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わたしたちが世のものであってはならない理由ものみの塔 1984 | 10月1日
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わたしたちが世のものであってはならない理由
「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」― ヨハネ 17:16。
1 イエスは,ご自分の追随者たちがどんな扱いを予期できると言われましたか。
イエス・キリストはこの世から退けられ,憎まれ,迫害さえ受けました。ではイエス・キリストの追随者たちは何を予期できましたか。イエスは追随者たちにこう言われました。「もし世があなた方を憎むなら,あなた方を憎むより前にわたしを憎んだのだ,ということをあなた方は知るのです。あなた方が世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです。奴隷はその主人より偉くはないと,わたしがあなた方に言った言葉を覚えておきなさい。彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう。彼らがわたしの言葉を守り行なったのであれば,あなた方の言葉をも守り行なうでしょう」― ヨハネ 15:18-20。
2 (イ)イエスの追随者たちと大きく異なっている「世」とは何ですか。(ロ)エホバは,キリストの弟子たちを世から取り去る代わりに,彼らのために何をされますか。
2 確かにイエスの真の追随者たちは,この世,つまり神から離反した罪深い人間社会とは大きく異なっています。まさにそうした実状のために,キリストの弟子たちはこの世から憎まれ,迫害されます。しかしイエスの追随者たちは,世から離れていることにおいてイエスの完璧な模範に堅く付き従っているので,エホバはキリストの次の祈りに調和して,彼らを見守っておられます。「わたしは,彼らを世から取り去ることではなく,邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします。わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません。真理によって彼らを神聖なものとしてください。あなたのみ言葉は真理です」― ヨハネ 17:15-17。
3 この世に関してどんな質問の答えを見いだすことが必要ですか。
3 「世のものではない」とは何を意味していますか。イエスの追随者はクリスチャン以外の人々との接触を一切避けなければならないということですか。
クリスチャンは孤立主義者であってはならない
4 イエスは追随者たちに,彼らが孤立主義者ではいられなくなるどんな業を割り当てましたか。
4 確かにイエスは,排他的な宗教集団に閉じこもることをご自分の追随者たちに期待されたわけではありません。むしろイエスは,「聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と述べ,全地にわたる業を行なうようにお命じになりました。(使徒 1:8)さらに次のようにも命じられました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。(マタイ 28:19,20)このようにして「すべての国の人々」は弟子になりますが,言うまでもなく,すべての国そのものがイエス・キリストの教えを受け入れることを期待すべきではありませんでした。
5 聖書的に許されているどんな方法により,人々はキリスト教に改宗しますか。
5 しかしある方は,『幾つかの国全体がキリスト教に改宗させられたではないか。そのような国々はキリスト教世界として知られる部分を構成しているのではないか』と言うかもしれません。なるほど,ある支配者たちは臣民の宗教を決定し,何のためらいもなく残虐で野蛮な方法を用いてその決定を強要してきました。さらに,架空の地獄の火での責め苦に対する恐れが,名目上のキリスト教へのいわゆる改宗を促す大きな要素となってきました。(伝道の書 9章5,10節と比較してください。)しかし,こうしたことすべては,真のキリスト教の信仰を広めるために許されている唯一の聖書的な方法から大きく隔たっています。この壮大な活動は,積極的な証しをし,教え,弟子を作ることによって行なわれるべきです。世捨て人,世間とは没交渉の修道士や尼僧は,この業を遂行することも,『あなた方の光を人々の前に輝かせなさい』というキリストの命令に従うことも決してできませんでした。(マタイ 5:14-16)しかも,強制された“改宗”と,エホバ神に心からの理性的な献身をするよう,すべての国の正直な心を持つ人々を助ける,証しをし,宣べ伝え,教える業との間には,何の共通点もありません。
