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  • 『あなた方は教える者となっているべきです』
    ものみの塔 1984 | 11月1日
    • 『あなた方は教える者となっているべきです』

      『主の奴隷は教える資格を備えることが必要です』― テモテ第二 2:24,25。

      1,2 クリスチャンはどんな顕著な点でイエスに見倣うべきですか。

      西暦31年のある春の日のこと,イエスの教えを聞こうとして集まっていた入り混じった大群衆に,イエスは戸外で話をなさいました。イエスは現代の拡声装置の恩恵にあずかることなく,自分の声を通らせるために山腹の自然の音響効果を用いて話されました。しかも話された事柄は驚嘆に値するものでした。話し終えられたあと,聞いていた人々は,このような話はこれまで一度も聞いたことがない,と異口同音に語りました。「群衆はその教え方に驚き入っていた」と,記録は述べています。(マタイ 7:28)この時にも,他の数多くの機会にも,イエスはご自分が本当に卓越した教え手であることを証明されました。

      2 さらに,イエスはご自分の追随者たちに,彼らも教える者になると告げられました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし……わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」と言われたのです。(マタイ 28:19,20)使徒パウロもまた,クリスチャンには教える責任があることを強調しました。パウロはヘブライ人のクリスチャンに,『あなた方は,時間の点から見れば教える者となっているべきです』と語りました。(ヘブライ 5:12)テモテに対しても,『主の奴隷は争う必要はありません。むしろ,すべての人に対して穏やかで,教える資格を備えることが必要です』と告げています。―テモテ第二 2:24。

      3 クリスチャンはどんな分野において教えるように求められるかもしれませんか。

      3 教えることにこれほど重きが置かれているのはなぜですか。クリスチャンは家から家に,また街路で宣べ伝える際,もしくは再訪問をしたり関心を持つ人々との聖書研究を司会したりする際にどのように教えるかを知らなければなりません。クリスチャンは他の人々と接するときをことごとく教えるための機会として努めて活用しています。(ヨハネ 4:7-15をご覧ください。)それに加え,クリスチャンの奉仕者は,王国会館で会衆に話をする時,あるいは個人的なレベルで助言を与える時にも教えることが必要です。そして円熟した婦人は,「良いこと」を年若い婦人に教えるよう諭されています。(テトス 2:3-5)クリスチャンの親もまた,「エホバの懲らしめと精神の規整」をもって子供たちを育てることに努めます。そのためには教える能力が少なからず必要とされます。(エフェソス 6:4。申命記 6:6-8)クリスチャンは『教える資格を備える』べきである,とパウロが述べたのも少しも不思議ではありません。

      4,5 優れた教え手になるためのどんな助けがありますか。

      4 しかし,教えることは簡単ではありません。それは一つの技術です。(テモテ第二 4:2)クリスチャンの中で「肉的に賢い者」はそう多くはありませんが,どうすればその技術を培えるでしょうか。(コリント第一 1:26)エホバの助けがあって初めて培えるようになるのです。(マタイ 19:26)エホバは知恵を願い求める人々にそれをお与えになります。(ヤコブ 1:5)エホバの聖霊は,ご意志を行なおうと努める人々を支えますし,エホバは聖書をわたしたちに与えてくださいました。聖書は『教えるのに有益』であり,教えることを含め,「あらゆる良い業に対して……整えられた者」となるようわたしたちを助けることができます。―テモテ第二 3:16,17。

      5 聖書は,わたしたちがより優れた教え手になるための助けです。特に,教える能力ゆえに同時代の人々の間に大きな驚きを生じさせたイエスの宣教について忠実に伝えることにより,その助けを与えています。(マルコ 1:22)イエスがなぜこれほど優れた教え手になられたかを学ぶなら,イエスに見倣うよう努めることができます。事実を言えば,教えるという問題に関しては考慮すべき二つの側面があります。それは,教え手自身の特質と,教え方です。イエスの場合これがどのように当てはまったか,またイエスの模範から何を学べるかを調べてみましょう。

