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「人のつくったものすべて」に服従するものみの塔 1962 | 11月15日
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ペテロは,それらに対して私たちの取るべき正しい態度を次のように述べています,「すべての人をうやまい,兄弟たちを愛し,神をおそれ,王を尊びなさい」。―ペテロ前 2:17,新口。
23,24 (イ)クリスチャンが会衆内の人々に示す尊敬と,外部の「すべての人」に対して示す尊敬が異なるのはなぜですか。(ロ)外部の「すべての人」になぜ尊敬を示すべきですか。どの程度まで?
23 クリスチャンが会衆内のすべての者に与える尊敬は,もちろん,会衆外のすべての者に与える尊敬とちがいます。それでも,私たちは会衆外の責任のある政治的な職務につくすべての人を尊敬しなければなりません。それは形式的な尊敬です。しかし,「兄弟たち」に対してはクリスチャンは単なる形式的な尊敬以上のものを持たねばなりません。彼らは愛,すなわち,彼らがキリストの弟子であることを証明する兄弟愛を持たねばなりません。(ヨハネ 13:34,35)尊ぶということについては,ロマ書 12章10節(新口)は会衆にこう述べています,「兄弟の愛をもって互にいつくしみ,進んで互に尊敬し合いなさい」。それで,私たちの兄弟たちから尊敬を求めるべきではありません。
24 しかし,私たちは会衆外の高い地位についているこの世の人々を無視することができません。臣下なる国民代表者として,彼らの持つ地位に応じて,私たちは彼らを正しく尊敬しなければなりません。しかし,私たちは彼らを「たたえたり」,偶像化したり,神格視すべきではありません。私たちは比較的な意味において彼らを尊びます。私たちは,ペテロの言うごとく,真の神なるエホバ「神をおそれ」ると同時に,彼らを尊びます。神をおそれることの次に,「王を尊びなさい」という義務が来ます。したがって,正しい支配のために王からつかわされた長官をも尊ばねばなりません。
奴隷と妻
25,26 (イ)ペテロが人間のつくったものに対する相対的な服従を意味していることは,どのようにいっそう明らかになりますか。(ロ)ペテロは,家の僕について何と述べていますか。
25 ペテロ前書を読んで行くにつれて,クリスチャンが「人のつくったものすべて」に服従することは,比較的なもの,特定な範囲に限られていることがますます明白になります。どうしてそうですか。なぜなら,ペテロはクリスチャンが他の者に従わねばならぬ別の場合についても語っているからです。どんな場合ですか。奴隷と妻の場合です。私たちがこの世のいろいろの形式の政府の下に生まれてくることは已むを得ません。しかし,私たちが奴隷になるか,妻になるかは,私たちの決定にかなり依存しています。ペテロは次のように述べています。
26 「僕たる者よ。心からのおそれをもって,主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく,気むずかしい主人にも,そうしなさい。もしだれかが,不当な苦しみを受けても,神に対する良心のゆえにその苦痛を耐え忍ぶなら,それはよみせられる〔だれに?〕ことである。悪いことをして打ちたたかれ,それを忍んだとしても,なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである」。―ペテロ前 2:18-20,新口。
27 (イ)これは僕の服従が相対的なものに過ぎないことを,どのように示していますか。(ロ)僕が苦しみにあうとすれば,それは何のためだけですか。クリスチャンの僕は,それをどのように受けるべきですか。
27 家の僕あるいは奴隷は,そのクリスチャン良心に従ってみちびかれます。ゆえに,彼らが主人に従うことは,比較的な服従に過ぎません。特に,善良でなく,道理にかなわず,気むずかしい,クリスチャンでない主人の場合に,そうでなければならないのです。クリスチャンの僕あるいは奴隷は,良心的に最善をつくしても,そのような主人から虐待されるかも知れません。また,クリスチャンの僕あるいは奴隷は,そのクリスチャン良心のゆえに,そのような主人の要求する道徳的な悪事あるいは不敬虔なことをしないため,不当の罰を受けるかも知れません。しかし,これは「神に対する良心のゆえ」に苦しめられることです。その苦しみは不当のものでも,クリスチャンの僕あるいは奴隷はそれを受けねばなりません。彼は逃げ出してもならず,反逆して仕返ししてもなりません。彼は主人に正しく服従して,それを耐えねばなりません。彼がそうするとき,これは「神によみせられること」になります。それは,奴隷がしっかり従うキリスト教に非難をもたらしません。