「世のものではない」理由
6 エホバの証人が,イエスの弟子たちに関してヨハネ 13章35節に記されているイエスの表現にかなっているとなぜ言えますか。
6 “クリスチャン”という名が偽のレッテルであることが判明した例は数多くあります。いわゆるキリスト教の人々や国々が責めを負うべき貪欲な行為,征服,戦争での虐殺,一般民衆に対する抑圧には目に余るものがあります。しかし,キリストの真の追随者の場合は何と異なっているのでしょう!「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」とイエスは言われました。(ヨハネ 13:35)今日,その表現にかなう人々が実際に存在しています。それはエホバの証人です。彼らの間の愛は,冷酷な競争や人の気持ちをいら立たせること,互いに相手を利己的に利用することなどを意味しません。むしろそれは,一致して語り,分裂がなく,『同じ思い,また同じ考え方で結ばれて』いることを意味します。(コリント第一 1:10; 13:4-8)エホバの証人は神とキリストの考えを学び,それを導きとしてきました。(ローマ 12:1,2。コリント第一 2:16)その考えの非常に重要な部分は,クリスチャンは『世のものであってはならない』ということです。―ヤコブ 1:27と比較してください。
7 使徒 17章30,31節のパウロの言葉は,クリスチャンが世のものとなるのは不似合いであることをどのように示していますか。
7 イエスの追随者たちが『この世のものではない』立場を保つべき非常にもっともな理由が幾つかあります。4,000年ほどの間,人類の大多数は「希望もなく,世にあって神を持たない者」でした。(エフェソス 2:12)とはいえ,人間の罪ゆえにエホバから離反していた長い期間は定めなく続くことはありません。使徒パウロは19世紀前,神が,「どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられ(る)」と述べました。なぜなら,『ご自分が任命したひとりの人[イエス・キリスト]によって人の住む地を義をもって裁くために日を定められたからです』。パウロは,神が「[イエス]を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになった」とも付け加えました。(使徒 17:30,31)このことは,背教したキリスト教世界を含め,この不義の世が裁かれ,有罪とされ,永遠に根絶されることを確かに示すものです。ですから,クリスチャンであると唱える人々がこの世のものとなるのは何とも不似合いなことです。
8 どんな業が,「終わり」の近いことを示し,エホバの民が『世のものであってはならない』別の理由となっていますか。
8 イエスの復活から1,900年以上が経過し,背教したキリスト教世界とサタンの世の残りの部分に対する神の裁きの執行は間違いなく間近に迫っています。(ペテロ第二 3:10。ヨハネ第一 5:19)その間にも,エホバの証人は全地で神の音信をふれ告げており,人類のうち悔い改めて感謝の念を持つ人々は「さわやかにする時期」を享受しています。(使徒 3:19-21)この時代に関するイエスの預言的な言葉と一致して,265万人以上のエホバの証人は今205の国々で「王国のこの良いたより」を宣べ伝えています。この業から神のご意志にかなう程度にまで「あらゆる国民に対する証し」が生み出される時,「終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)それで,この邪悪な体制の終わりがごく間近に迫っているため,エホバの民に「世のものではない」ことが求められる十分な理由が確かにあります。
9 (イ)サタンの世がまさに終わろうとしている以上,わたしたちは王国の関心事とその要求をどう見るべきですか。(ロ)今,どんな質問はわたしたちの考慮に値しますか。
