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家庭において聖書の原則を実践するものみの塔 1974 | 8月15日
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も,原則について論じ,それをなぜまたどのように守るべきかを示しています。彼はこう書きます。「それゆえ,あなたがたは偽りを捨て去ったのですから,おのおの隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは肢体として互いのものだからです」― エフェソス 4:25。
相互依存
8 (イ)わたしたちが「互いのもの」であるということは肉的また霊的な関係にどのように当てはまりますか。(ロ)この点はどんな例によく示されていますか。
8 献身することによってあなたは神の家族の成員になりました。そして真実の意味で,神を「わたしたちの父」と呼ぶことができます。(マタイ 6:9)これは霊的な関係であり,あなたの生活において優先されるべきものです。しかし,それによって肉的な関係やそれに伴う務めが解消されるわけではありません。神はご自分の創造した人間家族を完全な状態で始めさせ,殖え広がるようにと命じました。そこには,親と子でなる無数の家族単位の構成されてゆく見込みがありました。(創世 1:28)「わたしたちは肢体として互いのもの」と述べたパウロは,前述のどちらの関係にも当てはまる基本的な原則を述べていました。この点を裏付けるものとして,パウロは他の所で,人体とそれを構成する肢体を相互依存の適切な例えとして広く使っています。―コリント第一 12:12-27; エフェソス 4:4,15,16も参照。
9 (イ)前述の原則をクリスチャン会衆に当てはめることはどんな点で有益ですか。(ロ)今日どこにおいてこうしたものがときに欠けていますか。どんな問題を生んでいますか。
9 この原則を認識することはあなたにとって大きな助けとなるはずです。あなたは要点を理解されますか。クリスチャン会衆の場合でさえ,その成員は神や,会衆の頭であるキリスト・イエスのものであるだけでなく,互いどうしのものでもあります。彼らはただ自分だけに属しているのではありません。この点が,全地のエホバの証人の間に見られる真の一致を押し進めています。しかし,この「対処しにくい危機の時代」から来る圧迫のために,悲しいことにもそうした一致が家庭生活から欠けている場合も少なくありません。予告されたとおり,この「終わりの日」に行き渡っている精神は利己心,また感謝や忠節心の欠如です。(テモテ第二 3:1-5)ごく年若い子どもを含め個々の成員がただ自分の思いどおりの道を進もうとする家族が多くあります。あなたもそのように行動したいと思うことがあるかもしれません。そして,真の崇拝に関心をいだいているのが家族内であなた独りである場合,そのように行動することを自分の責務と考えるかもしれません。あなたの好みや活動は全く異なり,あなたは「実を結ばないやみの業に彼らとともに組するのをやめ」ます。(エフェソス 5:11)しかしやはり,家庭内に住んでいるあなたは家族の一員であり,そのことに応じて家族内の他の人々に対して一定の責務を持っています。
10 家族の平和と一致を押し進めるためにどんな点で努力できますか。
10 どんな態度と歩み方をしたらよいでしょうか。たとえあなたの努力が常に感謝されないとしても,機会を求め,小さな点でも家族の平和と一致を押し進めることを目ざしてください。他の人が反対しても,その冷淡さや敵対的な態度に同じように応じてはなりません。聖書の原則がほんとうに関係している場合でないかぎり,論争を起こしてはなりません。それが関係している場合でさえ,親として子どもに教えるのでないかぎり,他の人が正しい原則に従うようにと言い張ることはできません。日常接している場合には,直接に異議が唱えられ,あるいは何かの疑問が出されたときでないかぎり,ことばより行動のほうがものを言うことを忘れないでください。クリスチャンとしての良い生活という点で手本となることを目ざしてください。真理が自分に何をもたらしているか,つまり,それが自分に幸福と満足と,将来の明るい見込みをもたらしていることを努めて示し,同時に現在のさまざまな事情のもとで苦労している人たちに同情を示してください。
