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  • 『ほねおって働き,また努力する』
    ものみの塔 1981 | 4月1日
    • 『ほねおって働き,また努力する』

      「わたしたちはそのためにほねおって働き,また努力しているのです。わたしたちは生ける神に希望を託しているからです。神はあらゆる人,特に,忠実な者の救い主です」― テモテ第一 4:10。

      1-3 クリスチャンが今日仕事に対する自分の態度に注意を払うのはなぜ適切ですか。

      あなたはほねおって働くのが好きですか。努力を払って物事を成し遂げる価値を高く評価していますか。もしそうであるとすれば,あなたは今日の多くの人と対照的です。

      2 お気付きでしょうが,怠け者は昔からいたものの,働くことを嫌う傾向は次第に強くなっているようです。(箴 20:4; 19:24。テサロニケ第二 3:11)そのことは,『のんきにやれ。無理するな』といった忠告に見られます。初めは努力のいる仕事だけが嫌いでも,次第にすべての仕事を軽べつするようになりがちです。

      3 わたしたちはクリスチャンなので,自分はそのような精神を持っていない,と思うに違いありません。しかし,世の一般の人々にそうした態度が浸透し,顕著になっている時に,自分がそれに免疫になっていると考えるのは非現実的です。ですから時折り,仕事に対する自分の見方を吟味してみるのは有益です。その見方は,神にとって重要なクリスチャン活動への参加に影響することもあり得るからです。

      見倣うべき働き手

      4 働くことはどれほど大切ですか。

      4 人生とその価値を観察してきた多くの人は,働くことの大切さについて述べています。ドイツの政治家,カール・W・フォン・フンボルトは,「働くことは人間にとって食べることや眠ることと同じほど必要である」と述べています。そのこと自体,多くの人にとってよく働き,生産的でなければならない理由となります。しかしクリスチャンには,ほかにも勤勉な働きに対する認識を高めるべき理由があります。この点で,エホバとイエス・キリストは,見倣うべき模範を示してくださいました。―エフェソス 5:1。コリント第一 11:1。

      5,6 働くことに関してエホバとイエスはどのような模範を示しておられますか。

      5 原子核融合の生ずる,畏怖の念を感じさせる太陽からかれんなチョウに至るまで,全宇宙は神が働く方であることを証ししています。目に見える創造物はみな神の「み業」です。また僕たちに対する神の絶え間ない保護と導きも,感謝すべき「み業」です。(詩 145:4-6,10; 8:4-9,新)神のみ子も勤勉な働き手です。イエスはガリラヤの町でしておられた大工の仕事をやめて,暑くほこりっぽい田園地方を何百キロも旅行されました。それはいやしを行ない,伝道し,教えて,人々を助けるためでした。(マタイ 4:17,23-25。ルカ 8:1; 9:57,58)キリストは完全な方でしたが,長時間,遅くまで働くと,疲れと空腹をお感じになりました。―マタイ 21:18。マルコ 1:32,35; 6:32-34。ヨハネ 4:3-6,34。

      6 確かに,神にもイエスにも『のんきにやる』態度は見られません。「わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです」と,キリストは言われました。(ヨハネ 5:17)事実,ご自分の「業」,すなわち神の後ろだてを得て行なった事柄は,ご自分が神の是認を得ている証拠であるとおっしゃいました。(ヨハネ 10:25,38)このことはわたしたちの生活とも無関係ではありません。わたしたちが抱いている,聖書に基づく一切の希望の実現は,神の崇拝者としてよく働くイエスが行なわれた事柄に依存しているのです。

      7 わたしたちはどんな態度で仕事に対する自分の見方を考えてみるべきですか。

      7 わたしたちは各自,仕事についての見方や仕事の仕方をよく考えてみることができます。またそうすべきです。その際,厳しい自己批判や自分に対する過度の要求は必要ではありません。わたしたちは皆,周囲の事情に縛られるだけでなく,体力的にも限界があります。またイエスの行動から,休息を取り,くつろぎ,気持ちの良い交わりやある程度の慰安を楽しんでも構わないことが分かります。(マルコ 6:31。ルカ 5:29; 7:34。ヨハネ 2:2-10; 12:2,3)ところが,休息の必要を重視するほかならぬ不完全さのために,わたしたちは,怠惰に関する聖書の警告が強調しているように,休息のことを過度に考えることがあります。しかし実際には,空腹である方が食事がおいしいのと同じように,ほねおって働くと休息や気晴らしは一層喜ばしいものになります。―伝道 2:24; 5:12,18。