9 サタンの世がまさに終わろうとしている以上,わたしたちが本当に神の王国を第一に求めているかどうか確かめるのは非常に肝要なことです。(マタイ 6:33)年齢,教育,社会的地位がどのようなものであろうと,「わたしたちはみな,神の裁きの座の前に立つことになるのです」。(ローマ 14:10)では,わたしたちは王国に関する要求を生活の中で実践していますか。それとも実際は,真のクリスチャンを憎むこの世と歩調を合わせるためにいまもって奮闘していますか。世の野心や希望を抱いていますか。非聖書的な世の流行をまねていますか。世で偶像視されている人々をあがめていますか。「世との交友が神との敵対であること」を忘れてはなりません。(ヤコブ 4:4)それでは,神の敵となることを未然に防ぐために,どうすれば世の汚れを避けることができますか。この世にあるもので,わたしたちが退けなければならないものには何がありますか。
世に対する愛を退けなさい
10 ヨハネ第一 2章15,16節は,エホバの民が愛してはならない,この世にあるどんな三つのものについて述べていますか。
10 使徒ヨハネはこう書きました。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです」。(ヨハネ第一 2:15,16)ここでヨハネは,この世にあるもので,エホバの民が愛してはならない三つの基本的なものを挙げました。
11 クリスチャンが「肉の欲望」に屈するべきでないのはなぜですか。
11 「肉の欲望」は,サタンの支配下にあるこの邪悪な世にごく一般に見られる有害で死をもたらす多くの常習的行為へとわたしたちを導きかねません。その中には,罪深い肉の「業」―「淫行,汚れ,みだらな行ない,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄」があります。「そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」という使徒パウロの警告を無視しておきながら,罰を免れることなど決してできません。(ガラテア 5:19-21)実際,悔い改めることなく「肉の業」を習わしにする人々は,この世のものであり,約束された王国にあずかることはありません。その王国は,エホバのみ名を立証し,地を楽園へと変えるのです。(ルカ 23:43)ですから,クリスチャンが「肉の欲望」に屈してはならないというのは明らかなことです。
12 (イ)「目の欲望」とは何ですか。それはどのように霊的な意味で人の立場に影響を与えることがありますか。(ロ)「目の欲望」に関して,どんなことを自問するのは良いことですか。
12 「目の欲望」は,この世のものとなっている人々の別の特色です。彼らは富と所有物を蓄え,それでいながら満足する様子が全くありません。エホバの証人の広めている聖書の真理にある程度の関心を払いながらも,結局は「目の欲望」に屈し,そのために霊的な進歩を遂げていない人々も大勢います。新しい衣服,車,家,電気器具,目を喜ばせる他の多くのものに対する欲求があまりにも強くなって,イエスが言われたとおり,「富の欺きの力,またほかのいろいろなものへの欲望が食い込んで来てみ言葉をふさぎ,それは実らなくなってしまいます」。(マルコ 4:18,19)興味深いことに,サタンはエバを誘惑したとき,エバが自分の目で見ることのできる禁じられたものに対する欲望を起こさせました。しかし,目で見えるものに手を伸ばさせてイエスに罪を犯させようとしたときのサタンの努力は完全に失敗しました。(創世記 3:1-6。ルカ 4:5-8)ではあなたはどうですか。立派なイエスの模範に従っていますか。それとも,「目の欲望」を満足させるために時間や注意やエネルギーが過度に奪われ,王国の関心事がおろそかにされていますか。もし霊的な関心事が重大なものでなくなっているなら,事態を改善するためにただちに手を打ってください。
13 パウロやある箴言の言葉に示されているように,貪欲な「目の欲望」は何につながることがありますか。
13 貪欲な「目の欲望」は,不正直,ねたみ,強欲,それに神の不興を招くほどの他の罪につながることがあります。パウロが述べているように,「貪欲な者」は「神の王国を受け継が」ない人々の一部なのです。(コリント第一 6:9,10)適切なことに,知恵の言葉,箴言もこう警告しています。「忠実な行ないの人は多くの祝福を得,富を得ようと急いでいる者は潔白を保てない。そねむ目を持つ人は貴重なものを求めて勇み立つが,窮乏が自分に臨むことになるのを知ってはいない」。(箴言 28:20,22)貪欲でそねむある人々に貧困がただちに臨むことはないとしても,彼らは神の恵みを受けずに死ぬか,この事物の体制の終結の時に悲惨な終わりを迎えることになります。―マタイ 24:3。ルカ 12:13-21。