「新しい人格」の美しさをよく示す
11 (イ)偽り,(ロ)怒り,(ハ)盗みという点でパウロの助言はどのように当てはまりますか。
11 ここに与えられている助言の多くは家庭生活に当てはまります。それは家族の構成を問いません。真実を話すことが必ずしも利益になるわけではないと自分に言い聞かせて,ちょっとした偽り事にふけってしまうことは容易です。家族内の他の人がいつも同じ考え方をしているとすれば,あなたはそれを好みますか。それは信頼感をそぎ,うたぐりを生むことになりませんか。それは明らかに,自分たちが「互いのもの」であるという感情を育てるものではありません。パウロは,『偽りを捨て去って,おのおの真実を語りなさい』と述べています。また,長く続いたいらだちのために憤りの気持ちをうっ積させてしまうことも起こりがちです。そのことを認めようとせず,それを否定して偽りの気持ちで生活するかもしれません。あなたの側の怒りが正しく当然な場合でも,「怒り立ったまま日が沈むことのないように」しなければなりません。怒りのもとになるものが依然そこにある場合でも,その問題に対してエホバと同じ見方を持つことに努め,エホバの助けを求めてください。「なんぢの荷をエホバにゆだねよさらば汝をさゝへたまはん」。(エフェソス 4:25,26。詩 55:22)そのようにすれば,『悪魔にすきを与えない』ようにすることができます。また,要点として次のことがあります。「盗む者はもう盗んではなりません。むしろ,ほねおって働き……窮乏している人に分け与えることができるようにしなさい」。小さな盗みが大きな誘惑となることもあります。自分の好きなごちそうが食卓に載る前に一口食べてしまうこともその部類に属します。そのなくなっていることはわからないでしょうし,口の回りに残る証拠をぬぐえば気づかれずにすむでしょう。これは必ずしも小さな子どもに限られてはいませんが,そのような場合には,正しい原則を優しく,しかしたゆみなく教え込まねばなりません。家族内の個々の人にはまた,年齢や状況に応じ,私的な事がらをある程度内密にする権利があります。そうした権利に無理に侵入してはなりません。控え目に見ても,これもやはり一種の盗みです。―エフェソス 4:27,28。
12 (イ)話す事がらに関する助言は特に家庭生活にどのように当てはまりますか。(ロ)ローマ 12章14節の助言に従い悪いものをどのように良いもので置き換えることができますか。
12 さらに続きを見ると,口で話す事がら,またその動機について良い助言が与えられています。「腐ったことばをあなたがたの口から出してはなりません。むしろ,必要に応じ,どんなことにせよ築き上げるのに良いことばを出し……すべて悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪とともにあなたがたから除き去りなさい」。除くべきものの中には,「愚かな話」や「卑わいな冗談」もあります。(エフェソス 4:29-31; 5:4)家庭は本来の自分になれる場所であると感じる人が多くいます。義の原則がさらに前面に出された会衆に比べて確かにそう言えるかもしれません。では,自制心の必要を意識していることは大切ではありませんか。一般的な雰囲気が遊惰で,冗談やおもしろおかしい話,また感情を刺激されたときのことばづかいに限度がない場合には特にそうです。明らかに卑わいで下品なことばだけが「腐ったことば」なのではありません。それが,二重の意味を含むような,ことばの上での巧みないたずらである場合もあります。それは,みがかれて外からはりっぱに見えながら芯は腐ったりんごに似ています。そうです,それは心の中に何があるかにかかっています。(マタイ 12:34)そうしたものは古い人格の一部です。それは,新しい人格に属するもの,また「築き上げるのに良い」事がらや「感謝をささげ(る)」ことと取って代わられねばなりません。悪意のある苦々しい態度やののしりのことばは,「互いに親切にし,優しい同情心を示し……互いに惜しみなくゆるし合(う)」ことと入れ代わらなければなりません。これらこそ家庭内で実践されるべき聖書の原則です。―エフェソス 4:30。コロサイ 3:8-10。
