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    ものみの塔 1958 | 9月1日
    • すべてのことに平衡を保ちなさい

      『そこであなたがたの歩きかたによく注意して,賢くない者のようにではなく,賢い者のように歩きなさい。』― エペソ 5:15,新口。

      1,2 クリスチャンをどのように綱渡りをする人とくらべることができますか。

      多くの人々はサーカスを見に行つて,綱渡りをする軽業師が頭の上の高い所で芸をするのをかたずをのんで見たことでしよう。綱渡りをする人は,細い綱の上をまるで地面の上を歩いてでもいるような確かさで動きまわりました。平衡に対してこれほど鋭い感覚を発達させるには,努力と長い間の練習が必要でした。それは研究し続けなければならなかつた技術であり,また常に細心の注意を要求しつづけるものです。彼は綱の上を歩いている間,自分のしていることに心を集中します。他の事柄に心をさまよわせないで,平衡を保つことに注意を集中します。

      2 この綱渡りをする人は,クリスチャンの忠実という狭い道をあゆんでいるクリスチャンに,よくたとえることができます。イエスはこう言われました,『命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない。』(マタイ 7:14,新口)献身したクリスャチンは,それらの少ない者の中の一人です。その細い道にとどまるためには,ちようど綱渡り師が,綱の上にとどまるために,よい平衡を発達させねばならないのと同じく,精神的また霊的平衡を発達させなければなりません。1歩ふみはずすことが,綱渡り師にとつて災となるように,それは献身したクリスチャンにとつても同じことです。

      3 もしクリスチャンが落ちたならば,どのように自分を救いますか。またなぜ落ちるのを避けるべきですか。

      3 綱渡り師の下の方にひろげてある安全網は,彼の生命を救うことができますが,しかし,綱にまで戻るには,高いところまでよぢのぼらねばならないし,綱にたどりつく時には,あまりびつくりしているので,確信と確かな足どりを取り戻すのはむずかしいでしよう。平衡を失つて,この世の放縦な行いの泥沼よりも高いところにある,クリスチャンの忠実の道から落ちるクリスチャンは,謙遜な悔い改めによつて生命をとりとめるでしよう。しかしもう一度もとの道にまで登つて行くのは長くてむずかしい仕事です。この道から落ちたある人は,再び登りきることができませんでした。賢明な道は,最初から落ちないようにすることです。しかしこれには,クリスチャンのよい霊的バランスと,自分の歩みに対して絶間ない注意が必要です。

      4,5 平衡はどのように定義されていますか。クリスチャンはどのようにつりあいを失うことがありますか。

      4 綱渡り師は見事な肉体的バランスを持つていますが,よい霊的平衡はそれよりずつと望ましいものです。それにしても平衡とは何ですか。省略されていない「ウエブスター新国際辞典」第二版によると,それは,『肉体的なものにせよ他のものにせよ,対抗する二つの力のつりあつた,もしくは平均のとれた状態。均勢。堅実さ。安定。同等もしくは調和した結果。むらのない調節。またそのようなつり合いの存在する状態。』となつています。

      5 綱渡り師の場合,平衡は綱の上での平均のとれた,もしくはぐらつかない状態です。もし彼がどちらかの方向に傾きすぎるならば,つり合いを失つて綱から落ちるでしよう。クリスチャンについても同じことが言えます。極端な人であつたり不注意であつたり,正しい精神的平衡を養う必要性に無関心であれば,精神の平衡を失うのはあり得ることです。

      6 何がクリスチャンの平衡の感覚を支配しますか。クリスチャンの心構えは,どのようにその平衡に影響しますか。

      6 綱渡り師の肉体の平衡は,頭の中で支配されていて,練習により改善することができます。クリスチャンにとつてもこれは同じく真実です。クリスチャンの平衡も頭の中で支配されますが,しかしそれは肉体的なものではなくて,霊的なものです。それもまた良い心構えを養うことにより,正しい訓練を通して改善することができます。人がもし悪い心構えを持つなら,その人の霊の安定は影響を受けます。そしてついには,クリスチャンの細い忠実の道をふみはずすでしよう。冷笑無視する人,こむずかしくて不平を言う人は,警告を受けいれるべきです。彼らの心構えは正しくありません。彼らのクリスチャン的平衡は危険にさらされています。

      平衡の欠けている証拠

      7 霊的平衡に弱点を見出したら何をすべきですか。

      7 クリスチャンの忠実という細い道を歩むクリスチャンは,正しい霊的平衡の不足を示すどんなしるしにも敏感でなければなりません。もし弱点を見出すならば,それを是正することに注意を集中しなければなりません。そうしないならば,その人は生命に至る細い道の終点に到達しないでしよう。綱渡り師が自分の平衡の感覚のにぶつていることを悟る時は,それを克服するまで,努力します。クリスチャンは,自分の弱点に対して同様にしなければならないより大きな理由を持つてはいませんか。クリスチャンは,綱渡り師のように,生活の糧を得るためによい平衡を追い求めているのではなく,むしろ彼の目的は永遠の生命です。それはずつと価値の高いものではありませんか。

      8,9 平衡のよくとれていないことを示す,6つの主な徴候は何ですか。堅実さのないことはどのように表われますか。

      8 クリスチャンが良い霊的平衡を欠いているかどうかを暗示するいくつかのおもな徴候があります。その著しいものは,堅実さがないこと,不安定であること,物質に対して正しくない見解を持つこと,信頼がおけないこと,無分別であること,社会的活動を重要視しすぎることなどです。

      9 献身したクリスチャンには,伝道したり,仲間であるヱホバ神の僕たちと交わるというキリストの模範に従う責任があります。もし彼が公けの宣教に不定期的で,時々思い出したように伝道をするならば,その人は,堅実さのない徴候を示しています。クリスチャンとして,自分の責任に対するその人の心構えは正しくありません。彼は,神の御命令に対する喜ばしい服従を示していません。

      10 なぜパウロとエレミヤは,正しい心構えを示すものとして指摘されますか。

      10 使徒パウロは,次のように言つて正しい心の態度を示しました,『もし福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわいである。』また次のように言つたエレミヤについても同じことが言えます,『ここをもて我かさねて ヱホバの事を宣ずまたその名をもて語らじといえり,されどヱホバのことばわが心にありて火のわが骨の中に閉こもりて燃るが如くなれば忍耐につかれて堪えがたし。』(コリント前 9:16。エレミヤ 20:9)この人たちは,宣教に不まじめではありませんでした。来る月も来る月も誰かが彼らのところに行つて,宣教に活潑になるように励ます必要はありませんでした。彼らは,神に対する彼ら自身の愛と神の真理に対する熱意によつて,内部から動かされたのです。彼らは喜んで服従を示しました。今日でも,自らを神に捧げる人々は同様でなければなりません。

