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    ものみの塔 1981 | 2月15日
    • 神によって開かれた回復への道

      「回復が速やかにあなたのために生じるであろう」― イザヤ 58:8,新。

      読者は次の三つの記事をお読みになる前に,まずそれらの記事の基礎となっている資料,つまりイザヤ書 58章と59章の預言に目を通しておかれるとよいでしょう

      1 人類はその全般的な健康状態から見てなぜ回復を必要としていますか。

      人類全体は回復,つまり癒しを必要としていますか。あらゆる近代的手段によって収集された世界各地からの情報に通じている人なら,まずためらうことなく,はい,と答えるでしょう。問題は,わたしたち人間のうち,だれが,痛切に必要とされている回復をもたらすことができるかということです。人道主義的な人たちは希望をもって努力を続けますが,そうした人たちの誠実な努力も,人類の健康状態が社会的,道徳的,経済的,家庭的に悪化するのを食い止めるものとはなりませんでした。病める人類からの苦情の叫び声は大きくなるばかりです。

      2,3 (イ)人類が大きく堕落したことに対して,人間自体以上に,苦情を述べる理由を持つのはだれですか。(ロ)ローマ 3章9-18節の中で,人類の堕落した状態はどのように描写されていますか。

      2 もしわたしたち凡人が苦情を並べる余地を多く見いだすとすれば,超人的な宇宙の創造者は苦情のいわれをなおさら多く見いだされるはずです。創造者は人類の出発に際して,今日わたしたちの周りに見られるような混乱した状態を置いて,ご自分の創造の能力に不信を招くようなことはなさらなかったに違いありません。神が率直に述べておられるように,罪が入ったことがそうしたことすべてを生じさせたのです。19世紀前に,神は,聖書の筆者の一人に霊感を与え,人類が最初の完全性からいかに堕落したかを指摘されました。その人は次のような説明の言葉を書き記しています。

      3 「ではどうなのですか。わたしたちはより良い立場にいるのですか。決してそうではありません! わたしたちはすでに,ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにあるとの告発をしたのです。まさに書かれているとおりです。『義人はいない,ひとりとしていない。洞察力のある者はいない,神を探し求める者はいない。すべての人が道からそれ,みなともに価値のない者となった。親切をする者はいない,ひとりすらいない』。『彼らののどは開かれた墓,彼らは舌で欺瞞を弄した』。『毒へびの毒が彼らの口びるの裏にある』。『またその口はのろいと苦いことばで満ちている』。『彼らの足は血を流すのに速い』。『破滅と悲惨が彼らの道にあり,彼らは平和の道を知らない』。『彼らの目の前には神に対する恐れがない』」― ローマ 3:9-18。

      4 (イ)パウロはその言葉の中で,どこから引用していましたか。(ロ)19世紀のちの今日,わたしたちは事態がどうなっているのを見ますか。

      4 古代ローマのクリスチャン会衆に宛てて書かれたその手紙の上記の部分で,使徒パウロはヘブライ語聖書から引用していました。そのヘブライ語聖書は,西暦56年ごろにパウロがこの手紙を書いた時よりも450年以上も前に,すべて霊感によって書かれたものでした。例えばパウロはイザヤ書 59章7-20節を引用しています。このことは人類全般に関してだけではなく,とりわけエホバ神の民であると唱える人々,つまりユダヤ人またはイスラエル人に関連して,遠い昔のイザヤの時代においてすでに事態は相当悪かったことを示しています。それでは,パウロがローマ帝国の首都にあったクリスチャン会衆にそのような事柄を書き送ってから19世紀以上経過した今日,わたしたちはキリスト教世界と呼ばれる部分を含む世界が,道徳的また宗教的にどんな状態にあることを予期すべきですか。多くの率直な新聞や雑誌がそのことについて明らかにしている数多くの事柄は,たいへんショッキングで,しかも恐れを抱かせます。

      5,6 (イ)キリスト教世界という名称の起源からすれば,その領域を構成している諸国民はどのように振る舞っているべきですか。(ロ)イスラエルに語られたイザヤの預言を読む際に,わたしたちはその預言のどんなより大規模な適用を銘記すべきですか。

      5 その名称の起源からすれば,キリスト教世界はキリスト・イエスに見倣い,その教えにふさわしい行動をしているはずです。キリスト教世界を構成している諸国民は,どのようにしてそうするかを知っているはずです。そのようないわゆるキリスト教の国々の間で,聖書,それも特に“新約聖書”が,その領域で知られているすべての言語で何億冊も流布されているのです。それらの国々の住民の大半は霊感を受けた聖書の読み方を知っており,したがってクリスチャンになる方法を学べるはずです。キリスト教世界は自らをキリストと結びつけており,その会衆であると唱えているのですから,キリストの模範に従っていないことは自らに偽善者のらく印を押すことになります。キリスト教世界の社会的,道徳的,宗教的状態は,キリスト教がこの世に登場する800年前の預言者イザヤの時代に,かつてエホバ神の“選民”であった人たちの状態によく似ています。

      6 事実,キリスト教世界の悲しむべき状態はイザヤの時代のイスラエルのそれに対応します。というのはキリスト教世界は神の選民としてイスラエルに取って代わったと唱えているからです。それで,イザヤの預言のある章を読む際,わたしたちはそれらの章がキリスト教世界により大規模に当てはまることを銘記できます。イザヤの神は同預言者の時代のイスラエル人を,偽善的で,霊的回復を必要とする者とみなされましたか。ご自分の裁定をエホバ神に語っていただきましょう。