      教え手……

      6 わたしたちが見倣うべき,イエスの教え方に関する重要な一つの側面とは何ですか。なぜですか。

      6 ある時イエスは,「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです」と言われました。(ヨハネ 7:16)別の時には,『わたしは何事も自分の考えで行なっているのではありません。わたしはこれらのことを,ちょうど父が教えてくださったとおりに話しているのです』と言われました。(ヨハネ 8:28)イエスはこのようにして天のみ父に注意を向けさせました。ご自身はメシアでしたが,イエスの動機は,自分自身にではなく,エホバのみ名に栄光を帰することでした。(マタイ 6:9。ヨハネ 17:26)この謙遜な態度は,イエスを教え手として傑出した方とするのに寄与しました。今日,クリスチャンの教え手も同様の謙遜さを抱くべきです。彼らの動機は,教え手としての自分自身にではなく,自分たちの教えている事柄の創始者であられるエホバに賛美をもたらすことであるべきです。そうした動機を抱いていれば,研究生は,だれか人間の弟子ではなく,神の僕となります。―使徒 20:30と比較してください。

      7,8 (イ)イエスは真理に対しどんな立派な態度を取っておられましたか。(詩編 119:97)(ロ)同様の態度は,どのようにわたしたちの教える能力を改善するものとなりますか。

      7 それから,イエスが「真理について証しする」ために来られたことと,ご自分が扱うべき問題について十分の知識を持っておられたことについて考慮してください。(ヨハネ 17:17; 18:37)12歳の時でさえ,イエスは聖書に関係した事柄に深い関心を抱いていました。(ルカ 2:46,47)明らかにイエスは真理を愛しておられました。(詩編 40:8)イエスは真理に対するこの深い理解と愛ゆえに,他の人々は自分の語る音信を聞く必要があることを確信しておられ,できるだけ効果的にそれを教えようと決心しておられました。―ヨハネ 1:14; 12:49,50。

      8 わたしたちはどうですか。真理についてかなり知っているかもしれませんが,真理を愛していますか。真理の用い方において巧みさを増し加えるため,研究に時間を費やしていますか。真理を他の人に話すことを楽しんでいますか。真理に関する知識が深まるにつれ,真理への愛も強まり,したがって,それを他の人に分かつことに一層熱心になります。詩編作者は,「喜び(が)エホバの律法にあり,その律法を昼も夜も小声で読む」人は幸いであると述べました。聖書によれば,そのような人の「行なうことはすべて成功(し)」ますが,その中には教えることも含まれます。―詩編 1:1-3。

      9 イエスの他のどんな特質は,その優れた教える能力に寄与しましたか。

      9 しかし,ある問題に関する知識があるだけでは,必ずしも熟達した教え手にはなれません。皆さんは,学校に通っていたころ,専門の科目については知識があっても教え方の下手な先生に教わったことがあるかもしれません。どうしてそのようなことがあるのでしょうか。イエスが豊かに備えておられたもの,つまり他の人に対する深い愛と気遣いという特質が欠けていたのかもしれません。ある時のことについて記録はこう述べています。「群衆を見て[イエスは]哀れみをお感じになった。彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからである」。(マタイ 9:36)疲れ果て,あるいはほかの事にあまりに気をとられて他の人を助けることができなかったということは,イエスの場合には全くありませんでした。(ヨハネ 4:6-26)イエスは親切で優しく,他の人の弱点に対して辛抱強さを示されました。助けることを望まれました。(ルカ 5:12,13)今日のクリスチャンの教え手にも,成功を収めたいなら同じ特質が必要とされます。

      10 首尾よく教えるために,良い手本が重要な役割を果たすのはなぜですか。

      10 また,イエスを際立った教え手にしている四つ目の事柄に注目してください。「彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした」。(ペテロ第一 2:22)イエスはご自分の教えの価値を落とすような事を何一つ行なわれなかったのです。わたしたちの場合も同じでしょうか。パウロはローマの人々に,『それなのに,ほかの人に「盗んではいけない」と教えているあなたが盗むのですか』と書きました。(ローマ 2:21)同様に,会衆で野外奉仕の重要性を教える長老は,自分自身も野外奉仕に活発にあずかっていますか。聖書朗読を励ます話をする人は,自分自身も聖書朗読の計画を持っていますか。ある状況では,どんな言葉でもなく,行状によってのみ反対者は「引き寄せられ」ます。(ペテロ第一 3:1)行動は言葉よりも雄弁に語ることができます。確かに,わたしたちの行動が言葉と矛盾するなら,研究生はその矛盾点にすぐ気づき,わたしたちの教えは無駄になってしまうことでしょう。