      11 集会の出席はどのように霊的平衡に弱点のあることを暗示しますか。

      11 宣教において堅実さがないのを示す人々は,良い霊的平衡を欠いています。彼らは,どこへ行つているのか自分でも確かでないかのように,クリスチャンの道を歩きます。そのような人たちは,野外奉仕に不規則なばかりでなく,新しい世の社会との交わりにおいても不規則です。会衆の集会にまじめに出席しないで不定期的です。新世社会との定期的な交わりが,彼ら自身の福祉と霊的平衡にとつて欠くことのできないものであることを認識していないのです。事実それは聖書の要求です。『また愛と正しい業をはげますよう互に心がけよう。ある人の習慣のように共に集まるのを怠つてはならない。その日の近づいているのを見てますますもつてそうしようではないか。』(ヘブル 10:24,25,新世)会衆の諸集会に定期的に出席しない悪い習慣のある人々は,霊的に平衡を欠いています。

      不安定

      12-14 (イ)人はどのように安定していないことを表わしますか。(ロ)その人は誰の手本に従いますか。(ハ)なぜこの世的な交際をさけるべきですか,これに関してどのような聖書の教訓がありますか。

      12 不安定は,聖書の真理にしつかりと拠つていない人々,霊的に円熟していない人々に表わされます。そのような人々は,真理が頭にはいつていても,心にははいつていないことを自分の行動や決定によつて示します。彼らは真理の知識を頭に持つていますから,かなり良い注解をすることができますが,心はそれに感動されていません。彼らは日常生活において,聖書の原則に導かれるほど感動していないのです。そして神の御言葉の知恵に信仰を欠いていることを示しています。『もしあなた方の中の誰かが智恵に欠けているならば,その人をして神に求めさせなさい,というのは神はすべての者に物惜しみせずまたとがめずに与えられるからである。そしてそれはその人に与えられるであろう。しかし疑わないで信仰をもつて願い求めなさい。疑う者は風に吹かれて浪立つ海の浪のようである。全くすべてのものをヱホバから戴けると考えてはならない。その者は道の定まらぬ優柔不断な者である。』(ヤコブ 1:5-8,新世)優柔不断ですから,信仰も不安定なのです。

      13 不安定な人は,神の御言葉の知恵よりもむしろ自分自身の知恵と情欲によつて物事を決定します。その人は,愚かにも,新世社会の外部に友を求める種類の人です。そして,神の御心を行うことに何の関心も持たないこの世的な人々の仲間にはいります。彼は,神の明白な戒めに反してカナン人と交わつたイスラエル民族と同じ立場に自分を置いているのです。『汝みずから慎め女が行くところの国の居民と契約をむすぶべからず恐くは汝の中においてわなとなることあらん。』― 出エジプト 34:12。

      14 この世的な人々との交際を追い求めるのは愚かなことです。彼らとの交わりは,クリスチャンが,霊的平衡を維持するのを助けるよりも,むしろそれを妨げるでしよう。人は,自分がしつかりと立つのを助けてくれる友人が必要です。というのは,もし彼がクリスチャンの忠実の道を踏みはずして,クリスチャンの本性を失うならば,自分の生命をも失うからです。もしクリスチャンの本性を持たないこの世的な人のようになりたくなければ,なぜ彼らと交際するのですか。次の聖書の言葉をないがしろにして安全でいることはできないのです,『まちがつてはいけない。悪い交わりは,良いならわしをそこなう。』(コリント前 15:33,新口)イスラエル民族に起つたことは,私たちにとつて警告的な実例です。『彼らは,諸国民とまじつてそのわざにならつた。そして彼らはそのわざでけがれ,また彼らの交際によつて不信仰な交わりをつづけた。そこでヱホバの怒りはその民にむかつてもえ,その嗣業をにくまれるようになつた。』― 詩 106:35,39,40,新世。

      15 クリスチャンにとつて安全な道は何ですか。

      15 不信者から離れていることは,クリスチャンにとつて安全な道です。でもこれは形の上での分離を意味するのではありません。キリストや使徒たちは,形の上では不信者と分離せず,かえつて聖書の真理でそのような人々を援助するために彼らとまじわりました。しかしながら,彼らはその人たちと仲間づきあいをしたのではありません。使徒パウロは,次のように言つて,クリスチャンたちが,今日どんな道に従うべきかを,明確にしています。『不信者と,つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。』(コリント後 6:14,新口)平衡のとれたクリスチャンは,そのような聖書の戒めに服従して,新世社会の外でなく,その内部に友を求めるでしよう。

      16,17 結婚に関してはどの方針に従うべきですか。なぜですか。

      16 結婚という段になると,クリスチャンが,この分離という方針に従うことは,より一層の急務となることは確かです。彼は配偶者と一緒に住まなければなりません。そしてもしその配偶者が彼と同じく献身したクリスチャンでもなく神に服従することに関心もなければ,信仰に堅く立つことは彼にとつて一層むずかしくなりませんか。絶えず意見の衝突や,困難や不満が起らないでしようか。ではなぜ心配や不幸の原因となることが分り切つている結婚に同意して悲しみを招くのですか。異邦のカナン人と結婚したイスラエル民族のようになぜ神の命令に不従順となるのですか。『また彼らと婚姻をなすべからず汝の女子を彼の男子に与うべからず彼の女子を汝の男子に娶るべからず。そは彼ら汝の男子を惑わして我を離れしめこれをして他の神々に事えしむるありてヱホバこれがために汝らにむかいて怒を発し,にわかに汝を滅ぼしたまうにいたるべければなり。』― 申命 7:3,4。

      17 不信仰な配偶者のために,ヱホバ神から離れる危険は,今日でも昔のイスラエルの場合と同じです。もちろん,結婚してから信仰にはいつた人は,事態を変えることはできません。その人は,不信仰の配偶者とそのまま一緒に住みつづけて,状態を最善のものとするようにしなければなりません。彼らは霊的な強さを保つために全力をつくすでしよう。しかし,新世社会の中にいる未婚者は,『主にある者のみに』という結婚に関する聖書の原則に留意して,賢い人のように歩まなければなりません。この原則をないがしろにすることは,霊的安定が欠けているのを示すことになります。

      18,19 (イ)人の不安定さは世評によつてどのように示されるか説明しなさい。(ロ)世評に対する正しい心構えは何ですか。

      18 不安定のもう1つの証拠は,世評を恐れることです。これは普通子供たちの間に見られます。子供たちは,級友や上級生が自分のことをどう思うか,また自分のことをどんなに言うかをひどく心配するものです。そしていわゆる人気のある事柄に反対するのを恐れます。彼らは他の子供と同じような服装をし,頭髪を同じようにかり,同じように話し,同じように行動します。人と異なるのを恐れるため,類似の奴隷になるのです。

      19 他の人が何を考えようと何を言おうと少しも構わないではありませんか。人が,大衆のすること考えることすべてと歩調を合わせず,局外に立つているからといつてそれがどうしたと言うのですか。クリスチャンの原則を固守する変人だと人々に思われたところで問題ではありません。彼らの意見は大切ではなく,神の御意見は何よりも大切です。というのは神は生命を与えることができ,彼らにはできないからです。堅実なクリスチャンは,他人のおもわくや意見を恐れて,大衆と一致するようなことはありません。彼は,反対の世論にもかかわらず,クリスチャンの原則をしつかりと支持するでしよう。