      8,9 クリスチャンはどんな時にほねおって働くべきですか。

      8 「仕事」といえば,生活必需品を得るためにわたしたちの多くが行なう世俗の仕事を特に思い浮かべるかもしれません。聖書の助言は,その仕事においても良心的で勤勉でなければならないことを教えています。(箴 10:4; 22:29,新)また,家庭の仕事や学校の勉強の場合もそうでなければなりません。なぜなら,キリスト教の原則を適用した結果わたしたちの内部に生じた良い変化は,生活のあらゆる面に反映するはずだからです。使徒パウロは次のように書きました。「何をしていても,人にではなくエホバに対するように魂をこめてそれに携わりなさい。あなたがたは,しかるべき報いである相続財産をエホバから受けることを知っているのです」― コロサイ 3:23,24。

      9 しかし今は,クリスチャンの生活のある特定の部分に焦点を当ててみましょう。それは,宣べ伝え,教えることによって神を賛美する部分です。これは重要な仕事です。これによって,『わたしたちは自分自身とわたしたちのことばを聴く人々とを救うことになる』からです。―テモテ第一 4:16。

      10,11 わたしたちには,キリスト教の信仰を広めるに当たり,ほねおって働くべきどんな特別な理由がありますか。

      10 パウロがクリスチャンに,自分の救いだけに関心を持つようには勧めていないことに注目してください。クリスチャンは,他の人々がイエスをキリストとして受け入れ,専心の献身を実践するよう助けることに関心を持たねばならないのです。専心の献身は「今の命ときたるべき命との約束を保つ」からです。(テモテ第一 4:8)パウロはこの見込みを述べた後で次のように書いています。

      「わたしたちはそのためにほねおって働き,また努力しているのです。わたしたちは生ける神に希望を託しているからです。神はあらゆる人,特に,忠実な者の救い主です」― テモテ第一 4:10。

      11 考えてみてください。神から来る救い,すなわち幸福な永遠の命への道が「あらゆる人」に開かれているのです。しかし最後に救われるのはどんな人でしょうか。それは信仰を深め,信仰を働かせる「忠実な者」だけです。使徒パウロはそのことを認識していたので,どちらかというと人並みの生活を送って,都合が良ければ時々少数の人にこの可能な救いについて話すといった,のんきなことはできませんでした。他の人たちもキリスト教の音信を聞いて救いの道に入れるという見込みは,パウロにとって非常に感動的な,極めて重要な事柄だったので,彼は『ほねおって働き,また努力した』のです。あなたも同じように感じますか。先月の,あるいは過去6か月間の活動の跡を個人的に振り返って見てください。ほねおって働き努力していることが,自分自身にも,また神や他の人々にも十分に明らかになっていますか。

      王国の音信を広めるためにほねおって働く

      12 業は救いとどんな関係がありますか。

      12 クリスチャンは,義と救いをかせぎ取るかのように,ただ特定の仕事をするだけでは救いを得られないことを知っています。(ローマ 3:28)しかし,信仰が純粋であれば,その信仰の結果として業が生じることも事実です。(ヤコブ 2:18-26)したがって,自分の信仰と業を祈りを込めて考えてみるのは適切と言えます。

      13 イエスの弟子たちはイエスの死後何を行なうとイエスは言われましたか。

      13 パウロのように「ほねおって働き,また努力」するに当たって,わたしたちはキリストが言われた預言的真理の成就にあずかることができます。考えてみてください,イエスの言葉の真実性を証明することに寄与できるのです。その言葉とは,「主よ,わたしたちに父をお示しください」と頼んだフィリポに対する答えとして言われた言葉です。(ヨハネ 14:8)イエスは次のように言われました。

      「わたしを見た者は,父をも見たのです。……わたしがあなたがたに言う事がらは,独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が,ご自分の業を行なっておられるのです。きわめて真実にあなたがたに言いますが,わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかもそれより大きな業をするのです。わたしが父のもとに行くからです」― ヨハネ 14:9,10,12。

      14,15 イエスがヨハネ 14章12節で言っておられることは,イエスの弟子たちがより大きな奇跡を行なうという意味ですか。答えの理由を述べてください。

      14 イエスの弟子たちは,どのようにしてイエスより大きな業を行なえたのでしょうか。あなたもそのより大きな業を行なうことにあずかれるでしょうか。聖書の示すところによると,神は一部のクリスチャンたちが奇跡を行なうことを可能にされました。彼らは,悪霊を追い出し,病人をいやし,少数ながら死者を復活させることなどをしました。それには,神が今交渉を持ち,祝福しておられるのはクリスチャン会衆であることを示す目的がありました。(使徒 3:2-8; 5:12-16; 9:36-40; 16:16-18)しかしそれらの業は,イエスが行なわれた業より大きいものだったのでしょうか。イエスはご自分のところへ来た者も,遠くにいた者もすべていやし,奇跡によって何千人もの人々に食物を与え,死者を復活させ,自然力を制することをされました。(マタイ 8:5-16,23-27; 14:14-33。ヨハネ 11:39-44)さらに,あるクリスチャンたちが示した奇跡的な霊の賜物は終わる,つまり過ぎ去ることになっていました。(コリント第一 13:8-10)ではクリスチャンはどのようにしてイエスより大きな業をすることになっていたのでしょうか。

