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永遠の前途を見ながら奉仕するものみの塔 1974 | 9月15日
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の定めた時に,この不敬虔な体制を滅ぼされることを確信しています。「患難」が始まれば,わたしたちはそれを認めることができるでしょう。ですからわたしたちは,特定の期日について,あたかもその期日を目標にして奉仕しているかのようにいろいろ憶測をする代わりに,イエスが,この時代にイエスの弟子たちによって行なわれるであろうと言われた,重要な伝道のわざに注意を集中することができます。(マルコ 13:10)したがって,「大患難」がいつ始まろうと,わたしたちは忙しく働いており,自分たちの割当てを果たすことに熱中しているでしょう。そしてわたしたちの将来を見る「目」はある期日の上にはなく,ちょうどユダがクリスチャンに勧めたように,永遠の前途を見ながら奉仕しているでしょう。
あなたの行動や決定にとこしえの崇拝を反映させなさい
20,21 (イ)人の生活はその人の将来に対する見方についてどんなことを示すことがありますか。(ロ)これは賢明な見方ですか。
20 神に永遠に奉仕することができるというわたしたちの堅い信仰は,宣べ伝えるわざ以外の事がらにおいても明白でなければなりません。日常考えることや行動にもそれが影響を及ぼすはずです。なぜそう言うかといいますと,ある人は,これまで検討してきたことには同感ですと言うかもしれませんが,思いや行動はまだそれに影響されていないことが日常生活に現われるかもしれないからです。その人は現在のためだけに生きていることを示すかもしれません。それはどんなに悲しいことでしょう。
21 真の崇拝者が,エホバの永遠の目的の中に位置を占め得ること自体,現在がいかに短くはかないものであるかを示しています。これは,何千キロにわたる長いはかりざおがあるとすると,そのはかりざおの上のほんの1㌢に似ています。その1㌢が最も重要な部分であるかのようにみなし,それによって自分の生活全体を律するのは分別のあることでしょうか。永遠に生きるように現在を生きる人,そして自分の永遠の福祉にどのように影響するかという点から物事を判断し評価する人のほうが,ずっと平衡が取れており,賢明です。
22,23 (イ)聖書は,結婚についてクリスチャンにどんなことを理解させますか。(ロ)世の人びととは対照的に,永遠の前途を見ながら奉仕するクリスチャンの若者は,結婚に対してどんな精神的態度を示しますか。
22 永遠の前途を見ながら生きていることを示すひとつの例は結婚にかんするものです。若い人びとが結婚を望む傾向があるのは理解できます。結婚は神が取り決められたもので,それには多くの祝福があります。しかし不完全な人間の間では,結婚にもそれなりの問題や制約があります。(コリント第一 7:28)使徒パウロはそのことを理解していました。そして,情欲に絶えず悩まされることなく独身状態を保てるクリスチャンに,独身でいることを勧めました。そのような独身者は,結婚生活に伴う,『気を散らす事がらに煩わされることなく絶えず主に注意を向けている』ことができます。そしてこの独身の利点は,『残された時が少なくなっている』のでとくに貴重である,とパウロは述べました。―コリント第一 7:29-38。
23 神に永遠に奉仕する可能性を信じていない若い人びとの多くは,『なにもわざわざ自制することなんかない。性を楽しみたければ結婚してそうすればいいんだ。将来のことなどわかるものか』という態度を取ります。しかしほんとうに永遠の前途を見ながら奉仕している若いクリスチャンは,そのようには急ぎません。「若さの盛りを過ぎ」るまで進んで待ち,結婚するほうがよいかどうかを決めます。そしてその間は,「心を一つにして主に仕える」独身の利点を経験することができます。(コリント第一 7:35,改訂標準訳)もしそのうちに結婚することにしたとしても,そのときには結婚に伴う種々の責任を果たす準備ができているでしょう。永遠の前途を見ながら奉仕することはこのように,「現在」のためだけに生きることを避ける助けになります。そしてそれが,日常行なういろいろな決定に反映することに注意してください。
24 「永遠」は物質の所有物にかんする見方にどのように影響しますか。
24 永遠に奉仕するという信仰は,金銭や所有物に対する見方にも影響するはずです。世の人の多くは,これらに対しては,『得られるうちに得る』という態度を取ります。そして広告は,新しい物を今買うように絶えず強調します。しかしあなたはそれにどう反応しますか。どんな見方をしますか。こうした物質主義的な方向に誘われるとき,永遠のことが心に浮かびますか。そうあるべきです。というのは,聖書は金銭および物質の持ち物を愛することの危険を説いたあと,永遠の命について考えることを勧めているからです。(テモテ第一 6:6-12)ですから,より多くのお金または持ち物を得る方向に直接に,あるいは巧妙に圧力をかけられたときは,『今から1,000年後に,わたしは,新しい車やボートを買う余裕ができる余分の仕事をしなかったことを後悔するだろうか』と自問してみてください。あるいは,『新秩序にはいって100万年後にうしろをふりかえってみて,クリスチャンのどの集会も欠かさないために残業を拒否したのはまちがった決定だった,と感じるだろうか』と,ご自分に尋ねてみてください。そうです,永遠は,わたしたちの日々の生活と考え方に影響を及ぼすべきです。
25 永遠に対する正しい見方は,いろいろな試練に耐えるときにどんな価値がありますか。
25 この同じ見方 ― 永遠の前途を見ながら奉仕する ― は,クリスチャンが喜びながら耐える助けとなります。反対や病気や老齢などは耐えるのが困難な試練であるかもしれませんが,永遠と比較すれば,その忍耐もつかの間です。わたしたちは永遠という前途を見ることができます。使徒パウロが強調したとおりです。「わたしたちの外なる人は衰えていこうとも,わたしたちの内なる人は,日々新たにされてゆくのです。患難はつかのまで軽いものですが,いよいよ重みを増す永遠の栄光をわたしたちのために生み出すからです。同時にわたしたちは,見えるものではなく,見えないものに目をとめます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです」― コリント第二 4:16-18。マタイ 19:29。
26 ではクリスチャンは将来に対してどんな見方をすべきですか。
26 それでわたしたちはクリスチャンとして,神が永遠であられること,また自分たちが永遠の前途を見ながら神に奉仕すべきであることを忘れないよう,日々努力しましょう。そうすれば神は,神の永遠の真理にかんするわたしたちの知識を増し,また永遠の助け手として神のしもべたちに約束されている聖霊を与えることによって,わたしたちを助けてくださるでしょう。(ヨハネ第二 2。ヨハネ 14:16,17)したがってわたしたちの神に対する奉仕は,現在だけのものでも,限られた生涯の間だけのものでもありません。むしろわたしたちは,神に「世々のすべての世代にわたり……栄光があるよう」,永遠の前途を見ながら奉仕します。―エフェソス 3:20,21,王国行間逐語訳。
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解放された捕われ人ものみの塔 1974 | 9月15日
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解放された捕われ人
リベリアのある女の人は,家から離れることを恐れて三か月近くのあいだ自宅で囚人のようにして過ごしていました。なぜでしょうか。彼女は,自分に呪いがかけられていると言い,七か月のあいだ家の玄関から出ても入ってもいけないと言われていました。一人のエホバの証人が彼女を訪ね,聖書研究を始めました。やがて証人はこの「捕われた」婦人に,エホバに信頼を置き,呪いを無視して集会に出席するように励ましました。彼女はその通りにし,数か月ぶりに家の戸口を通って外に出ました。聖書に従って行動することが,彼女を解放したのです。
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