14 (イ)「自分の資力を見せびらかすこと」はどのように示されるかもしれませんか。(ロ)こうした「見せびらかすこと」,自慢,高い地位を求めることの根本にあるものは何ですか。(ハ)自分が手に入れたものや,業績と思えるものを誇示したいという誘惑に抵抗すべきなのはなぜですか。
14 エホバの僕たちは「自分の資力を見せびらかすこと」をも避けなければなりません。自分が手に入れた高価なものをひけらかしたいという気持ちは非常に大きな誘惑となり得ます。しばしばこうした悪い欲望が高じて,他の人に後れをとるまいとするだけではなく,物質面で他の人より何歩も先んじようとあくせくするようにもなります。それに似ているのが,自分が成し遂げたと考えられる事柄を自慢することです。地位や身分を得たいと望む人は,著名人との友好関係を培い,そのような人々の支持を得ることまでするかもしれません。しかしこのようにして利用されるままになっている人は愚かであり,過度に野心的な人は最後には『口で大げさなことを語りながら,自らの利益のために人物を称賛する』,ユダの時代の「不敬虔な者たち」のようになるかもしれません。(ユダ 4,16)このように高い身分を求めることや見せびらかすことなど,すべての根本にあるのは罪深い誇りです。(箴言 8:13; 16:18; 21:4)ですから,確かに,自分が手に入れたものや自分の業績と思えるものを誇示するという誘惑に抵抗しなければなりません。ここで当てはまるのは,次の箴言です。「あまり多くのはち蜜を食べるのはよくない。また,人々が自分の栄光を探り出すこと,それは栄光だろうか」。(箴言 25:27)大半の人々が滅びに至る広い道を歩いているので,「災いです! すべての人があなた方のことを良く言うときには」というイエスの言葉は実に時宜にかなったものです。―ルカ 6:26。
『世は過ぎ去りつつあります』
15 (イ)使徒ヨハネは「世のものではない」ことが求められる基本的な理由として何を挙げていますか。(ロ)忠節なクリスチャンは自分たちの主要な努力を何に向けるべきですか。
15 ヨハネは「世のものではない」ことが求められる基本的な理由をわたしたちに説明し,こう付け加えています。「さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。(ヨハネ第一 2:17)この「世」,つまり不義の人間社会は足早に近づく「大患難」で間もなくその最後を迎えようとしています。(マタイ 24:21)その時には,この世の政治的,商業的,および偽りの宗教の諸要素が全く何の痕跡も残らぬほどに破壊されます。したがって,真のエホバの証人で,間もなく無に帰するこれらの諸要素に自分の時間とエネルギーと資力をつぎ込める人がいるでしょうか。むしろ忠節なクリスチャンは,自分たちの主要な努力を,王国の関心事やとこしえに続くものを促進することに向けます。加えて,こうした忠節と信仰により,エホバの民はイエス・キリストが行なわれたと同じように,不義の人間社会である「世を征服」します。(ヨハネ 16:33)そうです,それから彼らは,ノアとその家族が大洪水を生き残ったように,この世が神による滅びによって過ぎ去る時に生き残るのです。―ペテロ第二 2:5。
16 これからどんな質問を考慮しますか。
16 では,この世が過ぎ去りつつあることからすると,クリスチャンは世の社会問題にかかわることをどう見るべきですか。教育,仕事の取り引き,レクリエーションに対してどんな態度を取るべきですか。これらの質問をこれから注意深く考慮します。
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『世からの汚点のない状態』にとどまりなさいものみの塔 1984 | 10月1日
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『世からの汚点のない状態』にとどまりなさい
「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコブ 1:27。
1,2 清い崇拝に求められる事柄にはどんなものがありますか。
エホバは清い崇拝を求めておられます。(ヨハネ 4:23,24)とりわけ,汚れのない宗教は,困窮している人々に対する積極的で愛ある関心を促進します。(ガラテア 2:10)そうした崇拝には,世,つまり神から離反し,「邪悪な者[悪魔サタン]の配下にある」不義の人間社会から汚点のない状態に自分自身を保つことも求められます。―ヨハネ第一 5:19。
