-
宗教関係の費用はどのようにまかなわれているかものみの塔 1971 | 11月15日
-
-
はひとりもいません。―テサロニケ前 2:9。使行 20:34。
エホバの証人の王国会館にはじめてくる人たちは,自分の教会が崇拝の費用をまかなう方法と,エホバの証人のそれとの,この大きなちがいに心を打たれます。ある婦人はこう言ったことがあります。「私の教会では私は自分がドル記号のような感じがしました。私たちはたくさん献金をしてきました。しかしこの王国会館では,そういう感じが少しもしません」。エホバの証人たちのあいだで,この問題を支配している原則を,使徒パウロはコリント後書 8章12節で次のように述べています。「人もし志望あらばその有たぬ所に由るにあらず,その有つ所によりて嘉納せらるるなり」。
あなたが出席する教会は,宗教上の費用にかんして,これら聖書の規準に従っていますか。もし従っていないなら,神のことばにしるされている規準を無視する組織とあなたが交わるのを神が喜ばれると,あなたは思われますか。
-
-
エホバの証人が訪れたならものみの塔 1971 | 11月15日
-
-
エホバの証人が訪れたなら
エホバの証人が神の王国の良いたよりを伝道するために訪問できないような場所はあまりありませんが,英国の主要な刑務所の一つ,ダートムール刑務所はそうした場所の例です。ところが最近,その刑務所の英国教会の司祭は,同教会の教会員のいる独房すべてに「エホバの証人が訪れたなら,何と言うべきか」と題する,ちらしを配りました。司祭にとって,そうするだけのもっともな理由があったのです。
二,三か月前,ダートムール刑務所のある職員が担当の部署の囚人の数人に証言しはじめました。そのうちのひとりが直ちに音信を受け入れ,エホバの証人のその地方の監督に来てもらえるようにするため,宗旨を変えました。その後まもなく,さらに4人の囚人が聖書の音信にかなりの関心を示し,刑務所の司祭との面会を求めるようになりました。すると司祭は囚人たちにエホバの証人を非キリスト教徒また異端者として非難する説教をしました。その結果,囚人たちの間でこの問題に対する関心がかなり高まり,さらに多くの囚人が聖書研究をしたいと申し出るようになりました。
最近,新しい看守がダートムール刑務所に移って来ましたが,司祭は開口一番その看守に,彼がどんな宗教を信じていようと,あるいは宗教を持っていようといまいと,一向にかまわないと語りました。司祭は「いまいましいエホバの証人」を別にすれば,他の事柄には全然偏見を持ってはいませんでしたが,新任の看守が自分もエホバの証人であるということを述べるや,司祭はたいへんろうばいしました。ひとりの囚人は,「司祭はエホバの証人をけなす時以外は聖書を引いたことがない」と評しました。
ある囚人はバプテスマを受けたいとの希望を明らかにし,現在会衆の監督とともに予備的な質問を考慮しており,毎月一群のエホバの証人が刑務所を訪れてその囚人に面会し,囚人の信仰を建ておこしています。最近の幾か月間に自分の生活に生じた事がらについて,彼は次のように書いています。
「親愛なる兄弟たち:
「やむをえない事情のために,わたしは皆さんとはいっしょになれませんが,わたしたちは霊においては一致していることを知って慰められ,かつたいへん喜んでいます。今のところ,自分のかつての行ないのために,なおしばらくは国に対する負い目を償わねばなりません。
「実際,わたしにとって事の起こりはほかでもない,ここ刑務所においてなのです。そのいきさつは次のとおりです。
「わたしは人生をいかに送るべきかに関する助けと助言を捜し求めていました。刑務所当局からは満足のゆくものをなんら得られそうにも思えなかったので,ある日,わたしは刑務所の司祭に話しかけて,神に仕えたいという自分の願いを打ちあけました。わたしがそうした願いを持っていることを神が知っておられるかどうかは,どうしたらわかりますか,と司祭に尋ねてみました。『神さまが快く応じてくださるときでしょうね……』と司祭は答えました。わたしは自分の持っていたギデオン聖書を見せ,たいへんむずかしくて理解できません,と言うと,司祭は『君には新約聖書が必要だ』と言いました。それは彼の持っていた聖書のことでした。
「司祭はまた,英国教会男子会の何人かの友だちと新しく聖書の研究会をはじめていると述べ,わたしをその会に入れてくれました。
「その研究会の最初の週には,必要とする助けや指針については何も討議されませんでした。次の週も,また,続く二,三週間中にも何も起こりませんでした。ところが,その時までに小さな会員証が配られ,ひとり1ペニーずつ徴収されました。聖書のことが指摘されたのは,エホバの証人を非難した時だけでした。
