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良いたよりに従うことは命の道ものみの塔 1978 | 1月15日
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良いたよりに従うことは命の道
『エホバの汝にもとめたまうことは ただ正義を行ない憐れみを愛し へりくだりて汝の神とともに歩むことならずや』― ミカ 6:8。
1 今日,人々は自分の宗教をしばしばどのように見ますか。
ある宗教の教理を信じていると言いながら,日常生活ではそれを守ろうとしない人々が今日では珍しくありません。人々は往々にして,宗教とは「所属」すべきものと考えており,家庭生活,商取引き,対人関係などにおける自分の行動に影響を及ぼすものとは考えません。
2 なぜキリスト教は一世紀に「この道」と呼ばれましたか。
2 しかし,真のキリスト教は外観の問題ではありません。事実,キリスト教の初期には,キリスト教は「この道」と呼ばれていました。なぜならそれは形式的な崇拝以上のものであったからです。(使徒 19:9,23)それは神を崇拝することによって心にしみ込み,神の霊によって導かれる命の道でした。(ヨハネ 4:23,24。コリント第一 2:11-13)クリスチャン・ギリシャ語聖書には,神に対して気乗りのしない奉仕などしていられない強い表現が至るところに見られます。真のクリスチャンになることを望んでいる人は,『思いを作り変えなさい』,「思いを活動させる力において新たにされ」,『新しい人格を着けなさい』と言われています。(ローマ 12:2。エフェソス 4:22-24)熱心に証しを行なうことに加えて,正しい行ないをすることも絶えず強調されています。―ペテロ第一 1:15; 2:12; 3:16; 5:12。
3 真のキリスト教は個人の生活にどの程度影響しますか。
3 したがって真のキリスト教は,個人の,そしてまた家族の生活のあらゆる面に及びます。クリスチャンは,「心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめて」神を愛し,神に奉仕しなければなりません。(マルコ 12:30)クリスチャンの体,命,人格のどの部分も除外されてはいません。―マタイ 22:37-39。
クリスチャンであることは人間の能力の及ばないこと?
4,5 (イ)神はクリスチャンに,非常にむずかしい,つまり無理なことを要求されているのですか。(ロ)クリスチャンであることはむずかしいので,クリスチャンであることのこの世での利点は,そのために影が薄れてしまいますか。
4 ではクリスチャンになるのは非常にむずかしいことでしょうか。神は無理なことを要求されているのでしょうか。何か「ふつうでないこと」,つまり人間の能力の及ばないことを求めておられるのでしょうか。そうではありません。神は昔ご自分の民イスラエルに対してこう言われました。『人よ彼さきに善事の何なるを汝に告げたり エホバの汝に求めたまうことは ただ正義を行ない憐れみを愛し へりくだりて汝の神とともに歩むことならずや』― ミカ 6:8。
5 この要求のどこに本当にむずかしい,あるいは無理なところがあるでしょうか。実際,もし人々が創造された目的にかなった自然な生き方をするなら,つまり当然すべき仕方に従って生活するなら,神は喜ばれます。それだけのことです。神の規準から逸脱した世界の中でこの道を歩めば,反対や困難が生ずることは事実です。(ヨハネ 16:33。テモテ第二 3:12)しかし実際には神の規準に従って生活する人のほうが自由な良心,より大きな心の平安を持ち,それに加えて,人生の目的また前途の希望を有しています。―テモテ第一 4:8; 6:6-8。
6 神は,わたしたちがたとえ不完全であってもクリスチャンの道を首尾よく歩めるように,どんな備えをしてくださいましたか。
6 人間の不完全さを考えるなら,人が聖書の原則に従ってその良い実を結ぶのはむずかしいことに思えるかもしれません。なるほど不完全な人々はしばしば間違いをし,しかも重大な間違いをすることがあります。しかし,キリストのなだめの犠牲はまさにその理由のゆえに与えられたのです。したがって,悔い改めたクリスチャンは神に近づいて許しを得ることができ,また神の霊はそのクリスチャンが性格を作り変えるように ― 自分のやり方を変えて神の道にいよいよ順応するようにその人を助けます。(ヘブライ 4:15,16。コリント第二 3:17,18)使徒ヨハネは仲間のクリスチャンたちに次のように書きました。「わたしの子どもらよ,わたしがこれらのことを書いているのは,あなたがたが罪を犯すことのないためです。それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたち[油そそがれたクリスチャン]の罪のためだけではなく,全世界の罪[人類の他の人々全部の罪]のためでもあります」― ヨハネ第一 2:1,2。