      物質

      20,21 物質はどのように霊的不均衡の原因となりますか。

      20 3番目にあげられる霊的不均衡の徴候は,物質に対する正しくない見方です。平衡の欠けたクリスチャンは,この愛を野放しにして,ぬきさしならない借金の泥沼に引きずりこまれます。彼は賢明に収入相応の生活をしないで,物質的持ち物の奴隷になります。ですから,霊に関する仕事よりも,世俗の職業の方が彼にとつてより重要なものとなります。

      21 彼は,たとえ自分の職業が宣教や会衆の集会への出席を妨げても,それを調節して霊的関心事を第一にすることを好みません。その人にとつては,自分が儲ける金銭で買える物質の方が宣教や霊的健康よりも重要なのです。神の関心事や,自分の霊的福祉などは,そのような物質の次に考えます。彼は平衡を失つていて,クリスチャンの忠実の細い道から落ちる危険があります。

      信頼できないこと

      22 第4番目の霊的不均衡の徴候はどのように表われますか。

      22 平衡を欠いた人が持つ第4番目の徴候は,責任感の不足です。彼らの言葉は信頼することができません。約束をするのもはやいですが,それを破るのも同じくらいはやいのです。仲間のクリスチャンと結んだ約束の履行も頼りないようでは,どうして神と結んだ約束を守ることができるでしようか。神の御旨を行いますという彼らの契約は,実際に心からのものでしようか。小さな約束に不忠実でありながら,この最も重要な約束に忠実であり得るでしようか。

      23 (イ)監督は信頼できない人をどのように見るべきですか。(ロ)彼はどのようにその無責任さを示しますか。

      23 信頼のおけないクリスチャンは,平衡を欠いたクリスチャンです。その人は神権制度に真の奉仕をすることができません。彼は信頼のおけない人ですから,会衆の監督もその人に責任を与えるのをひかえます。その人は,宣教訓練のための神権宣教学校に席を置いても,生徒の話を割り当てられると,そのきめられた時に出席しないようなタイプの人です。また会衆の奉仕会でも自分の割当を果さないかも知れません。このようなことを繰り返すならば,その人は信頼のおけない人であつて,責任ある割当てを委せることのできない人です。野外奉仕の集合場所に行きますとか,再訪問をすることを善意者に約束しても,同じく無責任な態度を示すでしよう。彼の約束は無意味な言葉にすぎません。

      24 人は奉仕の特権を得るにふさわしいことをどのように証明しますか。

      24 クリスチャンが契約を結ぶならば,それを守らなければなりません。もし守らないならば,彼は自分を虚言者とするのです。平衡のとれたクリスチャンは,自分の言つたことを実行する人です。彼は約束を守りまた契約を尊重します。彼は小さなことに忠実ですから,もつと大きくもつと多くの責任ある仕事を与えられます。キリストは,タラントのたとえ話の中で,このことを指摘されました。自分に委せられた5タラントを良く活用した奴隷は,信頼できる者であることを証明しました。そしてさらに大きな奉仕の特権を与えられました。『主人は彼に言つた,「良い忠実な奴隷よ,よくやつた。あなたはわずかなものに忠実であつた。私はあなたに多くのものを管理させよう。主人と共に喜んでくれ。」』― マタイ 25:23,新口。

      25 信頼できない徴候を持つ人の将来は多分どのようですか。

      25 信頼性のないクリスチャンたちが,どのように生命に通ずる細い道にとどまることを期待し得ますか。正しい平衡を欠いていて,どのように目的地に達つするつもりですか。未熟な綱渡り師と同じように,そのすべり落ちる機会はとても多いのです。

      無分別

      26,27 クリスチャンはなぜ合理的であるべきですか。

      26 霊的によく平衡のとれている人は,すべてなすことが合理的です。気まぐれでもなければまた極端な人でもなく,節度のある生活をする人です。彼は次の命令に従います,『あなたがたの思慮あることをすべての人に知らせなさい。』(ピリピ 4:5,新世)その人は,賢い者のように歩んでそのことを表わし,またその行いや言葉によつて,自分が聖書の原則に導かれていることを示します。

      27 平衡の欠けているクリスチャンは,ちようどそれと反対です。習慣は節度を欠き,彼が下す決定は賢明ではありません。彼は頑固で容易に同意しません。自分の知恵はいくらでも述べたてますが,クリスチャンの兄弟たちの賢明な助言には耳を閉じてしまいます。その人は,変化して,合理的で節度のある考えを持ちまた生活をしなければ,生命に通ずる狭い道を歩みつづけることはできないでしよう。

      社会の関心事

      28,29 (イ)不均衡の6番目の徴候は何ですか。なぜそれは悪いですか。(ロ)正しい見解は何ですか。

      28 正しい平衡の欠如を示す主な徴候の第6番目は,神権的関心事よりも社会的関心事を重要視することです。宣教に関する任務よりも,社会活動の方を大切に考える人は,確かにクリスチャンとしての自分の責任と義務に対して正しい心構えを持つていません。重要な事柄に対するその人の評価は間違つています。そして神の御旨を行うことを生活の第一とするという自分の約束をないがしろにしています。その人は愚かにも,自分個人のたのしみを,神への奉仕より重要視しているのです。

      29 社会活動にはそれぞれの時間と場所があります。ですからそれらが会衆の活動を侵害するのをゆるすべきではありません。平衡のとれたクリスチャンは,それに適当な時間と注意を割きますが,それ以上のことはしません。また趣味を持つていればそれにも節度を保ちます。そしていつも自分のクリスチャン活動を第一に考えます。

      30 新世社会内のすべての人は何をすべきですか。

      30 新世社会の中にいるすべての人は,自分がこれらやまた他の平衡の欠けた徴候を多少でも持つているかどうかを知るために,自分自身をよく吟味して見なければなりません。調べもしないで,そんな徴候などないと確信しないで下さい。そのような自信のある人こそ,往々にしてすべてのことに霊的平衡を欠いている人々です。もし弱点を見出したら,それを克服しなさい。

      どのように平衡を得るか

      31,32 (イ)なぜ積極的な態度を養わなければなりませんか。(ロ)パウロの見解は何でしたか。

      31 綱渡り師は,落ちるという確信を持つて綱の上を歩きません。反対に積極的な態度を持ちます。クリスチャンにとつても同じものが必要です。堅実さをつちかうには,正しい心構えが非常に大切です。もしクリスチャン奉仕者としての自分の責任に対して,またはクリスチャンの忠実の道に従う時にともなつて起る困難や苦しみに対して,消極的な態度をとるならば,平衡を失つてたおれるでしよう。もし彼が踏みとどまりたいならば,使徒パウロと同じ積極的な心構えを持つ必要があります。『わたしは確信する。死も生も,天使も支配者も,現在のものも将来のものも,力あるものも,高いものも深いものも,その他どんな被造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から,わたしたちを引き離すことはできないのである。』― ローマ 8:38,39,新口。