      宗教的偽善に対する神の裁定

      7 イザヤ書 58章1節によると,同預言者はエホバのどんな裁定をその選民に宣べ伝えることになっていましたか。

      7 神の命令がイザヤに臨みます。「のども裂けんばかりに叫べ。差し控えるな。あなたの声をさながら角笛のように張り上げ,わたしの民にその反乱を,ヤコブの家にその罪を告げよ」― イザヤ 58:1,新。

      8 エホバの裁定をイザヤはどの程度聞こえるように告げ知らせるべきでしたか。そしてイザヤが預言する衝動を感じたに違いないのはなぜですか。

      8 この命令によると,エホバ神はイスラエル人が「反乱」つまり反逆,そして他の明示されていない「罪」の点で有罪であると裁定されました。神はその代弁者としてイザヤを用いご自分の裁定を発表させました。そしてこの預言者は「角笛」つまりラッパほどの大きな音をもって神の告発を鳴り響かせるように告げられました。「差し控えるな」と告げられたイザヤは,自分よりも以前の預言者で,次のように語ったアモスのように感じたかもしれません。「獅子がいてほえた! だれが恐れないだろうか。主権者なる主エホバが語られた! だれが預言しないでいられよう」― アモス 3:8,新。

      9 エホバの厳しい音信は今日どの程度にまで告げ知らされるべきですか。そしてその音信は聞く者に何をするよう助けるはずですか。

      9 主権者なる主エホバの献身してバプテスマを受けた民も今日,そのことについて同じように感ずるはずです。彼らは今日に対する神の音信を携え,それを広範囲に及ぶ地域にまで鳴り響かせるはずです。宇宙の主権者なる主に対して世界的な反逆が見られることをエホバの証人である彼らに語らせるとよいでしょう。その方はご自分の民に,忠節を保ち世の罪を避けるよう求めておられます。だからこそこの厳しい音信は世界中で告げ知らされているのです。その音信に注意を払うことによって,聞く者は回復を見いだすよう助けられます。

      10,11 イスラエル人たちは断食をし,また自らを苦しめることによってエホバにあって喜びを抱いているように見せかけましたが,同時にほかのどんなことを自制心を働かせることなく行なっていましたか。

      10 イザヤは「ヤコブの家」に大声で告げ知らせるよう命ぜられた際,次のように述べることによってその偽善を暴露しました。

      11 「しかし,彼らは日ごとにわたしを求め,わたしの道の知識に喜びを表明した。義を行ない,自分たちの神の公正を捨てなかった国民のように。それは,彼らが義にかなった裁きをわたしに求め,自分たちが喜びを抱いた神に近づいたからである。[こう言います。]『どうしてわたしたちが断食したのにあなたはご覧にならず,わたしたちが魂を苦しめたのにあなたは気に留めようとはなさらなかったのですか』。実際,あなた方は断食の日に喜びを見いだしていた。そしてその時,あなた方が仕事に追いやる,あなた方の労するすべての者がいた。実に,あなた方はいさかいや闘いのために断食したのである。そして,邪悪のこぶしで打つために。

      12 エホバの受け入れられる断食の日は,信心深さや自らを苦しめることを見せびらかす時でしたか。

      12 「あなた方は,自分の声を高き所に聞こえさすための日のように断食を続けなかったか。わたしの選ぶ断食がこのようになってよいだろうか。地に住む人間がその魂を苦しめる日のように。い草のように頭を垂れ,寝椅子としてただの粗布や灰を広げるためのものに。これがあなたの断食と呼ぶもの,エホバに受け入れられる日なのか」― イザヤ 58:2-5,新。

      13 山上の垂訓の中でイエスは,神の民が行なう断食について,偽善的になることなく,何と言われましたか。

      13 確かにイエス・キリストは,エホバの霊によって油そそがれたのち,40日間断食をされましたが,これは人々に気付かれず,しかもユダの荒野で行なわれました。ですから後日,山上の垂訓の中でイエスは偽善的になることなく次のように言うことができました。「断食をしているとき,偽善者たちのように悲しげな顔をするのをやめなさい。彼らは,断食をしていることが人びとに見えるように,自分の顔を醜くするのです。あなたがたに真実に言いますが,彼らは自分の報いを全部受けています。しかし,あなたが断食をするさいには,頭に油を塗り,顔を洗いなさい。断食をしていることが,人にではなく,人知れぬところにおられるあなたの父に見えるためです。そうすれば,人知れず見ておられる父があなたに報いてくださるのです」― マタイ 6:16-18。

      14 (イ)キリスト教世界において,宗教的な断食はどんな取決めになっていますか。そしてなぜですか。(ロ)古代のイスラエルにおいて,形式的な断食と自らを苦しめることは,ほかのどんな事柄を覆うものとして役立つことはあり得ませんでしたか。