生活の導きとして聖書はどれほど重要か
7 真のクリスチャンは聖書をどのように考えまた用いますか。
7 神の義の原則に従うには神の導きが必要であることを認識しているので,クリスチャンは聖書研究を自分の生活の一部としています。クリスチャンは使徒パウロの次の言葉を固く信じています。「聖書全体は神の霊感を受けたものであり,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力をそなえ,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」― テモテ第二 3:16,17。
8 聖書を霊感によって記されたものと信ずるなら,全体を文字通りに取るべきですか。例を挙げなさい。
8 したがって,聖書全体,つまりヘブライ語聖書すなわち「旧約聖書」,ギリシャ語聖書すなわち「新約聖書」の両方の内容は,あらゆる面でクリスチャンの導きとなる,全く真実の,そして神の霊感によって書かれた,完結した神の言葉です。といってもそれは,一部の根本主義者たちが信じているように,すべてを文字通りに取らねばならないという意味ではありません。文字通りの命令がたくさんあることは確かです。しかし歴史も多く,また象徴的な言葉や予表的な声明も少なくありません。例えば,世界の諸政府は時々獣で表わされています。(ダニエル 8:1-8,20-22。啓示 17:3,9-12)また一「日」といっても,それは24時間の一日であるかもしれず,あるいは何年かの期間を表わしているかもしれません。(創世 2:4。ヨハネ 8:56)その聖句の文脈および聖書中の他の関連した聖句は,どの聖句が文字通りの意味を持ち,どの聖句が象徴的また預言的であるかを学ぶ者が見分けるのに役立ちます。
9 クリスチャンにとって聖書全体が価値を有するのはなぜですか。
9 クリスチャンは聖書をこのように見ているので,直接の命令と律法を多く含むクリスチャン・ギリシャ語聖書,そしてまた多くの原則,例え,預言,生活の諸問題に関する神の態度と見方を明示する実際に起きた歴史的事件の記録,などの載っているヘブライ語聖書を研究します。(コリント第一 10:11)聖書には,様々な事態や状況に対する神の対処の仕方を示す大小の事件が全巻を通して数多く見られます。そうした多くの事件を通して人は神のご性格を詳しく知り,まただれよりも神を親しく知っておられる『キリストの思いを持つ』よう助けられます。―コリント第一 2:16。マタイ 11:27。
クリスチャンの生活は苦行者の生活?
10 地上でのイエスの生活は,イエスが苦行者でなかったこと,または一定の形式に従った生活をしなかったことを,どのように示しましたか。
10 ゆえに,クリスチャンの生活は規則または一定の形式に従う問題ではありません。キリストの生活は,クリスチャンが培わねばならない霊と愛を反映しています。(マタイ 5:44。ヨハネ第一 5:3)イエスはあらゆる点で神の意にかなった人でした。(ヨハネ 8:29)イエスは不義なことは全く行なわれませんでした。しかし完全であったとはいえ,イエスは苦行者ではありませんでした。結婚式や宴会に出席し,生活の中の良いものを正しく評価されました。(ヨハネ 2:1-10。ルカ 5:29。マタイ 11:18,19)すべてのことにおいて節度を示し,自分自身にも他の人々にも無理な要求をされませんでした。(マルコ 6:31。ヨハネ 4:6)イエスは生活を楽しみ,また神を知るよう他の人々を助ける仕事を楽しまれました。(ヨハネ 4:34)イエスはご自分の義と他の人が犯す間違いとを絶えず比較するようなことはされず,人々に対して同情心とあわれみを持っておられました。(マタイ 9:36。マルコ 1:41)しかし,悪行は強く非難し,偽善は暴露されました。―マタイ 15:1-9; 23:23-32。
11 (イ)エホバの証人は,自分の不完全さを罪を犯す言い訳にすべきですか。あるいは自分の義に狂喜すべきですか。(ロ)使徒パウロが述べているように,クリスチャンは皆どんな矛盾を経験しますか。
