ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 「大群衆」はどこで神聖な奉仕を行ないますか
    ものみの塔 1980 | 11月15日
    • 「大群衆」はどこで神聖な奉仕を行ないますか

      「このゆえに彼らは神のみ座の前にあり,神の聖所で昼も夜も神に聖なる奉仕を行なっているのです」― 啓示 7:15,ロザハム訳,エンファサイズドバイブル。

      1 世の宗教に関して一般の「群衆」はどんな状態にありますか。

      宗教は衰微しつつあります。したがって教会や大寺院,聖堂などでの「聖なる奉仕」に出席する人々も減少しています。この減少は,キリスト教世界なるものを構成する国々で顕著です。信仰のない人,懐疑論者,不可知論者,無神論者,宗教に反対する人などが増えています。どんな宗教復興運動も,彼らをもとの状態に戻すことはないでしょう。これが,一般の「群衆」とも言える人々の状態です。

      2 わたしたちは,ローマ政府によってパトモス島に流された老人が幻の中で予見したどんな「群衆」に関心を抱いていますか。

      2 しかしわたしたちが関心を抱いているのは,ある特別の群衆,ローマ帝国の政府によってパトモス島に流された一老人が予見した「大群衆」です。14万4,000人の霊的イスラエル人の幻を見たのち,ヨハネは次のように記しています。「これらの事柄ののちわたしが見ると,見よ,あらゆる国民,すべての部族,民族,国語のうちから,だれにも数えつくせない大群衆が,白い衣をまとい,手にしゅろの枝を持って,み座の前と子羊の前に立っている。そして彼らは大声で叫んで言う。『救いはみ座にすわっておられるわたしたちの神に,そして子羊に帰せられるように』」― 啓示 7:9,10,ベンジャミン・ウィルソン訳,エンファティックダイアグロット(ED)。

      3 その「大群衆」の人々が礼儀にかなった装いで立っているのはなぜですか。彼らは天にいると広く考えられているのはなぜですか。

      3 この「大群衆」はなんと名誉ある立場の者として語られているのでしょう。そしてまたなんと威厳ある様子をしている者のように言われているのでしょう。現代においても,王座に座す君主の前にあるときに立っているのは礼儀ですが,ここでは「大群衆」の人々は,神ご自身のみ座の前に立っているのです。また,その場にふさわしく,一点のしみもない白い衣を着ています。彼らは戸外に集まって立っているように見えますか。そうではありません。啓示 7章15節(ED)には,「彼らは……公に昼も夜も神殿[ギリシャ語原文ではナオス]で神に仕えている」と述べられています。ということは,この「大群衆」を構成する人々は最後に,彼らが救いを帰す神のおられる天に行くという意味でしょうか。これに対する答えは一般に“然り”です。なぜなら,彼らが神に対して公の奉仕もしくは「神聖な奉仕」を行なうのは「神殿において」(ED),もしくは「聖所において」(ロザハム)であると言われているからです。

      4 これは,ギリシャ語のどの言語をめぐる問題ですか。ヨハネ 2章19-21節では何に関連してこの語が用いられていますか。

      4 しかし,その見方は,聖書巻末の書である啓示の中で述べられている詳細な事実すべてと一致するでしょうか。また,自分は現在形成されつつある「大群衆」の一員であると考えている人々について言えば,彼らは天に行ってみ使いのような霊者になることを期待しているでしょうか。天に行くことを本当に望んでいるでしょうか。その望みは持っていないと彼らは言うでしょう。彼らは自分が天的希望を持つように神の霊によって生み出されたとは考えていないのです。問題の中心は,「天幕」,「神殿」,「聖所」などとさまざまに訳されている例のギリシャ語の原語をめぐる問題です。例えば,聖書にはイエス・キリストが両替屋と商人をヘロデの神殿から追い出されたことが記述されていますが,その部分で用いられているギリシャ語の原語はナオスで,次のように書かれています。「イエスは,『この聖所[ナオス]をこわしなさい。そうしたらわたしは三日でそれを建て直そう』とお答えになった。ユダヤ人は,『この聖所[ナオス]を建てるには46年かかったのに,あなたは三日で建て直すのですか』と言った。しかしイエスがおおせられた聖所[ナオス]とはご自分の体のことであった」。(ヨハネ 2:19-21,エルサレム聖書)ユダヤ人は何を指して聖所と言ったのでしょうか。

      5 (イ)ユダヤ人は,これを建てるのには46年かかったと言いましたが,どの造営物のことを言っていたのではないことがわかりますか。(ロ)ギリシャ語セプトゥアギンタの中で,イザヤ書 66章6節の訳に用いられているナオスという語は何に当てはまるに違いありませんか。

      5 もちろんそれは,入り口の間を含む奥の聖所,すなわち仕切られた室である聖所と至聖所ではありませんでした。彼らは神殿の建物全体を指してそう言ったのです。それには中庭も含まれています。その中庭の一つで両替屋と商人はあきないをしていたのです。ヘロデの神殿は全体が西暦70年にローマ人によって破壊されてしまいました。しかし,西暦前607年に破壊された昔のソロモンの神殿と違い,ヘロデの神殿は再建されませんでした。イザヤ書 66章6節には,エルサレムの神殿に関し,預言的な意味で次のように述べられています。「町から聞こえるあの騒ぎ,神殿[ギリシャ語セプトゥアギンタ訳ではナオス]におけるあの大騒ぎは,主がその敵に報復しておられる音である」。(新英訳聖書)「聞け,町からの大騒ぎを,聞け,神殿[ナオス]から来る大騒ぎを,聞け,主はその敵に仇を返しておられる」。(アメリカ・ユダヤ人出版協会)神殿あるいは聖所すなわちナオスが奥の聖所だけを意味するのではなく,その造営物すべてを含む神苑全体を意味することは明白です。

