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    ものみの塔 1980 | 11月15日
    • ● 大いなるバビロンとは何ですか。「彼女から出なさい」との呼びかけに注意を払うべきなのはなぜですか。

      大いなるバビロンとは偽りの宗教の世界帝国であり,そこから出ることは,来たるべき「大患難」で共に滅びないための唯一の方法です。(マタイ 24:21。啓示 18:4)『出ること』は急を要します。大いなるバビロンの以前の政治的愛人が彼女を攻撃してからでは,彼女から出るのは不可能だからです。(啓示 17:15-18)―8月15日号,17,18ページ。

      ● わたしたちエホバの民が,エホバはわたしたちの祈りを聞いてくださると期待できるのはなぜですか。

      神は「祈りを聞かれる方」であり,わたしたちに祈ることを命じておられます。(詩 65:2,新。ローマ 12:12)さらに,神のみ名が関係しているゆえに,また神がわたしたちの限界を知り,わたしたちを助けたいと願っておられるゆえに,そしてわたしたちが忠誠を守る者であることを根拠にして祈りを聞いてくださるゆえに,確信をもって祈りのうちにエホバに近づくことができます。―9月1日号,17,18ページ。

      ● クリスチャン会衆内に,クリスチャンが正しく成長する上で助けにならない環境の存在することがありますか。

      確かに,霊的にあまり有益でない環境や交わりがあるかもしれません。例えば,最近神への献身を象徴した人の中には,幾分この世的なものを会衆内に持ち込みがちな人がいるかもしれません。ですから交わりには注意を払わなければなりません。わたしたちの人格特性という種が埋められ,養われる環境は,土と同じように,わたしたちがクリスチャンとしてまき始めた時に意図した真意とあまり食い違いのないものを生じさせ得るものだからです。―9月15日号,19,20ページ。

      ● 新しい契約には終わりがありますか。

      あります。イエス・キリストを仲介者とする新しい契約は,14万4,000人の神の霊的な子たちを生み出すというその目的を果たした時に終わります。それはこの油そそがれた人々すべてが天の不滅の命によみがえる時です。しかし,地上に住む人々は,新しい契約から永遠にわたって益を得ます。なぜなら,その後14万4,000人はキリストと共に,千年王国を通して地を支配し,人類が永遠の命を得るべく完全さへと回復されるときに,キリストの贖いの犠牲を適用するからです。―10月1日号,31ページ。

      ● ヨハネ 10章16節にある「ほかの羊」とはだれですか。

      「ほかの羊」は「この囲い」のものではないと述べられているので,それは天的な見込みを抱くアブラハムの約束の相続者,つまり霊的イスラエル人ではありません。むしろそれは地的なクラスであり,究極的には,地上で永遠の命を得る人すべてで構成されます。「りっぱな羊飼い」イエス・キリストは彼らのためにも魂を投げ打たれました。(ヨハネ 10:14)―10月15日号,26-28ページ。

      ● 妨げとなる疑いに悩まされ始めたら,クリスチャンはどうすべきですか。

      自分の動機を吟味して,その疑いが純粋なものか,あるいは忍耐の欠如や許しを与える神の力に対する信仰の欠如を示すようなものか調べてみるべきです。また積極的な態度を保ち,エホバ神がイエス・キリストを通してわたしたちにしてくださったこと,さらに,「忠実で思慮深い奴隷」によって備えられた霊的食物を通し,神の目的や約束について学んだすべての事柄を思い起こすべきです。(マタイ 24:45-47)―11月1日号,14,15ページ。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1980 | 11月15日
    • 読者からの質問

      ● コロサイ 3章23節はクリスチャンに,「人にではなくエホバに対するように魂をこめて」主人に仕えることを勧めています。これは,エホバに対するように行なわれた世俗の仕事が神聖な奉仕の一部であることを意味しているのでしょうか。

      新世界訳で「神聖な奉仕」と訳されているラトレイアというギリシャ語は,神への専心の崇拝もしくは奉仕に関連して用いられています。(ローマ 12:1)その言葉には,第一にエホバに忠誠を示すという意味があることをイエスご自身も明らかにしておられます。(マタイ 4:8-10。ルカ 4:5-8)神聖な奉仕とは,エホバの王国の関心事を促進するために行なわれる奉仕のことです。

      昔,神に献身したイスラエル国民は,エホバに対して「祭司の王国,聖なる国民」となるために,律法契約の様々な要求に服して「神聖な奉仕」を捧げました。(出エジプト 19:5,6,新)その奉仕は,後代になって新しい契約の取決めの下で,キリスト・イエスによる神の王国に関連して示される実体の型および影となりました。(ヘブライ 8:5; 9:9,14)したがって,油そそがれたクリスチャンたちは次のように告げられています。「わたしたちは,揺り動かされることのない王国を受けることになっているのですから,過分のご親切のうちにとどまろうではありませんか。それによってわたしたちは,敬神の恐れと畏敬とをもって,受け入れられるしかたで神に神聖な奉仕をささげることができます」。(ヘブライ 12:28)油そそがれたクリスチャンの仲間であり,地上で永遠に生きることを待ち望んでいる「大群衆」も同様に,割り当てられた「神聖な奉仕」をエホバの神殿の地上の中庭で捧げる際に敬神の恐れを示さなければなりません。―啓示 7:9,15。