11 こうした事柄においてイエスはクリスチャンに手本を残されました。もちろんクリスチャンは,自分たちがイエスと違って完全でないことを認めていますが,それでもイエスの手本に従うべく真剣に努力します。クリスチャンは悪行を避けることに努めます。しかし,自分が持っている義は神のあわれみによるもの,また聖書に従う結果であることを自覚しています。それはクリスチャン自身の手柄にすべきものではありません。詩篇作者は,『ヤハよ主よ なんじもしもろもろの不義に目をとめたまわば たれかよく立つことをえんや』と述べましたが,クリスチャンも同じくそのことを認めています。(詩 130:3)自分たちが罪人で,時々間違いをすることを知っています。使徒パウロ自身が言った通りです。
「そこでわたしは,自分の場合にこの法則を見いだします。自分では正しい事をしたいと願うのに,悪が自分にあるということです。わたしは,内なる人にしたがえば神の律法をほんとうに喜んでいますが,自分の肢体の中では別の律法がわたしの思いの律法と戦い,わたしをとりこにして肢体の中にある罪の律法へと引いて行くのを見ます。わたしはなんと惨めな人間でしょう。こうして死につつある体からだれがわたしを救い出してくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです! こうして,わたし自身は,思いでは神の律法の奴隷ですが,肉においては罪の律法の奴隷なのです」― ローマ 7:21-25。
12,13 (イ)クリスチャンはどのようにして,『義に過ぎ』『賢きに過ぎ』ることのないようにしますか。(ロ)クリスチャン証人は,罪に負けたときどうしますか。(ハ)エホバの証人はなぜ「良いたより」を他の人のところへ携えてゆきますか。
12 したがって,真に「この道」に従っている人は,賢そうな,あるいは独善的な態度を装って他の人の誤りやまずい判断などを捜し出すようなことをしないという意味で,『義に過ぎない』ように,または『賢きに過ぎない』ように努めます。(伝道 7:16)しかし,義を行なうことを心から自分の目標とします。心を弱くして悪い欲望に負けたり,神に対する忠誠を捨てさせて重大な悪行を強制的にさせようとする圧力に屈したりしません。それでも時には不完全ゆえに過ちや罪を犯すことがあるかもしれません。もし本当に罪を犯したなら,そのことを認めて悔い改め,イエスの名によってエホバに祈り,許しを求めます。(使徒 10:43)キリストの完全な犠牲が罪の許しの基礎であることを信じているからです。(テモテ第一 2:5,6)そして以後その罪を繰り返さないようにあらゆる努力を払います。罪の道を歩めば神の恵みを失う結果になることをその人は知っています。また自分が見いだした「良いたより」を,愛から他の人々に伝えます。「良いたより」の熱心な宣明者として,人々が信仰の必要と,聖書の原則に一致した生活をすることの重要さを悟るよう助けることに努めます。そしてイエス・キリスト,また聖書中にその信仰の生活を記述されている人々を模範とあおぎます。―ヘブライ 11:1–12:3。
13 「良いたより」に従うということには,あらゆる事柄におけるクリスチャンの行動が関係しています。それでこの機会にわたしたちは,クリスチャンになる人すべてのために神がお定めになった基礎的規準を幾つか取り上げたいと思います。
クリスチャンの生活の中で真実さが演ずる役割
14,15 (イ)エホバを崇拝するにはなぜ『真理をもって』しなければなりませんか。(ロ)家族にとって「真実」は何を意味しますか。
14 エホバ神が人を造り,また人が必要とするものをご存じである以上,人は自分自身の福祉のために,神が聖書の中で示しておられる道徳規準に従って生活することがぜひとも必要です。まず,エホバは「真理の神」です。(詩 31:5,新)エホバを崇拝するには,「霊と真理」をもってしなければなりません。(ヨハネ 4:24)真実さは,神との平和を保つためのみならず,他の人々と仲良く暮らすためにも必要です。使徒パウロはクリスチャンに次のように助言しています。「それゆえ,あなたがたは偽りを捨て去ったのですから,おのおの隣人に対して真実を語りなさい」― エフェソス 4:25。
15 家族の中での「真実」が何を意味するかを考えてみましょう。もしいつも「真実」が語られるなら,家族の成員の間には信頼があります。夫と妻の間には敬意と親密さがあります。『意思の交流のとぎれ』などありません。子供たちは自分の生活の中で行なわれる事柄を親に知らせたがります。問題を解決する際によく考えてもらえるし,導きも得られることを確信しているからです。子供たちはまた,自分の親の言うこととすることとが一致しているのを知っています。どんな状況のときでも親の助けを当てにすることができるのです。
16 ヨハネ 14章6節のイエスの言葉は,クリスチャンが真理を語る必要をどのように強調していますか。