      11 ここでは教えることに関するさらにどんな面が論じられますか。

      11 エホバを賛美したいという教え手の願い,真理に対する理解と愛,他の人に対する親切な気遣い,本人の立派な模範,これらはみな優れた教え手となるための重要な要素です。教え手が教え方や技術の面で特に熟達していないとしても,このような特質に接すると誠実な研究生は温かい気持ちを抱きます。それでも,教えることは確かに一つの技術であり,教え方や教える技術を考慮すれば教える業を改善できます。イエスの教える業の技術的な側面を幾らか考慮し,それがより優れた教え手となるための助けになるかどうかを調べてみましょう。

      ……およびその教え

      12 (イ)マタイ 5章3-12節では,イエスの教え方のどんな特色が際立っていますか。(ロ)自分自身の教える能力を改善する面で,どのようにこの特色を適用できますか。

      12 イエスの教え方の特色を知るには,山上の垂訓の最初の数節を黙読してみるとよいでしょう。(マタイ 5:3-12)どんなことにすぐ感心させられますか。イエスは言葉を注意深く選ばれました。「……は幸いです」という形の一連の短い文が印象的な導入部を構成しています。しかし,イエスが複雑で仰々しい単語や文を用いておられないことにも注目しましょう。述べられている真理は深遠なものですが,それは簡潔に表現されています。ここで,効果的な教え方の一つの秘けつが分かります。つまり簡潔であることです。イエスの講話の残りの部分を読み通し,深遠な真理が簡潔に,しかも明解に述べられている他の幾つかの例にも注目してください。(マタイ 5:23,24,31,32; 6:14; 7:12)それから,異邦人の時,あるいは聖書が天的な希望と地的な希望の双方を差し伸べている理由などのような,幾つかの深遠な真理をどのように簡潔に説明できるか,一考してみることです。

      13,14 例えはイエスの言葉にどのように命を吹き込みましたか。

      13 今度はマタイ 5章14節から16節を読んでみましょう。イエスは謙遜な聴き手に,自分の立派な言葉と行動により真理をあまねく広めるようにと勧められました。恐らくこの考えは彼らを驚かせたことでしょう。当時の書士とパリサイ人たちはユダヤ国民に対する教師とみなされていたからです。しかしイエスは,極めて道理にかなったものと思えるようにその要点を際立たせました。どのようにでしょうか。見事な例えを使うことによってです。これが,イエスが頻繁に用いられた教える際の貴重な助けです。つまり例えです。

      14 なぜ例えが用いられたのでしょうか。なぜなら,生き生きした描写が用いられるとき,人は最もよく考えることができるからです。それに,なじみ深い物事を引き合いに出すことにより,例えは霊的な事柄を把握しやすくします。例えば,イエスは祈りを聞かれる方であられるエホバを,子供に良い物を与える父親になぞらえています。命に至る困難な道は,狭められた道に通ずる狭い門として描写されました。偽預言者たちは,羊を装うおおかみ,あるいは腐った実を生み出す木に例えられています。(マタイ 7:7-11,13-21)現実に即したこれらの例えは,イエスの言葉に命を吹き込みました。イエスの教訓は,記憶に残る忘れがたいものとなりました。

      15 自分の教え方を改善するために,今日のクリスチャンがどのように例えを用いることができるかを示す幾つかの例を挙げてください。

      15 今日のクリスチャンの教え手たちもやはり,新しい考えを他の人にとってより受け入れやすいものとするため例えを用います。地獄の火の教理の不合理性を例えで示すために,不従順な子供への罰として子供の手を火の中に入れたままにしておく親をあなたはどう思うか,と尋ねた人もいます。人類のうち比較的少数の人が天に行き,大半の人々は地上で永遠に生きる希望を持つという真理は,ごく少数の人だけが政府に属し,大多数の人々はその政府の恩恵にあずかっている一つの国家に例えることができます。しかし,例えには普通の場合,聴き手になじみの深いものを用いなければなりません。時間をかけて説明しなければならなかったり,教えられている要点の影が薄くなってしまうほど長いものであったりしてはなりません。