      15 イエスはみ父が望んでおられることを語られました。イエスは奇跡によってではなく,王国に関するすばらしい教えによって,最も偉大で最も永続的な善を行なわれました。a (ルカ 4:32,43)復活後イエスはご自分に従う追随者たちに,『すべての国の人びとを弟子とし教える』ことをお命じになりました。(マタイ 28:19,20)そうです,クリスチャンたちは大々的な証言活動を遂行することになったのです。それはイエスの伝道よりも大規模に,長期間にわたって,そしてはるかに多くの人々を対象として行なわれるものでした。そういうわけで,彼らはイエスよりも大きな業をすることになります。

      16 イエスの業はイエスの死と昇天とをもって終わることになっていましたか。

      16 イエスが行なわれた,王国について宣べ伝え教える業は,イエスの死と昇天をもって終わるのではありませんでした。イエスは天からその重要な教育運動を引き続き指揮されます。ただし追随者たちを通してそれをされます。ルカがさらに述べるところによると,イエスは天に行かれる前に『神の王国に関し』さらに多くの事柄を弟子たちに話されました。(使徒 1:3)最後にイエスは彼らにこう言われました。『あなたがたはエルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう』― 使徒 1:8。

      17,18 西暦33年のペンテコステの日に,イエスの追随者たちは,より大きな業に関するイエスの言葉をどのように成就し始めましたか。

      17 弟子たちは,イエスより大きな業を直ちに開始しました。西暦33年のペンテコステの日に,イエスは,エルサレムで待っていた120人の弟子に聖霊を注ぎました。その時彼らは何をしたでしょうか。食物を増やすことですか。人々に農業を教えることですか。幾人かの病人をいやすことですか。そうではありません。彼らは語り始めたのです。「神の壮大な事がら」を語り告げることを開始したのです。(使徒 2:1-11)その時使徒ペテロは非常に説得力のある証言をしたので,それを聞いた人々が何千人もイエスを受け入れました。

      18 当日,そのように多数の新しい信者にバプテスマを施すだけでも大仕事であったに違いありません。多分,彼らは全市の池に分散したのでしょう。夕方までに弟子たちは行なわれた事柄について報告したようです。『そのことばを受け入れてバプテスマを受けた者たちはおよそ3,000の魂に上った』と記述されています。1日のうちに,約120人から3,000人以上に増えた(2,500%を上回る増加)のです。(使徒 1:15; 2:41)確かに彼らは,イエスよりも大きな業を開始しました。

      19 それは使徒たちや会衆内の長老たちだけが行なう業でしたか。

      19 しかし,今日のクリスチャンたちの中には,『わたしはペテロでもパウロでもない。彼らはイエスより大きな業を行なうような種類の人だったのではないか』と考える人がいるかもしれません。それはもっともな疑問です。「使徒たちの活動」を見ると,使徒たちや特別の福音宣明者および会衆内の霊的な意味での長老たちは,確かに王国を宣べ伝える業に携わっていたことが分かります。しかし弟子ルカが述べているこの歴史的事実に注目してみてください。「エルサレムにあった会衆に対して激しい迫害が起こった。使徒たちのほかはみなユダヤ,サマリア地方全域に散らされた」。(使徒 8:1)その散って行ったクリスチャンの老若男女は何をしたでしょうか。「散らされた人びとは,みことばの良いたよりを宣明しながら全土をまわった」のです。(使徒 8:4)そうです,全部の人が良いたよりを宣べ伝えたのです。

      20 ヨハネ 14章12節の成就にあずかることを考えるのは,なぜ今特に重要ですか。

      20 今日の真のクリスチャンたちも,イエスが開始され,1世紀の兄弟姉妹たちが引き継いだ,宣べ伝え教える業を続行しています。しかし,聖書の預言を成就する現代の出来事を見ると,神は間もなく現在の邪悪な体制に終わりをもたらして,現代における『王国の良いたより』の伝道を終了されることが分かります。(マタイ 24:14)それで各自自問することができます。『わたしは現在,イエスがヨハネ 14章12節で述べておられる重要な業に十分あずかっているだろうか。わたしはほねおって働き努力しているだろうか。この業が終了する時,この業に十分にあずかったという満足を覚えるだろうか』。

      神はどれほど期待されるか

      21-23 わたしたちは自分の事情をどのように再検討することができますか。

      21 クリスチャンの宣べ伝える業に存分にあずかるといっても,自分の家族や親せき,職業,学校などに関係した当然の聖書的義務を無視すべきではありません。(テモテ第一 5:8)それらの義務を果たすことをわたしたちがうしろめたく感じることも,神は望まれません。わたしたちは喜んでそれを行なうべきです。しかし,時々自分の時間と活動を調べてみるのは良いことです。

      22 わたしたちの多くは,平衡の取れた自己吟味と自己訓練から益を得られるのではないでしょうか。人並みの生活水準を保つのに不要なものの多くを省くのは良いことかもしれません。