      32 パウロは正しい見解を持つていました。彼は生命に通ずる細い道を歩みつづけることを決意していたのです。パウロは何ものにも,彼の肉体外のものまたは肉体の内部の影響にも自分をつまづかせたり失敗させるのをゆるしませんでした,『わたしは目標のはつきりしないような走り方をせず,空を打つような拳闘はしない。すなわち,自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない。』― コリント前 9:26,27。

      33,34 人はどのようにパウロと同じ態度を養いそれをたもちますか。

      33 このような正しい心構えは,努力なしで得られるものではありません。それには,神の御言葉の熱心な研究と,その正確な知識がいるのです。また,神の示された正しい原則に一致して歩もうと純粋に,心から願わなければならないのです。そして学ぶことを心に深く銘記して,自分のものとしなければなりません。そして,ヱホバと自分の関係,神権制度と自分との関係を深く考えなければなりません。『すべての事にあなたの進歩があらわれるため,これらの事を実行し,それを励みなさい。自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教えを聞く者たちとを,救うことになる。』― テモテ前 4:15,16,新口。

      34 自分自身に絶えず注意を払うことによつて,人は自分の心の状態を観察し,心が消極的になつたり気むずかしくなつていないことを確かめます。そうしないなら,その人は学んだ聖書の事柄に長くとどまつていないでしよう。彼はほどなく生命に通ずる細い道から落ちるでしよう。その理由でパウロは,聖書の真理と神への奉仕に没頭して自分自身に気をつけなさいと戒めたのです。パウロはヘブル人にも同じような戒めを与えました,『であるから,私たちが聞いた事柄に普通以上の注意を払うことが必要なのである。それは,私たちがおし流されないためである。』― ヘブル 2:1,新世。

      35 制度や仲間のクリスチャンの不備なことや誤りをなぜ見のがすべきですか。

      35 正しい心構えを養うもう一つの要素は,クリスチャン制度の中の不備な点や,仲間のクリスチャンの弱点を見のがすことができるということです。神の霊は制度の上に働いていますが,しかしそれが,人間の監督の行うすべての決定や一挙手一投足を支配しているわけではありません。この人々は,新世社会のために最善と考えられる決定をするよう委せられている,自由な道徳的行為者です。彼らは,神の御言葉とその原則に導かれて賢明な決定をする能力を持つ円熟したクリスチャンです。しかし,万一誰かが誤まつて賢明でない決定を行つたとしても,そのために不満をもつようになつたり,不気げんになるべきではありません。この一人の監督のために,制度全体を批判すべきではありません。それは,冷笑的になる理由にはなりません。つり合いのよくとれたクリスチャンは,間違いや欠点を見のがすものです。そして人間でなくて神に奉仕していることを忘れないでしよう。また,神は,地上の御自分の関心事を行われるのに,キリストは例外として,常に不完全な人間を用いてこられたことを思い起すでしよう。この人々は,良い心を持ち,神の関心事を発展させることを熱望した人々でした。不完全であるために,ある人々は間違いをしましたが,彼らの間違いは,人が神権制度を拒絶してこの世に逆戻りする理由とはなりません。生命の言葉を持つのは神権制度であつて,この世ではありません。

      36 他の人の間違についてクリスチャンはどんな見方をしますか。

      36 堅実なクリスチャンは,神の御言葉の意味や,神権制度が行つている事,またその前に横たわる将来をよく知つています。彼は,使徒パウロのように,積極的な心構えを持ち,何ものにも神に対する愛と御国奉仕に対する熱心を弱めさせません。彼は被造物崇拝の犠牲者ではないので,ある監督が間違いをしたり,誤つた決定をしたり賢明な行動をとらないときでも,つまづきません。そしてそのような間違いの矯正は制度にまかせるでしよう。しかし自分自身は,生命の目標を目ざしつづけ,何ものにも妨げられないでしよう。彼は理解と分別を示し,容易に腹を立てないでしよう。

      37,38 悪い心構えをさける最善の方法は何ですか。

      37 人がもし正しくて建設的な事柄に自分の心を絶えず用いるならば,正しい心構えを養うのに大きな助けとなります。これもやはり消極的でなくて積極的に考えるということが問題です。これに関しては,ピリピ書 4章8節によい助言が与えられています,『最後に,兄弟たちよ。すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい。』

      38 人がこの助言に従うならば,制度や仲間のクリスチャンの悪口を言つたり酷評したりしないでしよう。その人は神の御言葉の正しい事柄,新世社会が全世界で行つている建設的な仕事のことを考えるでしよう。そしてしつかりとした信仰を持つでしよう。

      39 平衡のよくとれたクリスチャンは何を警戒しますか。

      39 平衡のとれたクリスチャンは,すべての事にまして利己主義を警戒します。彼は,自分でなくて,神と仲間のクリスチャンたちを愛する愛に生長します。助言されるとそれを議遜に受けいれます。その人は『愚かなる者はみずからその道を見て正しとす,されど知恵ある者はすすめを容る』ことを知つているのです。―シンゲン 12:15。

      節度

      40 (イ)なぜ禁欲主義的な考えに傾くべきではありませんか。(ロ)どんな道をとりますか。

      40 クリスチャンは,何事をするにも,極端になることはできません。道理にかなつた節度のある道は,いつの場合でも最良のものです。信仰のある人は,貧しい生活をすべきであつて,適度な物質的楽しみや,娯楽をしりぞけるべきだとある人々は考えますが,これは誤つた結論です。自分の肉体を苦しめることが神の承認を招くのではありません。そうだと考える人々は,聖書的でなくて異教の考え方に従つているのです。というのは,これはヒンヅー教徒や仏教徒の考えと共通しているからです。聖書の中には,禁欲主義的な考え方を正しいとするものはなにもありません。平衡のとれたクリスチャンは,自分の利益のためばかりでなく,神のためにも物質を合理的に用いる能力を持つています。彼はそのような物を賢明に用いることができ,しかも神の承認を得るために物質の与える楽しみや,喜びをしりぞける必要はないのです。彼は,極端な禁欲主義にも傾かなければ,反対の極端な物質主義や放縦にも走ることなく,節度を持つています。聖書の中の監督に与えられた賢明な助言は,クリスチャンの態度をよく表わしています,『監督は非難のない人で……慎み深く……なければならない。』― テモテ前 3:2,新世。

      41,42 宣教においてはどんな平衡を追求すべきですか。

      41 有能な奉仕者は,個人研究や伝道においても適度を守ります。彼は,多くの時間を宣教に捧げて,自分の研究を怠るような人ではありません。また研究に多くの時間を使つて,伝道に少しの時間を当てるという極端にも走りません。彼は,研究が,クリスチャンの忠実の道に堅く立つのに必要なのはむろんのこと,伝道によつて最良の成果をおさめるにも必要なことをよく知つています。野外奉仕と個人研究のバランスをとるという適度のある道は,従うべき賢明な道です。