      6 西暦33年の過ぎ越しの夜,ユダヤ人はイエスおよびエルサレムのナオスに関してどんな偽りの証言をしましたか。

      6 西暦33年ニサン14日の過ぎ越しの夜,あるユダヤ人たちは大祭司とサンヘドリンの前で証言しましたが,もしその証人たちが西暦70年まで生きていたなら,運命を決するあの晩に彼らが行なった,イエス・キリストに不利な証言は偽りであったことがわかったでしょう。「わたしたちは,彼が,『わたしは手で作ったこの神殿[ナオス]を壊し,手で作ったのではない別のものを三日で建てる』と言うのを聞きました」と,彼らは証言しました。(マルコ 14:58)イエスを殺させたにもかかわらず,彼らは神殿を救うことができず,神殿は西暦70年に完全に破壊されてしまいました。

      7 (イ)ユダヤ人は,カルバリで刑柱にかけられたイエスを,どのようにあざけりましたか。(ロ)裏切り者のユダはわいろの金を最後にどこに投げ捨てましたか。

      7 その同じ日の後刻,敵意を抱くユダヤ人は,エルサレムの外で杭にかけられていたこのイエスを見て,イエスが言っていたことは実行されずに終わった,と考えたことでしょう。ユダヤ人はイエスの言葉を間違って解釈していたのです。「それで,通行人たちは彼のことをあしざまに言いはじめ,頭を振ってこう言った。『やい,神殿[ナオス]を壊して三日でそれを建てると称する者よ,自分を救ってみろ! 神の子なら,苦しみの杭から下りて来い!』」。(マタイ 27:39,40。マルコ 15:29,30)しかし,イエスが杭に付けられる前に,銀30枚でイエスを残忍な敵に売りわたした弟子は罪を免れることを試みました。それは十二使徒の一人,ユダ・イスカリオテでした。彼はわいろの金を返そうとしましたが,贈賄者はそれを受け取ろうとしませんでした。その方法で罪を払いのけることができなかった裏切り者は何をしたでしょうか。マタイ 27章5節には次のように記されています。「ユダはその金を聖所[ナオス]に投げ込んで彼らのところを去り,それから行って首をつった」。(福音聖書,エルサレム聖書,ヤングの字義訳聖書)他の現代語聖書ではナオスがなぜ「神殿」と訳されているのでしょうか。

      8 多数の聖書翻訳者がここで「聖所」の代わりに「神殿」という語を用いている理由はどこにあると思われますか。

      8 それは訳者たちが,この部分のそのギリシャ語は,ポーチのある奥の聖所,すなわち聖所と至聖所,大祭司が年に1度の贖いの日に犠牲の血を携えて入った所のことではないと認めていたからでしょう。この語は中庭すべてを含む神殿を意味しました。

      9 (イ)神のナオスで奉仕するためには,「大群衆」は天にいる必要がありますか。(ロ)啓示 3章12節によると,ナオスには限られた意味がありますか。

      9 したがって,「大群衆」は神の「神殿」すなわちナオスの中にいると言えますが,それでも霊の被造物として,神の「小さな群れ」を形成する14万4,000人の霊的イスラエルと共に天にいるわけではありません。(啓示 7:1-9,15。ルカ 12:32)ナオスには限定された意味があるとも考えられます。というのは,イエス・キリストが,1世紀に小アジアのフィラデルフィアにあった会衆に次のように言っておられるからです。「わたしは,勝利を得る人を,わたしの神様の神殿[ナオス]の柱とします。そこは安全で,もはや追い出されたりはしません。わたしはその人に,神様の名を刻みます。そして,神様の都,すなわち,天の神様のもとから下って来る,新しいエルサレムの市民とします。こうして,彼は,わたしの新しい名を刻まれるのです」― 啓示 3:12,リビングバイブル。

      10 啓示 7章9-17節には,「大群衆」がその限定されたナオス内の会衆にいないことが,どのように示されていますか。

      10 啓示 7章9-17節には,「大群衆」の構成員の上にそうした名が刻まれるとは述べられていません。また彼らが神の神殿の「柱」とされるとも言われていません。象徴的な「柱」とされるのは,12部族の霊的イスラエル人,14万4,000人です。

      11,12 (イ)数の定まっている霊的イスラエル人は,名前の点で「大群衆」とどのように異なっていますか。(ロ)啓示 14章1-5節によると,神のもとから下る都市の名前はなぜ14万4,000人にふさわしいと言えますか。

      11 数えつくせない「大群衆」とは違い,数の定まっている霊的イスラエル人のグループは,イエスの名とイエスの父の名を自分たちの上に記されます。また神の都市,すなわち天から,神のもとから下る新しいエルサレムの名も記されます。シオンの山が古代エルサレムと結びつけられていたように,霊的シオンの山も天のものであるこの新しいエルサレムと結びつけられています。このことと一致して,使徒ヨハネは14万4,000人の霊的イスラエル人の第2の幻を見,それを次のように記録しています。