2 弟子ヤコブは,「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです」と書き,こう続けました。「すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」。別の訳は次のようになっています。「わたしたちの父なる神の目に清くて,損なわれていない宗教はこうです。すなわち,困っているときに孤児ややもめを助けに行き,世に汚されないよう自分を守ることです」― ヤコブ 1:27,エルサレム聖書。
3 今わたしたちはどんな質問を考慮しますか。
3 ではエホバの僕であるわたしたちは,どのようにすれば「世に汚されないよう」自分を守ることができますか。世の社会問題,教育上の取り決め,事業の進め方,レクリエーション活動などの問題について聖書はどのような見解を示しているでしょうか。
『世に汚されないよう守る』
4 ヨハネ 17章14節およびイザヤ 2章2-4節は,わたしたちとこの世との関係について何を示していますか。
4 エホバの証人であるわたしたちは「世のものではない」ので,わたしたちは不義の人間社会とは異なっていなければなりません。(ヨハネ 17:14)そのために一つには,世の政治問題に関して中立を保つことが求められます。世の暴力行為に巻き込まれることも避けなければならず,『その剣をすきの刃に打ち変えた』者として平和を追い求めなければなりません。―イザヤ 2:2-4。
5 (イ)コリント第一 6章9-11節,(ロ)エフェソス 5章3-5節は,この世に汚されない状態にとどまるため,どのような行動を取るべきであることを示していますか。
5 この世に汚されない状態にとどまることを願う民として,わたしたちは世の人々の間ではごく一般化していても,神の言葉とは調和しない話し方や行ないや態度を避けなければなりません。例えば,わたしたちの生活の中では,憎しみ,貪欲さ,恥ずべき行ない,卑わいな冗談などの占めるふさわしい場所はありません。(コリント第一 6:9-11。エフェソス 5:3-5)わたしたちの行動と態度が世の人々のそれと異なっていても驚くには当たりません。彼らはクリスチャンの希望を持っていないからです。
この世の秩序のための時は短い
6 コリント第一 7章29-31節を考え,エホバの証人は結婚生活,所有物,他の地的な事柄をどのようにみなすべきですか。
6 使徒パウロはこのように書きました。「時は短くなっています。これからは,妻を持っている者は持っていないかのように,嘆く者は嘆いていない者のように,喜びに満ちあふれている者は歓ばない者のように,買う者は所有者ではないかのように,世を利用した者はそれを用いない者のように振る舞いなさい。なぜなら,現在の世の秩序は過ぎ去りつつあるからです」。(コリント第一 7:29-31,現代語聖書)この聖句は,クリスチャンである夫は結婚に関する責務を果たさなければならないとはいえ,結婚生活を人生のすべてとすべきではないということを示しています。霊によって生み出されたクリスチャンは死に際して,地的な親族,喜び,悲しみ,所有物など,すべてを永久に後にします。現在でさえ,天的希望を抱いていようと地的希望を抱いていようと,クリスチャンは妻や物質上の所有物を失うかもしれません。加えて,「大患難」の時に保護されるのは,物質上の所有物ではなく命です。(マタイ 24:21。伝道の書 9:11)したがって,今日のエホバの証人はだれも,結婚生活,所有物,他の地上の物事を生活の中で第一にしてはなりません。むしろクリスチャンはすべてエホバ神との良い関係を築くことを最高に重要なこととすべきです。わたしたちは「終わりの日」に生きており,「現在の世の秩序は過ぎ去りつつある」ので特にこのことは真実です。―テモテ第二 3:1。
7 一経済学者によると,教育の向上,収入の増大,その他の進歩に伴って,何も多くなりましたか。
7 多くの人は,「現在の世の秩序」の将来を憂慮しています。例えば,ジャーナリストのナンシー・ブラウンは,経済学者のエズラ・ミシャムが教育の向上と収入の増大に関して述べた次のような言葉を引用しています。「[それは]社会の向上をもたらさなかった。科学,教育,製品の進歩に伴って,社会には暴力,非行,軽犯罪,蛮行,殺人と自殺,卑俗な行為,わいせつ行為が多く見られるようになった」。この新聞記事の冒頭の表現は実に意味深いものです。「神の介入がなければ,世界の自滅を救うことはできない」― 1982年3月25日付タイムズ・コロニスト紙,カナダ,ブリティッシュコロンビア州ビクトリア市で発行。