16 「わたしは道であり,真理であり,命です」とイエス・キリストは言われました。(ヨハネ 14:6)クリスチャンにとって「道」とは,イエスがされたと同じように考え,感じそして行動することです。それには,イエスが神のお定めになった事柄をすべて成就されたように,あらゆる面で「真理」に従うことが要求されます。次の記事では,その「道」が要求する他の事柄を幾つか検討してみましょう。
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命の道 ― 狭くても自由な道ものみの塔 1978 | 1月15日
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命の道 ― 狭くても自由な道
1 マタイ 7章14節では,「狭い」という語にどんな意味がありますか。
イエス・キリストは言われました。『命に至る門は狭く,その道はせばめられている』。(マタイ 7:14)イエスの言葉を伝えるにあたってマタイが用いたギリシャ語は,「マタイ 7章13,14節では,とこしえの命に入ることを可能にする門としてひゆ的に用いられています。その門が狭いのは,それが自然の傾向に逆行するものであるからです」― W・E・バイン編「新約聖書用語解説辞典」。
2 「この道」の『狭さ』は,真の自由を制限するものでないことについて述べなさい。
2 したがって「この道」の『狭さ』は,狭量であるとか,過度に謹厳な道であるということではありません。僧院におけるように,世を離れて暮らすことでもありません。それは,放縦でない,目標がある,動揺しない,という意味での『狭さ』です。その道は,人に有害な事柄をさせないよう禁止するので「狭い」のです。真の自由というものは,人がしたい放題のことをするための許可証ではありません。なぜなら,そういう行動は他の人々の自由を侵害するからです。また紛争や憎しみ,はては殺人行為まで引き起こすに至り,自由はすぐになくなってしまうでしょう。例えば,この世の政府の法律が全く守られないとしたら,その結果は無政府状態となり,だれも真の自由と幸福を持たないひどい事態になるでしょう。
3 クリスチャンの歩む道が「努力」の道であるのはなぜですか。
3 クリスチャンにも,ほかの人たちと同じように,不完全な点や弱点がたくさんあります。それらを改めようとするときに,クリスチャンは肉の不完全さゆえに惨めな思いをします。というのはその不完全さと闘わねばならないからです。(ローマ 7:24)ルカ 13章24節でイエスは,「狭い戸口を通ってはいるため,精力的にa努力しなさい」と言われました。狭い戸口を通るには,ちょうどオリンピック競技に出場する走者が昔からしてきたような努力が必要です。それは,命への「道」そのものがいやなもの,あるいはなんらかの意味で反対すべきものであるからではなく,この世やわたしたち自身の不完全な性格が圧力をかけて妨害するからです。「この道」の標準は高いところにあります。しかしそれに到達すれば,最大の満足と,喜びと,自由が得られます。
4 参照聖句が示しているとおり,真のクリスチャンはなぜ信頼できますか。
4 正直さは,「この道」が要求するものの一つで,「この道」を狭くするものです。仲間の人間を信頼できない世界の中で,人はどんな真の安心感や幸福感を持つことができるでしょうか。ですからクリスチャンは,言葉においてのみならず行動においても,正直を道とします。(ヨハネ第一 3:18)真のクリスチャンは,盗むことも搾取することもしません。事業を行なうにあたっては,袖の下を取るとか,ぴんはねをするとか,問題を偽り伝えるなど,陰険な,法に反するやり方で経費を節約するようなことをしません。ひそかに取引したり,特別の愛顧や特権を得るためにわいろを使ったりするようなこともしません。(出エジプト 23:8。詩 26:9,10)拾得物でさえ,持ち主がどこにいようと,返すことが可能ならば,報酬を要求したり望んだりすることなくそれを返します。―申命 22:1-3。
5 クリスチャンはこの世にあって正直に行動することができますか。