      12 「見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼とともに十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた。……そして彼らは……新しい歌であるかのような歌をうたっている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。……これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであ(る)」― 啓示 14:1-5。

      13 (イ)「大群衆」に属する人々は,天のシオンの山に立つ点で14万4,000人に似ていますか。(ロ)彼らは,「神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られ」ましたか。

      13 こうした詳細な描写は,啓示 7章9-17節の国際的な「大群衆」にも当てはまりますか。いいえ,当てはまりません。彼らが天のシオンの山に立っていると言われている箇所はどこにもないからです。(ヘブライ 12:22)彼らは「新しい歌」の最初の歌い手に含められていません。また「地から買い取られた」とも,「神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」とも言われていません。したがって,「大群衆」の人々は永久に地にとどまって,地をパラダイスの状態にする業にあずかることを期待しています。彼らは14万4,000人の「買い取られた」人々の集団には属していません。この集団は西暦33年のペンテコステの日,つまりユダヤの大祭司が収穫された小麦の「初穂」をエルサレムの神殿でささげた日に形成されはじめました。その日,より偉大な大祭司イエス・キリストは,流されたご自身の血をもって,買い取るための代価を天にいます神に支払われたのです。それで神は,その同じ日に,待っていた120人の弟子たちの上に,そして後刻,悔い改めてその日にバプテスマを受けた約3,000人のユダヤ人とユダヤ教改宗者たちの上に聖霊をそそぐための経路としてイエス・キリストをお用いになりました。―使徒 2章。ヨエル 2:28,29。ヘブライ 4:15,16。

      「生ける神の証印」によって区別される

      14 14万4,000人も「大群衆」も買い取られて救われた状態にありますが,証印は両者の間にどんな相違をもたらしますか。

      14 「買い取られた」14万4,000人と,白い衣を着た「大群衆」とを区別する,注目に値する一つのものは,「生ける神の証印」と呼ばれているものです。14万4,000人の霊的イスラエル人と「大群衆」の両方を扱っている啓示 7章は,14万4,000人だけが,「わたしたちの神の奴隷」としてその「証印」を「額」に押されることを示しています。そのことは,天と地に関する神の最終的取決めにおける彼らの定められた位置にも違いがあることを示すものです。14万4,000人だけでなく「大群衆」の人々も,イエス・キリストを「世の罪を取り去る,神の子羊」として受け入れますから,皆救われた状態に入れられてはいますが,この事実は変わりません。(ヨハネ 1:29,36。ヨハネ第一 2:1,2)イエス・キリストを受け入れることによって「大群衆」の人々は,「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」のです。(啓示 7:9,14)これによって彼らは,エホバの霊的神殿,すなわち古代エルサレムにあった神殿造営物全体が予表した霊的神殿でエホバを崇拝する資格を得ます。―ヨハネ 4:21-24。

      15 保護を求めてどんな叫びを上げる時は近づいていますか。害をもたらすどんな暴風が依然として押えられていますか。なぜですか。

      15 自分たちが長期間立てこもっていた地上社会の有力な諸組織に向かって,一般の人々が「わたしたちの上に倒れかかれ。そしてみ座にすわっておられるかたの顔から,また子羊の憤りからわたしたちを隠してくれ。彼らの憤りの大いなる日が来たからだ。だれが立ちえようか」と,実際に言う時は近づいています。(啓示 6:16,17)あらしは今にも始まろうとしています。幻について述べる次の言葉がそのことを示しています。「こののちわたし[使徒ヨハネ]は,四人の使いが地の四隅に立ち,地の四方の風をしっかり押えて,地にも海にも,またどの木にも風が吹かないようにしているのを見た。また,別の使い[第5]が太陽の昇る方角から,生ける神の証印を携えて上ってゆくのを見た。彼は,地と海を損うことを許された四人の使いに大声で叫んで言った,『わたしたちが,わたしたちの神の奴隷たちの額に証印を押してしまうまでは,地も海も木も損ってはならない』」― 啓示 7:1-4。

      16 「大群衆」は証印を押されてはいないのに,子羊の憤りの表明として解き放たれる暴風に害されないのはなぜですか。

      16 「大群衆」に属する人々の中には,「生ける神の証印」を押されたと言われている人は一人もいません。そう言われているのは「わたしたちの神の奴隷」14万4,000人だけです。それなのに,「大群衆」の中のだれも,地の四隅から「四方の風」が解き放たれる結果生ずるあの荒れ狂うつむじ風に害されないというのはどういうわけでしょうか。また,証印を押されない「大群衆」の人々が,14万4,000人に証印を押すことが終わった後も,「子羊の憤り」を感じないのはなぜですか。それは彼らが「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」からです。(啓示 7:14)彼らは今は子羊の贖いの犠牲の益を受け入れており,罪を贖うその血で洗われて自分の罪が清められることを求めています。弱小な人間のつくった,根の深い,強大に見える諸機関に保護を求めないで,エホバ神と子羊のようなみ子イエス・キリストにそれを求めます。それで感謝をこめて,「救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と叫ぶのです。―啓示 7:9,10。