      14 キリストの弟子たちには断食の日は定められていませんでした。断食は自発的なもので,随意選択できるものでした。キリスト教世界には義務づけられた断食がありますが,これらは人間の作った取決めにすぎません。預言者イザヤの時代において,もし「ヤコブの家」の自ら選んだ断食の背後に正しい考えと動機があったとすれば,それらの断食に異論はなかったことでしょう。しかし,断食と同時に,あるいは断食の日の前日そして翌日に,「ヤコブの家」の中で行なわれていた事柄を忘れないようにしましょう。いさかいや闘い,互いにあらん限りの高い声を張り上げること,他の人々を「邪悪のこぶし」で打つことなどが行なわれたのです。エホバ神の鋭い目の前にあって,形式的な断食や自分を苦しめることでこうした悪すべてを覆い隠せるものでは決してありませんでした。神が彼らの断食をご覧にならず,全く留意しておられなかったように見えたとしても少しも不思議ではありません。

      15 (イ)イスラエルにおいてうわべの信心深さと自ら飲食を絶つことは,労する階級の者たちに対するどんな扱いによって相殺されましたか。(ロ)今日だれについて同じことが言えますか。そしてそうした行為はなぜふさわしくありませんか。

      15 形式主義的なユダヤ人は信心深そうに見せかけるため彼らの頭を葦の先のようにうなだれ,まるで深い悲しみにあるかのように足下に粗布を広げて灰をまき散らしました。しかしそのような行為は,神に対する自分たちの罪と反乱,または反逆,そしてその無秩序と不法行為に対する心からの誠実な悔い改めのしるしではありません。もし彼らの断食が通常は正当とみなされるものを断つという,本当のものであったとすれば,なぜ同時に,彼らの『労する者』である彼ら自身の兄弟たちを無慈悲にも,仕事に駆り立て,それによって彼らの上に圧制的な苦しみを積み重ねていたのでしょうか。彼らのために労する者たちにとって奴隷監督として振る舞った雇い主たちが,断食の日に形式的に飲食を断つことは確かに偽善的な行為でした。そうした行為は神の好意や是認を得るものとはならず,また神に少しも喜ばれるものでもありません。今日断食を守るキリスト教世界の場合も同じです。キリスト教世界は,神の選民の反乱と罪を公にするようイザヤに霊感を与えた方,まさにその神を崇拝すると唱えているからです。

      16 イスラエル人によるどんな救済手段は,彼らの行なう形式的な断食よりも神の心証を良いものにすることになりますか。

      16 イザヤの神,キリスト教世界がうわべで崇拝している神に受け入れられるのは,どんな断食,飲食を断つどんな歩みですか。わたしたちはそれを知るためにイザヤの記録したエホバの言葉を読むことができます。霊的回復の必要を感じている人々や,自分と聖書の神との関係を改善したいと思っている人の益のために,神はこう語っておられます。「これがわたしの選ぶ断食ではないか。邪悪の足かせを解き,くびき棒の輪を解き放ち,打ち砕かれた者たちを送り出して自由にすること,またあなた方民がすべてのくびき棒を二つに折ることが。それは,あなたのパンを飢えた者に分け与えること,苦しんでいる,家のない者たちを自分の家に入れることではないか。だれかが裸なのを見るようなことがあれば,あなたはその人に着せなければならず,自分の肉から自分を隠すべきではない,ということではないか」― イザヤ 58:6,7,新。

      17 イザヤ書 58章6,7節のこの言葉は,イスラエルでどんな事柄が行なわれていたことを示していますか。それでどんなものからの回復が必要でしたか。

      17 エホバのこうした描写的な言葉は,イスラエル人たちが不当にも,また邪まにも足かせをはめられていたことを間接的に示しています。また,駄獣でもあるかのように,くびき棒を負わされていた人もいました。さらにほかの人たちは彼らの上に負わされた仕事量によって打ちひしがれていました。不幸なイスラエル人たちは空腹をかかえたまま放置されたりきちんとした住みかのないままにされたりしていました。救援の手を差し伸べる資力のある人たちは仲間のイスラエル人たちの惨めな状態に気付かないふりをしました。そうです,彼らは国家的な断食の儀式を義務的に守りはしますが,彼ら自身の肉親の間から不正や圧迫を取り除くだけの兄弟愛を持っていませんでした。単に断食を守っているだけではそのような無慈悲な習わしを取り除くことにも,次のような神のおきてに従うことにもなりません。「あなたの仲間を自分自身のように愛さねばならない。わたしはエホバである」。(レビ 19:18,新)どちらかと言えば,それらのイスラエル人たちは,神との関係において確かな死を意味した霊的病からの回復を必要としていました。

      18 イスラエルの宗教的な病は,もしそのままにしておくならば,エホバとの関係において死を意味すると言っても誇張でないのはなぜですか。

      18 これは物事を誇張して述べているのではありません。というのは,イザヤが預言を述べた次の世紀中に,イスラエル国民はその祖国を失い,西暦前607年から537年までの間,遠く離れたバビロニアに埋もれていたからです。(エゼキエル 37:1-11)エホバの過分のご親切によって祖国の領土に復帰したとはいえ,それより569年後の西暦33年にはエホバ神との契約関係を失いました。西暦70年には,ティツス将軍の指揮下にあったローマ人は反抗的なエルサレムを滅ぼし,ユダヤ人たちは非難の的として世界中に散らされました。このすべては死病にとりつかれたキリスト教世界に警告となるはずです。