13 (イ)すべての人についてどんなことが真実ですか。(ロ)どんなことを決して小さく見てはなりませんか。謙遜さが大切な役割を果たすことを述べなさい。
13 わたしたちはこうした点の実践が簡単であると言っているのではありません。これらは行なうより読むほうが易しいものです。あなたは生気のない事実や数字を扱っているのではありません。単なる想像としてかたずけてしまえるものを扱っているのでもありません。あなた自身そして他の人々の性格を扱っているのです。そうしたものには,あなた自身の場合にも,心や思いの,隠れた奥まった部分が関係しています。それは良い場合も,そうでない場合もあります。また,エホバの持たれる至高の個性についても考えなければなりません。エホバはあなたが神への献身の関係を守ることに愛の関心をいだいておられるのであり,そのことを決して小さく見てはなりません。あなたがキリストのような人格を身に着けるのを助けるため,神がみことばと組織を通し,またご自分の霊とあなたの祈りを通して設けてくださった多くの尽きることのない備えを決して小さく見てはなりません。(エフェソス 3:20)霊性の面での進歩は,自分の予期するほど速くない場合が少なくありません。より高い水準を思い見て登って行っても,角を曲がると新たな高みが見え,それが容易には達し難いということがあります。しかしそれは,おおむねあなた自身の精神態度,つまり,へりくだった思いをいだいてすすんで自分の誤りや失敗を認めるか,またいつでも新たな構えでいっそうの努力をする備えがあるかどうかの問題です。エホバは確かにそうした態度を祝福され,神の家族内の兄弟や姉妹たちもそうした態度のゆえにあなたを愛し,あなたを助けるためにできるかぎりのことをします。
14 (イ)自分に対して示される偏見にどのように打ち勝つことを求めるべきですか。(ロ)イエスはこの点でどのような手本を示されましたか。
14 あなたがどれほど誠実で謙遜な思いをいだいていても,偏見を持つ肉の家族の他の人々がそれを認識せず,敵対する場合さえあります。あなたが偉そうなふりをしていると言うかもしれません。そのように言う理由は理解しにくいものではありません。真のクリスチャンとしてあなたの従う規準は他の人々の従うものより高いことでしょう。しかし,だからといってあなた自体が本来まさっているわけではないはずです。あなたが今日あるのはエホバの過分のご親切によります。あなたはそれを理解していますが,他の人々は理解していません。自分の立場を妥協させたり聖書の原則を犯したりしない範囲で自分の道から離れ,普通の生活のしかたと見なされるものに従うのがよいでしょう。自分が他の人のものでもあることをその程度にまで示してください。多くのことを無視できるようであってください。他の人にも自分自身にも,傷つけられたような感情を残さないようにしてください。偏見と敵意をいだく人々の中にいた時,イエスはこうした点でしばしば多くのことを忍びました。イエスが意思伝達の戸を閉ざし,よく言われるように自分のからの中に閉じ込もってしまわれたことはありません。ペテロはこう述べます。「キリスト[は]あなたがたのために苦しみを受け,あなたがたがその歩みにしっかりついて来るよう手本を残され[まし]た……彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」― ペテロ第一 2:21-23。
真の愛と服従
15 家族内の各人に助言を与えるにさいし,パウロの出だしの主題はなんですか。この原則は早い時期にどのようにゆがめられましたか。
15 パウロは,まず妻,ついで夫と子どもに対する詳細な助言を述べるに先だち,すべての人に次の訴えをしています。「キリストへの恐れをもって互いに服し合いなさい」。(エフェソス 5:21)これは,夫と妻に助言をしたパウロの出だしの主題です。最初の女エバは,その軽率な行動によって,神に対してだけでなく,自分の夫に対しても,服従の欠如を示しました。エバの行ないに倣うという点でアダムはある程度彼女に服しはしましたが,それは全く順序を誤ったものでした。神に服していないことを示したからです。こうして,罪が人間家族を巻き込むとすぐ,服従の問題はゆがみ,誤った状態になりました。