5 しかしクリスチャンは,不正直な考え方,すなわち利己主義に基づいて運営される世界体制の中で,首尾一貫してこの道を歩むことができるでしょうか。真のキリスト教を実践する人々はいくらかの苦難を経験してきました。雇用者のために不正直なことをするのを拒否して職を失ったこともありました。しかし大抵の場合雇用者は,彼らが給料に値するだけの良い働きをするので,彼らを尊敬し,より重い責任を持たせることが少なくありません。クリスチャンたちは,頼りになる人,良心的で信頼できる人,ほかの人たちと仲良くやってゆける人であることが認められています。正直を通すには勇気がいります。しかしクリスチャンは聖書の助言や,ヘブライ 13章5,6節の神の約束に頼れます。「あなたがたの生活態度は金銭に対する愛のないものとしなさい。そして,今あるもので満足しなさい。『わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない』と言っておられるからです。こうして,わたしたちは大いに勇気を持って,『エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人はわたしに何をできようか』と言います」。
命の道に欠くことのできない品行方正
6 (イ)「新しい道徳」はどんな実を結んでいますか。(ロ)使徒パウロは不品行とその実についてどのように述べていますか。
6 聖書を読む人ならだれでも,品行方正と道徳的清さが,クリスチャンの歩む命の道に絶対必要であることを知っています。しかし,今日多くの人々は,その見方は時代遅れであると言い,締りのない,何事も大目に見る「新しい道徳」が,より豊かな生活へと人々を解放しつつある,と言います。それは事実でしょうか。今日の状態をご覧なさい。「新しい道徳」はどんな実を結んでいますか。心痛,家族の崩壊,病気,死です。だれの場合でも,もし不品行がその暮らし方の中に入り込むなら,その人の幸福は損なわれずにはすみません。使徒パウロは,不品行の及ぼす影響について述べていますが,今日の状態は彼が言ったことの真実さを証明する紛れもない証拠です。パウロは,何事も大目に見る行き方に従ったある人々について次のように書いています。
「彼らは,神を知りながらそれを神としてたたえず,また感謝せず,その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなったのです。自分は賢いと唱えながら,彼らは愚かとなり(ました。)……そのため神は,彼らをその心の欲望に合わせて汚れに渡し,彼らの体が自らの間で辱しめられるようにされました。実にそれは,神の真理を偽りと換え,創造したかたより創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた者たちです。……このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,そして同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事がらを行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです。そして,ちょうど彼らが神についての正確な知識を身につけることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不穏当な事がらを行なうにまかされました」― ローマ 1:21-28。
7 クリスチャンになるにはどんな変化が必要であることを同使徒は示していますか。
7 次いで同使徒は,多くの犯罪と下劣な行為に言及していますが,わたしたちはそれらが今日世界中で盛んに行なわれているのを見ています。(ローマ 1:29-32)別の手紙の中では彼はクリスチャンにこう言っています。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい。こうした事がらのゆえに神の憤りは臨もうとしているのです。かつてそうした中で生活していた時には,あなたがたもまさにそうした事のうちを歩んだのです。しかし今は,そうしたものを,憤り,怒り,悪,ののしりのことば,またあなたがたの口から出る卑わいなことばを,ことごとく捨て去りなさい」。(コロサイ 3:5-8)神の助けを求めながらこの道に従うことに最善を尽くした人々は,不品行や,パウロが挙げたこうした行ないを避けることによってはるかに大きな幸福を見いだしました。―テモテ第一 4:8。
心霊術は人を正しく導くか
8 (イ)なぜ多くの人は今日秘術に情報を求めますか。秘術は人を霊的に導きますか。(ロ)ヘブライ語聖書は心霊術に対する神の見方をどのように示していますか。
8 現在,人々は本当に助けを必要としています。難問題がたくさんあって,どうしていいか分からないために,力を貸すと言ういろいろなものに心を引かれます。その一つが秘術,すなわち心霊術や占いなどのたぐいです。そういうものに頼れば,命への道を歩むようになれるでしょうか。彼らは霊的指導を行なうではありませんか。いいえ,聖書は心霊術をむしろ「肉の業」の中に数えています。なぜなら,心霊術は霊的な願いではなく肉的な欲望を満足させるものだからです。(ガラテア 5:19-21)エホバの言葉は,あらゆる形の心霊術もしくは秘術,およびそれらに助けを求める人々に対するエホバの態度を明らかにしています。エホバはご自分の古代の民イスラエルに言われました。