      42 クリスチャンが知識と円熟に生長するに従つて,奉仕者としての彼の実力も増します。これは,さらによい成果と大きな喜びをもたらしますから,彼は自分の伝道活動をさらに増大することを望みます。そしてわずかの奉仕で満足しないで,でき得るかぎり多くの奉仕をするよう望みます。彼は奉仕のいかなる面もおろそかにせず,ちようど伝道と個人研究のバランスをよく保つていると同じように,それらにも平衡を保つように努力します。節度は彼を有能な奉仕者にし,聖書の真理をよく活用して役立たせます。

      43 (イ)なぜある人は霊的平衡を改善しある人はしないのですか。(ロ)なぜ無関心でいることはできませんか。

      43 今までに述べられてきた事柄は,献身したクリスチャンが,正しい霊的平衡を養うことのできる方法です。新しい世の社会の中で霊的にぐらついているある人々は,それらを用いて,さらによいつり合いを得るように努力するでしよう。しかしある人々はそうしないでしよう。無関心な人々は,クリスチャンの忠実の狭い道から落ちないで,どうにか歩んで行けるとでも想像しているのでしようか。集会に時たま出席し,時たま野外で伝道することによつてその狭い道の終点に到達することに成功し,永遠の生命が受けられるとでも思つているのでしようか。もしそう考えているならば,彼らは誤つた考えを持つているのです。細い綱からすべり落ちることがどんなに容易であるかを彼らに想像させなさい。そうすれば,クリスチャンの忠実の狭い道を踏みはずすことがどんなにたやすいかを認識するでしよう。彼らは無関心でいることはできないのです。彼らの存続は,彼らがすべてのことにおいて平衡を保つよう努力することにかかつています。

  • 正しい平衡を維持する
    ものみの塔 1958 | 9月1日
    • 正しい平衡を維持する

      『あなた方の心をひきしめて働き,全く平衡をたもつて,イエス・キリストの現われるときにもたらされる恵みに,あなた方の希望を置きなさい。』― ペテロ前 1:13,新世。

      1 聖書はどのような導きですか。

      聖書には,ヱホバの導きによつて書かれた正しい助言と原則が含まれています。それらは,私たちの導きとして準備されたものであつて,私たちの行くべき道,私たちのためになる道,永遠の生命に通ずる道を示しています。その理由で,使徒パウロは言いました。『聖書はすべて神の霊感をうけたものであつて,教や戒めや,物事を正しくする事,正しく躾けることに有益なものである。それは神の人があらゆる良いわざに対して十分の備えができて,全く整えられた者になるためである。』― テモテ後 3:16,17,新世。

      2,3 クリスチャンがキリストにならうべき道とは何ですか。

      2 もし人が,神の御言葉の中にあるものを学んで応用しようと努力しないとしたら,どうして宣教に十分な資格を備えることができますか。神がクリスチャンになせと命令されたわざを行うために,どのように準備することができますか。クリスチャンであると主張することができるでしようか。クリスチャンとは,キリストに従う者,キリストの足跡を踏む者です。キリストは,いつの時でも,聖書をないがしろにしたり,宣教を怠つたことはありませんでした。

      3 キリストは,クリスチャンの忠実の道に歩まれた時,神に対する不動の忠誠と,完全な平衡を持つておられました。そして何ものもその道からキリストを引き離すことはできませんでした。今日のキリストの追随者たちが,もしクリスチャンの平衡を持ちつづけたいと望むならば,これと同じような強固さを持たなければなりません。『だから,愛する兄弟たちよ。堅く立つて動かされず,いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあつては,あなたがたの労苦がむだになることはないと,あなたがたは知つているからである。』― コリント前 15:58,新口。

      4 聖書はどのように平均をとる棒のようですか。

      4 これをなすには,神の御言葉の原則を応用するのはもちろんのこと,それを絶えず研究することが必要です。それは,綱渡りをする人が使う平均棒のような役目をします。細い綱を渡つている間,この棒が平衡を保つのを助けると同じく,聖書は,クリスチャンが,クリスチャンの忠実という狭い道を歩く時,その平衡をたもつのを助けます。

      5 霊的平衡を維持するのはなぜやさしくないのですか。

      5 この世の色々な力は,時にクリスチャンを押したりひつぱつたりして,クリスチャンが霊的つりあいを維持するのを困難にします。彼は,この世の物質主義的な魅力に危険なまでに強くひつぱられるかも知れません。あるいはこの世の迫害が危険なまでに彼を反対の方向に押しやるかも知れません。いずれの場合においても,神に対するクリスチャンの忠実は,激しい試練にあつているのです。その狭い道に留り得る能力は,彼がいかによく霊的平衡の感覚をつちかうかに依存しています。またそれは,彼がいかに巧みに聖書を平均棒として用いるかにかかつています。この世がいかに彼をたおそうと激しく試みても,注意力の集中と努力によつて,彼はしつかりと歩みつづけることができます。

      心構え

      6 クリスチャンはなぜまたどのように心を引きしめなければなりませんか。

      6 正しい霊的平衡をつちかうのに正しい心構えがいるのと同じく,それを維持するのにも正しい心構えが必要です。もしこの心構えが弱くなれば,クリスチャンの強固さはただちに影響を受けます。これは,クリスチャンが,神の御言葉で絶えず心を引きしめていなければならないことを意味しています。クリスチャンは,神が自分の前に置いて下さつた希望を深く考えて見なければなりません。

      7 監督は,なぜ特に,自分の心構えに注意を払わなければなりませんか。

      7 神権制度の中で監督の地位を与えられた人は,特に自分の心構えに注意しなければなりません。その人は他の人々に手本を示します。責任のある地位を持つているという理由で,その人が尊大ぶるようになるのはやさしいことです。彼は自分を高く考えすぎるようになるかも知れません。もしそうすれば,その人は悪い心構えをそだてているのです。使徒パウロはこのことを次のように警告しました,『わたしはあなたがたひとりびとりに言う。限度を越えて思いあがつてはならない。』(ロマ 12:3,新世)また彼は,ピリピ人にこう言いました,『あなた方は,キリスト・イエスと同じ心を持ちなさい。……彼はみずからを低くして,死に至るまで,苦難の刑柱の死に至るまで従順であられた。』― ピリピ 2:5,8,新世。

      8,9 (イ)どんな危険がある監督たちにのぞみますか。そして聖書はどんな警告的実例を彼らに与えていますか。(ロ)何を見失なつてはなりませんか。

      8 神権制度内の責任の地位にいるある人が,多くの重要な決定をしなければならない時,彼は自分が単なる主の僕にすぎないということを見のがすかも知れません。自分がしてきたことを話す時,『私は兄弟たちがこのように,またはあのようにすべきことを決定しました』と言うかも知れません。あるいは必要な道具の購入を監督したならば,『私は彼らにあれやこれを買つてあげました』と言うかも知れません。これはとても危険な考え方です。なぜなら,モーセとアロンが,メリバの水のところで,神のこらしめを受けたのは,まさしくこれと同じ態度のためだつたからです。イスラエル人が,水がないと言つて不平を言つた時,モーセは,『我ら水をしてこの磐より汝らのために出しめんか』と言いました。モーセは『我ら水をして……出しめんか』と言うことによつて,栄光と誉を神に帰すかわりに,自分自身を高めたのです。水を出したのはモーセとアロンではなくて神でした。彼らは,ただ神に用いられた器にすぎなかつたのです。

