妻は,12マルクの家賃以外,自分と9歳と10歳の二人の子供の生活を支えるものを何一つ与えられませんでした。その後,妻の出産の時が来たので,妻の身の回りの世話をするため1,2週間仮出所させてもらうよう私たちはそれぞれ申請しました。しかし,出産予定日の1週間ほど前に,その申請は『不適当』として退けられました。
「3月27日,私は妻が亡くなったとの知らせと,必要な用事を処理するため3日間仮出所できるとの知らせを受けました。私は直ちに,妻が子供を産んだ後に運ばれた病院に行きました。もっとも,妻はその病院に運び込まれる前に亡くなりました。私がエホバの証人であることに依然気づかなかった医師と一人の看護婦は,『奥さんは元気で,どこも悪いところはなかったのだから,医師と助産婦を訴えるべきだ』と私に強く勧めましたが,私はただ,『それでは,私はたくさんのことをしなければならないのですね』と力なく答えました。家に着いてみると,寝室には死んだ赤ん坊が横たわっていましたし,また容易に察していただけると思いますが,みじめな姿をした9歳と10歳になる二人のわが子を見つけました。私は恐らく二度と再び会えないかもしれないその二人のわが子を,だれにも世話されないままに放置しておかねばならないのでしょうか」。
ルエフ兄弟のしゅうと親は同兄弟の妻の遺体をポキングに運ぶよう求めましたが,墓地の傍での告別の話は肉親以外の者には行なわせませんでした。そのようなわけで,ルエフ兄弟はエホバによって力づけられながら,その妻のための葬式の話を自ら行ないました。
しかし,今やルエフ兄弟にとって,二人のわが子を,それもだれからも世話されぬまま放置しなければならないということは,考えただけでも耐えがたい事柄でした。そこで彼は仮出所の猶予期限までになお残されているわずか数時間を用いて一人の子供をしゅうと親のもとに連れて行きました。もっとも,そのしゅうと親はエホバの証人ではありませんでした。そして,もう一人の子供をスイス国境の近くに住んでいる兄弟たちの所に連れて行き,最後に劇的脱出を行なって国境を越え,その子供とともにスイスに亡命しました。
誠実さをくじかせるため,まず最初に処罰し,次いで「友好的な態度」を示す
親から引き離された子供たちの中には,一時信仰の面で弱くなり,ナチ主義運動の指導者たちの思惑どおり,実際にナチ主義の立場に陥る危険な状態に立たされた例もあります。例えば,1943年に12歳のとき,父親と一緒にバプテスマを受けたマイセン出身のホルスト・ヘンシェルの場合を考えてみましょう。彼はこう書いています。
「私の子供の時代は動揺に満ちたものでした。私はヒトラー青年隊から退いたので ― やっとのことでそうすることだけはしたので ― 幸福でしたし,しっかりとした立場を取っていました。私は学校で毎日要求されたヒトラー万歳の敬礼を拒んだとき,よく打たれましたが,両親によって強められていましたので,自分は忠実を保っているのだということを知って大きな喜びを得ました。しかし,時には体罰を受けたため,あるいはそうした事態に対する恐れのために,『ヒトラー万歳』と唱えた場合もありました。そのような時には,よく涙にむせびながら家に帰り,そして親と一緒にエホバに祈り,次に敵の攻撃を受けた時には再び勇敢に抵抗したのを覚えています。次いで,また同じ事が起きました。
「ある日,ゲシュタポがやって来て私たちの家を調べ,肩幅の広いゲシュタポの一人が,『お前もエホバの証人か』と私の母に尋ねました。母はドアに背をもたれさせながら,遅かれ早かれ逮捕されることを承知の上で,『そうです』ときっぱり答えましたが,その時の母の姿を私は,まるで今日起きたできごとのように思い浮かべることができます。そして,母はその2週間後に逮捕されました。
「警官が母の逮捕令状を持ってやって来たのは,母がその翌日満1歳になろうとしていた私の幼い妹を忙しく世話していたときのことでした。……当時,私の父は家にいましたので,私たちは家で父の世話を受けました。……2週間後,父もまた逮捕されました。私は台所のストーブの前にうずくまって火を見つめている父の姿を今でも思い出します。学校に行く前に私はありったけの力をこめて父に抱きつきました。しかし,父は振り返って私を見ることもなく去りました。私は父が耐えたつらい戦いのことをしばしば思いめぐらし,神が必要な力を父に与えてこのような良い模範を私のために残させてくださったことを私は今もエホバに感謝しています。さて,帰宅した私は,自分が独りぽっちになったのを知りました。父は兵役につくよう命令されていたので,町の徴兵委員会に出頭し,兵役を拒否する旨説明したところ,即刻逮捕されました。私の祖父母や他の親類の人たち ― すべてエホバの証人の反対者で,中にはナチ党の党員もいた ― は,私と1歳になる私の幼い妹に対する保護監督権を取得する処置を構じたので,私たちは少年院あるいは感化院には入れられずに済みました。当時,既に21歳になっていた私の二番目の姉は,父が逮捕されてから丁度2週間目に逮捕され,ジフテリアとしょう紅熱にかかり,3週間後に亡くなりました。
「幼い妹と私は今や祖父母と一緒に暮らすことになりました。私は幼い妹のベッドの前でひざまずいて祈ったのを覚えています。聖書を読むことは許されませんでしたが,近所の婦人からひそかに1冊借りて読みました。
「ある時,真理に入っていない祖父が,刑務所にいる私の父を訪ねました。しかし,たいへん憤って,恐ろしいけんまくで帰宅しました。祖父は言いました,『この犯罪者の,ろくでなしめ! どうして自分の子供を捨てることができるんだ』。私の父は手足を鎖で縛られたまま祖父や他の人人の前に引き出され,子供のためにも兵役に服すようそれらの人々から説き勧められました。しかし,父は忠実を保ち,その勧めを断固として退けたため,ある将校は私の祖父にこう言いました。『この男はたとえ子供が十人いたところで,別の行動は取るまい』。その言葉は祖父の耳には恐るべきものでしたが,私にとっては,父が忠実を保っていること,またエホバが父を助けておられることを示す証拠でした。
「しばらく経った後,私は父から一通の手紙を受け取りました。それが父の最後の手紙でした。父は母がどこの刑務所に入っているのかを知らなかったので,その手紙を私にあててしたためたのです。私は自分の屋根裏部屋に行って,次のような冒頭の言葉を読みました。『この手紙を受け取ったなら,歓喜しなさい。なぜなら,私は最後まで忍耐したからです。私は2時間以内に処刑されることになりました……』。私は問題の深さを今日ほどに把握してはいませんでしたが,悲しくなり,泣きました。
「こうした決定的なできごとすべてに直面した時,私は比較的にしっかりした立場を保ちました。疑いもなくエホバは,問題を解決するのに必要な力を私に与えてくださいました。しかし,サタンは人を誘惑してわなに落とし入れるさまざまな手だてを持っており,私はほどなくしてそのことを経験するようになりました。私の親類の一人が私の何人かの先生に近づき,私のことを辛抱強く扱ってもらいたいとお願いしました。すると突然,先生は皆,私に対してそれはそれは親切になりました。私が『ヒトラー万歳』の敬礼をしない場合でさえ,先生は私を罰しませんでしたし,また特に親類の人たちは私たちに友好的で親切に接するようになりました。次いで,そのことが起きたのです。
「私は,それも自ら進んで再びヒトラー青年隊に参加しました。そうするようだれからも強制された訳ではなかったのに,第二次世界大戦の終わるわずか数か月前にそうしたのです。サタンは厳しい手段で成し遂げられなかったことを,こうかつな甘言を弄して仕遂げることができたのです。ですから,今日私は,外部からの激しい迫害は私たちの忠節を試みるものとはなりますが,他の方面からもたらされるサタンの卑劣な攻撃は残忍な攻撃に劣らず危険なものであると言うことができます。刑務所にいる間,母がどんなに難しい試みを切り抜けなければならなかったかということが今になってよくわかります。私は父が死ぬまで忠実を保ち,献身を全うしたことを裏づける父の最後の手紙を受け取りましたが,それは私を非常に強めるものとなりました。一方,母には,血に染まった箇所が依然としてはっきり見える父の衣類やスーツが送り届けられましたが,それらの品物は父が苦しんで死んだことを無言のうちに証するものでした。後日,母から聞いたところによれば,それらの事柄はすべて母にとって耐え忍ぶのに非常に困難なものでしたが,その時期の母にとって一番困難な試練をもたらしたのは,私がエホバに仕えるのをやめたことを示す私の手紙だったとのことです。
「戦争はたちまち終わり,母は家に帰って来て,献身の道に戻るよう私を助けてくれました。母はエホバへの愛とエホバへの献身の道に従って私を養育してくれました。過去を振り返って見ると,私は今日の仲間の年若い兄弟たちの多くが持っているのと同様の多くの問題をかかえていたことがわかります。しかし,母は献身の道に留まるよう私を助けるための戦いを決してやめませんでした。エホバの過分の親切のお蔭で私は,私の両親が投獄されたのと同じように今度は東ドイツの刑務所で過ごした6年4か月を含め,今までに22年間全時間奉仕を行なう特権にあずかりました。