「あなたは[カナンの]それら諸国民のなす嫌悪すべき事柄を習い行なってはなりません。あなたの中に……占いを用いる者,魔術を習わしにする者や吉凶の徴を求める者,呪術をなす者,また,まじないで他の人を縛る者や霊媒に相談する者,物事を職業的に予告する者,死者に問う者などがいるべきではありません。すべてこうした事を行なう者はエホバにとって嫌悪すべきものであ(る)」― 申命 18:9-12,新。
9 心霊術的手段で何かを知ろうとする人は,実際にはだれに訴えていますか。
9 神が心霊術を非としておられる以上,何かを知ろうとして,あるいは助けを得ようとして心霊術に訴える人は,神に訴えているのでないことが明らかになります。その人は,神に反対するものに頼っているのです。聖書はそれが何であるかを示しています。使徒パウロはクリスチャンに次のように書きました。「諸国民が犠牲としてささげるものは,悪霊に犠牲としてささげるのであり,神にささげるのではない(の)です。それでわたしは,あなたがたが悪霊と分け合う者となることを望まないのです。あなたがたは……『エホバの食卓』と悪霊の食卓に同時にあずかることはできないのです。それとも,『わたしたちはエホバにねたみを起こさせるのですか』。わたしたちのほうが強いわけではないでしょう」― コリント第一 10:20-22。
10 心霊術に頼る人はどんな大きな危険に陥りますか。
10 そういうわけで,だれにせよ問題が起きたときに神の言葉を無視して神以外のものに導きを求めるなら,その人は神を拒否しているのであり,神と人との最悪の敵,すなわち悪霊たち,「悪霊どもの支配者」サタン悪魔の支配下で活動する反逆したみ使いたちの手に陥りつつあるのです。―ルカ 11:15。ペテロ第一 3:19,20。ペテロ第二 2:4。ユダ 6。エフェソス 6:11,12。コリント第二 4:4。
占星術も真の導きではない
11 (イ)人の中にあるどんな創造された機能を占星術は否定しますか。(ロ)星を調べるよりも,聖書はどんな助言を与えていますか。(ハ)様々な形の心霊術を行なったため,古代バビロンはどうなりましたか。
11 占星術はどうかというと,これもまた神を,そして人類に対する神の主権を否定し,そのうえに人間自身の自由意志も否定します。占星術によると,人間は自由な倫理的主体ではありません。人間の生活のすべての面は,星と惑星の位置に支配されています。したがって人間は実際にはロボットだというわけです。しかし人は神の像と様に造られました。自分自身の意志を持っています。自分の行きたい道を選ぶことができ,したがって自分自身の運命を定めることができます。聖書は再三この選択の自由について述べ,幸福な永遠の命を得たいなら,神が示しておられる道を選ぶよう助言しています。(申命 30:19,20。マタイ 6:33。使徒 17:26,27。啓示 22:17)さらに神は,「天の徴を見ても恐怖に打たれ」ないようにと警告しておられます。(エレミヤ 10:2,新)古代バビロンは神の敵でした。そしてその様々な形の占星術,心霊術,悪霊崇拝のゆえに滅ぼされました。神はバビロンに対して次のように言われました。
「あなたが若い時から勤め行ったあなたの魔法と,多くの魔術とをもって立ちむかってみよ,あるいは成功するかもしれない,あるいは敵を恐れさせるかもしれない。あなたは多くの計りごとによってうみ疲れた。かの天を分かつ者,星を見る者,新月によって,あなたに臨む事を告げる者を立ちあがらせて,あなたを救わせてみよ。見よ,彼らはわらのようになって,火に焼き滅ぼされ,自分の身を炎の勢いから,救い出すことができない。……ひとりもあなたを救う者はない」― イザヤ 47:12-15,口。
罪をならわしにする者たちに対するクリスチャン会衆の責任
12 (イ)クリスチャン会衆が悪を行なわない状態を保たねばならないのはなぜですか。それを確実にするために何を行ないますか。(ロ)悪行者に対して処置が取られると,クリスチャン会衆に関連した生活はどのように楽しいものになりますか。