      9 監督についても同じことが言えます。もし彼が,神権制度のために決定を行つたり,物を購入する場合,『私がああした,こうした』と言つて,自分自身を高めるような愚かなことをしてはなりません。それをしたのは彼ではなくて制度です。彼は単に制度の僕であつて,制度が用いた器にすぎません。彼は,モーセとアロンに起きたことを思いかえして,神のみ前にみずからを低くしなければなりません。人がヱホバの制度の中で,たとえどのような立場にいようとも,謙遜さを失つてはなりません。『ヱホバのみ前にあなたがた自身を低くしなさい。そうすればヱホバはあなたがたを高くして下さるであろう。』― ヤコブ 4:10,新世。

      10 監督は,なぜ助言を喜んで受けるべきですか。

      10 ですから謙遜さは正しい心を持つのに欠くことのできないものです。謙遜な人は,進んで他の人の助言を受けいれます。どのような立場にいようと,その人は自分が不完全であること,また助言によつて益が得られることをよく知つています。『人の心にある謀計は深き井の水のごとし,されどさとき人はこれを汲出す。』(シンゲン 20:5)彼は他の人が心に抱いている助言を話すよう励まします。そして自分の地位のために他の人が助言をさしひかえるというような垣を作りません。彼は自分の肩にかかつている重い責任を果すためには,誰よりも多くの助言が必要であることを知つています。助言を人の心からくみ出す謙遜な監督は,良い心構えを確かに維持しています。

      洞察力

      11 なぜ正しい洞察力が心要ですか。

      11 霊的堅実さを維持するには均衡のとれた物の見方をすることも,また大切です。彼は全体からして自分が時の流れのどのへんにいるかを見ますか。また,過去,現在,未来を,一大パノラマの中に見ますか。霊感の下に書いている預言者を見,そしてそれらの預言が,自分の住んでいる現代に成就しているのを悟りますか。ハルマゲドンが,この悪い組織制度に終りをもたらすところ,その後で,この地球を平和で満たす正義の新しい世が訪れるのを考えて見ますか。新しい世で,古い世の廃墟を掃除するのを手伝つている自分を考えて見ることができますか。今この古い世と古い世の悪い欲望から離れていることがどんなに重要であるかを悟りますか。もし人がこのような洞察力を得ることができれば,クリスチャンの忠実の狭い道をしつかりと歩みつづける助けとなるでしよう。しかし,人が霊的に近視眼で,目さきのことだけしか見えないならば,しつかりと立つことはむずかしいでしよう。ですから,神の御目的の全体を見わたすことが是非とも必要です。

      12,13 クリスチャンはどのように神権制度を評価すべきですか。

      12 制度とクリスチャンの宣教に対する正当な評価は,正しい洞察力と関係があります。正しい洞察力は正しく評価するのを助けます。人は神権制度を離れていることはできません。そして自分にとつて何の価値もないと考えることはできません。人は,霊的食物を得るために,交わりのために,励ましを得るために,また宣教における教訓と指導を得るために神権制度が必要です。神権制度なくしてやつて行くことはできません。

      13 神の御目的に対して,正しい洞察力を持つクリスチャンは,神権制度がそれらの目的の中で占めている重要な地位をはつきりと見るでしよう。そしてイエスが次のように預言された大規模な教育のわざを,神権制度がどのように行いつつあるかを悟ります,『御国のこの良いたよりは,すべての国民に証をするため全世界に伝道されるであろう。』(マタイ 24:14,新世)彼は,神がどのように神権制度を祝福し,産出的にし,霊的に繁栄させておられるかを悟ります。彼は常に神権制度を愛し,神権制度と共に留ります。

      行動する前に考えなさい

      14,15 クリスチャンはどのように苦しい状況の下に住んでいますか。そして聖書は彼にどのように建全な教訓を与えていますか。

      14 クリスチャンは,非常にむずかしい状況のもとに住んでいます。というのは,彼が住んでいるこの世がかもし出したふんいきの中では,正義が通用しないからです。悪や利己主義や貪欲が満ちています。信仰生活をしようとする人は苦しんでいるにもかかわらず,悪いことをする人々は栄えています。このことは,クリスチャンが,霊的均衡を保つ助けにはなりません。

      15 ここでもまた聖書は彼に救いの手をさしのべ,健全な助言を与えます,『悪をなすものの故をもて心をなやめ,不義をおこなう者にむかいて嫉をおこすなかれ,かれらはやがて草のごとくかりとられ青菜のごとく打萎るべければなり。なんじヱホバのまえに口をつぐみ忍びてこれをまち望め,おのが道をあゆみて栄ゆるものの故をもて,あしき謀略をとぐる人のゆえをもて心をなやむるなかれ。そは悪をおこなうものは断ち滅ぼされ,ヱホバをまち望むものは国をつぐべければなり。』― 詩 37:1,2,7,9。

      16 悪い人の繁栄をどのように考えるべきですか。

      16 悪人が栄えるからといつてそれをうらやましく思い,自分も悪に手を出すべきではありません。彼らの繁栄は,永続しないことを心に留めていなさい。彼らはしおれて死んでしまう草のようにいなくなつてしまうのです。『なんじ悪しき者を怒ることなかれ,邪曲なる者をうらやむなかれ。それ悪しき者には後の善きむくいなし,邪曲なる者のともし火は消されん。』(シンゲン 24:19,20)彼らは決して永遠の生命のたまものを受けません。

      17 なぜクリスチャンは霊的平衡をたもつ戦いを止めることができないのですか。

      17 クリスチャンが,この世の悪のふんいきの中で生活しなければならない以上,彼は清いクリスチャンとしての行いを維持するために,絶えず戦わなければなりません。彼はまた自分の霊的平衡をたもたなければなりません。さもなければ彼は,クリスチャンの忠実という高い狭い道から,この世の不義の泥沼に落ちこんでしまうでしよう。悪いこの世的な欲望が自分をひつぱるのを感ずる時は考えなければなりません。そして分別を働かせ,感情に左右されないで良い判断力に導かれ,神の御言葉の原則に堅くついていなければなりません。『あしきものは久しからずしてうせん,なんぢこまかにその処をおもいみるとも在ることなからん。』― 詩 37:10。

      18 霊的平衡をたもつには何がいりますか。

      18 人がクリスチャンの忠実という狭い道を歩む時には,この世の不法行為を後に捨て去ります。彼は,神の御言葉である法的禁止に何の注意も向けないこの世の行いに背を向けます。彼はこの世の不道徳の泥沼からはい出してきて,今高い道徳の道を歩いているのです。しかし,この道で平衡を維持するのはやさしいことではないのです。それには大へんな努力が集中されなければなりません。そして神の御言葉と制度の援助を必要とし,また自分の霊的均衡を改善しようと絶えず希望することが必要です。

