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山上の垂訓 ― その背景と舞台ものみの塔 1978 | 4月15日
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場所は,人口の多い湖畔から遠くない,ガリラヤ湖の西側の地域だったと考えられる」。
イエスの教え方
山上の垂訓中に見られる教え方が,世の識者の教え方とどれほど異なっているかに気づかれたことがありますか。ヘースティングスの著わした同じ辞典はイエスの教え方についてこう述べています。
「イエスは,会堂や道で,また海岸やガリラヤの丘の中腹で群衆に教えたとき,宗教的な真理や道徳上の原則を具体的で一般的な事柄に言い直し,理想的な生き方と伝統的な考えや習慣とを,多くの分かりやすい方法で,対照させた。そして自分の教えを,聞き手の一般的な職業や経験,また環境などを用いて例証した。イエスは伝統的な教えや知性偏重に少しも捕らわれることなく,……そうした事柄を古代や現代の学派が教えるような仕方では教えなかった。自分の知識を普遍的なものにするような仕方で自分の思想を語った。イエスは,分かりやすく洞察力をもって,また,真剣に聴く人々すべての心に訴えるような熱意をもって話した」。
あなたは,山上の垂訓に含まれている真理をどれほどご存じですか。恐らく,「わたしたちの父よ」という言葉で始まる模範的な祈りや,「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」という「黄金律」と呼ばれるようになった言葉など,格言のいくつかをご存じでしょう。(マタイ 6:9-13; 7:12)では,イエスの述べられた他の事柄についてはいかがですか。それらをさらに詳しく考慮したいと思われますか。
近日中に,「ものみの塔」誌には,山上の垂訓全体を扱う記事が連載されます。では,その資料から十分に益が得られるように,今すぐに,あるいは都合のつきしだい,山上の垂訓全体を注意深く読んで準備をしてはいかがですか。イエスの述べられたことを熟考してください。そうするのがとても楽しいことに気づかれるでしょう。
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暴力に満ちた世界にどんな解決策がありますかものみの塔 1978 | 4月15日
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暴力に満ちた世界にどんな解決策がありますか
その解決策,そして問題の原因も学んでください。「目ざめよ!」誌をお読みになれば,その両方を知ることができます。同誌は,ニュースの背後にある事柄を明らかにし,他からは得られない,問題に対する深い見方を読者に与えます。
「目ざめよ!」誌が一年間お宅に届けられるよう,その予約購読をなさってください。合計24冊郵送され,わずか1,300円のご寄付で予約できます。108 東京都港区三田5丁目5番8号 ものみの塔聖書冊子協会(振替 東京 5-138022番)にお申し込みください。
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読者からの質問ものみの塔 1978 | 4月15日
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読者からの質問
● 啓示 11章8節に述べられている,「霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる大いなる都市」とは何を意味していますか。
啓示 11章8節の「大いなる都市」とはエルサレムのことで,基本的に啓示のこの聖句は,古代エルサレムの象徴していたものを指しています。
啓示 11章には,神の「ふたりの証人」に関して使徒ヨハネの見た幻が記されています。この「ふたりの証人」は,エホバ神が「ご自分の偉大な力を執り,王として支配を始められた」という文脈の中に登場します。エホバの証人は,それが西暦1914年に起きたと理解しています。(啓示 11:17,18)啓示は象徴的な言葉で,ふたりの証人が征服されて殺され,「そして,彼らの遺体は,霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる大いなる都市の大通りに置かれるであろう。彼らの主もそこで杭につけられたのである」と述べています。―啓示 11:8。
その都市とは,明らかにエルサレムのことです。イエスはエルサレムで死刑の宣告を受け,同市の城壁のすぐ外で杭につけられたからです。当時のエルサレムの住民は,古代のソドムやエジプトの特徴を表わしていました。(イザヤ 1:10,21と比べてください。)例えば古代のエジプト人は,自分たちの異教の慣行に浸り,モーセの時代に最初の過ぎ越しが行なわれた際,真の神を退けました。同様に,西暦一世紀のユダヤ人も「神の子羊」であるイエスを退け,自分たちの宗教上の伝統に固執しました。(ヨハネ 1:29。マタイ 15:3-9; 23:13-26)エホバの証人が長い間指摘してきた通り,古代エルサレムの現代の相対物はキリスト教世界です。同世界のほとんどの教会員も神を正しく崇拝していると主張しますが,概して,イエスを退けたユダヤ人と同様な態度を取っています。
それゆえに,『その時,神の秘義は終了する』(1969年発行[日本語版は1976年])と題する出版物は,一部次のように述べています。「エホバご自身の民を宗教的に圧迫し,奴隷状態に陥れたので,不忠実なエルサレムは『霊的な意味で』エジプトと呼ぶことができました。最初の過ぎ越しの子羊が,預言者モーセの時代,エジプトで殺されたのと同じく,対型的な過ぎ越しの子羊イエス・キリストも,不忠実なエルサレムで殺されました」。さらに現代に関してその本はこう述べています。「『大いなる都市』という表現は,対型的,不忠実なエルサレム,すなわち,キリスト教世界を意味するに違いありません」。―300ページ。
では,1977年8月15日号の「ものみの塔」誌の中で,現存する世界的な政治体制に関連して啓示 11章8節が引用されているのはなぜですか。
古代エジプトはかつて傑出した政治強国でした。エゼキエル書 31章には,「エジプトの王[ファラオ]とその群衆」に対する警告が述べられています。a 1977年8月15日号の「ものみの塔」誌は,エゼキエル書 31章を論ずる際に,適切にも啓示 11章8節を引き合いに出しています。そこでこの聖句が引き合いに出されたのは,主に,「エジプト」という言葉に霊的な意義を付すのが聖書的に正しいことを示すためでした。エゼキエル書 31章の現代の対型的成就の中で表わされているのは,実際のエジプトという国ではありません。むしろそれは,今日の世界的な事物の政治体制に当てはまります。どのような意味でそう言えるのですか。古代エジプトは傑出した軍事強国であり,大木のようにその支配力を世界中に広げ,あらゆる国民に影響を及ぼそうとしていました。同様に今日でも,レバノンの山腹にそびえる香柏にも似た世界的な政治組織が存在しており,多くの国々がその保護を受けています。
それで,啓示 11章8節の文脈から,その聖句は現代において特にキリスト教世界に成就することが理解できます。しかし,エゼキエル書 31章で言及されている「エジプト」の現代における霊的な適用を求めるのがふさわしいということを示すために,啓示 11章8節を引き合いに出すのは当を得たことです。
[脚注]
a エゼキエル 31章3節(新)は一部こう述べています。「見よ! アッシリア人,レバノンの杉」。ある翻訳(欽定訳,アメリカ標準訳等)がこの聖句を,「見よ,アッシリアはレバノンの香柏であった……」と訳出しているのは注目に値します。こうした翻訳のために,大きな「木」は古代のアッシリアを表わすと理解されてきました。しかし原文のヘブライ語には,「であった」という言葉は見当たりません。また文脈は,この警告がファラオと彼の群衆に対するものであることを示しており,それらの者たちは「アッシリア」や「レバノンの香柏」に似ていると述べられています。したがって,ここで「アッシリア」に言及されているのは,単に強大な軍事力を想像させるためにすぎないと考えられます。古代のエジプトはまさにそのような軍事力を持つ国でした。
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