12 神の恵みを失わないためには,エホバの証人のクリスチャン会衆は,神がその記された言葉の中で示しておられる規準と神の見方とに調和して,悪行というとがのない状態を保たねばなりません。神の目に清い者でなければなりません。したがって会衆はその成員に,クリスチャンにふさわしい生き方を維持することを求めます。真理,道徳,正直に関する聖書的原則をしつように犯しつづける人,また心霊術にかかわりを持つ人は,会衆から追放すなわち排斥しなければなりません。(コリント第一 5:11)そうすれば,キリスト教世界の諸教派を損なった腐敗や堕落が真のクリスチャン会衆内に足場を得ることはありません。エホバに対する清い純粋の崇拝において,霊的に清い人々と交わるのは本当に楽しいものです。
13 「良いたより」に従順であれば,現在および将来においてどんな利点がありますか。
13 そのうえ,神の王国と神の義を第一に求めながら神からの「良いたより」に従うことは,現在においても満足のいく,幸福な生き方です。さらに,王国の支配する地上では,その清さや静穏を損なう者に神は命をお与えになりません。聖書の巻末の書には使徒ヨハネの見た幻が記録されていますが,その中で彼は次のように述べています。
「わたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすでに過ぎ去っており,海はもはやない。また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た。それとともに,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ! 神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである』」― 啓示 21:1-4。
14 「新しい地」に関する啓示の描写からすると,不品行な者,心霊術や搾取などを行なう者は,新しい地に入りますか。
14 うそをつくこと,淫行,姦淫,同性愛行為,泥酔,麻薬の乱用,心霊術,占星術,秘術,とばく,詐欺,紛争,殺人などが,そのような人間社会の中で場を占め得るでしょうか。こうした悪い事柄のしみ込んでいる地が,涙も死もないところとなり得るでしょうか。そういうことは決してありません。神ご自身がこのことをわたしたちに保証し,こう言っておられます。「憶病な者,信仰のない者,不潔で嫌悪すべき者,殺人をする者,淫行の者,心霊術を行なう者,偶像を礼拝する者,またすべての偽り者については,その分は火といおうで燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死である」― 啓示 21:8。
15 正しいことを行ないたいと心から望む人に,神はどんな助けを必ず与えてくださいますか。
15 しかし正しい事に傾く心を持つ人々,また仲間の人間と仲良く暮らすことを本当に望む人々を,エホバ神は助けのないまま放置することはされません。エホバ神の意にかなった,エホバの恵み深い是認を得られる生き方をするよう,エホバはご親切にも十分の力と勇気と仲間のクリスチャンたちからの助けとを備えてくださいました。霊感を受けた記述者は次のように述べています。「それゆえ,わたしたちには,もろもろの天を通られた偉大な祭司,神の子イエスがおられるのですから,彼についての告白を堅く守りましょう。わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできないかたではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のないかたを,大祭司として持っているのです。それゆえ,時にかなった助けとしてあわれみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか」― ヘブライ 4:14-16。コリント第一 10:13を参照してください。
16 「良いたより」を聞き,「この道」を歩み始め,そして歩みつづけるなら,その人は良い結果を確信することができますか。
16 人類が神に近づき,神の恵みを得,そして従順の道を歩むよう,神はなんとすばらしい取り決めを設けられたのでしょう! しかも神は,ご自分に従うことを選んだ人々が命の道を歩む間,ご親切にも普通を超えた力を与えて助けてくださいます。そのために,心から従順の道を歩んでいる人は,「この道」を失敗することなく歩む確信を持つことができるのです。(コリント第二 4:7。イザヤ 40:10,11,29-31)これに加えて自由があります。すなわち心の平安,はっきりした目的,経済状況や,戦争や死などに対する病的恐れからの自由があります。真のクリスチャンは本当に助けとなり慰めとなるものを持っているので,他の人々をより広範囲に助けることができます。
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