      16 どのような例えは特に生気にあふれたものとなりますか。

      16 視覚に訴える例えを使えることも忘れてはなりません。イエスは,カエサルに税を払うのが正しいかどうかと尋ねられ,例えで答えを示すためにデナリ硬貨を求め,それを用いました。(マタイ 22:17-22)謙遜さの必要を強調する際には,幼い子供を呼び寄せて,要点を例えで示されました。(マタイ 18:1-6)そして,100パーセントの専心について語られた際には,神殿の宝物庫に自分の持っているものすべて,つまり小さな硬貨二つを入れた,実際のやもめのことを指摘されました。(マルコ 12:41-44)同様に,王国会館で開かれるクリスチャンの集会で話をする人々の中には,黒板,絵,表,スライドなどが非常に助けになると考えている人がいます。一方,家庭聖書研究では,印刷されたさし絵や他の助けを用いることができます。視覚による例えは,単なる言葉よりもはるかに効果的です。

      17 イエスが大変頻繁に用いられた,教えるための別の方法を挙げてください。

      17 最後に,マタイ 12章10節から12節に述べられている状況で,イエスがどのようにパリサイ人を扱われたか,読んでみましょう。極めてこうかつな質問にいかに巧みに答えられたかに注目してください。そうです,イエスは例えを用いられましたが,どのようにそれを表現されたかにお気づきですか。質問の形でした。このようにイエスは,聞き手が安息日についてより平衡の取れた仕方で考えるよう巧みに導かれました。このように質問は,イエスが用いられた,教える際のもう一つの貴重な助けです。聴き手に立ち止まって考えさせるため,また反対者に自分の立場を再び考慮せざるを得ないようにさせるため,イエスがどのように質問をお用いになったかに注目してください。―マタイ 17:24-27; 21:23-27; 22:41-46。

      18 教理を説明するときに今日のクリスチャンがどのように質問を用いることができるかを示す,幾つかの例を挙げてください。

      18 今日のクリスチャンも同じように質問を用いることができます。例えば,三位一体を信ずる人が,イエスは全能であるため神と同等であることを証明しようとしてマタイ 28章18節を用いるとき,経験のある教え手は,相手に推論を促す質問を用いることが効果的であることに気づいています。多分こう尋ねることができるでしょう。『この節が述べているように,もしすべての権威がイエスに与えられたのなら,それを与えたのはだれでしょうか。この権威が与えられる前,イエスの立場はどんなものでしたか』。このようにして,三位一体論者は聖書を新しい光に照らして見るよう助けられます。同様に,地獄の火の存在を信じている人は,火の燃える地獄が存在することを証明しようとして,金持ちとラザロのたとえ話を用いるかもしれません。(ルカ 16:19-31)次のような質問が助けになることでしょう。貧しい人は死んだ時どこに行きましたか。天に行ったのであれば,天にいる人は皆アブラハムの懐に横たわっているということですか。それに,イエスが,イエスの時代までだれも天に上ったことはないと言っておられることからすると,アブラハムはそこで何をしていたのですか。(ヨハネ 3:13)こうした質問は,このたとえ話に描写されているその貧しい人の死後の状態が象徴的なものに違いないことを示す助けになります。ですから,金持ちが「死んだ」後の状態もやはり象徴的なものであり,とりわけ地獄に関し他の聖句が述べていることに照らしてみると,それは文字通りに理解すべきものではありません。―伝道の書 9:10。a

      19 人々を教えるすべての状況において,質問が非常な価値を有するのはなぜですか。

      19 質問を用いれば,研究生は教える過程に参加することができます。修辞的な質問(聴き手に答えてもらうことを期待しない質問)も,聴き手の思考を刺激します。マタイ 11章7節から11節にある,イエスの用いられた修辞的な質問に注目してください。質問には別の用い方もあります。往々にして,人の思いにある事柄を知らなければその人を助けられないことがあるものです。わたしたちはイエスとは違い,心を読み取ることはできないので,その情報を得るための方法はただ一つしかありません。つまり,考え抜かれた質問を用いることです。―箴言 18:13; 20:5。

      20 『自分自身と自分の教えとに絶えず注意を払う』なら,どんな報いがありますか。(テモテ第一 4:16)

      20 確かに,教えることは一つの技術です。それを培うには,教え手は自分自身のうちに種々の特質を育み,教える方法を学ぶよう打ち込まなければなりません。それは容易ではありませんが,培うことは可能です。しかも,クリスチャンであるということは教え手であるということです。クリスチャンとしての非常に多くの責務を果たすことには教えることが含まれます。したがって,「自分自身と自分の教えとに絶えず注意を払いなさい」というパウロの諭しを適用するのはよいことです。なるほど,他の人よりも生来の能力に恵まれている人はいますが,だれであれ,このことに打ち込み,エホバに助けを仰ぎ求めるなら,首尾よく教えることができます。そうするときの報いは計り知れません。パウロが続けて述べているとおりです。「これらのことをずっと続けなさい。そうすることによって,あなたは自分と自分のことばを聴く人たちとを救うことになるのです」― テモテ第一 4:16。

  • 新しい人々を神の組織に導きなさい
    ものみの塔 1984 | 11月1日
    • 新しい人々を神の組織に導きなさい

      『仲間の兄弟全体を愛しなさい』― ペテロ第一 2:17。

      1,2 クリスチャンの教え手は,教理のほかにどんなことを知らせますか。

      教え手の仕事は事実を知らせることですが,優れた教え手はそれ以上のことを行ないます。価値基準を伝え,現在学んでいる事柄の重要性を理解できるよう生徒を助け,どうすればそれを最もよく活用できるかを示します。このことはクリスチャンの教え手に特に当てはまります。確かに,教え手は「神の真理」を知らせなければなりません。(ローマ 1:25)しかし,それには教理に関する単なる知識以上の事柄が関係しています。聖書は,エホバへの恐れと同時に,善良と分別という特質を教えるよう勧めています。―詩編 34:11; 119:66。

      2 イエスは,教えるべき別の事柄について次のように述べました。「すべての国の人々を弟子とし……わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」。(マタイ 28:19,20)『命令された事柄すべて』の中には,現代に関して預言されていた,世界的な宣べ伝える業に参加することが含まれます。(マタイ 24:14)そして,聖書研究生に伝えるべき別の事柄があります。それは何ですか。その答えを得るため,使徒パウロの宣教を考慮し,パウロの教え方に顕著に示されている事柄に注目しましょう。

      組織者としてのパウロ

      3 パウロはコリントで新たに関心を持った人々を教えた時,どのように事を運びましたか。

      3 使徒パウロはコリントを初めて訪問した折,ユダヤ人の地域社会からの反対にもかかわらず,聞く耳をもつ人々を大勢見いだしました。しかし,パウロはそれら新たに関心を持った人々をただ個人的なレベルで教えたわけではありません。こう記されています。「彼は[ユダヤ人の会堂から]移って,神の崇拝者であるテテオ・ユストという人の家に入った。その家は会堂に隣接していた」。(使徒 18:7)その家は,新しい弟子たちが集まって共に崇拝するための場所になりました。やがて,パウロはそれらの人たちを会衆へと組織しました。―コリント第一 1:2。

      4 パウロがエフェソスで教え始めた後,やがてそこに何ができましたか。

      4 後にパウロはエフェソスに旅行しましたが,そこでも同様の事が生じました。パウロは関心のある人々を個人的に,「家から家に」教えました。(使徒 20:20)しかし,新しい弟子たちが共に交わることができるような取り決めも直ちに作りました。「弟子たちを彼ら[ユダヤ人]から別にし,ツラノの学校の講堂で毎日話をした」のです。(使徒 19:9)やがてこのクリスチャンのグループも,任命された長老たちを持つ会衆へと組織されました。―使徒 20:17,18。

      5 初期クリスチャンの教え手たちは,新しい人々に関し,できるだけ早く何を行ないましたか。

      5 第1世紀に新しい人々が真理を受け入れた時,彼らがひとりだけにされなかったのは明らかです。それらの人々は集められて会衆になり,当時の統治体からの励ましを受けて歓びました。パウロやバルナバのような円熟した兄弟たちは,これら新しく形成された会衆で教えることや,『ほかの多くの人と共に,エホバの言葉の良いたよりを宣明する』ことに多くの時間をささげました。(使徒 15:30-35)なぜでしょうか。正しいことを行なう時の導きとしては,訓練され始めた良心に頼れとばかり,新しい人々がひとりだけにされなかったのはなぜですか。

      なぜ会衆となったのか

      6 初期クリスチャンが会衆に組織されたのはなぜですか。

      6 理由は数多くありますが,ここではその一部を挙げましょう。第一に,クリスチャンになった人は自分の周囲の世と多くを共にすることをやめました。(ヨハネ 17:14,15)その人が孤立させられ,ひとりだけにされたとしたら,それは極めて心細い状況だったことでしょう。しかし,地元の会衆の仲間のクリスチャンと交われば,世から離れた状態を維持するよう,仲間のクリスチャンによって強められたことでしょう。加えて,イエスはご自分の追随者たちが一つになると言われました。(ヨハネ 17:11)その『一致』は特に会衆内に見られました。イエスはさらに,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と言われました。(ヨハネ 13:35)クリスチャンは外部の人々へのしるしとなるような仕方でこの愛を示すために,地域共同体として存在しなければなりませんでした。それら地域共同体は地元のクリスチャンの会衆であり,その会衆においてクリスチャンは互いの霊的また身体的な福祉を守りました。(フィリピ 2:4)例えば,パウロがテモテに説明している,やもめたちに対する救援活動は,明らかに会衆を通して組織されました。―テモテ第一 5:3-10。

      7 (イ)ヘブライ 10章24,25節のパウロの言葉にはどんな意味がありますか。(ロ)宣べ伝える業において,1世紀のクリスチャンの会衆にはどんな役割がありましたか。

      7 したがって,パウロが語った次の言葉は,地元の会衆に対する支持を直接に励ますものでした。「互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い,ある人々が習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」。(ヘブライ 10:24,25)加えて,1世紀に非常に顕著な仕方で成し遂げられた,王国の良いたよりを宣べ伝える業は,諸会衆を通し,組織的な方法で行なわれたことも明らかです。(ローマ 10:11-15)例えば,聖霊は未割り当て区域への宣教者としてパウロとバルナバを派遣するようアンティオキア会衆の長老たちを導き,パウロは,自分が宣べ伝えるべき場所に関する指示を与える,エルサレム会衆の長老たちの権威を受け入れました。―使徒 13:1-3。ガラテア 2:8-10。

      今日における地元の会衆

      8,9 わたしたちも,関心を持つ人々を地元の会衆に導かなければならない理由を幾つか挙げてください。

      8 この歴史的な背景から,今日,わたしたちは何を学べますか。わたしたちも,新たに関心を持った人々を地元のクリスチャンの会衆に導かなければならないということです。今日もパウロの時代と同じく,キリスト教は孤立主義者の宗教ではありません。「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求める」と,箴言の書は警告しています。(箴言 18:1)一方,「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くな(る)」のです。(箴言 13:20)新しい人々にはクリスチャンの会衆が差し伸べる霊的・道徳的・感情的な支えが必要です。仲間のクリスチャンの愛,長老たちの奉仕,クリスチャンであることは非常に喜ばしい類例のない経験であると感じさせる快い一致などを体験する必要があるのです。―詩編 133:1。

      9 今日でも,王国の良いたよりを全世界で宣べ伝える業は,大部分が地元のクリスチャンの会衆を通し,組織的な方法で行なわれています。(マタイ 24:14)ですから,新しい人々にその業に参加する責務について教える際には,彼らを地元の会衆に導き,会衆と協力する方法を示さなければなりません。

      国際的な兄弟関係

      10 1世紀のクリスチャンの国際的な一致を示す聖句を挙げてください。

      10 しかし,使徒パウロは,単なる地元の会衆以上のものに新しい人々を導き入れました。パウロはエフェソスの人々にこう言いました。「体は一つ,霊は一つです。それは,あなた方が自分たちの召されたその一つの希望のうちに召されたのと同じです」。(エフェソス 4:4)全世界にただ一つの「体」が存在していたのであって,多くの会衆が散在し,土地ごとに独立していたわけではありません。イエスは,「召使いたち」に『食物を与える』権限を付与された「忠実で思慮深い奴隷」について語った際,この「体」の生ける地上の成員についても言及されました。(マタイ 24:45-47)世界中の個々のクリスチャンは,この「奴隷」から『食物を得る』つもりであれば,その「奴隷」の権限を認めなければならなかったでしょう。その結果,クリスチャンの国際的な仲間ができたことでしょう。