      17 宇宙支配をめぐる論争で「大群衆」はだれに忠誠を尽くしますか。またどこでだれに神聖な奉仕をささげていますか。

      17 「大群衆」に属する人々は,宇宙支配に関する非常に重要な問題が解決するまで,子羊キリストによるエホバの王国に忠誠を保ちます。「それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿[ナオス]で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている[ラトレウエイン,ギリシャ語動詞]」。(啓示 7:15)彼らはそこで,生き残っている,証印を押された14万4,000人の「わたしたちの神の奴隷」の残りの者と交わります。

      「大患難から出て来る」

      18 「大群衆」は何から出て来ると言われていますか。それに関してどんな疑問が生じますか。

      18 「大群衆」が経験する「救い」には,次の啓示 7章14節に預言されている事柄から出て来ることも含まれます。「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」。ギリシャ語原文の逐語訳は,「から 患難 大きい」となっています。(王国行間逐語訳)さてそれでは,この「大患難」とは何でしょうか。他の翻訳聖書では「患難」という語ではなく,「苦難」,a 「危難」,b 「迫害」,c 「抑圧」,d 「厳しい試練」,e などの語が用いられています。しかし他の多くの翻訳では「患難」となっています。

      19,20 (イ)「患難」という語のラテン語の語源にはどんな意味がありますか。(ロ)ロバートソンの注釈書では,啓示 7章14節のこの語に関してどのように述べられていますか。イエスの預言ではこの語はどのように用いられていますか。

      19 こうしてさまざまに訳されているギリシャ語はスリプシスで,悪い経験という意味があります。英語の「tribulation(患難)」は,「脱穀板(大づち)」を意味するラテン語,「tribulum」から来ています。

      20 啓示 7章14節で用いられている「大患難」という表現について,ロバートソンの「新約聖書における言葉による描写」(第6巻,352,353ページ)には,次のような注解が載っています。「重大な危機のようなものが予想されているかに見える。(マタイ 13:19以下; 24:21。マルコ 13:19)もっとも,その一連の事柄も念頭にあるだろうが,それらは最終的裁きに先んずるものであろう」。マタイ 24章21節はまず最初に西暦70年における古代エルサレムの破滅に言及しています。「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ二度と起きないような大患難[スリプシス]がある」。マルコ 13章19節には,「それは,神がなされた創造のはじめからその時まで起きたことがなく,また二度と起きないような患難[スリプシス]の日となる」とあります。この患難は,「これらのすべてのものが終結に至るように定まった時のしるし」の一部となることになっていました。(マルコ 13:4)「これらのすべてのもの」には,14万4,000人の霊的イスラエル人に証印を押すことが完了することも含まれています。―啓示 7:1-8。

      21 セプトゥアギンタ訳の中の,ダニエル書 12章1節の訳に用いられている重要なギリシャ語は何ですか。ミカエルとはだれですか。

      21 ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳では,同じ出来事が述べられているダニエル書 12章1節でスリプシスという語が用いられています。「その時,汝の民の子らの上にありし大いなる君ミカエル立ち上がらん。しかして患難[スリプシス]の時,地上に国ありてこのかたその時に至るまでなかりしほどの患難[スリプシス]の時来たらん」。(チャールス・トムソン訳,セプトゥアギンタ聖書。サムエル・バグスター・アンド・サンズ社発行のセプトゥアギンタ訳)啓示 12章7節によると,ミカエルは栄光を受けたイエス・キリストと一致します。

      22 「患難」は「大群衆」に対する神の不興の表明ですか。彼らがそれから出て来るということは何を意味しますか。

      22 以上のことから,「大患難」は,「大群衆」を懲らしめ,彼らがこの邪悪な事物の体制と関係を持ったという過ちを除き去ることを目的とした,「大群衆」に対する神の憤りもしくは不興の表明ではないことがわかります。予告されている「大患難」は世界的苦難,滅びに定められているこの世に臨む最後の「患難」のことです。14万4,000人の霊的イスラエル人の最後の一人が,エホバ神の「買い取られた」財産,他に移すことのできない「わたしたちの神の奴隷」として証印を押されるまで,地の四隅の4人のみ使いたちによって押えられているのは,象徴的な暴風です。「大群衆」がその「大患難」から出て来るということは,それに生き残るという意味です。

      23 生き残る「大群衆」はどんな新しいものの始まりとなりますか。彼らの前途にはどんな見込みがありますか。

      23 そのとき,神の偉大な神殿の仕組みの地上の中庭で引き続き『昼も夜も神に神聖な奉仕をささげる』ことは,救われた「大群衆」にとってどんなに喜ばしい特権となることでしょう。彼らの上には「新しい天」が確立され,彼らは義が限りなく宿る「新しい地」の始まりとなるでしょう。(ペテロ第二 3:13)清められた地上には新しいパラダイスが栄え,彼らを悪事に誘惑しようとする悪魔は一人もいないでしょう。ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」を生き残る「大群衆」の前には本当にすばらしい見込みがあるのです。―啓示 16:13-16。