      回復への道を歩み始めた人々

      19 イザヤ自身,仲間のイスラエル人たちの霊的病にかかっていたでしょうか。ヘブライ書の中で引用されているイザヤの言葉は何を示していますか。

      19 預言者イザヤも,その国民が苦しんでいた宗教的偽善で霊的に病気にかかっていたなどとだれも考えてはなりません。そのような偽善を暴露するためにエホバ神に用いられる人は,神との間に健全な関係を持っていなければなりませんでした。イザヤは次のように述べて,自らとその家族が霊的に健康であることを示しました。「見よ! わたしと,エホバがわたしに賜わった子供たちとは,シオンの山に住んでおられる,万軍のエホバからのイスラエルでの徴となっており,奇跡となっている」。(イザヤ 8:18,新)クリスチャンである使徒パウロはヘブライ人への手紙の中でこの言葉を引用し,その言葉をイエス・キリストと油そそがれ,霊によって生みだされた弟子たちとに当てはめ,次のように語りました。『彼はこう述べています。「わたしはあなたの名を自分の兄弟たちに告げ知らせます。会衆の中でわたしは歌をもってあなたを賛美します」。また,「わたしは彼に信頼を置きます」,そして,「見よ,わたしと,エホバがわたしに与えてくださった幼子たちとは」と』― ヘブライ 2:12,13。

      20 エホバが大いなるイザヤであるイエス・キリストに与えた「子たち」は最初はだれでしたか。

      20 エホバ神が西暦33年のペンテコステの際にイエス・キリストにお与えになったその「幼子たち」とは,エルサレムにその首都を持つユダヤ人の組織に属する男女でした。ですからペンテコステの際に神の霊によって油そそがれる前に,それらの男女は,イエス・キリストが「イスラエルの家の失われた羊」と呼んだ人々を取りまいていたあの霊的に病んだ事物の体制と交わっていました。(マタイ 10:6; 15:24)しかし彼らはペンテコステ以降,エホバの非難の言葉を告げるよう預言者イザヤが命ぜられた宗教組織にもはや属してはいませんでした。イエス・キリストの指導の下に,彼らはイザヤ書 58章8節においてエホバによって約束された回復への道を歩んでいたのです。彼らは独善的なパリサイ人たちをその成員に持つ組織を後にしました。パリサイ人たちは神殿で祈りをささげた際,誇らしげに「わたしは週に二回断食をしています」と言いました。―ルカ 18:11,12。

      21 不忠実なイスラエルの現代版から離脱したことに対して,イザヤ書 58章8節でどんな益がキリストの弟子たちに預言的に約束されていましたか。

      21 同様に,今日の献身してバプテスマを受けたエホバの証人たちも,その大半はイザヤの時代とキリストの時代のイスラエル国民の現代版であるキリスト教世界の諸宗派や諸教派から出て来ました。霊的に病んで,暗やみの状態にあるキリスト教世界から離脱することに対する報いとして,イザヤ書 58章8節(新)の預言的な約束が彼らの上に成就してきました。こう書かれています。「そうすれば,あなたの光はあけぼののように差し出で,回復が速やかにあなたのために生じるであろう。そして,あなたの義は確かにあなたの前に歩み,実にエホバの栄光があなたの後衛となるであろう」。

      22 離脱した弟子たちのための約束された「回復」はいつ生じ始めましたか。

      22 西暦1919年の戦後の年に,素早く,その預言はエホバのクリスチャン証人たちの上に成就し始めました。彼らはその時,信条と伝統に縛られ,僧職者によって支配されていたキリスト教世界から完全に離脱したのです。これら解放された人たちにとって,聖書の真理と預言に関する啓発は,「あけぼののように」差し出で始めました。キリストを仲立ちとしたエホバ神との関係における,彼らの霊的に健康な状態への「回復」は,急速な改善とともに生じました。神殿におけるイザヤのように,彼らはエホバの証人として奉仕するために清められました。―イザヤ 6:1-10; 43:10-12,新。

      23 第二次世界大戦中でさえ,キリストの弟子たちにはどんな前衛と「後衛」が付いていましたか。

      23 キリスト教世界の曲がった道ではなく,「義」が彼らの前を行き,エホバの目に正しい道へと彼らを導きました。エホバの証人たちを保護するために,神は今に至るまで「後衛」として彼らの後ろを行かれました。こうした保護があったがゆえに,彼らは神の是認の下に留められ,1939年から1945年までの第二次世界大戦中その敵どもから絶滅させると脅されたときにも保護されてきました。―マタイ 24:9-14。

  • 人類の健康状態 どのようなものになり得たか
    ものみの塔 1981 | 2月15日
    • 人類の健康状態 どのようなものになり得たか

      1 世界的医師が必要とされているのはなぜですか。そしてキリストによって引用されたどんな原則は,医業や保健機関に当てはまりますか。

      人類の健康状態は思わしくありません。いまだかつてないほど世界的医師が必要とされています。というのは新しい病気が次々に発見され,人命を奪っているからです。医業と保健機関すべてが結束しても世界中の疾患すべてを癒すことのできる世界的医師になることはできませんでした。それ以外の結果を予期すべくもありません。というのは,「医者よ,自分をいやせ」という原則が当てはまるからです。その言葉を引用したのはだれでしたか。それはあらゆる疾患を癒し,一人の男の人を死後四日目によみがえらせることさえした人でした。そのような医学上の記録を持つ人はイエス・キリストです。(ルカ 4:23。マルコ 6:4-6)西暦33年に生じたその方ご自身の死は自然の原因によるものではなく,殺害者の手にかかった結果でした。(使徒 7:52)もしその当時,人々がイエスを受け入れていたとしたなら,今日人類の健康状態はどんなものとなっていたでしょうか。