8 わたしたちがこの世からできる限り得てはならないのはなぜですか。
8 エホバが地球を創造されたのは,不義の人間社会がそこを占拠するためではなく,義にかなった完全な人間がそこに住むためでした。(イザヤ 45:18。詩編 37:29,38)ですから神は,人類が自滅するのを許されません。とはいえ,この古い世の秩序が間もなく完全に過ぎ去ることに疑問の余地はありません。ですから,エホバの献身した僕たちは世を「十分に」用いるべきではないのです。あるいは別の翻訳が述べているように,「世を用いる際,それからできる限り得ようとしてはなりません。この世の現在の形態は過ぎ去りつつあるからです」― コリント第一 7:31,現代語による新約聖書,ウィリアム・F・ベック訳。
この世を全く用いてはならないか
9 (イ)エホバの民はどの程度までこの世を正しく用いることができますか。(ロ)マタイ 6章31-33節およびテモテ第一 6章7,8節を考慮し,わたしたちは物質的なものに対しどんな態度を取るべきですか。
9 では,献身したエホバの証人として,わたしたちがこの世から何かを得るのは正しいことでしょうか。正しいことです。パウロは,わたしたちが世を用いることはできても,それを十分に用いることはできないと指摘したのです。したがって,わたしたちの聖書的な責務を果たすこと,および王国の音信を宣べ伝える業に関係した合法的な世の備えを用いることができます。(テモテ第一 5:8; 6:17-19)とはいえ,わたしたちは『世からの汚点のない状態』にとどまることを願う以上,世の論争,デモ行進,冷たい戦争や熱い戦争,およびそれらに類する事柄に関係することをよしとするわけにはゆきません。秘密裏にであっても一方の側を他方より高めてはなりません。生計を立てることや物質的な豊かさに必要以上の関心を抱くべきでもありません。イエスはこう言われたからです。「思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものなのです。あなた方の天の父は,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。ですから,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなた方に加えられるのです」。しかもイエスは,ご自分の宣べ伝えた事柄を実践されました。きつねには穴があり,鳥にはねぐらがあるのに,イエスには頭を横たえる場所がなかったからです。それでわたしたちも,『王国を第一に求めつつ』,命を支える物と身を覆う物とで満足したいものです。―マタイ 6:31-33。ルカ 9:58。テモテ第一 6:7,8。
10 教育に関するどんな質問は祈りのうちに考慮するだけの価値がありますか。あなたなら,それらの質問にどのように答えますか。
10 では,世の経歴についてはどうですか。この世がわたしたちの時代のうちに過ぎ去ることを考えると,ひたすら出世のために人生を送るような計画を立てるのは道理にかなったことでしょうか。(マタイ 24:34)そのようなことは決してありません。そして,このような見方は確かに世の教育に対するわたしたちの態度に影響を与えるのではないでしょうか。基礎教育は必要ですが,高等教育を施す学校に行きながら,そこに行き渡っている世の考えの波にのまれないようにするのは不可能に近いと言えます。もちろん教育に関しては本人が決定を下さなければなりません。(ガラテア 6:5)しかし,次のような質問は祈りのうちに考慮するだけの価値があります。大学で過ごす年月の間,学生たちは『王国とエホバの義を第一に求め続ける』こともできているだろうか,彼らは真の信仰をむしばむ理論や哲学の影響を全く受けないでいるだろうか。(コロサイ 2:8)世の仲間たちは彼らに良い影響を及ぼしてきただろうか,それとも霊的に害を及ぼしてきただろうか。(コリント第一 15:33)高等教育を受けた多くの人は本当に謙遜さを保ってきただろうか。―フィリピ 2:2,3。
11 受けている教育がどんな性質のものであろうと,動機を試すためのどんな助けがここに与えられていますか。