  • この「終わりの時」における神聖な奉仕
    ものみの塔 1980 | 11月15日
    • この「終わりの時」における神聖な奉仕

      1 わたしたちが「終わりの時」に住んでいることはどうしてわかりますか。ダニエル書 12章4節にはこれについてどのように述べられていますか。

      解明された聖書預言に照らして考えるならば,わたしたちが予告されていた「終わりの時」に住んでいることを悟るのはむずかしくないはずです。この重大な時期に関して,ダニエル書 12章4節には次のように預言されています。「されど汝ダニエルよ,終わりの時までこの言葉を閉じ込め,この書を封じおけ。多くの者行き巡らん。しかして知識増すべし」。(アメリカ・ユダヤ人出版協会。リーサー訳)ギリシャ語セプトゥアギンタ訳は,「しかして汝ダニエルよ,終わりの時まで,すなわち多くの者が教えを受け,知識を増すに至るまでこの言葉を閉じ,この書を封じ置け」となっています。(バグスター,トムソン,ウルガタ訳,ラムサ訳古代東方写本よりの聖書)聖書巻末の書に述べられている「大群衆」は,聖書の知識と理解のこの増加から益を受けてきました。―啓示 7:9-17。

      2 (イ)「大群衆」が「神聖な奉仕」をどのようにささげるかはどうして重要ですか。(ロ)「仕える」と訳されているギリシャ語は,「神聖な奉仕」と訳されている語とどのように違いますか。

      2 この「大群衆」は,西暦1935年に集めはじめられて以来ずっと,エホバ神に「神聖な奉仕をささげて」きました。この神聖な奉仕をどのように行なうかは,とても重要なことです。なぜなら,イエス・キリストは最後の晩に忠実な11人の弟子に向かってこう言われたからです。「あなたがたがつまずかないために,わたしはこれらのことを話しました。人びとはあなたがたを会堂から追い出すでしょう。事実,あなたがたを殺す者がみな,自分は神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしています」。(ヨハネ 16:1,2)エルサレム聖書では「神聖な奉仕」ではなく「聖なるつとめ」となっています。新英訳聖書では「宗教上のつとめ」,ロザハム訳エンファサイズドバイブルでは「聖なる奉仕」となっています。このように訳されているギリシャ語の原語はラトレイアです。このギリシャ語名詞の動詞形はラトレウエインで,ギリシャ語動詞ディアコネインとは異なります。ディアコネインには「奉仕する,仕える」という意味があり,マタイ 8章15節に見られるような,別に神聖ではない事柄,一般にゆきわたっている,普通の,世俗の事柄にも使われます。

      3 律法契約に固執したユダヤ人はなぜ,イエスを殺し,その弟子たちを迫害しても間違いではないと考えましたか。

      3 小アジアのタルソスのサウロは,かつて誤った道を歩んでいた,そして改宗するまでクリスチャンを迫害していたユダヤ人でした。彼は同胞のユダヤ人について,「彼らはつまりイスラエル人で,養子縁組と栄光といろいろな契約と律法の授与と神聖な奉仕[ラトレイア]と数々の約束とは彼らに属しています。父祖たち[アブラハム,イサク,ヤコブ]は彼らに属し,キリストも,肉によれば,彼らから出たのです」と語っています。(ローマ 9:4,5)不信仰のユダヤ人は,律法契約に述べられているその「神聖な奉仕」に固執していたので,イエス・キリストを刑柱に付け,その忠実な弟子たちを死ぬまで迫害することを間違いとは考えませんでした。

      4 パウロは天幕の仕切り室の中での祭司たちの奉仕についてどのように述べていますか。そうした活動は何を予表しましたか。

      4 律法契約が効力を有していた間は,律法で定められていたその「神聖な奉仕」にはその場所があり,神に受け入れられるものでした。ですから使徒パウロはそれを高い水準に置いて次のように述べています。「さて,以前の契約には,神聖な奉仕[ラトレイア]についての定式と,現世に属する聖なる所とがありました。天幕の第一の仕切り室が設けられ,その中には燭台,そしてまた食卓と並べられたパンとがあったのです。そして,それは『聖なる所』と呼ばれています。しかし,第二の幕の後ろには,『至聖所』と呼ばれる天幕の仕切り室がありました。……これらの物がこのように設けられたうえで,祭司たちはいつも天幕の第一の仕切り室に入って神聖な奉仕[ラトレイア]を行ないます」。(ヘブライ 9:1-6)その儀式上の神聖な奉仕は,イスラエルの民のためにささげられる犠牲に関連したもので,民の日常の事柄とは関係がありませんでした。使徒パウロが指摘しているように,古い律法契約下のそうした「神聖な奉仕」はすべて予型的で,キリスト教の事物を予表するものでした。

      5 パウロがローマ 12章1節でクリスチャンに行なうように告げているのは普通の事柄ですか。それをパウロは何と呼んでいますか。

      5 パウロはこの線に沿って,ローマのクリスチャンにあてた手紙の中で次のように述べています。「そのようなわけで,兄弟たち,わたしは神の情けによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげなさい。これがあなたがたの理性による神聖な奉仕[ラトレイア]です。そして,自分をこの事物の体制に合わせてはなりません」。(ローマ 12:1,2)ですから,彼らが行なう犠牲的な事柄というのは,普通に行なわれていない事柄,この世の事物の体制の,キリスト教徒でない人々が一般に行なっていない事柄です。