      2,3 (イ)わたしたちは癒しをなさる方としてのエホバに関してどんなことを尋ねますか。(ロ)エホバはご自分の民を救出するために古代エジプトの上に何をもたらされましたか。そしてもしイスラエル人が神の声に聴き従わなかった場合についてどんなことを警告されましたか。

      2 その質問をさらに昔にさかのぼって尋ねてみましょう。もし預言者モーセの時代にご自分の選民に向かって「わたしはエホバ,あなたをいやしている者だからである」と言われた方の導きを,その民が受け入れていたとしたなら,事態はどうなっていたでしょうか。―出エジプト 15:26,新。

      3 古代エジプトでの奴隷状態からご自分の選民を救出するために,エホバは,奇跡的な災厄をもってその土地を悩ましました。神は予備的な九つの災厄を後で取り除かれました。神はご自分の解放された民を,その身体的,精神的,霊的福祉に寄与する国家的契約へと導き入れられました。神はもし彼らがその契約の律法を破り続けるならどんな結果になるかについて,モーセを用いてそれらイスラエル人に警告をお与えになり,こう言われました。「また,この律法の書に記されていないどのような病気,どのような災厄でも,エホバはそれをあなたの上にもたらし,ついにはあなたが根絶やしにされてしまうでしょう。そしてあなた方は,おびただしさの点で天の星のようになっていても,まさしくごく少数の者が残されるでしょう。あなたがあなたの神エホバの声に聴き従わなかったからです」― 申命 28:61,62,新。

      4,5 (イ)今日生き残っているユダヤ人の状態が非常に悪いので,イスラエルの現代版についてどんな質問をすることができますか。(ロ)イザヤ書 58章9-12節によると,自分たちの道を正していたとしたら,事態はどうなっていたでしょうか。

      4 今日幾百万もの生き残っているユダヤ人は,精神的,宗教的,社会的,経済的障害は言うまでもなく,身体的病気を患っていますが,全人類もまた同じように患っています。これらの点に関しては,キリスト教世界でさえ生来のユダヤ人に勝るところは少しもありません。事実,キリスト教世界には神に対してより重大な責任があります。もし古代のイスラエルが,イザヤを通してエホバから告げられたように,その道を正さなかったために非常に悪い状態に甘んじたのであれば,キリスト教世界は最終的に,それも間近い将来にどうなると予期できるでしょうか。預言者イザヤはどんな可能性があったかを次のように述べています。

      5 「そうすれば,あなたが呼ぶと,エホバが答えてくださる。あなたが助けを叫び求め,彼は『わたしはここにいる』と言われる。もしあなたが自分のうちよりくびき棒を,[軽べつまたは非難する意味で]指を突き出すことを,そして有害となることについて話すのを除き,飢えた者にあなたの魂の願いをかなえてやり,苦しんでいる魂を満ち足らせるなら,あなたの光もまた闇の中であってさえ必ずきらめき,あなたの暗闇は真昼のようであろう。そして,エホバはあなたを常に導き,枯れ地ででもあなたの魂を満ち足らせ,あなたの骨をも生気づけられるはずである。あなたは必ず潤された園のように,水の源のようになり,その水はうそをつくことがない。そして,あなたの勧めで人々は長く荒れ廃れていた所を必ず建て直し,あなたは相次ぐ世代の基を興すであろう。そして,あなたはその破れ目を修理する者,そのそばに人の住む小路を元通りにする者と実際に呼ばれるであろう」― イザヤ 58:9-12,新。

      6 イザヤの時代のイスラエルの前に置かれた可能性について考えてみると,イスラエルの現代版の場合の可能性について当然どんな質問が生じますか。

      6 そうです,エホバから明白に与えられた諭しに聴き従っていたなら,古代イスラエルの国家的な状態はどんなにか良いものとなっていたでしょう。自らを損ない,神と自分たちの契約関係をも損なういかがわしい事物をイスラエル人がその中から取り除くならその後に続くと言われた状態をもたらすのは,その全能性を考えれば,神にとっては容易なことだったはずです。そうしなかったため,イスラエル人はますます悪くなって行きました。イザヤの預言の次の世紀中にイスラエル人が経てきた懲戒的な経験は悲惨なものでした。こうした点すべてを例証として考えてみると,次のように問わざるを得ません。イスラエルの現代版であるキリスト教世界についてはどうでしょうか。もしキリスト教世界が神聖な治癒者であられるエホバ神から与えられる薬を服用し,これまで1世紀以上にもわたってそのクリスチャン証人たちによって宣べ伝えられてきた王国の音信を受け入れていたなら,その社会的,経済的,道徳的,宗教的健康状態はどうなっていたでしょうか,と。