11 この問題に関して言えば,職業学校に通う人々で,ある職業に熱中するあまり,エホバへの奉仕にもはや多くの時間を費やせなくなってしまう人がいます。ですから,受ける教育がどんな性質のものであろうと,多くのことが本人の動機に依存しています。独立と富に対する願望が主要な要因ですか。その教育は,エホバへの奉仕を大きく削り取るような結果を招きますか。それとも神聖な奉仕に携わる上で支えになるようなものですか。クリスチャンは世からの汚点のない状態にとどまる義務を負っているのに,あなたは実際にはこの事物の体制における自分のための安住の地を得ようとしていますか。それとも,本当に王国の関心事を一心に生活の中で第一にし続けていますか。
12 高等教育を受けたある人々は何に動かされて王国の真理を受け入れましたか。
12 高等教育を受けた人が王国の真理を受け入れることにわたしたちは喜びを覚えますが,彼らがそうしたのはその高等教育のゆえではありませんでした。むしろ彼らは,高等教育があっても,神を持たず確かな希望もなかったために人生が無意味であることを悟るようになったのです。今や彼らは,『多くの賢い者,強力な者,高貴な生まれの者』が神の是認を受けていないことをわきまえています。(コリント第一 1:26-31)それでも,彼ら自身としてはエホバの証人としてついに人生の真の目的を見いだしたことを喜んでいます。
「生活のためのもうけ仕事」
13 テモテ第二 2章3,4節は事業の追求と献身したクリスチャンについて何を示唆していますか。
13 わたしたちはこの世に汚されない状態にとどまりたいので,事業の追求に対してどんな態度を取るべきでしょうか。使徒パウロはテモテにこう告げました。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として,苦しみを共にしてください。兵士として仕えている者はだれも,生活のためのもうけ仕事などにかかわりません。自分を兵士として募った者の是認を得ようとするからです」。(テモテ第二 2:3,4)クリスチャンはまじめに働いて,自分と自分の家族のための必需品を備えなければなりません。しかし,献身したクリスチャンが,主に奉仕者としてよりも事業の経営者として語られるなら,それはおかしなことではないでしょうか。何よりもまずその人は王国宣明者として,また「キリスト・イエスのりっぱな兵士」として知られるべきではありませんか。
14 ヘブライ 13章18節をわたしたちの事業の進め方にどのように適用できますか。
14 したがって事業に携わる状況においては,さまざまな方法で自己吟味をすることが必要です。その一つとして,わたしたちが世の利己的な人々と接触しているとしても,その事実は,彼らの抜け目のない不正直な習慣や悪い言葉を取り入れてもよい理由にはなりません。むしろわたしたちは,「すべてのことにおいて正直に行動」しなければなりません。(ヘブライ 13:18)なるほど,この世の無感覚なビジネスマンから返礼としての良い扱いを受けることはないかもしれませんが,わたしたちの正直な歩みをエホバが祝福してくださることを確信でき,これこそわたしたちが「救い主なる神の教えを飾る」ことのできる一つの方法なのです。―テトス 2:9,10。
15 個人的な投機的事業に関し,どんな聖書的な諭しが与えられていますか。
15 この世に汚されない状態にとどまることを願う者として,わたしたちは『すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なう』べきです。(ガラテア 6:10)しかし,神の民の中の友人を利用し,彼らから利益を上げるために利己的に何らかの個人的な投機的事業を推し進める人は,この聖句にかなった行ないをしていません。もとよりクリスチャンは『賢い者として歩む』べきです。(エフェソス 5:15)兄弟と呼ばれるだれかが一獲千金をねらう計画を持ってわたしたちのところに来ても,安々と話に乗り,金銭を手放したりしてはなりません。わたしたちの霊的な兄弟であると唱えながら,エホバの「羊」を不当に利用しようとする人々に対し,神の組織が時折,警告を与えてきたことにはもっともな理由があるのです。
あらゆる点で,世的なものを避ける
16 わたしたちが『世からの汚点のない状態』にとどまっていることを示す方法として,どんなものがありますか。