      6 イスラエル人はモーセを通して律法契約を結ぶことにより,神に対して何を行なう義務を負いましたか。そのことについて殉教者ステファノは何と語りましたか。

      6 イスラエル国民は,古代エジプトの奴隷の家から救い出されたとき,神に対する組織された形の神聖な奉仕を与えられました。クリスチャンの殉教者ステファノはそのことについて次のように語りました。「『そして,彼らがその奴隷となる国民をわたしは裁くであろう』と,『またこののち,彼らは出て来て,この場所でわたしに神聖な奉仕をささげる[ラトレウエイン]であろう』と神は言われました」。(使徒 7:7)イスラエル人は,モーセを仲介者として神と律法契約を結ぶことにより,神に神聖な奉仕をささげる義務を負いました。しかし後になって,契約を履行する義務のあるそのイスラエル人の大半が,他の神々の崇拝に走りました。「それで神は」,ステファノが続けて述べているように「彼らを渡し,天の軍勢に神聖な奉仕をささげる[ラトレウエイン]ように引き渡されました。預言者たちの書にこう記されているとおりです。『イスラエルの家よ,あなたがたが荒野で四十年の間いけにえと犠牲をささげたのはわたしに対してではなかったではないか』」― 使徒 7:42。

      7 (イ)ユダヤ人は神の約束の成就にあずかるために神に何をささげていると,パウロは言いましたか。(ロ)ユダヤ人が派と呼んだものに従って使徒パウロは彼の父祖の神に対し,何を行なっていましたか。

      7 エホバ神が生来のイスラエルの家との律法契約を解消されてから何年もたった後,使徒パウロはカエサレアで,アグリッパ王の審問に対し次のように述べました。「わたしたちの十二部族は,[神に]神聖な奉仕を夜昼熱烈にささげて[ラトレウエイン]この約束の成就にあずかることを希望しています。この希望に関して,王よ,わたしはユダヤ人たちから訴えられているのです」。(使徒 26:7)そのように訴えられたために,パウロはローマ知事フェリクスおよび告訴人のユダヤ人たちの前で次のように言うことができました。「わたしは,このことはあなたの前で認めます。彼らが『派』と呼ぶ道にしたがい,そのやり方にそって,自分の父祖たちの神に神聖な奉仕をささげて[ラトレウエイン]いる,ということです。それは,律法の中で述べられていること,預言者たちの中に書かれていることをすべて信じているからです」― 使徒 24:14; 28:22。

      8 (イ)今日の「大群衆」もエホバを崇拝するために従っているその「派」とは何ですか。(ロ)見当違いの「神聖な奉仕」をささげることに大きな危険があるのはなぜですか。わたしたちの保護となるものは何であるとパウロは言っていますか。

      8 パウロは異端的な「派」と呼ばれたものに従ってエホバを神として崇拝しましたが,その派というのはキリスト教のことでした。(使徒 11:26。ペテロ第一 4:16)今日,「大群衆」の人々は,自分たちがエホバのクリスチャン証人であることを公に認めます。それゆえに彼らは,エホバにどのように神聖な方法で仕えるかに関し,非常に注意深くなければなりません。1914年に「異邦人の時」が終了し「終わりの時」が始まって以来,偽りの神や偽りの主が増えました。(ルカ 21:24,欽定訳)19世紀前でさえ,使徒パウロは,ローマ帝国の首都に住む「クリスチャンたち」にあらためて注意を促す必要に気づいていました。それは背教したユダヤ人が,「神の真理を偽りと換え,創造したかたより創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた[ラトレウエイン]」からでした。(ローマ 1:25)パウロは,見当違いの神聖な奉仕に対する自分の保護となるものを示して次のように言いました。「多くの『神』また多くの『主』がいるとおり,天にであれ地にであれ『神』と呼ばれる者たちがいるとしても,わたしたちにとって父なるただひとりの神がおられ,このかたからすべてのものが出ており,わたしたちはこのかたのためにあるのです。また,ひとりの主,イエス・キリストがおられ,このかたを通してすべてのものがあり,わたしたちもこのかたを通してあるのです」― コリント第一 8:5,6。

      どのように,またいつささげるか

      9 モーセの律法契約に従って神に「神聖な奉仕」をささげる努力はいつ無効になりましたか。なぜですか。

      9 律法契約がユダヤ国民に対して効力を有していた西暦前1513年から西暦33年までの1,545年の間,忠実なユダヤ人たちは,受け入れられる「神聖な奉仕」をエホバ神にささげました。しかし,栄光を受けたイエス・キリストの仲介で西暦33年に新しい契約が天で成立し,律法契約が廃止されたとき,モーセの律法契約はもはや,新しい契約の神エホバに是認される神聖な奉仕をささげるための手段ではなくなりました。(ヘブライ 8:10-13)それでユダヤ人は,自分たちの宗教的奉仕をエホバ神に是認していただくためには,モーセよりも偉大な仲介者,すなわち神のみ子であり,『アブラハムの胤』であるイエス・キリストを通してその奉仕をしなければなりませんでした。(ガラテア 3:16)西暦前2年のあの春の日に,ゼカリヤという名のユダヤ人祭司は,生後八日の息子の名をヨハネとしなければならないということを示した際に,このことに触れています。

      10 (イ)ゼカリヤが息子に割礼を施す日に示したところによれば,敵から自由にされた後,神の民が何を神にささげることが神の目的でしたか。(ロ)誓いによって固くされたその契約のために,ヨハネはだれの先駆者となりましたか。