      7 キリスト教世界の場合どうなっていただろうかという点に関して今日どんな生きた例証がありますか。

      7 キリスト教世界の場合はどうなっていただろうかという点は例証されています。どのようにですか。それはエホバがイザヤにお与えになり,イエス・キリストの,霊によって油そそがれた弟子たちを表わすためにエホバがお用いになった,イザヤの息子たち,つまり「子たち」によって予表されていた者たちに今日生じた事柄によってです。(イザヤ 8:18,新。ヘブライ 2:13)彼らは65年余りにわたって,メシアによるエホバの王国が今や王位に即いておられる神のみ子,平和の君であられるイエス・キリストの肩の上にあることを世界に宣明してきました。(イザヤ 9:6,7)こうして彼らは,失意していた幾十万もの人々から,全世界を覆う陰うつな暗やみを払いのけてきたのです。マタイ 24章14節でイエスの予告しておられた王国のたよりにより,彼らは命を支える点では物質の食物以上のものをもって霊的に飢え渇いていた人々を養ってきました。その結果,霊的な回復がそれらの人たちに生じました。

      8 霊的に回復した者たちは安息日に関してエホバがさらに語られたどんな言葉に現在注意を払い,どんな約束を考えに入れていますか。

      8 霊的に回復した人々すべては,現在,昔のイスラエル人が注意を払わなかった,次のようなエホバの導きの言葉に注意を払っています。「もし安息日のゆえに,あなたがわたしの聖なる日に自分自身の楽しみをすることに関し自分の足を引き返させ,安息日をこの上ない喜び,エホバの聖日,栄光を与えられる日と実際に呼び,自分の道を行なうよりも,自分を喜ばせることを見いだして言葉を話すよりもむしろ,これに実際に栄光を与えるなら,そうするなら,あなたはエホバにこの上ない喜びを見いだすであろう。そしてわたしはあなたを地の高い場所に乗せ,あなたの父祖ヤコブの相続物からあなたに食べさせる。エホバの御口がそう語ったからである」― イザヤ 58:13,14,新。

      9 献身してバプテスマを受けたクリスチャンたちは現在,週ごとの安息日の取決めの下にありますか。クリスチャンたちはどんな安息の期間に足早に近づいていますか。

      9 今日のエホバの証人のように,献身してバプテスマを受けたクリスチャンは,金曜日の日没に始まり,土曜日の日没に終わる週ごとの安息日を守る義務はありません。彼らは仲介者モーセによって与えられた律法の法典の下にはいないからです。(出エジプト 20:1-11)また,新しい契約の仲介者であられるイエス・キリストも,安息日として日曜日を守るようご自分の弟子たちに命じてはおられません。彼らは,神がこの地球に関する直接的な創造の業を休んでこられた,エホバ神の創造の週の七日目に自分たちが生きていることを知っています。(創世 1:1から2:4)聖書の年代と世界の出来事とは,イエス・キリストの千年統治の始まる時が急速に近づいていることを示しています。全人類に祝福となるキリストの一千年の支配は,7,000年から成るエホバの休息の日つまり安息日の最後の1,000年間を占めることになります。キリストの支配は,全人類にとってこの上ない喜びをもたらす安息日となるでしょう。

      10 キリスト教世界の週ごとの「安息日」は聖書的なものですか。今日そうした安息日は主としてどんな目的のために用いられていますか。

      10 キリスト教世界は1,500年以上にわたって,日曜日をいわばキリスト教の安息日として形式的に守ってきました。しかし日曜日はキリスト教のものでもユダヤ人のものでもありません。その名が示すように,日曜日は実際には太陽神を祝う異教の祝日なのです。今日キリスト教世界が,エホバの誉れのため,また人体の益のための休日として自らの日曜日を守っていないことは確かです。キリスト教世界は大抵の場合,賭け事や様々の不道徳行為は言うまでもなく,スポーツ,ピクニック,観劇その他非宗教的な活動や利己的な楽しみのための日として日曜日を利用しています。

      11 エホバのクリスチャン証人はどのように真の「安息日」を守って神ご自身の手本に従いますか。

      11 エホバのクリスチャン証人が守っているのは,エホバ神への継続的な「安息日」です。どのようにですか。神の前で自らを義とし,そのようにして自らのとこしえの救いを得ようとする彼ら自身の業を休む,つまりやめることによります。信仰によって,彼らはそのとこしえの救いの基礎としてキリストの贖いの犠牲の真価,つまり買い戻す価値のうちに休息を得ます。このようにして彼らはエホバの創造の週の大いなる第七「日」に従って行動します。その比ゆ的な「日」の間,神ご自身休んでこられました。

      12 神の民のために『残っている』現在の「安息の休み」は何ですか。それでエホバの証人はユダヤ人の安息日やキリスト教世界の日曜日をどのように用いますか。

      12 クリスチャンが信仰によって,7,000年のエホバの「安息日」のうちに休息を得ることについてこう書かれています。「ある箇所で七日めについてこう言っておられるからです。『そして神は七日めにご自分のすべての業を休まれた』。……それで,神の民のために安息の休みが残っています。神の休みに入った人は,神がご自分の業を休まれたと同じように,その人も自分の業を休んでいるからです」。(ヘブライ 4:4-10)エホバの証人は信仰によって,人類の救いのための神の備えであるキリストの犠牲のうちに休息を得ます。ですから,彼らは神の王国の良いたよりを家から家に宣べ伝えるため,ユダヤ人の安息日やキリスト教世界の日曜日を良心的に用いることができます。

      キリスト教世界と必要とされる治癒者との間の分裂

      13 イザヤ書 59章1-4節によると,自称神の民のどんな振舞いは神と彼らの間に分裂を生じさせますか。

      13 キリスト教世界の今日の姿がその取り得た姿と異なっているとしてもそれは全能の神に能力が欠けていたからではありません。それでは救いがなぜ古代のイスラエルにもたらされなかったのでしょうか。そしてそれに対応するものとして,なぜキリスト教世界または世界の残りの部分に救いがもたらされなかったのでしょうか。その理由は次のように述べられています。「見よ,エホバの御手が短くなりすぎたので救えないのではなく,その耳が鈍くなりすぎたので聞こえないのでもない。ただそうではなく,あなた方民の咎があなた方とあなた方の神との間に分裂を生じさせるものとなったのである。あなた方の罪があなた方から御顔を隠して,聞かせないようにした。あなた方の手のひらは血で,あなた方の指は咎で汚れてしまったからである。あなた方のくちびるは偽りを語った。あなた方の舌はひたすら不義をつぶやいた。義をもって叫ぶ者はひとりもおらず,だれひとりとして忠実さをもって法廷に行く者もいなかった。非現実なるものに信頼が置かれ,無価値なことが語られた。難儀が宿され,有害なことが産み出された」― イザヤ 59:1-4,新。

      14 イザヤの時代のイスラエル同様,20世紀のキリスト教世界が神の法廷で自らの無実を立証できないのはなぜですか。

      14 イザヤの時代のイスラエル人の実状をこうして調べてみると,多くの詳細な点が明らかになります。エホバはどうしてそのような国民と結びついていたり彼らを祝福したりすることができるでしょうか。神とその国民との間に不和を生じさせていたのはその国民だったのです。神と神の民であると唱えるキリスト教世界との間の不和に関しても同じことが言えます。手や指やくちびるや舌はみな邪悪な事柄にあずかっており,キリスト教世界自らに害をもたらしています。2度の世界戦争の後,キリスト教世界の手からはすでに人間の血が滴っていますが,それだけでは飽き足らず,一層大規模な流血行為をもくろんでいるのです。今度はおそらく原子および核爆弾のほかにも,無数の人々を苦しんで死なせる残虐な手段が用いられるでしょう。確かにキリスト教世界が国際的な諸問題を国際連合やオランダのハーグにある国際司法裁判所に提出することと,天と地の前で「忠実さをもって」神の法廷に問題を提出することとは同じではありません。そのような神の法廷においてはキリスト教世界は決して無実を立証することはできません。

      15,16 国際的に宿されている事柄からすれば,何が当然産み出されなければなりませんか。また外交的な話し合いのすべては,何を語ったりつぶやいたりすることですか。

      15 国際連合内では,キリスト教でない国々が数の点ですでにキリスト教世界の国々を上回っています。それでもキリスト教世界の僧職者と宗教指導者たちは,神の王国のこの代用物を「世界の唯一の希望」としてそれに期待を寄せ,そして実際にそうであるかのように行動し,事を進めています。もしこれが「非現実なるものに信頼が置かれ(る)」ことでないとすれば,どんなことがそうだと言うのでしょうか。世界平和と安全のために国際連合や他の人間製の諸機関に頼ることについての公私両面にわたる話し合いすべて ― これは,とりわけキリスト教世界について言えば,「無価値なことが語られた」事例ではないでしょうか。そうでないとするなら,長時間のそうした討論すべては一体何の役に立ってきたというのでしょうか。

      16 エホバ神との平和的な関係ではなく,ただ「難儀」だけが国際的に宿されているのですから,「有害なこと」のみが当然予期される,つまり産み出されるのです。それがひどい「問題児」になることは目に見えています。エホバの見地からすれば,キリスト教と非キリスト教とを問わず,諸国家間の外交的話し合いすべては,『偽りを語り』,『ひたすら不義をつぶやく』ことにほかなりませんでした。

      17 自称神の民はあたかも何によって毒されているようですか。また彼らが歩んだ道はなぜ旅人たちに安全な道を備えませんでしたか。

      17 今日,キリスト教世界の内外のいずれの側にいる人々も,化学的な意味だけではなく,霊的にも毒されています。イザヤ書 59章5-8節(新)によると,苦情を述べる者たちはあらゆるものの審判者であられる神のみ前で次のように言うことができました。「彼らがかえしたものは毒へびの卵で,彼らはただのくもの巣を織り続けた。その卵を食べる者は死に,打ち砕かれた卵はかえって,まむしとなる。そのただのくもの巣は服とはならず,彼らはその業で身を覆うこともない。その業は有害な業であり,暴虐の働きがそのたなごころにある。その足はひたすら悪に向かって走り,彼らは罪のない血を流すのに急である。その考えは有害な考えで,略奪と崩壊がその公道にある。彼らは,平和の道を無視しており,その道筋には公正はない。彼らはその小道を自分のために曲げた。それを踏んで行く者はだれも平和を知ることはない」。

      18 平和を維持する点でキリスト教世界はどんな手本となってきましたか。

      18 もしキリスト教世界が内部で平和を保つことができないのであれば,世界の残りの部分が平和を保つとどうして期待できるでしょうか。キリスト教世界は悪い手本となっており,真のキリスト教とはどんなものであるかについてひどく誤り伝えてきました。キリスト教世界は声を大にして平和と安全を訴えてはいますが,世の隣国への不信感から戦争に備えて軍備を増強しているのですから,これは決して平和への道を切り開くことにはなりません。