      この「神聖な奉仕」は,家族を扶養し,家を清潔に保ち,学校で一生けん命勉強するなど,単に『立派な生き方をする』ことを意味しているのではありません。そのようには考えられません。なぜなら,イスラエル人は,エホバから行なうように命じられていた神聖な奉仕に加えてそれらの事を行なっていたからです。(出エジプト 7:16; 12:25,26[ラトレイア,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳])安息日の律法によれば,イスラエル人は「六日の間務めをし,すべての業をなす」ことが求められていましたが,祭りの時や会堂で教える場合のように,ある種の神聖な奉仕は七日目にも行なわれました。―出エジプト 13:5,6; 20:9,新。使徒 13:14,15; 18:4。

      今日,清く道徳的な生活を送ってはいても,神や神の目的に全く関心のない人々がいます。そのような人々の生活を「神聖な奉仕」と言うことは確かにできません。神聖な奉仕は,明らかに,神聖な物事に対する認識に基づいて行なわれる神への奉仕と特別に関係があります。それは,普段の務めとは別個の,時間と体力を犠牲にしなければならない奉仕であり,世俗の仕事や日常の事柄とは異なるものです。もっとも,クリスチャンはそれらの事柄も「神の栄光のために」しなければなりません。―コリント第一 10:31。ローマ 1:9。

      注目すべきことに,「大患難」前のこの時代にわたしたちが行なう神聖な奉仕には,「王国のこの良いたより」を伝道し教え,人々に警告を与え,弟子を作るようにというイエスの命令に服することが含まれています。(マタイ 24:14,21; 28:19,20)また,崇拝のために集まり合うことや家族で聖書を研究したり日々の聖句を討議したりすることも含まれます。開拓奉仕や宣教者奉仕,また霊的な食物を供給し,エホバの証人の全世界的な業を十分に組織する働きを行なうベテル・ホームでの奉仕といった特別の奉仕も神聖な奉仕です。それには,旅行する監督や会衆の監督さらには奉仕の僕が兄弟たちの霊的な福祉を気遣って行なう奉仕も含まれます。(申命 31:12,13; 6:4-9。エフェソス 6:4。使徒 1:8; 20:28。ペテロ第一 5:2,3。テモテ第一 3:1,12,13)神の組織された民すべてのこうした「神聖な奉仕」は,エホバの霊とエホバの聖なるみ使いの援助を受けつつ,ひたむきな心で捧げられます。(フィリピ 3:3。使徒 27:23)そのような奉仕を行なうことによって,『王国と神の義をいつも第一に求める』なら,エホバは,生活必需品がわたしたちに「加えられる」ように取り計らってくださいます。―マタイ 6:33。ルカ 12:31。

      わたしたちの「神聖な奉仕」は,イエスが地上でなされた奉仕にならうものでなければなりません。(ペテロ第一 2:21-23)それは,神と隣人に対する愛,イエスの模範に見られるような自己犠牲的な愛に基づいて行なわれる奉仕です。(マルコ 12:30,31。ヨハネ 13:34; 15:13)この奉仕で強調されているのは,公に伝道することです。なぜなら次のように言われているからです。「[イエス]を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です」。それと同時に,わたしたちは「善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません」。しかも,単なる慈善行為としてではなく,仲間の崇拝者のために心から行なわなければなりません。ですから,兄弟たちが困っていたり,災難に遭って苦しんでいたり,困窮したりしているときには,親切な援助を差し伸べます。そうすれば,すべての人は,自分たちの希望の公の宣言を揺らぐことなくしっかり行ない続けるよう励まされます。「神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」。―ヘブライ 10:23-25; 13:15,16。ローマ 10:10-15。ヤコブ 1:27。

      「神聖な奉仕」に対する考え方を再調整する必要のある人がいるなら,その人はコリント第二 13章11節で次のように言い表わされている精神をもって考え方を調整したいものです。「終わりに,兄弟たち,引き続き喜び,さらに調整を加えられ,慰めを受け,同じ考えを持ち,平和に生活してゆきなさい。そうすれば,愛と平和の神があなたがたとともにいてくださるでしょう」。

  • 神は魂を責めさいなむようなことはされない
    ものみの塔 1980 | 11月15日
    • 神は魂を責めさいなむようなことはされない

      多くの宗教は長い間,悪人の魂は火の燃える地獄で責めさいなまれる,と教えてきました。しかし聖書はそのようなことを教えていません。地獄とは何か,死者の状態について聖書はなんと述べているか,調べてご覧になりませんか。「あなたを幸福にする良いたより」という本の,「わたしたちは死ぬとどうなりますか」,「神は魂を責めさいなむようなことはなさらない」などの章をお読みください。この堅表紙の付された192ページの本は,300円のご寄付でお求めになれます。234 海老名市中新田1271 ものみの塔聖書冊子協会に,書籍名を明記した上,切手300円分を同封してお申し込みください。郵送料は発行者が負担いたします。

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