      10 霊感を受けたゼカリヤはそのとき,神の目的について,「それは,わたしたちの父祖たちに関連してあわれみを施すため,またご自分の聖なる契約,すなわち,わたしたちの父祖アブラハムに対してなさった誓いを思い起こすため,敵の手から救い出されたのち,いつの日もそのみまえで忠節と義とをもって恐れなく神聖な奉仕をささげる[ラトレウエイン]特権をわたしたちに得させるためなのです」と述べました。(ルカ 1:59-75)神は,アブラハムと結ばれた,そして破ることのできない誓いをもって固くされた契約を履行するためにイエス・キリストをお用いになりましたが,ゼカリヤの子ヨハネはそのイエス・キリストの先駆者となりました。―創世 12:3; 22:15-18。ガラテア 3:8,16。ヘブライ 6:13-17。

      11 (イ)今日,神に「神聖な奉仕」をささげるよう努力している「大群衆」は,どこにいますか。(ロ)コリント第一 10章31節は,「大群衆」に関してどんな質問を提起していますか。

      11 「大群衆」の人々は,アブラハム契約を通しすでに祝福された者としてエホバの霊的「神殿」の地上の中庭におり,アブラハムの神に「神聖な奉仕」を恐れなくささげることに努めています。しかしどんな方法でそれをしているでしょうか。コリント第一 10章31節で使徒パウロは,「ですから,あなたがたは,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい」と言っていますが,この言葉は確かに,14万4,000人の霊的イスラエル人の残りの者だけでなく,「大群衆」にも当てはまります。

      12 わたしたちが異なる見方をし,またこうした普通の事柄をエホバのクリスチャン証人という名のもとに行なうためにそれらの事柄は「神聖な奉仕」となりますか。それともなりませんか。

      12 では使徒パウロは,それらの事柄に関してわたしたちが異なる見方を持っているゆえに,わたしたちがクリスチャンとして現在行なう事柄はすべて「神聖な奉仕」[ラトレイア]となるという意味でそう言ったのでしょうか。そう考える理由があるでしょうか。食べたり,飲んだり,眠ったり,また他の人間もみな生きるためにどうしてもしなければならない事柄を行なったりするとき,わたしたちはだれに仕えているでしょうか。言うまでもなく自分自身にです。現在そうした事柄を行なうとき,わたしたちは確かに神の栄光を念頭に置いています。ですから病気になるところまで,あるいは暴食と言えるところまで物を食べたり,泥酔するところまでアルコール飲料を飲んだり,怠惰や無精の域に入るところまで寝ることを習慣にしたりするようなことはしません。だからといって,他の人間がすべてそれぞれの宗教の名において行なうのと同じように,エホバのクリスチャン証人という宗教的名のもとに食べたり,飲んだり,眠ったりすることが人間生活の基本的で不可欠なそれらの活動を「神聖な奉仕」に変えるのでしょうか。そうではありません。どうしてそういうことがあり得るでしょうか。

      13 油そそがれたエホバの証人たちが毎年ふさわしい日時に主の晩餐を祝う場合はなぜ別ですか。

      13 むろん,エホバの聖霊で油そそがれた人々が,毎年,主の夕食もしくは晩餐を祝うときは別です。春のニサン14日の晩にその人々が無酵母パンを食べ,また赤いぶどう酒を飲むことは,イエス・キリストの命令のもとに行なわれる事柄であって,それらにはイエスにより付与された深い意味があります。したがって,キリストの霊的体のそれら成員が神にささげる「神聖な奉仕」の重要な部分です。―コリント第一 11:20-26。マタイ 26:26-30。ルカ 22:19,20。

      14 ローマ 13章1-7節に述べられていることを行なうのはなぜ賢明ですか。それをするのでわたしたちは,法律を遵守する他の市民すべてと異なっていますか。

      14 一方,エホバのクリスチャン証人はみな,使徒パウロがローマ 13章1-7節で指示していることを行ないますが,その場合は,国の他のすべての市民や外人居住者にも要求されていることを行なっているに過ぎません。善良で秩序を守る者としてわたしたちは当然のことをしているのです。またそうすれば「上にある権威」といざこざを起こさずにすみます。わたしたちはまたもっと優れた動機,つまり明らかな良心や,正しくふさわしい事柄に対する認識を保ちたいという動機でそのことを行ないます。しかし,わたしたちがエホバのクリスチャン証人という名のもとに今このように行動しても,それによって正しい振る舞いが自然に聖書の「神聖な奉仕」に変わるわけではありません。法律を遵守する他の市民もみな,動機こそ違え同じことを行なうのです。ですからそうした点では,わたしたちは異なるところはありません。

      15 エホバに対する崇拝が人間によって禁止されても,わたしたちがそれを公然と無視して,他の市民のしないことを行なうなら,それはどんな奉仕となりますか。なぜですか。

      15 しかし,仮に政府当局が,エホバのクリスチャン証人としてわたしたちが行なっている崇拝を禁止したとしましょう。そしてわたしたちがキリストの使徒たちに倣って,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と言うとすればどうでしょうか。(使徒 5:29)献身しバプテスマを受けた証人たちに神が命じておられることを行なうために,他の市民全部がしないことを行ないつづけるなら,わたしたちがしていることは神にとって常に神聖な奉仕です。政府当局や他の市民がそれを非合法なもの,不法のものとして非難するとしても,その事実は変わりません。

      16 ヘブライ 10章23-25節には,義務としてのこの「神聖な奉仕」のどんな例が示されていますか。

      16 例えば神の言葉はこのように命じています。「わたしたちの希望を公に言い表わすことを,たじろぐことなくしっかり保ちましょう。約束してくださったのは忠実なかただからです。また,互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い,ある人びとが習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」― ヘブライ 10:23-25。

