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  • 人類のために開かれた命の道
    ものみの塔 1973 | 9月15日
    • のように人類に向かって流れ,人びとに命を豊かに得させるのを何ものも阻むことはできません。

      23 前もって与えられているこうした知識は,感謝の念をいだく人たちにどんな影響をもたらしますか。

      23 エホバはある目的を念頭に置いて,人類に対するそのすばらしい取決めに関するこうした知識を前もって与えておられます。第1に,それは希望のない世にあって希望を与えるものとなります。(テサロニケ前 4:13)またそれは,感謝の心を持つ人たちを動かして,彼らが接しうる人びとすべてを招き,命を与えるその水を今飲み始めるよう勧めさせるものとなります。なぜなら,人びとはその水をほんとうに必要としているからです。ですから,聞いて,ほんとうに理解する人はみな,喜んで霊と花嫁に加わり,『来なさい! 命の水をただで受けなさい』と言います。

  • 現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
    ものみの塔 1973 | 9月15日
    • 現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本

      前号の「ものみの塔」誌上で,日本における宗教の歴史的背景と王国の音信が日本にもたらされた当時の事情が説明されました。「1973年のエホバの証人の年鑑」に基づくこの報告の続きをここに掲載します。

      「灯台社」の時代

      1926年9月6日に,アメリカ在住の日本人,明石順三は日本,朝鮮および中国におけるものみの塔協会の宣教者として日本に到着しました。明石はまず神戸に支部を開設しましたが,この支部はのちに東京の銀座に移転し,そして最終的には,当時東京の郊外であった荻窪に移り,そこには印刷工場も設置しました。第二次世界大戦の勃発までに,日本,朝鮮,台湾の各地は,日本から来たものみの塔の全時間コルポーターたちによってくまなく伝道されました。1938年には,日本のこれらコルポーターたちの数は110名の最高数に達しました。「ものみの塔」研究のような会衆の集会は全く行なわれず,むしろ街頭集会や日本語の「黄金時代」誌(後の「慰め」)を配布することが強調されていたようです。1938年だけで,112万5,817冊もの雑誌が配布されました。明石は組織の名称を「灯台社」としました。

      1931年9月18日の「満州事変」以来,日本では軍国主義が非常な勢力をふるっていました。そのため,1933年5月16日には,明石を含め数人の人びとが検挙され,1925年に制定された治安維持法違反の容疑で検察官の取り調べを受けました。彼らは証拠不十分のためにまもなく釈放されましたが,はるか地平線上には,さらに多くの困難が不気味な姿を現わしていたのです。

      1936年に,日本がドイツと防共協定を結んだ後,すべての宗教団体は政府の強い圧力のもとに置かれました。その結果,ローマ・カトリック教会は神社での礼拝に対するそれまでの立場を変え,その行為を「非宗教的」儀式であるとして許可しました。政府はすべての宗教団体に,代表者を戦線へ派遣し,日本の勝利のために祈るよう要請しました。そして,おおかたの宗教団体はその要請に応じました。1939年に制定された宗教団体法により,仏教およびキリスト教の宗派はそれぞれの教団を統合するようにしいられました。1944年には,新教教団とローマ・カトリック教会の両者は神道および仏教の各派とともに,戦時愛国宗教会議に加盟しました。「八百万の神々」に支えられた,神道信者の将軍たちによる圧制的な支配が行なわれていた間,エホバの証人はどのような扱いを受けたでしょうか。

      1947年に内務省から出された総括報告は,不穏な当時の状況について述べています。「1933年5月,明石および明石の仲間数人は……千葉県において不敬罪の容疑で逮捕され,灯台社は解散させられた。同社は再び組織され,多数の会員……(全国で約200名,そのうち東京在住者50名)が日本,満州,朝鮮,台湾等の各地に急派さ

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