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なぜ牧師が不足するかものみの塔 1962 | 7月1日
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派の考えからは程遠い,きわめて自由な考え方であって,公には言えないほどである……率直に言えば,彼らは自分たちが伝道するはずの福音をもはや信ぜず,自分たちの属する宗派に信頼を置いていない」。
「このような牧師がアメリカには大ぜいおり,その大多数は牧師の務をしていても,決して幸福ではない」と言われています。若い男女が牧師を志望しないのも不思議ではありません。
「また,もしラッパがはっきりした音を出さないなら,だれが戦闘の準備をするだろうか」。分裂した家にはいりたいと思う人がいますか。喜びを持たない者が他の人を励まして,キリストに従うようにとすすめることができますか。―コリント前 14:8。
かけ引きそして真実の必要
良心的な若い人にとっておそらくもっと心を痛めるのは,宗教の中でかけ引きが広く使われていることです。ムーアは次のように書いています。「地位,名誉を求めて露骨な競争が行なわれ,へつらいが行なわれていることは,分別のある若い牧師にとって全くやりきれないことである。このような有様では情けないことだ。教会員の重立った者はそれを当然と考え,また助長している。多くの場合,教会で物を言うのは『あなたの人物』,説教,個人生活の手本,独創力,知性,正直,誠実さではなくて,『あなたはだれを知っているか』ということである。たとえばメソジスト教会の監督は地位を得るために運動することが知られている。大学の学長,役員,大きな教会の牧師についても同様である…どうかすると三流,四流の人々がこれらの地位を得ようとして使う手段は,大都市の政界の院外団も顔負けするほどのものである」。
宴会を催して飲み食いし,尊敬されている年配の牧師と酒をくみかわし,退屈なじょうだんに笑い,その言いなりになっている牧師たちを見るとき,良心的な牧師は何を感じますか。クリスチャン・ヘラルド紙は彼らの反応を次のように報じています。「神学校の卒業生の多くは三年前,神学校にはいった時のほうが伝道する能力と気力をもっと持っていた」。彼らの熱意はおとろえ,意欲は失われてしまうのです。彼らは霊的に死んでいます。キリストのために生きようとする意欲を失ってしまうのです。それはだれの責任ですか。
会員名簿に名前をつらねることではなくて本当に弟子になるとき,教会の建物を建てることよりも信仰,希望,愛をつちかうことを重んずるとき,伝統や因襲を守るよりも人間の生命を救うことを大切にするとき,自分を満足させるよりも神に奉仕することを第一にするとき,そのときに人は宣教の職を望みます。しかし神の言葉を教えていない宗教制度の牧師になることを望むのではありません。そのとき,人は神の奉仕者になることを望みます。1957年から1960年までのあいだ,エホバの証者の新世社会において宣教に携わる人の数は減少するどころか,27万7866人が任命された奉仕者,神の言葉を公に教える者となりました。
イエスは言われました,「収穫は多いが,働き人が少ない」。誠実に働く奉仕者が必要です。それは宗教に対する関心が低くなっているからではありません。むしろ時が緊迫しているためです。人類は神のハルマゲドンに直面しています。ハルマゲドンの襲う前に,設立された神の御国の良いたよりをあかしのため,全世界の人々に宣べ伝えなければなりません。このために,奉仕者は現在,緊急に必要です。あなたは神のために働きますか。―マタイ 9:37,38,新口。ヨハネ 4:23,24。ゼパニヤ 2:3。黙示 16:16。マタイ 24:14。テモテ前 4:16。
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再訪問の価値ものみの塔 1962 | 7月1日
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再訪問の価値
カメルーンでは,多くの変わった面白い経験をすることがあります。ひとりの開拓者はこう話しています。ある日曜日の朝戸別伝道をしていた時にひとりのカトリック教徒に会いました。開拓者の聖書の話を注意深く聞いたのちその男の人は,「これは永遠の生命を意味するという」本を取ってきてこの本を知っていますかと開拓者に聞きました。彼がその本を手に入れたのは1957年のことでした。それ以来彼は,だれかがやってきて,その本の説明をしてくれるのを待っていたのです。開拓者はそのことを聞いてびっくりしました。というのは,この区域は,数回も伝道したのですが,ノートを調べて見たところ,この家はいつも留守になっていたのであらためて訪問したところだったからです。聖書研究が取決められました。―1962年のエホバの証者の年鑑より
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