      17 「上にある権威」が法律を盾にとって,神の勧めに従うわたしたちにらく印を押すその押し方で,わたしたちの歩む道の霊的性格は変わりますか。

      17 たとえ人々の手にかかって苦しむとしても,霊感によるこの勧めに従うことが,至高者であるエホバ神への神聖な奉仕であることは否定できません。国の「上にある権威」がそれを快く思わず,法律を盾にとってらく印を押したいなら押せばよいでしょう。―テモテ第二 2:8-10。

      18 「わたしたちの希望を公に言い表わすこと」はどの政府と関係がありますか。それで命令を含むイエスのどの言葉がこのことに当てはまりますか。

      18 「わたしたちの希望」の告白,すなわち「公に言い表わすこと」は,地のすべての家族を祝福するために統治する神のメシア王国と関係があります。イエスは,「事物の体制の終結」に関して預言されたとき,その「公に言い表わすこと」について,命令を含む次の言葉を語られました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わり[テロス]が来るのです」。(マタイ 24:3,14)「あなたがたは……わたしのために知事や王たちの前に立たされるでしょう。彼らへの証しのためにです。また,あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」― マルコ 13:4,9,10。

      19 その預言的な言葉の成就を目ざして実際に働かなければならないのはだれですか。そうすることは何の一部ですか。

      19 これらの預言が真実となるように,その成就を目ざして実際に働くのはだれでしょうか。それはほかでもない,この預言の与え主イエス・キリストの献身しバプテスマを受けた弟子たち,この預言を与えられた者たちです。その義務を悟り,その預言の実行に参加することは,避けることのできない「神聖な奉仕」です。

      20 イエスは,ご自分の弟子がこの「神聖な奉仕」をしなければならないことを示して,ガリラヤの山で弟子たちに何と語られましたか。それで「事物の体制の終結の時」に住んでいる人々は何をしなければなりませんか。

      20 復活したイエスは,「諸国民のガリラヤ」の山で500人ほどの弟子たちに現われ,次の命令をお与えになりました。これはその「神聖な奉仕」を弟子たちが続行することになっていた事実を裏付けるものでした。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時[シンテリア]までいつの日もあなたがたとともにいるのです」。(マタイ 28:19,20; 4:15。コリント第一 15:6)1914年に「異邦人の時」が終わって以来,わたしたちは「事物の体制の終結の時」に住んでいます。したがって,復活し,十二分の権能を付与されているイエス・キリストの献身しバプテスマを受けた弟子たちは一人残らず,イエスから課されたこの「神聖な奉仕」を遂行するよう命令されているのです。わたしたちはこの「事物の体制の終結の時」の終わりまで,手をゆるめることなく,それを行なわなければなりません。

      21 (イ)天の新しいエルサレムに入る人々にはどんな特権が与えられますか。(ロ)「大患難」の終わりまで忠実を証明した「大群衆」の人々には,どんな恵みが与えられますか。

      21 天の都市である新しいエルサレムに入ることを許された14万4,000人の霊的イスラエル人については,次のように記されています。「そして,もはやなんののろいもない。神と子羊とのみ座がその都市の中にあり,その奴隷たちは神に神聖な奉仕をささげる[ラトレウエイン]のである。彼らは神の顔を見,神の名が彼らの額にあるであろう」。(啓示 22:3,4)数えつくすことのできない,忠実で従順な「大群衆」はどうかというと,彼らは祝福されて,「終わりの時」を終わらせる「大患難」からの「救い」を得,神の子羊の千年王国の下で,そして神の霊的神殿の地上の中庭で,引き続き「神に神聖な奉仕をささげ」ます。「そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られる」のです。―啓示 7:9-17。

      [24ページの図版]

      ユダヤ人にとって神聖な奉仕は,律法契約に従って行なう崇拝と常に関係があった

      [25ページの図版]

      「神聖な奉仕」には,迫害を受けても神に従うこと,わたしたちの希望を公に言い表わすこと,教えまた弟子を作ることなどが含まれる

  • リベカ ― エホバに祝福された人
    ものみの塔 1980 | 11月15日
    • リベカ ― エホバに祝福された人

      アブラハムの息子,イサクの妻にリベカを選ぶよう導きを与えたのはエホバ神でした。しかし,どうしてリベカが選ばれたのでしょうか。その特質は,神の見地から見て,極めて望ましいものであったに違いありません。リベカは,み名のための民になる国民の母親として,神の目的にかなった人だったはずです。

      アブラハムがその時約40歳になっていた息子イサクのために妻を迎える手はずを整えたのは,愛する妻,サラが死んだ後のことでした。息子がエホバを崇拝しない者と結ばれることを望まなかったアブラハムは,その家を管理する者で,忠実な僕エリエゼルと思われる人に,はるばるメソポタミア北部まで旅をするよう依頼します。アブラハムはその僕に,導きとなる指示を何一つ与えません。『エホバの使いがそれをするであろう』と,アブラハムは確信をもって語ります。至高者が何らかの方法で,自分の親族の中からイサクにふさわしいおとめを選んでくださることを信じていたのです。―創世 24:1-9,新。

      アブラハムの僕は10頭のらくだに数々の高価な贈り物を載せて出発します。彼は従者を伴って幾日も旅をし,ようやくメソポタミア北部の渓谷にあるナホルの都市にたどり着きます。この僕は夕暮れ

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする