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  • 世界を治める権威を持つ者
    ものみの塔 1964 | 11月15日
    • ダビデを復活させます。―イザヤ 9:6。ヨハネ 5:26-29。

      創造主から任ぜられて,「それを持つ者となったのはだれですか。この者が何をすること」を確信できますか。従って私たちはどんな賢明な決定をすべきですか。

      宇宙の主権者である創造主は,このイエス・キリストを,それを持つ者にされました。そのことに疑問の余地はありません。イスラエル民族が神と結んだ契約また神から与られた処遇はそえのことを示しています。それだけでなく,イエス・キリストはためされたとき,エホバへの忠実を証明しました。イエス・キリストは全き公正をもってエホバの裁きを行ない,神の正義の原則と律法を全地に施行することでしょう。メルキゼデクのさまに似た王なる祭司キリストは,神の建てる支配体制において長たる者であり,神の真の崇拝においては大祭司です。どの崇拝または支配体制を選ぶかは私たちに委ねられています。私たちがシロの支配を地に確立することはできません。しかし,大いなるシロすなわち「それを持つ者」の平和な支配の下に生命を見出すかどうかは,私たちの選択にかかっています。この事はものみの塔の紙上で今後更にくわしく検討されます。

  • 若い人たち,霊の思いを守りなさい
    ものみの塔 1964 | 11月15日
    • 若い人たち,霊の思いを守りなさい

      学校に通うクリスチャンの皆さんは,人生に真の目的を持たない他の学生たちとは違います。皆さんは,どんな活動に従事していても,自分の生涯における最大の目標が神への奉仕であることをはっきり認めています。それゆえ,皆さんを導くのは神の言葉なる聖書であり,善悪の判断にまどう事はありません。また皆さんは,この世の多くの若者のごとく,学校に行く事を時間の浪費と考える事もありません。なぜなら皆さんは,生活に一定の目的を持ち,学ぶ事の一つ一つがその目的の達成にどう役立つかを知っているからです。しかし同時に,クリスチャンとして各自の霊の思いを守る事をも心がけねばなりません。

      皆さんが学校に行くのは教育を受けるためであり,宗教的な儀式に参加するためではありません。学校内の宗教儀式は一般に想像されるより多く,そうした活動に対する皆さんの態度は,すでに聖書から学んだ事柄によって決定されねばなりません。同じ事は放課後の活動についてもあてはまります。

      もとより皆さんは,真の宗教の原則が同級の人々にとってはそれほど意味を持たぬ事を知らねばなりません。これは大人の多くについても同じです。そのため,聖書が何と言おうと,宗教的なものならなんでも良いと考える人が多くいるでしょう。ある日には教会に行ってクリスチャンと称し,他の日には別の宗教の儀式に参加する人もあるでしょう。また,日曜日には教会に行き,他の日には不正直と不道徳の日を送る人もいるでしょう。しかし,神に受け入れられる仕方で神に仕えることを決意した若い皆さんは,絶えず,神の言葉に示される原則に従って歩まねばなりません。

      学校時代の皆さんを守る聖書の原則としてとりわけ重要なものがあります。その一つはエホバ神を崇拝しない人々との必要以上の交りを避け,正しい交りを求めるべき事をすすめる神の助言です。

      エホバ神がイエス・キリストの使徒の一人を霊感して「まちがってはいけない。悪い交わりは,良いならわしをそこなう」と書かせていますから,悪い交りが霊の思いを危険にすることは理解できるでしょう。(コリント前 15:33)同じ使徒は,不道徳の町コリントに住んでいたクリスチャンに2度目の手紙を書き,次のように記して,偽りの崇拝,ならびにそれを行なう人々から離れているべき事を指摘しました。「義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。……神の宮と偶像となんの一致があるか。……だから『彼らの間から出て行き,彼らと分離せよ,と主〔エホバ=新世〕は言われる。そして,汚れたものに触れてはならない。触れなければ,わたしはあなたがたを受けいれよう」。(コリント後 6:14-18)

      不信者と一切の交りを絶つという事は不可能です。そのためには私たちがこの世界から出てゆかねばならないでしょう。それゆえ,学校に通う皆さんは神を愛さず,神の言葉なる聖書を尊敬しない者たちと接触する事を当然に予期すべきであり,通常これは避けられぬ事実です。しかし,その日の課業が終了した事を知らせる鐘が鳴ったのちには,あたかもその種の交りを好んでいるかのごとく,居残って信仰を持たぬ者たちと共に過ごす必要はありません。

      『汚れたものに触れてはならない』

      神は,この世との必要以上の交わりを避けるようにとすすめているだけでなく,「汚れたものに触れてはならない」と定めています。では,この原則が学校生活にどうあてはまりますか。世界のいずれの土地にも,宗教的な儀式を行なう学校が数多くあります。それは,単なる聖書の祈りの反復である場合もあり,偶像崇拝的な色彩を強くおびる場合もあります。でも,それをこのように考えてごらんなさい。皆さんはキリスト教国の教会に行き,そこに集まる人々の祈りに加わりますか。もとよりそんな事はありません。集まる人々が三位一体の神を信ずる事を知っているからです。人々は聖書の名前を付していますが,その教えはエホバ神に敵対した古代バビロンに由来を得ており,神の目に見てその崇拝は汚れています。こうして,教会堂内での崇拝に加わらないなら,それが教室内に持ち込まれても同様の態度を取るべきです。「汚れたものに触れてはならない」との聖書の戒めに従うなら,教室内での祈りに和するべきではありません。かわりに,家に帰って,一人で祈りをできるでしょう。

      聖書が一つの文学書として教室で朗読され,あるいは,各種の宗教が純粋に客観的な討論の対象しとて取り上げられることもあります。もとよりこのような場合に,その討論に参加することはさしつかえありません。しかし,それらがなにか宗教儀式的な性質を帯びてくるなら,クリスチャンは前記の聖書のすすめに従わねばなりません。

      宗教的な活動に参加し,あるいは,宗教的な訓話を聞くための時間を自由にする学校もあるでしょう。そのような場合に,偽りの崇拝を行なう者から離れるべき事を定める聖書の原則を心にとめ,この世の宗教合同的な慣行につらなるべきではありません。しかし,クリスチャンの宣教に意を用い,あるいは,個人的な聖書の研究を行なって,与えられた

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