      19-21 (イ)平衡を破られそうだと感じたら何をすべきですか。(ロ)失敗するクリスチャンはどのように害を与えますか。

      19 つりあいのとれたクリスチャンが,もし悪い欲望や悪い影響にひつぱられているのを感ずるならば,自分の計画している行為が,神と自分との関係におよぼす結果を考慮するでしよう。それらの行為は,自分が献身した僕として代表するヱホバの御名に恥をもたらすか。それらはヱホバの恵みをもたらすか。それとも恐れをもたらすか。制度に対してはどうですか。どのように制度に影響するでしようか。それらは制度に非難をもたらしますか。それらは,自分をして正しくないふるまいをしたイスラエル人のようにならせますか。『彼らその行くところの国々に至りしがついにわが聖き名を汚せりすなわち人かれらを見てこれはヱホバの民にしてかれらの国より出で来れるなりと言えり。』(エゼキエル 36:20)つりあいのとれたクリスチャンは,不忠実なイスラエル人と同じ立場に自分を置くような事柄ならば何でも,それを行う前に注意深く考慮します。そして正しくない行動によつてヱホバ神の御名を汚すようなことをしません。

      20 彼はペテロの言つた言葉を忘れないでしよう,『愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは,この世の旅人であり寄留者であるから,たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあつて,りつぱな行いをしなさい。そうすれば,彼らは,あなたがたを悪人呼ばわりしても,あなたがたのりつぱなわざを見て,かえつて,おとずれの日に神をあがめるようになろう。』(ペテロ前 2:11,13,新口)クリスチャンとしては,少しでも前もつて考える方が,後でたいへん後悔をするよりもよいのです。

      21 また自分の行為が,会衆内の他の人々にどのように影響するかを考えるのも良いことです。ちようど真理に興味を示しはじめたばかりの新しいメンバーや人々に,それはどのように影響しますか。仮にある監督が,不注意になつてクリスチャンの平衡を失つたとしたら,彼は信仰の弱い人々をつまずかせませんか。彼は,ある善意者たちをしてヱホバの制度に対し冷くならせはしませんか。彼らは,監督の正しくない行為によつて制度に誤つた判断を下し,制度の悪口を言わないでしようか。平衡を失つたクリスチャンが大きな害をおよぼすことはあり得るのです。このことは決して忘れられたり無視されたりすべきことではありません。しかしもしクリスチャンが,情熱でなくして理性に,感情でなくして論理に自分を支配させたら,その均衡を維持することはずつとやさしくなるのに気づくでしよう。

      祈り

      22 祈りはなぜ非常に心要ですか。

      22 祈りをしないで霊的平衡をたもつことは不可能です。祈りは,人がヱホバにたよつていることを常に思い起させます。それは,神がなしてこられたこと,またこれからなされることに対して心からの感謝を表わすことのできる一つの方法です。祈りは,人がヱホバと話しをして自分の苦しみや心配を天の父にまかせることのできる道です。『何事も思い煩つてはならない。ただ,事ごとに,感謝をもつて祈と願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が,あなたがたの心と思いとを,キリスト・イエスにあつて守るであろう。』― ピリピ 4:6,7,新口。

      23,24 祈る時にその心はどこにあるべきかを説明しなさい。そしてなぜですか。

      23 『すべてヱホバをよぶもの誠をもてこれをよぶものにヱホバは近くましますなり』と書かれているように,誠実な祈りは人を神に近づかせます。(詩 145:18)ヱホバは,ヱホバとその関心事に心を置き,心をこめて祈りをささげる人々に近くおられます。他の事を考えながら祈ることは,誠実な祈りではありません。そのような祈りは,機械的で意味がなく,ちようどイエスが,預言者イザヤを通して話された御父の言葉を引用してあてはめた,人々の祈りと同じようです,『この民は,口さきではわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。』― マタイ 15:8,新口。

      24 個人的に祈つていようと,会衆の中で祈つていようと,その人の心は言われている事柄の上にあるべきです。祈りは,創造者との通信であつて,確かに私たちが万全の注意を払う価値のあるものです。霊的均衡をたもつためには,私たちは常に心をヱホバに寄せていなければなりません。『なんじは平康にやすきをもてこころざしかたき者をまもりたまう,彼はなんじに依頼めばなり。なんじらとことわにヱホバによりたのめ,主ヱホバはとこしえに岩なり。』(イザヤ 26:3,4)心からの祈りは,ヱホバに対するより大きな信頼と依存を生じさせます。祈りは,クリスチャンが,その古い世の腐敗した状態に取りまかれ,その迫害になやまされている時にあつて,しつかりと立つことを助けます。

      将来の見込み

      25 クリスチャンの忠実の狭い道はなぜ無益な道ではありませんか。人の霊的均衡に関する弱点はなぜ無視することができないのですか。

      25 クリスチャンの忠実という狭い道は,無益な道ではありません。現在と将来においてそれにはゆたかな報いがあります。それは追い求める価値の十分ある貴重な報いです。しかし,これは,霊的平衡を持つ人々のみに与えられるでしよう。従つてこのことは,つりあいのよくとれていないクリスチャンは,その弱点を是正し,ただちにその歩みを堅実にしなければならないことを意味します。それは無視することのできない真剣な問題です。

      26,27 堅実なクリスチャンがいま享受している報いのいくらかは何ですか。彼は何を確信して期待していますか。

      26 大きな心の平和は,平衡のとれたクリスチャンが今享受している報いの一つです。世界状勢がいかに不穏になつてきても,クリスチャンは動揺しません。彼は,将来に何があるかを知つており,また自分は生き残れる道を歩んでいることを知つています。そしてこのことは,現在の悪しき組織制度の上に近づきつつある神からの滅びに対する,どのような恐怖も取り去つてしまいます。

      27 彼は,神の律法を愛する人々,神の原則によつて生活し,神への奉仕に従事する人々が持つ喜びを持つています。また,その良心は,正しくないふるまいをしたとか,彼に要求されたことを行わなかつたという理由で彼を責めません。彼の心はくつろいでいます。そして,地球が従順な人類のために,楽園の家と変るのを自分の目で見るよう楽しく期待しています。彼はまた,クリスチャンの忠実の細い道を歩んで来た人々に,永遠の生命のたまものが与えられる時には,今から千年以上も生きることを確信を持つて期待しています。

      28 霊的平衡のある人は死をどのように考えますか。

      28 彼が万一その前に死んでも,その人には復活により,キリストの花嫁の一人として,もしくは一人の人間としてこの地上の生命に再びつれもどされ,地上における永遠の生命の希望を得る見込みがあります。それは彼がその細い道を踏みはずさなかつたからです。復活の希望があるため,平衡のとれたクリスチャンは不安や恐れを持たずに死に直面することができます。ですから迫害者たちは殺すといつて彼を脅迫することはできません。彼は迫害者たちが何をしようと何を言おうと自分の忠実をしつかりと維持します。