      23 この点でだれも他の人がすることを批判すべきではありません。大切なのは,自分自身が,イエスより大きな業を行なうというわたしたちの務めに対し,依然として鋭い認識を示しているかどうかを検討してみることです。

      24 貧しいやもめはわたしたちにどんな良い模範を示しましたか。

      24 わたしたちが,すべてを捧げても,それは,健康と事情の許す人々が捧げるものには及ばないかもしれません。しかし量そのものは判断の基準ではありません。イエスが,「価のごくわずかな」小さな硬貨二つを寄付した貧しいやもめについて好意をもって語っておられることを思い出しましょう。その二つの硬貨(レプタ)の価値は,1日の賃金の約64分の1でした。あなたの住んでいる所では,それはどれほどの価になりますか。それでもイエスは,やもめの行ないをほめておられます。やもめは「自分の持つもの全部,その暮らしのもとをそっくり入れた」からです。(マルコ 12:41-44)わたしたちも証言活動においてすべてを捧げ,ほねおって働き努力するならば,そのような是認を得られることは確かです。

      25 マリアは,イエスが死なれる少し前に,どんなことをイエスのために行ないましたか。

      25 ラザロの姉妹のマリアが価の高い香油をイエスに塗った時のことも思い出します。その香油は300デナリの価値があったので,弟子の中には苦情を言う者もいました。安息日や祝日を考慮に入れると,それは労働者の1年分の収入に相当する額でした。あなたの,あるいはあなたの家族の年収はどれほどですか。(ヨハネ 12:3-8。マタイ 20:2)イエスは,マリアの努力について次のようにおっしゃいました。

      「彼女はわたしに対してりっぱな行ないをしたのです。……彼女は自分にできることをしました。埋葬を見越してわたしの体に前もって香油を塗ろうとしたのです。あなたがたに真実に言いますが,世界じゅうどこでも良いたよりが宣べ伝えられる所では,この女のしたことも,彼女の記念として語られるでしょう」― マルコ 14:6-9。

      26,27 マリアはどんな点で模範でしたか。

      26 「彼女は自分にできることをしました」という言葉に注目してください。マリアが奇跡を行なう力を与えられた証拠はありません。彼女は使徒になることも,クリスチャン会衆が形成された時に長老になることもできませんでした。また「良いたより」を携えて広く旅をすることもできなかったかもしれません。でも「彼女は自分にできることをしました」。それはどういう意味でしょうか。ある言語では「自分にできることをしなさい」という表現には,『無理をするな。のんきにやれ』という意味合いがあります。しかしイエスはそういう意味で言われたのではありません。マリアは本当に全力を尽くしたのです。この言葉を,「彼女は自分にできる限りのことをした」,あるいは「彼女は自分の力の及ぶ限りのことをした」と訳している聖書翻訳者もいます。―C・K・ウイリアムズ訳。W・バークレー訳。

      27 このように最善を尽くすことは,ただ一度のことではなく,マリアが常に抱いていた関心事でした。先にマリアは,イエスの足下に座ってイエスの教えに耳を傾け,自分の心がどこにあるかを示しました。(ルカ 10:38-42)そして,この時も,引き続きその傑出した指導者イエスを支持しました。興味深いことにイエスはマリアの行ないと世界的伝道の業とを結び付けて,「良いたより」が広められる所ではどこでも彼女のことが語られるでしょう,と言われました。彼女は宣べ伝える業に関心がありました。イエスも死に至るまでそうでした。

      28 キリスト教はどんな宗教ですか。これはわたしたちにとって何を意味しますか。

      28 わたしたちは,すべてを捧げたこの二人の婦人のようでしょうか。イエスが地上におられた時に開始され,そして今世界中のクリスチャンたちによって続けられている宣べ伝える業に,ひたむきな関心を抱いているでしょうか。わたしたちはそうあるべきです。神は関心を抱いておられます。西暦33年のペンテコステの日に発足した時のキリスト教は証言を行なう宗教で,神はご自分の霊によってそれを支持されました。今も支持しておられます。神は変わってはおられないからです。神は「生ける神」であられ,ご自分が生きておられるだけでなく真の崇拝者すべてに命を提供しておられます。ですから今日のキリスト教も証言を行なう宗教であるべきであり,実際に依然としてそのような宗教です。クリスチャンには,「あらゆる人,特に,忠実な者の救い主」である神への奉仕に熱意を抱く働き人でなければならない十分の理由があるのです。―テモテ第一 4:10。

  • 『良いたよりの聖なる業に携わる』
    ものみの塔 1981 | 4月1日
    • 『良いたよりの聖なる業に携わる』

      『[わたしが,神から過分のご親切を与えられたのは,]わたしが諸国民に対するキリスト・イエスの公僕となって神の良いたよりの聖なる業に携わるためでした』― ローマ 15:15,16。