16 服することはどういう意味で真の愛の表われと言えますか。それはどのように示されるべきですか。
16 服すべきものに服することは真の愛の表われです。真のクリスチャンとしてあなたが献身の段階に進んだ時,それは,エホバに対するあなたの愛,またそのご意志を行なうためにすすんで全面的に服したことの証拠でした。クリスチャン会衆内でも,「キリストへの恐れをもって互いに」服し合い,相互に思いやる精神があるべきです。この点で長老は率先し,「神の相続財産である人びとに対していばる者のようにではなく,かえって群れの模範」とならなければなりません。この同じ精神が家庭の中でも示されるべきなのです。そのことは人体の例えでよく見ることができます。人体の場合,一定の物事を成し遂げるため,すべての肢体は『調和よく組み合わされ,協働』しなければなりません。いちばん上にある頭でさえ,足に向って,「わたしにあなたは必要でない」とは言えません。―ペテロ第一 5:3。エフェソス 4:16。コリント第一 12:21。
17 不和はときにどんなことによりますか。何がその解決となる場合が多いですか。
17 こうした優れた協力の態度が示されているなら,手速くまた容易に解決できない結婚生活上の,もしくは家庭生活上の問題はほとんどありません。言い換えれば,こうした態度の不足が,多くの場合に問題の根源となっています。配偶者の一方だけが献身したクリスチャンである場合でさえ,こうした正しい態度を示すなら,種々の問題が不和や争いにまで至らないようにする点で大いに力になります。パウロは,「あなたがたの召された召しにふさわしく歩み,全くへりくだった思いと柔和さとをもち,また辛抱強さをもって愛のうちに互いに忍」ぶようにと懇願しました。―エフェソス 4:1,2。
18 (イ)フィリピ 2章2-4節のパウロの助言から何を学べますか。(ロ)どういう意味で「他の者が自分より上である」と見ることができますか。
18 パウロはこの点をフィリピの人たちにさらに強力に言い表わしました。「あなたがたが同じ思いを持ち,同じ愛をいだいているのだという点で,わたしの喜びを満たしてください……何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち,自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」。(フィリピ 2:2-4)あなたはこのようにへりくだった思いを持つ人ですか。それとも,自己中心的で自己本位の傾向を持ち,物事や人々に関する見解について自分が常に正しいと言い張りますか。あなたの妻また会衆内の人々は,夫または長老としてのあなたが謙遜な思いを持つ人であるのを見ていますか。あなたが他の人々を自分より上と見ていることはすべての人に明らかですか。他の人々は皆それぞれに一定の資質と能力を持っているはずです。あなたは家庭の家具類をすべて備えるかもしれませんが,あなたはそれを,妻がするのと同じように魅力的に,またいこいとなるように配置することができますか。また,喜びや情愛を表現する点では,お宅の小さな人たちのほうがずっと自然でのびのびしているのではありませんか。
19 妻はどの程度まで自分の夫に服すべきですか。なぜ?
19 パウロはさらに,愛・服従・頭の地位などに関する聖書の原則相互の間の優れた関係を示しています。「キリストが会衆の頭」であるのと同じように「夫は妻の頭」なので,妻は夫に服すべき立場にあります。どの程度までですか。「会衆がキリストに服しているように,妻もすべての事において夫に服しなさい」と述べられています。夫が献身したクリスチャンではなく,そのために反対している場合さえあるかもしれませんが,そのゆえに頭の地位に関する原則が廃されたり縮小されたりするわけではありません。妻は夫が持つ頭の地位にすすんで服すべきであり,夫に服せば聖書の他の原則を犯す結果になるという場合のみをその例外とすべきです。―エフェソス 5:22-24。
20 夫はどの程度まで妻を愛すべきですか。なぜ?