      29 生命に通ずる細い道を発見したある人々に何が起きましたか。

      29 イエスが預言されたように,世界の全人口の中,わずかな者だけが忠実の細い道を発見しました。その中のある人々は,霊的均衡を維持することに失敗し落ちてしまいました。そしてその落ちた人々の中で,再び元気をとりもどし,苦しみながらもとの道にのぼつて来た人もかなりあります。彼らがその道に復帰することができたのは,ひとえに彼らの誠実と,心からの悔い改めと,神の過分の御親切によるものです。その道にどのくらい長く留るかは彼ら次第です。彼らがもしいま,いかに歩むかを注意し,霊的平衡を改善しそれをたもつて,賢い人のように行動するならば,永遠の生命という彼らの目標に到達するまでその道に留ることができるでしよう。

      30 霊的平衡がとれていない徴候を無視することができますか。なぜですか。

      30 道から落ちて再び立ち上らなかつた人々に起つた事柄は,その道を歩むすべての人にとつて警告となるべきです。彼らは,自分を落そうとして押したりひつぱつたりする色々な力に無関心でいることはできないのです。またつまづきの石に対する聖書の警告を無視することもできません。霊的平衡の弱さを示す徴候にも目を閉じることはできません。危険が多いからです。彼らに使徒ペテロが言つたようにさせなさい,『あなた方の心をひきしめて働き,全く平衡をたもつて,イエス・キリストの現われるときにもたらされる恵みに,あなたがたの希望を置きなさい。』― ペテロ前 1:13,新口。

      31 現代の組織制度の完全な終りが近づくにつれて,何が期待されますか。

      31 私たちが,現在の悪い組織制度の完全な終りに近づくにつれて,クリスチャンの忠実という細い道に留ることはますますむずかしくなるでしよう。従つて霊的平衡をたもつにはよりよい熟練と,より強い決意を必要とするでしよう。いま不安定なようでは,どうしてその時耐えることができますか。

      32 (イ)どのようにしてのみ,永遠の生命という目標に到達することができますか。(ロ)それまでに,平衡のとれたクリスチャンは制度にとつてどんな価値がありますか。

      32 この道の終点にある目標は,正しい平衡をたもつに必要なあらゆる努力と忍耐をするだけの価値があります。もしあなたが,将来にあるその目標から目をはなさず,クリスチャンの忠実の道にしつかりと立つならば,あなたの将来は明るく終りがありません。あなたは,正しい霊的平衡を持つことによつて,綱渡りをする人が細い綱の上を歩くと同じように,その細い道を確かな足どりで歩むことができます。すべてのことに平衡をたもつことによつてのみ,あなたは自分の目標に到達することができるのです。そこに到達する過程においては,あなたはヱホバ神の御手の中にある,またヱホバの神権制度の信頼できる有益な器となるでしよう。

  • 神学生を困らせた質問
    ものみの塔 1958 | 9月1日
    • 神学生を困らせた質問

      ユーゴースラビヤのセルビヤ地方の正統派の信者は,死人の崇拝を行つています。『万霊の日』と呼ばれる日に,各家族は連れだつて,食物の一パイはいつたバスケットを下げ,墓詣りをします。食物のなかには,特別に調理したお供用のケーキがあります。それは,純白の小麦粉,ミルク,蜂蜜,肉桂でつくられたものです。墓詣りにきた人々は,誰れにでも ― たとえ,その人が故人を知つていても知らなくても ― この一サジのケーキの御馳走にあづかります。また家族のうちの故人の『命日』にも,毎年,このケーキが供えられます。この儀式の日には,親類,友人は,みな招待されます。

      あるヱホバの証者の婦人奉仕者は,死亡した牧師の娘のところを再訪問しました。そのとき,家族は丁度『命日』の儀式を終えて,帰つてくるところに,思いがけなくぶつかつてしまいました。ヱホバの証者が部屋に入つて行くと,一群の人々に真正面に会つてしまい,そのうちには,正統派教会の二人の神学生もまじつていました。

      証者はそこに立ちどまりました! 女主人はまずサジを渡し,つぎに,命日のケーキをさし出しました。訪問者はまずケーキを食べてから,つぎに紹介されるのが習慣なのです。彼女はサヂを持つた手をそのままにして,質問しても宜しいですか?と尋ねました。沢山の人々がいるのですから,たしかに誰かが,正しい解答をしてくれる筈です。

      『もちろん,差支えありません』と女主人は答えました。証者は言葉をつづけて,から云いました。『たとえば,あなたの兄弟がある罪をきせられて,投獄されたと仮定して見ましよう。あなたは弁護士に頼んで釈放運動をします。そして,この弁護士に,時々,報酬を支払います。さて,2年たつた後に,自分の兄弟の釈放運動がどの程度まで進展したか,あなたは弁護士に聞く権利がありますか?』

      『そうですとも,権利はありますね』とその婦人は答えました。『では,弁護士は,あなたの兄弟の釈放の運動の見通しとか進歩について,知らせる義務がありますか』『もちろんです』人々は答えました。『では宜しいですね。あなたの父は何年も前に死亡しました。そして少くとも一年に一度,命日には,多額の金をミサやお墓の儀式に払いました。そして牧師は,あなたの父は天国に行くと言います。では,父は一体どのくらいまで天国へ近づいたか,牧師にきいたことがありますか? 牧師はその答をたしかに知つていなければならない筈ですね。あるいは,父はすでに天国に行つているから,もはや,ミサとかいろいろの儀式は必要ないかも知れません。だれか私の質問に答えられますか?』と証者は家の女主人に向きながら言いました。

      人々はシーンとしてしまい,誰も答えられません。人々の目は,おのずと,二人の神学生の上に集まつていました。しかし,彼らも当惑しています。証者は,お供えのケーキを口にしないで,サヂを下におきました。すると,一人の神学生は沈黙を破つてこう云いました。『こんな譬をし,この崇高な儀式をかき乱し,このように格下げをするとは,何と無礼ではないか』『どうして,無礼ですか?』とはつきりとした考えをもつているセルビヤの婦人は,答えました。『これらの質問は素晴らしいものだ,ピッタリと事実にあつている』『本当にそうだ』と他の人々も付け加えます。『あなたこそ,その質問にはつきりとした解答すべきでしように。そんな,馬鹿にした態度をとつて,自分の窮地を抜けだそうとしているのでしよう』

      そのとき,叔母は声をあげて,こう云いました。『私の父に今度会つたら,早速この質問をしてみましよう。この20年というもの,死んだヨバンのための,ミサや命日の儀式に,果てしないお金を使つてきた。もう今頃までには,行くべきところに着いていましよう。毎年,工面して,この金額をととのえる必要がどこにあるのでしよう?』 その婦人は,今聖書の研究を行つています。

日本語出版物(1954-2026)
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