28,29 (イ)このような苦しみの中で,クリスチャンの僕にはどんな慰めと導きがありますか。(ロ)ペテロはこの模範についてどのように述べていますか。
28 クリスチャンの僕あるいは奴隷は,気むずかしい主人から不当の苦しみを受けるとき,ひとつの模範に従うことができます。彼はこの模範から大きな慰めを得ることができます。それは,彼よりも偉大な方,そうです,主なるイエス・キリストの残した模範です。ペテロは次のように述べて,この完全な模範に言及し,苦しみを受けるクリスチャンたちを慰めています。
29 「あなたがたは,実に,そうするようにと召されたのである。キリストも,あなたがたのために苦しみを受け,御足の跡を踏み従うようにと,模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず,その口には偽りがなかった。ののしられても,ののしりかえさず,苦しめられても,おびやかすことをせず,正しいさばきをするかたに,いっさいをゆだねておられた。私たちが罪に死に,義に生きるために,キリストは杭にかかって,私たちの罪を御自分の身に負われた。『その傷によってあなた方はいやされたのである』。あなた方は羊のようにさ迷っていたが今はたましいの牧者であり,監督である方のもとに立ち帰ったのである」。―ペテロ前 2:21-25,新世。
30 この模範について,注目すべきことは何ですか。それはなぜ大切ですか。
30 キリスト教の指導者は不当の苦しみを受けました。すると,彼の弟子たちが類似の不当の苦しみを避けることは期待できません。しかし,気をつけねばならぬ肝心な点は,私たちの指導者は不平を言わずにそれを耐え忍んだということです。私たちは彼にならうため,奴隷であろうとなかろうと,同様なことをしなければなりません。イエス・キリストの場合のように,不平を言わず,ののしりかえしたり,おびやかすことをしないで不当な苦しみを受けることは,他の人々の益をもたらします。不正な苦しみ,不当な苦しみを耐え忍ぶことは,「神によみせられること」です。
31,32 (イ)ペテロは次にだれに助言を与えていますか。そしてなぜ?(ロ)そこでペテロは何をするようにとすすめていますか。
31 ペテロは「神に対する良心のゆえ」に不当なくるしみを受けたクリスチャンの奴隷たちを励まして,慰めて後に,不当な虐待を受ける場合にも服従することが必要であった他の者に注意を向けています。それらの者は,神の御言葉に従わぬ,クリスチャンでない夫に結婚しているクリスチャンの妻たちでした。妻も奴隷と同じように,夫なる所有者の持物です。ユダヤ人は今日でも夫のことをバアリムすなわち所有者と呼んでいます。(ホセア 2:16。出エジプト 21:22。申命 22:22,24。箴言 31:11,23,28)使徒ペテロは,信仰を持たず,献身していない夫から別居すること,あるいは離婚することを助言せず,かえって奴隷の場合を指摘して次のように述べています。
32 「同じように,妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく〔文字通りには,恐れ(ホボス)をもって〕清い行いを見て,その妻の無言のお行いによって,救に入れられるようになるであろう。あなたがたは,髪を編み,金の飾りをつけ,服装をととのえるような外面の飾りではなく,かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである。むかし,神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも,このように身を飾って,その夫に仕えたのである。たとえば,サラはアブラハムに仕えて,彼を主と呼んだ。あなたがたも,何事にもおびえ臆することなく善を行えば,サラの娘たちとなるのである」。―ペテロ前 3:1-6,新口。
33,34 (イ)妻のこの服従はどんな種類のものですか。それからどんな良い結果が得られますか。(ロ)ペテロは,クリスチャンの妻の手本としてだれをあげていますか。またとくにだれのように身を飾るべきですか。