      1,2 なぜ言動は大切なものですか。

      人はその言動に基づいた評判を得ます。他の人々は多くの場合,その人が行なうことを見,言うことを聞いて,その人またその人の主義について結論を下します。ソロモン王は次のように書きました。「若者でさえその行動により,その働きが清いかどうか,また方正かどうかを表わす」― 箴 20:11,ヤングの字義訳。マタイ 7:16-20。

      2 もしあなたがクリスチャンであるならば,このことにはどんな意味があるでしょうか。他の人々がわたしたちの言動を見る時,わたしたちが真の神エホバに仕えていることが分かるようでなければならないのではないでしょうか。聖書を読むと,神が神聖で清くあられることや,神の原則が義にかなった,また善を生み出すものであることを確信できます。(イザヤ 6:3。ヨブ 34:10。申命 32:4)もしわたしたちが本当に神の根本的な精神態度を吸収しつつあるのであれば,そのことがわたしたちの生活にはっきり表われていなければなりません。―エフェソス 5:1。

      3,4 (イ)イスラエルが行なった崇拝とイスラエルの歴史はどんな影響を及ぼしましたか。(ロ)キリスト教を観察する人々はどんな影響を受けるはずですか。

      3 真の崇拝が人の生活に表われる場合,他の人々は有益な感化を受けることができます。例えば,エホバは,しばらくの間主にイスラエルと交渉を持たれ,こう言われました。「あなた方は聖なる者であるべきである。あなた方の神であるわたしエホバは聖なる者だからである」。(レビ 19:2,新。出エジプト 19:5,6と比較してください。)神がイスラエルにお与えになった飲食,衛生および道徳に関する律法は,周囲の国々で普通に行なわれていた汚れた習慣から彼らを保護するのに役立ちました。多くの外国人は,真の崇拝の道がいかにうまくいくか,また神がどのようにイスラエルを導きかつ保護しておられるかを見ることができました。それに感動し,自分からエホバを崇拝するようになった人も少なくありませんでした。―列王上 8:41,42; 10:1。ルツ 1:16。

      4 真のクリスチャンが神の導きに従って生活する場合にも,同様の良い影響があります。クリスチャンの生活の変化と『りっぱな行動』を見る人の中には,心を動かされて「神をたたえる」ようになる人々もいるでしょう。(ペテロ第一 2:12,15; 3:1,2。テトス 2:7,8。テサロニケ第一 4:11,12)しかし聖書は次のことを明らかにしています。つまりキリスト教が目指すところは,単に清い道徳的な生活,「霊の実」を反映するりっぱな人格を培うことだけではないということです。(ガラテア 5:22,23。エフェソス 4:22-24)キリスト教のこうした特色は重要ではありますが,イエスの真の追随者になるには他にもなすべき特殊な業があります。

      「良いたよりの聖なる業」

      5 (イ)イエスの模範を見るとわたしたちにとってほかの何が重要であることが分かりますか。(ロ)なぜこの活動は重要ですか。

      5 少年の時にも,完全に大人になってからも,イエスは天のみ父を尊敬されました。イエスの生き方と人格は他の人々のりっぱな模範となり,それを見ていて心を動かされ,神を賛美するようになった人は少なくありません。(ルカ 2:49,52)バプテスマを受けた後すぐにイエスは,「その業を開始され」,「王国の良いたよりを宣べ伝え」て回ることに努力されました。(ルカ 3:23。マタイ 4:17,23)イエスはほかの者をもこの業にあずからせるべく訓練し,人々を教えるよう彼らを送り出されました。(ルカ 10:1,8,9)初めのうち,教えて弟子を作るこの業はユダヤ人の間だけで行なわれましたが,後ほど拡大されることになっていました。使徒パウロがローマ 15章8,9節で説明している通り,神のご意志は,地のすべての人々が助けを得て神を賛美するようになることでした。

      6,7 使徒パウロはどんな「聖なる業」を行ないましたか。

      6 パウロ自身その目的のために活躍しました。ローマ 15章16節では自らを,「諸国民に対するキリスト・イエスの公僕」と呼んでいます。その“奉仕”にはどんな事柄が伴いましたか。「神の良いたよりの聖なる業に携わり,こうしてささげ物であるそれら諸国民が……受け入れられるものとなるためでした」と,パウロは付け加えています。これはどういう意味でしょうか。

      7 『働く,すなわち神聖な事柄に携わる』という意味のギリシャ語動詞(ヒエルールグーンタ)は聖書ではローマ 15章16節にしか使われていません。a ですからパウロは自分が,神の良いたより,すなわちキリスト教の音信を国々の民に宣べ伝える,聖なる,もしくは神聖な業に活発に従事しているということを述べたのです。その音信を受け入れてクリスチャンとなった人々は,神への捧げ物,神に是認され神の霊によって祝福された捧げ物のようでした。―ローマ 1:1,16。