16 もちろん,どのような点でエホバの証人が「世から汚点のない状態」にとどまっているか,そのすべてを挙げることはできませんが,言うまでもなく,アルコール飲料に過度にふけること,極度に対抗心をあおる,あるいは暴力的なスポーツに熱中すること,暴力団員や殺人者や他の不道徳な人物が主役を演ずる映画やテレビ番組を見るために時間を費やすこと,どこを開いても性が強調されている本を読むこと,暴力的なテレビ・ゲームをすることはこの世からの汚点のない状態にとどまる方法ではありません。(コリント第一 6:9,10; 15:33。ガラテア 5:19-26。ペテロ第一 4:3)エホバはご自分の証人たちが,この世の不節制,不道徳,暴力などを避けるように期待しておられます。ですからわたしたちは,世の邪悪な事柄に関する知識や経験を求めるのではなく,「悪に関しては[無邪気な]みどりご」であるべきです。―コリント第一 14:20。ヨハネ第一 3:2,3と比較してください。
17 わたしたちが世からの汚点のない状態でいることは,他の人との関係にどんな影響を及ぼすはずですか。
17 この世からの汚点のない状態を保つことはわたしたちの生活のあらゆる面に及び,他の人との関係も確かにそこに含まれます。苦々しいねたみ,闘争心,自慢すること,偽りを語ることなどはこの世ではごく一般化していますが,わたしたちの間では占めるべき場などありません。ヤコブが次のように書いているからです。「あなた方の中で知恵と理解力のある人はだれですか。その人は,知恵に伴う温和さをもって,自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい。しかし,あなた方が心の中に苦々しいねたみや闘争心を抱いているなら,真理に逆らって自慢したり偽ったりしてはなりません。それは上から下る知恵ではなく,地的,動物的,悪霊的なものです。ねたみや闘争心のあるところには,無秩序やあらゆるいとうべきものがあるからです」。(ヤコブ 3:13-16)「知恵に伴う温和さ」を示し,『すべての人に対して平和を追い求める』のは何と重要なことでしょう!(ヘブライ 12:14)確かに,エホバの忠節な証人としてわたしたちは,単なる個人的な意見の相違ゆえに,信仰にあるわたしたちの兄弟姉妹たちとの関係を損なうことはできません。むしろ,『互いに忍び,エホバが惜しみなく許してくださったように互いに惜しみなく許し合う』べきです。(コロサイ 3:13)これは,他の人と接する際のこの世の一般的な方法ではありませんが,間違いなく敬虔な道です。
18 わたしたちが世から離れていることは,わたしたちが何を行なう時にひときわ明らかになりますか。
18 クリスチャン会衆内外の人々に対して平和を追い求めるのは,わたしたちがこの世から汚点のない状態にあることを示す一つの重要な方法です。しかし,わたしたちが世から離れていることは,神からの霊的な武具を完全に身にまとい,『平和の良いたよりの装備を足にはく』イエス・キリストの勇敢な兵士としての立場を保つ時,ひときわ明らかになります。(エフェソス 6:11-18)命を与える王国の音信を渇望している人はまだ大勢います。ですから,この体制が終わるまでなお残されている短い時の間,「良いたより」をふれ告げる壮大な業に無私の態度でわたしたちの所有物や能力や力を用いたいものです。―マタイ 24:14。
19 矢のように過ぎてゆくこの終わりの時代にあって,わたしたちはサタンが何を行なうことを予期できますか。しかし,わたしたちは神の助けを得て,何を首尾よく行ないますか。
19 矢のように過ぎてゆくこの終わりの時代に,この世の神であるサタンはエホバの忠節な証人であるわたしたちにさらに猛攻撃を仕掛けてくるでしょう。わたしたちの神への神聖な奉仕からわたしたちを引き離すための死力を尽した努力の一環として,悪魔は世の物質的な富や華やかな魅力,高等教育にとどまらず,さらに多くのものをも誇示するでしょう。しかし,わたしたちは信頼できる神からの助けを得て,「世から汚点のない状態」に首尾よくとどまり,わたしたちの聖なる神エホバに賛美をもたらします。
どのように答えますか
□ ヤコブ 1章27節によれば,真の崇拝に求められる事柄にはどんなものがありますか
□ この世に汚されないよう守る方法にはどんなものがありますか
□ この世が過ぎ去りつつあるという事実は,高等教育に対するわたしたちの見方にどんな影響を及ぼし得ると考えられますか
□ 事業の進め方に関し,どんな点における自己吟味が必要ですか
□ エホバの証人は,自分たちの行ないと他の人との関係について『世からの汚点のない状態』にあることをどのように示せますか
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