「さてそのころ,わたしが働いていた刑務所の仕事場の職員のひとりがエホバのクリスチャン証人だったので,ふたりでずいぶん多くのことを話し合い,わたしは自分の生き方を変える点で助言を得ました。今ではわたしの兄弟たちとなっている人たちの寛大な取り計らいのおかげで,わたしは二,三日のうちに,聖書と『とこしえの命に導く真理』と題する本を入手しました。そして二,三週間以内に聖書研究が始まり,以来,幸いなことに,エホバの組織の助けとわたしの新しい兄弟たちの愛によって,永遠にエホバ神に仕え,かつこの良いたよりを他の人々にわかちあう,こうしたすばらしい希望を得ているのです。
「ひとりの人はすでに自分の宗旨を変えました。彼は現在別の刑務所にいますが,別れる時,『わたしが真理を見いだすのを助けてくださって,ありがとうございました。将来どこかの集会であなたにお会いするのを楽しみにしています』と言いました。
「別の人は同じ刑務所の司祭に,自分はもう教会には行かないこと,そして宗旨を変えてエホバの証人になるつもりであることを話しました。当然ながら,司祭はたいへん怒り,次の日曜日には,エホバの証人を非難した本のことを取り上げました。その本に聖句が一つもないことに気づた前述の受刑者は,その理由を司祭に尋ねました。いっそう怒った司祭は,英国教会員のいるすべての独房に,『エホバの証人が訪れたなら,何と言うべきか』と題する,ちらしを入れました。受刑者はろうばいさせられるどころか,エホバとその愛ある目的についてさらに学ぶことを決意しています」。
こうして,エホバの王国に関する良いたよりは,文字どおり刑務所をも含め,およそ伝道が行なわれそうにもないような場所においてでさえ,引き続き宣べ伝えられています。
-
-
読者からの質問ものみの塔 1971 | 11月15日
-
-
読者からの質問
● ガラテヤ書 4章3節(新)またコロサイ書 2章8,20節(新)で指摘されている「世の基礎的な事柄」とはなんですか。―アメリカの一読者より
子どもは,成年に達するまでは他の人々の監督下にあるゆえに奴隷に似ていることを示したのち,使徒パウロはガラテヤ人に対する手紙の中でこう書きました。「同様にわたしたちもまた,みどりごであった時は,世に属する基礎的な事柄によって奴隷にされたままでいました」。(ガラテヤ 4:1-3,〔新〕)次いでパウロは,神のみ子が「時満つるに」およんで到来し,ご自分の弟子となるそれらユダヤ人を,「子たること」を得させるべく,律法のもとにある状態から解放されたことを示しています。(ガラテヤ 4:3-7)同様に,コロサイ人にあてた手紙の中でパウロは,「人間の伝統にしたがい,また世の基礎的な事柄にしたがっても,キリストにしたがわない哲学やむなしい欺きを通して」奪い去られないようコロサイのクリスチャンに警告しました。「なぜなら,キリストのうちに神の特質がすべてあますところなく有形的に宿っているからです」としています。それらコロサイ人は「世の基礎的な事柄に対してキリストとともに死ん(で)」しまっているべきでした。―コロサイ 2:8,9,20,新。
それらクリスチャンが今や享受しているものと対照されているのですから,「世の基礎的な事柄」とは,明らかに真のクリスチャンではない人たち,つまり神から離反した世の一部となっている人々の従っている基本的もしくは初歩的な原則をさしていることがわかります。アメリカ訳は「世の基礎的な事柄」というギリシア語の表現を「物事に対する唯物的見方」と訳出しています。もちろん,人のものの見方は,当人の奉ずる原則によって定まります。
問題の聖句,つまりコロサイ書 2章8節は次のことを示しています。すなわち,そうした初歩的もしくは「基礎的な事柄」は種々の哲学,また人間の定めた規準・概念・論理・伝説に基づく,人を欺く教えなど,つまり当時のギリシア人や,ユダヤ人でない他の民族が大いに喜びとしていた事柄を含んでいます。そのうえ,コロサイ書 2章16-18節またガラテヤ書 4章4節–5章4節から明らかなとおり,救いを得るためにはクリスチャンはモーセの律法を守らねばならないという教えをはじめ,「基礎的な事柄」には,禁欲生活を要求する,聖書に基づかないユダヤ教の教えや「御使を拝する」ことも含まれていました。
しかし,モーセの律法は神に由来しませんでしたか。確かにそうです。では,それを守るということはどうして当人が「世の基礎的な事柄」に隷従させられていることと述べられているのですか。
モーセの律法はキリスト・イエスのうちに成就されたことを思い起こさねばなりません。キリストは,神殿およびそこでささげられた犠牲などを含む,律法
-