「私はこれまでエホバから本当に豊かに祝福されましたが,それに値するほどのどんな事を行なっただろうかと,しばしば自問してきました。私は今,これは私の父や母の祈りのお蔭であると信じています。クリスチャンの行動の点で私の両親は自らの行状によって示し得る最善の模範を残してくれました」。
子供が親から取られた例は860件ほど知られていますが,正確な件数はこれよりもかなり大きいものと考えられています。こうした非人道的な仕打ちを考えれば,当局者がやがて,それらの親の一人を単に「遺伝的な病気」の持ち主であると述べ,ただそれだけの理由で子供を生めないようにするまでに極端な処置を講ずるようになったのも不思議なことではありません。その種の病気があれば,当時の法律の規定のもとでは当人に断種手術を施せました。
聴問の方法
残忍な策略の一つは,配偶者や他の家族の成員にその愛する人たちが尋問に際して受けなければならない拷問がどんなものかを味わわせることでした。エミル・ヴィルデはそれがいかに残忍な方法かを述べていますが,彼は自分の妻が文字どおり死に至る拷問を受けたときの物音を独房にいて強制的に聞かされました。こう伝えています。
「1937年9月15日の早朝の5時ごろでしたが,ゲシュタポの二人の将校がやって来て,まず最初子供たちに色々尋ねた後,私たちの家を調べました。その後,妻と私は警察本部に連行され,そして直ちに監房に入れられ,錠をおろされてしまいました。私たちの最初の聴問は10日ほどの後に行なわれました。そして,私の妻もその同じ日に最初の聴問を受ける予定だと聞かされましたが,そのとおりのことが起こりました。
「正午から1時ごろのことでしたが,私はある女性が声を張り上げて泣き叫ぶのを聞き始めました。その女性はたたかれていたのです。その泣き叫ぶ声はだんだん大きくなるにつれて,もっとはっきり聞き取れるほどになったとき,私はそれが私の妻の泣き叫ぶ声であることに気づきました。思わず私はベルを押して,その女性つまり私の妻がいったいどうして打たれているのかと尋ねたところ,私の妻ではなくて別の女性が行儀が悪いために打たれているので,あたりまえのことだと言われました。その日の午後おそく再びその叫び声が起こり始め,あまりに激しくなったため,私は再びベルを押して,妻に加えられている仕打ちをやめるよう訴えましたが,ゲシュタポは,打たれているのは私の妻ではないと否定し続けました。その夜の1時ごろ,私はもはや我慢できなくなり,またもやベルを押したところ,今度は,私はその名前を知りませんでしたが,警察の高官に連絡をする結果になりました。ところが,彼はこう言いました。『もしお前がもう一度ベルを押そうものなら,お前の妻にしているのと同じ事をお前にもしてやるぞ!』 その後,刑務所全体は静寂に包まれました。というのは,その間に私の妻は神経診療所に連れて行かれたからです。10月3日の早朝,ゲシュタポの監視部長クラシンが私の独房にやって来て,私の妻は神経診療所で死んだと私に伝えました。私は彼に面と向かって,私の妻を死なせた責任はゲシュタポが負わねばならないと言ってやりました。そして,妻の葬式の当日,私はゲシュタポを殺人の罪で訴えました。その結果,ゲシュタポは私を名誉棄損のかどで告発しました。
「これは私の最初の審理に加えて,さらに審理が行なわれることを意味しました。その審理が行なわれたとき,特別法廷での聴問中,2人の姉妹が立ち上がって,次のように証言しました。『私たちはヴィルデ夫人が,「残忍なあなた方は,私を打ち殺そうというのですね」と叫ぶのを聞きました』。ところが,裁判官はこう答えました。『しかし,証人たちは現場を見たのではなく,単に叫び声を聞いたに過ぎません。私は被告に1か月の服役刑を言い渡します』。とはいえ,私の妻が死んだ後にその遺体を見た数人の姉妹たちは,妻はのどの回りや顔面を大きなむちで打たれたため顔の形がひどく損われていたことを確証しました。私は妻の葬式に出る許可をもらえませんでした」。
ほかには,兄弟たちに催眠術をかけようとする企みが行なわれた場合もあれば,麻酔剤を混ぜた食物を食べさせられて,何を話すかを制御する力を一時喪失させられた兄弟たちもいます。また,強制的に自白させようとする試みとして,両手と両足をからだの後ろで縛られたまま一晩中放置された人たちもいました。こうした恐ろしい拷問を受けたのですから,中には耐えられない人たちもいたため,ゲシュタポはエホバの証人のわざがどのように組織され,また遂行されているかに関する情報を入手することができました。
親切な警官や雇用者たち
役人たちはいわゆる『総統綱領』なるものに基づく,特にその新しい国家の指導者たちすべての特徴となった『大声で話す,強力な新しい言葉づかい』を用いたものの,時々警察当局のある高官たちは刑務所の内外でエホバの証人を取り扱う際に依然同胞に対して同情の念を抱き得ることを示しましたが,それを見るのは喜びでした。
カルル・ゲーリングは「ドイツ式敬礼」をするのを拒み,また労働戦線組織への加入を拒んだため,メルセブルクの私鉄のロイナ工場から解雇されました。そして,職業紹介所は彼のための仕事を捜すのを拒み,また福祉事務所は一切の扶助料の支払いを拒否しました。しかし,ご自分の民の必要とするものをご存じのエホバは物事を動かされたので,ゲーリング兄弟は間もなくワイセンヘェルスの製紙工場に就職しました。同工場の所長,コルネリウス氏は,職場から解雇された近隣の兄弟たちをみな雇って働かせ,しかも兄弟たちの良心に反するような事を何一つ要求しませんでした。
あとでわかったことですが,そのような雇用者は多くはありませんでしたが,やはりほかにもいました。そのようにして,かなり多くの兄弟たちがゲシュタポの手から救われました。
また,中にはヒトラー政府の用いた暴力的な方法に内心では全然賛成していない判事たちもいました。特に最初のころ,多くの判事は,いかなる政治活動にも一切参加しないというただそれだけの趣旨の,何ら悪意のない書面を兄弟たちに供して署名させました。兄弟たちは無条件でその書面に署名できたので,その書面のお蔭で多くの兄弟たちは自由を奪われずに済みました。
家宅捜査にしても,官憲はその外見とは裏腹に,その全部がエホバの証人を憎んでいる訳ではないことを示す場合がしばしばありました。ポディク兄弟姉妹は家宅捜査を受けたときに,そのことを経験しました。それはふたりが何冊かの「ものみの塔」誌と他の出版物の入った郵便物をオランダに住む肉親の姉妹から受け取った時のことですが,受け取ったばかりでまだ何も読まないうちに,突如玄関のベルが鳴りだしました。
ポディク姉妹は叫びました,「早く,全部食器室に入れて戸を閉めて」。しかし,そうしたのでは注意を引くかもしれないと思い直し,姉妹は最後の一瞬にその扉を開いたままにしておきました。その間にゲシュタポの官憲が突撃隊員を一人伴って家の中に入るなり,「では,さっそくここから始めよう」と言いだしました。それは扉の開いている食器室から捜査を始めるという意味でした。と,ポディク兄弟の幼い息子が突然こう言いました。「食器室なら幾ら捜したって何も見つかりっこないよ」。すると,官憲は笑って答えました。「そうか,それじゃあ,別の部屋に行こう」。その家宅捜査は失敗に終わりました。実際のところ,ポディク兄弟とその家族は,それら官憲が ― 少なくともそのゲシュタポは ― 何も見つけたくはなかったような印象を受けました。また,その突撃隊員は家宅捜査が十分徹底的に行なわれたとは思えなかったので,その捜査を続けたかったようでした。ところが,ゲシュタポはその突撃隊員を叱りつけて,それ以上捜査することを差し止めたのです。そして彼は家を去った後,すぐさま独りで戻って来て,ポディク姉妹にこうささやきました。「ポディクさん,私の言うことを聞きなさい。当局はお子さんたちを連れ去ろうとしています。それはお子さんたちがヒトラー青年隊に入っていないためです。見せかけのためだけでもよいから,お子さんを送り出しなさい」。「こうしてその二人が去った後,私たちはオランダから届いた郵便物を静かに読むことができ,読んで知った多くの新しい事柄や郵便物の中にまたもや入っていた『ものみの塔』誌に対してエホバに感謝しました」と,ポディク兄弟は書いています。
裏をかかれる官憲
もち論,ゲシュタポの官憲が捜査を行なっている際に突然盲目状態にされたり,兄弟たちの電光石火の早わざでしばしば裏をかかれたりした例が数多くありますが,それはエホバの保護やみ使いの助けがあったことをはっきりと示しています。
マルクトレドゥィツ出身のコルネリウス姉妹は次のような経験を述べています。「ある日,もう一人の警官が家を調べるために現われました。私たちは謄写版刷りの『ものみの塔』誌を含め,数冊の印刷物を持っていました。とっさに私は,たまたまテーブルの上にあった,からのコーヒー・ポットにそれらの印刷物を全部突っ込みました。それ以外に隠す方法はなかったからです。しかし,警官があらゆるものを調べ終えてしまえば,それら印刷物を隠した場所が見破られるのは単に時間の問題に過ぎませんでした。すると,丁度その時に私の肉身の妹が何の前触れもなくアパートに入って来ました。私は何ら前置きの言葉も言わずに妹にこう言いました。『ここにあるあなたのコーヒーを持って行ってね』。妹は最初ちょっとけげんそうな顔をしましたが,しかし私の言った言葉の意味を理解し,すぐにそのコーヒー・ポットを取って出て行きました。こうして,それらの文書は難を免れましたが,官憲たちは裏をかかれたことに気づきませんでした」。
コルネリウス兄弟姉妹は5歳になる息子のジーグフリードに関するおもしろい話を述べました。その息子は当時まだ学齢期前だったので,「ドイツ式敬礼」その他同様の問題は何もありませんでした。しかし両親は真理に従ってその息子を育てましたし,親は読み終えると必ず文書類を隠していたので,その子はそれらの文書が非常に大切なものであって,ゲシュタポに見つかるようなことがあってはならないということを知っていました。ある日,二人の官憲が庭を通って,両親のいる所にやって来るのを見つけたその息子は,隠されている文書を見つけるために官憲がやって来たことに直ちに気づき,またそれらの文書を官憲に見つけられないようにする方法をすぐ考え出しました。まだ学齢期前でしたが,学校に通っている兄の鞄を取って,その中のものを全部取り出してからにし,文書類を全部詰め込んで,その鞄を背負って道路に出て行き,官憲が何も捜し出せずに帰って行くまで外で待ちました。その後,家に戻って来て,それらの文書を自分が見つけた元の場所に再び隠しました。
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第2部 ― ドイツ1975 エホバの証人の年鑑
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第2部 ― ドイツ
刑務所で見いだされた「羊」
兄弟たちは刑務所にいる際,あらゆる種類の人々に接したので,当然のことながら,自分たちの希望についてそうした人々にもできるかぎり話しました。仲間の囚人の一人が真理を受け入れたとき,兄弟たちはどんなに喜んだか知れません! ヴィリ・レーンベカーはそうした経験についてこう述べています。彼は他の何人かの囚人と一緒にある部屋に監禁されましたが,そこでは喫煙が許されていました。
「私の寝台は上段でしたが,下段に休んでいた囚人があまりたばこを吸うので,私は息を吸うのもやっとでした。他の囚人が皆寝静まった後,私は人類に対する神の目的についてその囚人に聖書から証言することができました。彼は私の話を注意深く聞いてくれました。その青年は政治活動を活発に行ない,不法な雑誌を配布したかどで監禁されていました。私たちは,もしなお生き長らえて再び自由の身となったなら,お互いに訪ね合うことにしようと約束し合いました。ところが,それとは違った仕方で会うことになりました。1948年のこと,私はある巡回大会で彼と再びめぐり会ったのです。彼はすぐに私を見てそれと知り,喜びにあふれながら私にあいさつし,それからその後のいきさつを話してくれました。彼は刑期を終えて釈放された後,徴兵を受けてソ連国境で軍務に従事し,そのとき,かつて私から聞いた事柄すべてを思いめぐらす機会を得ました。……そして最後に彼は私にこう言いました。『今日,私はあなたの兄弟になりました』。そのとき私がどんなに感動させられ,またどんなに嬉しく思ったかを想像していただけるでしょうか」。
ヘルマン・シュレマーも同様の経験をしました。これも同様に巡回大会でのことでしたが,ある兄弟が近づいて来て彼に尋ねました,「私を覚えておられますか」。シュレマー兄弟は答えました。「お顔は見覚えがありますが,あなたがだれかはわかりません」。すると,その兄弟は,フランクフルト-プロインゲシャイム刑務所で5年間服役していたシュレマー兄弟を扱ったかつての看守であると言って自己紹介をしました。シュレマー兄弟は真理に関する非常に多くの事柄をその看守に話したのです。同兄弟
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