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聖書本文の純粋さが脅かされる目ざめよ! 1980 | 1月8日
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全巻が含まれていました。この写本は,西暦350年前後に書かれたものと思われますが,発見された当時の権威ある写本より6世紀以上も古いものでした。この写本は,聖書本文に手が加えられたことを明らかにしましたか。
加筆部分が発見され,訂正される
ティッシェンドルフの発見した写本が,今日の聖書の基礎となったものと基本的に同一であることは当初から明らかでした。しかしその写本は,聖書に手が加えられたことを明らかにしました。
その一例は,ヨハネ 8章1-11節(欽定訳)にある,なじみ深い記述です。それは石打ちに遭いそうになった,姦淫を犯した女に関する記述で,イエスが『罪なき者まず石を投げ打て』と言われたと伝えるものです。この初期の写本にはその記述はありませんでした。ですからこの写本の発見後に翻訳された聖書は,その箇所を削除するか,脚注に入れるかして,聖書本文を純化しています。加筆部分はほかにも見付かり,削除されました。―マタイ 17:21; 18:11。使徒 8:37。
より重大な事例としては,偽りの教えを支持するため本文に手が加えられた箇所があります。テモテ第一 3章16節はその例です。欽定訳は,「彼は肉において現われた」(アメリカ標準訳)とする代わりに,「神は肉にて現われ給えり」と,訳出しています。かなりの相違です。どちらが正しいのでしょうか。もし欽定訳が正しいとすれば,イエスが神であるように思われ,イエスは神の子であると述べた聖句と矛盾します。―マルコ 13:32。
古い写本において,英語の“God”(神)と“Who”(男性形の関係代名詞)に当たる語は似通っています([アートワーク ― ギリシャ文字]-“Who”,男性形の関係代名詞)([アートワーク ― ギリシャ文字]-神)。比較的新しい写本は,大抵,[アートワーク ― ギリシャ文字]か,それに相当する形を載せていました。しかし,ティッシェンドルフの発見した写本では,[アートワーク ― ギリシャ文字],つまり神ではなく,イエスを指す関係代名詞になっていました。ある書士がその語句を改変し,「神」と読ませるようにしたのです。5世紀のアレクサンドリア写本を見ると,それが悪意のない誤りだったのかどうか疑わしく思えます。ちょっと見ると,それは[アートワーク ― ギリシャ文字]に見えますが,顕微鏡を使って調べてみたところ,元々[アートワーク ― ギリシャ文字]だったものが,『ずっと後代の人の手で』その意味を変えるために線が書き加えられたことが分かりました。最近の翻訳は本文を純化し,「彼は肉において現われた」という正しい解釈をしています。(「ネッスル,希英行間新約聖書」および「エンファティック・ダイアグロット」の行間逐語訳の読み方をご覧ください。)
手を加えたはなはだしい例は,ヨハネ第一 5章7節にも見られます。そこには,「天には,父と言葉と聖霊(がある)。そして,この三つは一つである」(欽定訳)という句が付け加えられています。この言葉はシナイ写本にないだけでなく,16世紀以前のどのギリシャ語写本にもありません。証拠の示すところによると,現在ダブリンのトリニティ(三位一体)大学に見られる写本は,その偽造した節を挿入するために,1520年ごろ意図的に書かれたものなのです。基本的に言って,現代版の聖書は,例外なくこの加筆部分を削除しています。
大勢の証人たち
西暦4世紀の写本よりも,さらに時代をさかのぼる写本が出て来ようとしていました。エジプトではパピルスに書かれた聖書の写しが発見されました。その中にはミイラを包んでいたものさえあります。これらの写本は細心の注意をもって復元されました。その作成年代は3世紀にまでさかのぼります。ヨハネによる書の断片の一つは,西暦125年もの昔に作成されたものでした。それらの写本を,4世紀の写本,そして今日のわたしたちの聖書と比較した結果はどうでしょうか。一言半句の違いもないというわけではありませんでしたが,その音信に変わりはありません。どこであれ手が加えられた箇所は,すぐに明らかにされます。その音信は,はっきりと響き渡っています。
5,000を超すギリシャ語写本のおかげで,原本の本文を実際に復元する上で,手づるに事欠くことはありません。これら古代写本の研究にほとんど一生を費やしたフレデリック・ケンヨンは次のような結論を出しています。
「これら幾千部もの写本すべての起源をたどってゆくと,地球上の非常に多くの異なった土地や,非常な相違の見られる環境に到達する。ところが本文の変異は,全く末梢的な問題に関するものにすぎず,実質的なものではない。これはまさに,本質的に正しい方法で伝承が行なわれてきたことを示す驚くべき証拠である。
「また,これらの発見すべて,およびこの研究すべての全般的な結果が聖書の真正さの証拠となっていることを,最終的に見いだせたのは心強い限りである。そして,わたしたちは,実質的には損なわれていない,まがうことのない神の言葉を手にしていると確信しているのである」―「聖書の話」,136,144ページ。
聖書は二重の勝利者になります。聖書は本として生き続けるだけでなく,本文の高い純度を保っています。しかし,正確な本文が保たれてきたのは単なる偶然だ,という考えは道理にかなっていますか。二千年近くも前に完成され,激しい攻撃に直面した本が,幾千部もの古代写本という形で,依然として存在しているのは単なる偶然によると言えますか。しかもその古代写本の中には,原本ができてから25年以内に作成されたと思われるものもあるのです。これは,『われらの神のことばは永遠にたたん』と言われている方の力を示す豊かな証拠ではありませんか。―イザヤ 40:8。
聖書の生き延びるための闘いに関するこの記録には,まだ最後の章が残っています。東洋で「生まれた」この本は,どのようにして地の隅々まで生きた言語で配布されるようになったのでしょうか。また,神はなぜ,ご自分のみ言葉があらゆる土地の人々の手に入るよう見守られたのでしょうか。その理由は非常に重要です。
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生きた本は地の果てにまで達する目ざめよ! 1980 | 1月8日
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生きた本は地の果てにまで達する
その人はヨーロッパを制覇し,何者をも恐れませんでした。あたかも向かう所敵なしといった観を呈していました。ところが,聖書の歴史を調べた後,その人,ナポレオンは次の事を認めました。「聖書はただの書物ではない。それに敵するものすべてを征服する力を持つ生きた被造物である」。
確かに,聖書は不滅であることを証明してきた書物です。人を動かすその影響力を受けたのは,その発祥の地だけではありません。中東で生まれはしましたが,聖書は世界各地へ歩を進め,人類の心そのものに向かって,幾百もの言語で“語りかけることを覚え”ました。しかし,深刻な問題が生じなかったわけではありません。
世界の諸言語に訳される
15世紀末から19世紀末にかけて,聖書の“語りかける”
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