20 アガペー愛の原則を働かせること,これがクリスチャンである夫の主な責任です。どの程度までですか。「夫よ,妻を愛しつづけなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を渡されたのと同じようにです。それは,会衆を神聖なものとし……[最終的に]輝かしいばかりの会衆を[栄光ある花嫁として]ご自身の前に立たせ……[それが]神聖できずのないものとなるためでした」。これが,妻に対する夫の深い顧慮を意味することは言うまでもありません。一方,「妻は夫に対して深い敬意を持つべき」です。―エフェソス 5:25-27,33。
21 愛と服従ということがどのように,またなぜ子どもにも当てはまりますか。
21 子どもに対しては,当然の従順と服従が強調されています。「主と結ばれた」親による健全で愛のこもった,そして聖書にかなった懲らしめのもとで,子どもは「すべての事において」従順であるべきです。それには,「あなたにとって物事がよく運び,あなたが地上で生き永らえるため」という約束が伴っています。―エフェソス 6:1-4。コロサイ 3:20。
22 すべての者が謙遜な思いを持つことの必要をペテロはどのように確証していますか。
22 最後に,こうしてパウロの強調した聖書の原則を,ペテロがまた彼なりのしかたで確認しているのを見るのは励みになり,またわたしたちを強めます。ペテロもまた,各自が謙遜な思いを持つ必要を強調しています。彼はこう書きます。「最後に,あなたがたはみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を実践し,優しい同情心に富み,謙遜な思いをいだきなさい」。また,さらにこう述べます。「あなたがたはみな,互いに対してへりくだった思いを身につけなさい。神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施されるからです」。(ペテロ第一 3:8; 5:5)このことは,イエスが弟子たちの足を洗った手本の中によく示されました。それは弟子たちの倣うべき模範でした。家族内のだれか,あるいは会衆内のだれかに対して何かのへりくだった奉仕を喜んで行ない,こうして比ゆ的な意味でだれかの足を洗ったのはいつのことですか。これも,わたしたちがいよいよ実践すべき,聖書の愛ある原則です。―ヨハネ 13:4-9。
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覚えていますかものみの塔 1974 | 8月15日
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覚えていますか
あなたは最近の「ものみの塔」を注意深くお読みになりましたか。そうでしたら,次の点を覚えておられるでしょう。
● 「ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所」とは何ですか。―啓示 16:16。
それは文字どおりの場所ではなく,決定的な戦争の行なわれる世界の局面をさしている。それは,時が満ちた時に,神とこの世界との敵対関係において,その敵対関係の生じている論争に対する決着の求められるような段階をさしている。―236,237ページ。a
● 「大きな地震が……あるでしょう」というイエスのことばが1914年以来成就してきたことを何が示していますか。―ルカ 21:11。
地震そのものの力,地震で失われた人命,そして資産におよんだ被害という点で,1914年以降の地震は『大きい』ものであった。事実,そうした地震による破壊の規模は,1914年以前におけるものより,ずっと広範囲に及ぶ強大なものであった。過去千年間に生じた地震による死亡者総数のほぼ30%が,1914年以降の地震で死んだと言われている。―252,253ページ。
● 信仰をいだいてささげられた祈りに答えが与えられることに関する,弟子ヤコブの,「神はすべての者に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです」ということばをどう理解すべきでしょうか。―ヤコブ 1:5。
神はわたしたちの弱さを非難したり,わたしたちを“愚か”とみなしたりはなさらない。神は,わたしたちがお願いしてよかったと思えるような方法で,寛大に,心から与えてくださる。―266ページ。
● キリスト教世界の諸教会や他の宗教団体が依然として力を保持していても,エホバの激しい裁きの日がずっと先のものであると言えないのはなぜですか。
「大いなるバビロン」を構成している宗教体制の終わりは,それが依然機能を果たしていて,表面上は力のある組織と見られているときに突然臨む。ヨハネへの啓示 17:16,17は,宗教組織を滅ぼそうとする動機付けを,神が政治体制の心に与えることを示している。―277,278ページ。
● 何かの提案を受ける時,「心のへりくだった」人であるクリスチャンの監督は,どんな態度を避けますか。
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