      11 (イ)ペテロは,クリスチャンのこの国際的な組織を何と呼びましたか。(ロ)1世紀のクリスチャンの教理上の一致を保たせたのはどんな取り決めでしたか。パウロはその取り決めを認めていたことをどのように示しましたか。

      11 それで,使徒ペテロは当時のすべてのクリスチャンについて,「仲間の兄弟全体」と語りました。(ペテロ第一 2:17)彼らは国際的な「仲間」(ギリシャ語では「兄弟関係」を意味するアデルフォテース)でした。新しい人々は,地元の会衆のみならず,この国際的な兄弟関係全体の一部となりました。会衆は互いに接触を保ちました。(コロサイ 4:15,16)教理上の質問が生じた場合にも,クリスチャンは自分自身で決定を下すことはありませんでした。彼らは権威ある答えを求めて,当時の世界的な統治体として奉仕していたエルサレム会衆の長老たちに頼りました。(使徒 15:2,6-22)パウロ自身,その統治体が有していた,教理に関する権威を認めていました。パウロはイエス・キリストの特別な啓示を通して真理を与えられたにもかかわらず,エルサレムに旅行し,自分が宣べ伝えていた良いたよりを統治体の兄弟たちに説明しました。「自分が無駄に走っているようなことは,あるいは無駄に走ってきたようなことはないかと思ったからです」。―ガラテア 1:11,12; 2:1,2,7-10。

      12 さらにどんな行為が,「仲間の兄弟全体」を一層固く結びつけましたか。

      12 兄弟たちの『仲間の全体』の考えと行動の一致を維持するため,テモテやテトスやエパフロデトのような旅行する奉仕者たちが派遣され,彼らを訪問して築き上げ,またパウロ,ペテロ,ヤコブ,ヨハネ,ユダなどの手紙が彼らの間で回覧されました。そうした兄弟関係が存在していたので,他の土地のより裕福なクリスチャンはユダヤの兄弟たちが困難な時期にあって困窮していることを聞き,パウロは諸会衆を通して,困窮している人々に救援物資を届ける業を組織することができました。(コリント第一 16:1-4)個々のクリスチャンも,『世にいる彼らの仲間の兄弟全体』の忍耐と信仰に関する報告を聞いて励ましを受けました。―ペテロ第一 5:9。

      新しい人々を『仲間の全体』に導き入れなさい

      13 1世紀と今日における,世界的な「仲間の兄弟全体」にはどんな類似点がありますか。

      13 今日も同様の「仲間の兄弟全体」が存在していますか。確かに存在しています。「忠実で思慮深い奴隷」は今なお存在しており,依然として「召使いたち」に食物を与える責任を担っています。(マタイ 24:45-47)パウロの時代と同様,統治体はこの「奴隷」を代表しており,「良いたより」を宣べ伝える世界的な業を導いています。今日でも,この統治体からの手紙や印刷された文書により,また会衆内で奉仕する円熟した教え手たちによって,国際的な一致が強化されています。したがって,真理を学ぶ時,人は地元の会衆の一部であることや,自分が世界的な「仲間の兄弟全体」の一部であると感じることを学びます。そうするよう聖書研究生を助けるのは,クリスチャンである教え手の責任です。ではどのようにそうすることができますか。

      『仲間の全体』を愛するよう他の人々を助ける

      14 地元の会衆,さらには神の民の国際的な組織について聖書研究生に話す点で,どんな方法が効を奏してきたと思いますか。

      14 クリスチャンの教え手は,自分の研究生に会衆と国際的な兄弟関係について話すことができ,次いでそれを研究生に示すことができます。教え手はどのようにそれを話すことができますか。経験を積んだ教え手たちが効果的であると考えている幾つかの方法があります。聖書研究の前か後に時間を取り,会衆と聖書的なその重要性,および「忠実で思慮深い奴隷」とそれが今日わたしたちのために仕えている方法について討議するのです。王国会館やさまざまな集会について話します。集会中に学んだ興味深い事柄を話します。研究前後の祈りの中で,地元の会衆のことだけでなく,国際的な兄弟関係のことも含めます。