      8 パウロはユダヤ人の間でこの業をどのように遂行しましたか。

      8 パウロと他の人々は,この「神の良いたよりの聖なる業」,つまりキリスト教の音信を宣べ伝えることをどのように行なったのでしょうか。その「良いたより」は命を救い得るものでしたから,彼らはできるだけ多くの人に伝えることを望みました。パウロ自身ユダヤ人だったので,時には,会堂に集まったユダヤ人たちに話すことができました。(使徒 13:14-42; 14:1; 18:4)それにしても,パウロや他のクリスチャンたちは,「諸国民」,つまり非ユダヤ人の大多数に伝えることができたでしょうか。

      9 初期クリスチャンは,ユダヤ人でない人々を助けるためにどんな方法を用いることができましたか。

      9 クリスチャンたちは市場のような公共の場所で人々に話すことができました。(使徒 17:17-22)しかし,それだけでは事実上すべての人に述べ伝えられそうもありません。イエスの弟子たちが色々な都市に送られて宣べ伝えたときのように,人々の家に行くことはどうでしょうか。(マタイ 10:5-13。ルカ 9:2-6)初期のクリスチャンたちもこの方法を用い,すべての人にキリスト教を広める『聖なる業に』熱心に携わりました。

      10 信者でない人を見付けだして助けるために家から家への証言が行なわれたことを示すどんな証拠がありますか。

      10 そのことは,エフェソスの会衆で長老となっていた人々に対するパウロの言葉から理解できます。パウロは,彼らにキリスト教を紹介した時の,過去の自分の伝道活動に触れ,次のように言いました。「わたしはあなたがたの魂にとって益となる事柄についてあなたがたに説くことを怠ることはしませんでした。そして路上でもまた家から家に行っても教え,ユダヤ人とアルメニア人[すなわち異邦人]に,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスに対する信仰とについて証しをしたのです」。(使徒 20:20,21,ジョージ・M・ラムサによるシリア語からの翻訳)b パウロがここで,その人々がまだ信者でなかった時,悔い改めてイエスに信仰を置く必要のある人々であった時に,彼らに伝道する努力を払ったことについて語っていることは明らかです。パウロには,未知の人にそのようにして伝えることをためらう理由はありませんでした。神から是認された,また祝福される「聖なる業」を行なっていたからです。

      11 (イ)今日のクリスチャンはどのようにしてこの「聖なる業」を行なっていますか。(ロ)家から家に宣べ伝える業に参加することはなぜ重要ですか。

      11 現代においてもエホバの証人は,人々と接触することによって神の真理を宣べ伝える第一の方法として,家から家への証言を活発に行なってきました。むろん,クリスチャンは各々,「良いたより」を宣べ伝える責任と特権を感じていて,適切な機会を常に利用し,親せきや学友,職場の同僚や友人また知らない人々に対し,世間話などをする時に証言するでしょう。ですから,過激な宗教分子や警察国家からの極度の反対で家から家に公然と証言できない,またはそうすることが物騒な国々においてさえ,クリスチャンは前述の別の方法で証言し,できる限りの努力を続けています。それでも,そのような極端な反対のない所ではどこでも,エホバの証人は各家を組織的に訪問します。その結果,『徹底的な証し』ができ,さもなければ真のクリスチャンに会って「良いたより」を聞くことはなかったであろう多くの人々と接触することができます。―使徒 4:19,20; 20:21。エゼキエル 9:3,4と比較してください。

      効果的な証言方法?

      12-14 家から家に宣べ伝えることが有益であることを何が示していますか。

      12 しかし,こうした福音宣明の方法は依然「良いたよりの聖なる業に携わる」効果的な方法でしょうか。証拠は,然り! と叫んでいます。1977年,ソーシャル・コンパス誌に,イギリスの社会学者ブライアン・ウイルソン氏の書いた,「日本におけるエホバの証人」という記事が掲載されたことがあります。エホバの証人は日本におけるどの“新興宗教”「よりも一心に布教を行なっている」と,同氏は書いています。また調査を行なって次のような結果を得ました。

      「証人になった日本人の大半[58.3%]は」,エホバの証人の「戸別訪問によって初めて関心を持つようになったと言う」。

      13 エホバの証人が広める,聖書に基づく教えを受け入れようとしない宗教家たちでさえ,家から家への福音宣明が効果的であることを認めています。次のような例があります。

      「[教会は]エホバの証人が最大の急務としている事柄,すなわち原始教会の使徒たちが用いた方法である家庭訪問をはなはだしく怠っていると言えるかもしれない。教会は……伝道を集会所に限る場合が少なくないが,[エホバの証人は]家から家に行く使徒たちの方法に従っている」― 1975年9月14日付「エル・カソリシスモ」,コロンビア州,ボゴタ。

      『カトリック教徒は福音伝道の点でエホバの証人の導きに従うべきであると,最初の福音伝道全国会議に出席した人々は言われた』― 1977年8月29日付ミネアポリス「トリビューン」紙。

