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あなたは自分自身に親切ですかものみの塔 1959 | 11月15日
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ときに,「否」と言うことができなければなりません。まちがつた親切のために,隣人は私たちに放縦をすすめることでしよう。あるいは,私たちを愚行にさそうのは自分の自慢になると考えてそうすることでしよう。あるいは,私たちをあざむくために外見上の親切を装うのかも知れません。それに対しては,シンゲン 23章6,7節で私たちは戒められています。それですから,良い人と思われたいために,自分に対して不親切であつてはなりません。十分に持つたなら,そこで止めなさい。他の人々が何を考えようと,また言おうとも,それにはかかわりなくあなたの知つている正しいもの,最善なことを行いつづけなさい。
私たちの最者の友だちでさえ間ちがえることがあります。聖書の告げるところによると,あるときイエスは彼の将来が迫害,死そして復活であると弟子たちに戒めました。『すると,ペテロはイエスをわきへ引き寄せて,いさめはじめ,「主よ,とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言つた。イエスは振り向いて,ペテロに言われた,「サタンよ,引きさがれ,私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思つている。」』ペテロは善意から語りました。しかし,イエスは事態をより良く知つていたのです。―マタイ 16:22,23,新口。
自分自身に親切であることは,自分自身と他の者たちに「否」と言えるだけでなく,義務に対して「然り」と言うことでもあります。私たちのしなければならぬことを行つてよろこびを感じ,またごく僅かな努力をして心の平和が得られるとき,罪の意識にさいなまれて苦しむ必要はないでしよう。それですから,神の御言葉は,『正しい良心を持て』と賢明にも私たちにすすめているのです。―ペテロ前 3:16。
あなた自分に親切であることは,満足ということをも含みます。自分の利己的な野心をみたすために自分自身と他の者たちをなさけ容赦なく使う人は,自分自身に対して親切ですか。聖書は次のように答えています,『富むことを願い求める者は,誘惑と,わなとに陥り,また,人を滅びと破壊とに沈ませる,無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは,すべての悪の根である。ある人々は欲ばつて金銭を求めたため,信仰から迷い出て,多くの苦痛をもつて自分自身を刺しとおした。』「多くの苦痛をもつて自分自身を刺しとおす」人が,自分自身に対して親切でないことは明白です。
もし自分自身に対して親切でありたいと欲するなら,私たちは『信心があつて足ることを知る』ようにしなければなりません。つまり,満足を感ずるようにしなければなりません。なぜなら,それは真実に大きな利得だからです。私たちは,何も持たずにこの世に来たのですから何も持ちさることができません。それですから,衣食住があれば満足すべきである,と使徒はさらに助言しています。―テモテ前 6:6-8。
創造主である神は,私たちが自分自身に対して親切であるよう期待しておられます。神は私たちが幸福であるようにと欲しておられるのです。近視眼的な見方を取らないとき,私たちは節制を行い,満足を感じます。そして,『ヱホバのめぐみは人を富ます,人の労工はこれに加うるところなし』という言葉を記憶します。―シンゲン 10:22。
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キリスト教は第一面のニュースものみの塔 1959 | 11月15日
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キリスト教は第一面のニュース
『キリスト教は社説欄を通して世に来たのでなく,ニュース欄を通して来たということを忘れてはならない』とハルフォード・イー・ルコックは「クリスチャン信仰の宝」(英文)の中で書いています,『それはニュースの出来事であつた ― 第一面の大見出しのニュスであつた。特別なことが起きたのだ……福音は最初ニュースとして伝道された。キリスト教が力をもつて伝道されたときには,それは何時でもニュースとして伝道された。キリスト教が単なる助言という弱いものになつてしまつたとき,それは単に社説のキリスト教になつてしまい,霧のごときばくぜんたる雲に蒸発してしまつたのである。』
キリスト・イエスは次のことを示しました,すなわち神の御国が天で設立されたという音信はニュースであつて最善の種類のニュースであるということです。『この良いニュース』は,『すべての民に対してあかしをするために,全世界に宜べ伝えられるであろう。』― マタイ 24:14。
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