      15 関心のある人々に,地元の会衆と国際的な組織を示す優れた方法の幾つかを挙げてください。

      15 しかし,これらの事柄をどのように示すことができますか。効を奏するものであることが分かった幾つかの方法があります。できるだけ早く,会衆の仲間の成員をその研究に参加するよう招待し,なるべく早い機会に研究生が新しい友を作れるようにします。研究生が古い事物の体制における交友の面で何を失うとしても,『世にいる仲間の兄弟全体』の中にある新しい友人がそれを補って余りあるということをすぐに理解するのは大切なことです。(ペテロ第一 5:9。マタイ 19:27-29)「二十世紀におけるエホバの証人」という冊子を十分に活用しましょう。この冊子は,エホバの証人の現代の国際的な組織について説明しており,大規模な大会,典型的な王国会館,集会中の様子,宣べ伝える業などを示す幾つかの優れた写真が載せられています。この冊子から研究生は,「仲間の兄弟全体」の規模を視覚によって理解できるようになります。同様に,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という本の23章には,今日の神の組織のことが色鮮やかな写真を用いて説明されています。

      16 (イ)聖書研究生に関し,できるだけ早く何をすべきですか。どんな聖書的な理由がありますか。(ロ)神の民の一部となるよう聖書研究生を助けるため,巡回監督や地域監督の訪問からどのように益を得ることができますか。

      16 パウロが,関心のある人々を見いだすが早いか,エフェソスで集会を組織したことも忘れてはなりません。(使徒 19:9,10)パウロはまた,「不信者または普通の人が」,きちんと取り決められたクリスチャンの集会に入って来ると,「その心の秘密は明らかにされ,そのため彼はひれ伏して神を崇拝し,『神はほんとうにあなた方の中におられる』とはっきり言うようにな(る)」ことをコリント会衆に告げました。(コリント第一 14:24,25)同様に今日でも,研究生が地元の会衆と早く交わるようになればなるほど,真理が本当にある所をすぐ認めるようになります。このようなわけでクリスチャンの教え手は,できるだけ早く会衆の集会や大規模な大会に出席するよう研究生を招きます。必要とあらば,関心のある人の家に出向き,その人を個人的に集会まで連れて行きます。現代の「テトス」や「エパフロデト」,つまり巡回監督や地域監督が会衆を訪問する時には,それらの訪問者を定期的に行なわれている聖書研究に参加するよう招くなどして,聖書研究生がそれらの監督やその妻と確実に会えるようにしておきます。

      17 したがって,教えて弟子を作るわたしたちの業の重要な部分を成しているのは何ですか。(マタイ 28:19,20)このことはどのように研究生に益を与えますか。

      17 エホバの油そそがれた者たちの世界的な会衆は,「真理の柱また支え」です。(テモテ第一 3:15)新たに関心を持った人々がその「支え」から益を受けるには,これら油そそがれた者たちと交わるために群れをなして集まっている幾百万もの柔和な人々に加わらなければなりません。(ゼカリヤ 8:23)今日,これらの柔和な人々は,250万以上の人々から成る国際的な兄弟関係を構成しています。そして真理を受け入れることには,その国際的な兄弟関係に加わることが含まれます。新たに関心を持った人々はこの兄弟関係の一部となる時,その関係から得られるあらゆる支えと保護を享受します。彼らは仲間のクリスチャンが示す兄弟愛に喜びを覚え,それにこたえて自分たちの愛を与える機会を持つことになります。(ヘブライ 13:1)このことはさらに,彼らが,来たるべき大患難を生き残って共にとこしえにわたる幸福な交友を享受するようになる,数えつくすことのできない国際的な大群衆の一部となることをも意味しています。(啓示 7:9-17)ですから,聖書研究生に教理を教えると同時に,「仲間の兄弟全体」のもとに研究生を導き,その「仲間の兄弟全体」に対する愛を抱くよう教えることを忘れてはなりません。―ペテロ第一 2:17。

      覚えていますか

      □ パウロはエフェソスやコリントで新たに見いだされた,関心のある人々に関して,何を行ないましたか

      □ パウロはどのように,新しい人々に益を得させましたか

      □ 教理を教えることに加えて,わたしたちは聖書研究生を何に導き入れることに目ざとくあるべきですか

      □ それを行なうための実際的な方法にはどのようなものがありますか

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