      14 家から家への福音宣明はエホバの証人の特色なので,多くの国で,家の人は戸を開けると,「ああ,あなたはエホバの証人ですね」と言います。それだけで,聖書のことは何も話せないとしても,むだではありません。神聖なものとされるに値する神の聖なるみ名に,注意を喚起したのです。そして家の人は,神の僕たちが神の音信を携えて自分の所に来たことを印象付けられたのです。(マタイ 6:9。イザヤ 12:4。エゼキエル 33:6-9,29)しかし,上記の引用からも分かる通り,多くの場合それ以上の結果が生まれます。

      15 障害のある幾つかの場所ではこの効果的な業はどのように行なわれてきましたか。

      15 家々で一人一人に証言する方法は,人々と接触する上で非常に有益であり効果的でもあるので,困難な状況の下でも証人たちはそれを行なうように大きな努力を払っています。聖書的根拠を持つこの活動が当局によって禁止されたアフリカのある国でもそうです。その国のクリスチャンたちはこの福音宣明の方法が価値ある方法であること,また「支配者として人間より神に従わ[ねばならない]」こと,そして「へびのように用心深く,しかもはとのように純真なことを示しなさい」というイエスの助言に従わなければならないことも知っています。(使徒 5:29。マタイ 10:16,17)それで彼らはどうしたでしょうか。

      長い通りまたは地域を,家の番号に従い,少人数に分かれて働くように取り決めました。一人が2で終わる番号の家(2,12,22,32,など)を全部受け持ち,自分の好きな順序でできる時にそれらの家を訪問します。別の人は3で終わる番号(3,13,など)の家を受け持ち,別の日に訪問します。そのようにしたので徹底的な証しが行なえました。

      別の方法も用いました。小さなかごに卵か果物を入れて持って行きます。市場よりも高い値段でそれを家の人に勧めるのです。売上げはわずかでしたが,物価高や今の生活の難しさからよく話が発展し,都合が良いようであれば,聖書の預言の成就を話すことができました。

      あるいは,野菜を買わなければならないクリスチャンはその機会を利用して,自分の“区域”の人々に会うこともありました。市場に行く前に,畑を持つ家々に寄って,野菜を分けてくださいと頼みます。野菜は買えても買えなくても,聖書的な考えを織り交ぜた会話ができる場合も珍しくありません。

      このようにしたので,その国のクリスチャンたちは,戸別伝道者たちを以前に困らせた,政治と関係のあるよた者たちから邪魔されずにすみ,また地域社会の中で徹底的な証しがなされました。

      16 この伝道方法で効果的な業を続けるために,エホバの証人はほかにどんな対応の仕方をすることがありますか。

      16 他の場所では異なった対応の仕方が必要かもしれません。過去何年かの間は,多くの人が家にいる午前中に家々を訪問するのが普通だったかもしれません。しかし事情が変わって,今はほとんどの人がその時間に働いているとすれば,この伝道方法は実際的でなくなるでしょうか。そうではありません。ほかの方法では,各家やアパートにいる人すべてに会って,「良いたより」の益を受ける機会を提供することはできないからです。家族の人たちが家にいる午後とか夕方に訪問するのは賢明な方法かもしれません。目標は,できるだけ多くの人に会ってその人々を助けることです。―使徒 16:13と比較してください。

      17 パウロの模範を念頭において,わたしたちはこの業を遂行するに当たり,どのように個人的な調整を行なうことができますか。

      17 使徒パウロは,自分のやり方や近付き方を,聞き手に合わせて変えることをいといませんでした。「わたしは良いたよりのためにすべての事をするのです。それを他の人びとと分かち合う者となるためです」とパウロは述べています。(コリント第一 9:19-23)同様の融通性は今日でも役立ちます。例えば,宗教や聖書に関心を失った人ばかりの地域に自分が住んでいたらどうですか。適当に近付き方を変えるでしょうか。

      ベルギーのある証人はこう語っています。『わたしは聖書を開いて手に持っていますが,すぐには聖書だとは言いません。「出ていらっしゃるのを待つ間,ここに書かれていることを見ていたのですよ。……『柔和な人たちは幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう』[マタイ 5:5]とありますが,あなたは世の中にまだ柔和な人たちがいるとお考えになりますか」と言います。会話は必ず始まり,しばらくすると聖書も割合容易に受け入れてもらえます』。

      神に祝福される業

      18,19 神が「良いたよりの聖なる業」に関心をお持ちであることはどんな理由から分かりますか。

      18 世界中のクリスチャンは,「良いたよりの聖なる業」にひたむきな関心を抱いています。エホバ神もそうです。パウロは,自分がこの業を行なったために生まれた新しいクリスチャンのことを,神に受け入れられる捧げ物のようだと述べました。神はご自分の霊を彼らの上に注がれたのです。―ローマ 15:16。