      19 古代イスラエルにおける偽善的な状態は,公正と行くべき正しい道を識別することに関してどんな結果をもたらしましたか。

      19 エホバの預言者イザヤはさらに続けてこう述べています。「それゆえに,公正はわたしたちから遠く離れ,義はわたしたちに追い付かない。わたしたちは光を待ち望むが,見よ,闇がある。輝きを待ち望むが,絶えざる暗闇の中をわたしたちは歩み続けた。わたしたちは盲人のように手探りで壁を捜し,目を持たない者たちのように手探りを続ける。真昼でも夕闇の際のようにつまずいた。また,がん強な者たちの中でわたしたちは死んだ者たちのようである。

      20 (イ)イスラエルの反乱や違犯や罪は容易に見られるものでしたか。(ロ)それゆえ,そうした状況の下で,公正や義や真理はどうなりましたか。

      20 「わたしたちは皆,熊のようにうめき,鳩のように悲しげにくーくーと鳴き続ける。わたしたちは公正を待ち望んだが,皆無であった。救いを待ち望んだが,それはわたしたちから遠く離れたままとどまった。わたしたちの反乱はあなたの御前で多くなり,わたしたちの罪は,各々わたしたちに不利な証言をしたからです。わたしたちの反乱はわたしたちと共にあるからです。わたしたちの咎については,わたしたちはよく知っています。違犯が犯され,エホバが無視された。またわたしたちの神から後退して行き,虐げと反乱が語られ,実に心から偽りの言葉が宿され,つぶやかれた。こうして,公正は後ろに追いやられ,義は,はるか遠くに立ち続けた。真理は公共広場においてさえつまずき,誠直なことは入ることができないからである。そして,真理は欠けてなく,悪から去って行く者は略奪されて行く」― イザヤ 59:9-15,新。ローマ 3:15-18。

      21 イザヤの時代のイスラエルのそうした描写は今日のどんなことにぴったり符合しますか。どうしていれば人類はより良い見込みを持つことができたかもしれませんか。

      21 古代のその描写は今日のキリスト教世界の状態とぴったり符合するではありませんか。1918年に第一次世界大戦が終結して以来,激しい迫害にもかかわらず,エホバの証人は世界の舞台で非常に目立った存在となりました。もし栄光を受けたキリストの手中にあるエホバの王国の音信を,不公正と世界中のエホバの証人に対する迫害によって退ける代わりに,それに好意的に聴き従っていたならどうなっていたでしょうか。人類の健康状態,そしてとりわけキリスト教世界の健康状態は,今までにあらゆる面ではるかに良いものになっていたことでしょう。人類にはどんなにか明るい見通しがあったことでしょう。

  • 救助に来られる「万軍のエホバ」!
    ものみの塔 1981 | 2月15日
    • 救助に来られる「万軍のエホバ」!

      1 反抗する者たちのいることを考えると,人類に永続的な救助をもたらすことはまず最初に何を意味するでしょうか。

      避けることのできない世界的な災害が前途に横たわっています。しかし,その全地球的な影響からの回復は必ずその後に続きます。この「良いたより」は,人類のための永続的な救助に関する栄光ある音信をゆだねられている,献身した男女によって全世界に伝えられてきました。彼らの情報は信頼できるものです。その情報は,天と地とすべてのもののうちで他のだれよりも人類の状態について深い関心を持っておられる方から出ているからです。幸いなことに,その方は必要とされている救助を全人類にもたらす完全な能力を備えておられます。事実,そうすることはその方の目的とされるところです。しかし,そうなさることは,その目的に敵対する者たちとの戦い,戦いの戦いを意味するでしょう。

      2 イザヤ書 59章15節後半によると,その勝利の戦士はだれですか。

      2 預言者イザヤは次のように語って,その勝利の戦士がだれであるかを霊感の下に明らかにしています。「そしてエホバはご覧になったが,公正がないのはその目には悪いことであった」― イザヤ 59:15後半,新。

      3 比ゆ的に言うと,王としてのエホバにとってこの地球は何ですか。それでも神はこの地球上で生じる事柄に関心を示されましたか。

      3 このごろ大抵の人々は,天と地の創造者が人間の事柄を注意深く見守っているということを考慮に入れません。では,創造者がそうしてはならない理由があるでしょうか。預言者イザヤが書き記した最後の事柄の一つに次のような言葉があります。「エホバの言われたことはこうである。『天はわたしの王座,地はわたしの足台である』」。(イザヤ 66:1,新)それでは,全創造物の上に君臨されるこの王が,その地的な足台とそこで生ずる事柄に関心を持たれるのは当然ではないでしょうか。この王はご自分が関心を持っていることを示されました。どのようにですか。

      4 エホバは神を恐れたノアの時代に,ご自分の足台に生じていた事柄にどのように関心を示されましたか。

      4 天空の高い所に,この地球全体を取り巻くように懸けられ,太陽や月や星からの直接の光をさえぎっていた膨大な水の天蓋が今日存在していないのは,エホバがその地球という足台の上で生じていることをご覧になり行動を取られたからです。神はご自分の足を洗うためではなく,全人類の間の悪い状態を一掃するために,ご自分の足台の上にその懸けられていた水を高い所から降らせて洪水を起こされました。このことについての霊感を受けた記録はこう述べています。「エホバは,人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうのをご覧になった。……それでエホバはこう言われた。『わたしは,自分が創造した人を地の表からぬぐい去ろう。……』。

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