33 クリスチャンの奴隷の場合と同じく,クリスチャンの妻は神を度外視したり,またクリスチャンの良心を度外視して,自分の所有者に全面的な服従をしません。妻の服従も比較的なものに過ぎず,神への恐れと,神の御言葉に対する良心的な考慮をもって釣合わせることが必要です。もし彼女が不信者の夫から別居して,神をよろこばせる仕方で夫に従わないなら,言葉によらず忠実なクリスチャンの振舞によって,妻が夫をキリスト教に救い入れることは,どうして可能ですか。それは不可能です。妻の服従の模範として,ペテロは「婦人の権利」と男子との平等の立場を要求する,離婚された女あるいはこの世の女を指さず,神に希望を抱いた以前の「聖なる女たち」を指しています。
34 ペテロは,サラの子供のごとく振舞うようにと妻に告げました。妻としての振舞についてはサラの教えをうけよと彼は告げました。サラは夫アブラハムを主と認めていたので,彼の生命を守るようにとアブラハムから頼まれたとき,彼女は自分自身の自由と安全を危険にさらしても彼に従いました。(創世 12:14-20; 20:1-14)サラはこのように自分の夫に服従することにより,彼女自身および他の人間家族の永遠の救いについて重要な役割を占めるという報いを受けました。彼女はイサクの母親になり,主イエス・キリストの先祖になりました。同様にクリスチャンの妻は,神に希望を置きつつ,自分の夫に従うことができます。彼女は,神の御前で自分の夫に対し,「柔和で,しとやかな霊」によって,身を飾ります。これは彼女自身を救うだけでなく,夫や他の者をも救うでしょう。
35,36 (イ)この世の存在するあいだ,私たちすべては何に服従しなければなりませんか。そしてどの程度まで?(ロ)この事はどのように身の守りとなりまた益のあることですか。
35 エホバのクリスチャン証者である私たち全部は,奴隷でなく,妻でもありません。それで,これらの範囲内において服従する必要はないでしょう。しかし,神のゆるしにより,私たちがこの古い世にいる限り,私たちは政府の下にいます。神がこれらの存続をゆるすかぎり,私たちは「主のゆえに」そして「神のみむねに」従って,「人のつくったものすべて」に従わねばなりません。ペテロもパウロも次のことについてすこしの疑問をも残していません,すなわちこれらのこの世の政治機構に服従することは,比較的なものに過ぎず,いつでも神の御言葉により訓練されるクリスチャン良心に従わねばならぬということです。私たちが比較的な服従をするとき,王や皇帝や,長官たちに従う人々を怒らせることを避けます。私たちが彼らの支配者を正しく尊ばないなら,彼らは怒りをいだくでしょう。
36 私たちの比較的な服従は,そのような人々をよろこばすだけでなく,それは特に神をよろこばすでしょう。私たちがエホバのクリスチャン証者であるために迫害を受けるときでも,私たちは政治的な陰謀に加わらず,設立されている権威に対して反逆しません。私たちの伝道している神の御国の敵共は武装を解くでしょう。なぜなら,神の律法ということ以外に,彼らは私たちの真実の欠点や,不利の点を見つけることができないからです。
37 従って私たちはどこにいても何をしますか。どこにおいて,私たちは全地にわたり政府に全面的な服従をささげますか。
37 私たちがどこに住もうと,どの形態の政府の下に住もうと,私たちはいつも善を行ない,神をあがめるでしょう。神の大いなる日の宇宙的な戦争後の正義の新しい世において,私たちは,その時の地をまったく支配する唯一つの政府,すなわち私たちの主にして救主なるイエス・キリストによる神の御国に全く服従するという名誉とよろこびにあずかるでしょう。
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学校で講演ものみの塔 1962 | 11月15日
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学校で講演
カリフォルニアの一人の若いエホバの証者は最近学校での彼の経験について報告しました。彼はある日前の社会問題の先生に会いました。「教科の中で,アメリカの色々な宗教について話しあうことになっているので,自分のクラスに来てエホバの証者について話してみないかと先生は私に尋ねました。時間は1時間で,私は始めに30分間エホバの証者が行なっている仕事について話し,その後聴衆からの色々な質問に答えました。話の後で,先生は,クラスで私に話してもらいたいと思っている先生がもう一人いると知らせてくれました。その先生からはなにも話がなかったので,私自身でたずねていってエホバの証者について話をしましょうと言いました。この先生は私の申し出に熱意を示し,早速時間をとり決めました。このクラスでも同じように,30分の話に,活発な質問の時間が続きました」。
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