      19 人々を見付けだして助ける重要な戸別訪問活動を含むこの宣べ伝える業を,神は引き続き受け入れ,祝福しておられます。その事を示す一つの例ですが,広い地域の諸会衆を訪問する奉仕者は,メリーランド州で,一人のクリスチャンから,ある家で聖書研究をしているので一緒に行ってください,と誘われて出かけました。その奉仕者は次のように語っています。

      「わたしは家の人に,どんな動機でエホバの証人と聖書の勉強を始めたのか尋ねてみました。彼女はめくらめっぽうに聖書を開き,指が触れた節を読むということをよくしましたが,理解できたことはめったにありませんでした,と言いました。

      「ある日のこと,彼女は深刻な家族の問題で大変気がめいっていました。そこでまた聖書を開きある節を取り上げました。やはり理解できませんでした。憂うつな気持ちと失望とで彼女は泣き出してしまいました。神の言葉が理解できるように助けてくれる人をだれか遣わしてくださいと神に祈りました。ちょうどその時玄関のベルが鳴りました。応対に出てみるとそこにエホバの証人が立っていました。そして,『聖書を理解したいと思いませんか』と言いました。そこで家の人はその証人を引っ張り込むようにして家の中に入れ,すぐに定期的な研究が始まりました」。

      20 ほとんどの人が耳を傾けない時でもどうしてこの業は効果的ですか。

      20 会う人のほとんどが,「良いたより」を受け入れないように思える時でも,良い成果のあることもあります。

      南アフリカのある片田舎で,土曜日の午後,十代の子供が一人戸別訪問をしていました。反応は少しも良くありませんでした。その村にある宗教組織が,エホバの証人の行なっている,人々を助けるクリスチャンとしての努力に対してかなり強い偏見を人々に抱かせていたからです。どの家もどの家もすげなく戸を閉ざしてしまいました。訪問はむだなように思えました。

      しかし,彼女には分かりませんでしたが,道の反対側の家の窓から興味深く彼女を見つめる目がありました。その証人が人々の冷淡な反応に耐えているのを,ある年配の婦人が観察していたのです。このクリスチャンは確かに他の若者とは違っていました。

      その年配の婦人は証人が自分の家まで来た時に,彼女を招じ入れました。少女はほとんど英語で,婦人はアフリカーンス語で話しましたが,現代に関する聖書の音信の重要さについては話が通じました。その後,アフリカーンス語を話す奉仕者がその年配の婦人の関心をさらに高めたので,彼女は喜んで神の言葉を定期的に勉強することに同意しました。

      21-23 家から家に宣べ伝える業に,より多くあずかるようにすることから,どんな祝福を得られますか。

      21 実際,「良いたよりの聖なる業」に対する神の祝福は多くの面に表われています。ルイジアナ州のニューオーリンズにある諸会衆を訪問するある旅行する奉仕者は次のように書いています。「福音宣明の精神はおう盛になってきています。今までに訪問した八つか九つの会衆は伝道活動に前よりもずっと多くの時間を費やしています。こうして一層の努力が払われているために,『良いたより』に関心を持つ人々が多く見いだされています。兄弟姉妹は『良いたより』をふれ告げることに前よりも忙しくしているので,会衆内には実際に平和と喜びの精神が一層はっきり見られるようになりました」。

      22 そのような平和と喜びは,「良いたより」を精力的に宣べ伝えて神の祝福を感じているクリスチャンの個人の生活,また家族生活においても増加しています。生活上の問題や心配はまだ幾らかあります。しかしそうした事はわたしたちが不完全である限り,また現在の邪悪な事物の体制が存続する限りなくならないでしょう。けれども,神から命じられた「良いたよりの聖なる業」に熱心になればなるほど,クリスチャンの生活はそれだけ充実した,より豊かで幸福なものになります。(使徒 20:35)これは単なる机上の空論ではありません。実際にそうなるのです。使徒パウロの場合もそうでした。今日の何百万にも上るエホバの証人も同じです。あなたもそうなります。

      23 他の人々もあなたがどのようなクリスチャンであるかに目を留めることができるでしょう。人々は「良いたより」をふれ告げる業にあなたが参加しているところを見るでしょう。この業やクリスチャンとしての他の活動があなたの生活に平和と喜びをもたらしていることにも気付くでしょう。クリスチャンとしての人格や「霊の実」が多くの面に表われることにも注目するでしょう。(エフェソス 4:24。ガラテア 5:22,23)確かにあなたは,聖なる神への奉仕に成功していることを多くの人々に示すことになります。

      24 この業に十分にあずかることについてあなたはどのように感じることができますか。

      24 パウロは『神の良いたよりの聖なる業に携わる』ことについて述べた後,「それゆえわたしには,神に関する事になると,キリスト・イエスにあって歓喜する理由があります」と付け加えています。(ローマ 15:17)わたしたちクリスチャンは皆,キリスト・イエスにあってこのように歓喜できるように働きましょう。

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