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  • 真の崇拝で神の名前の占める位置
    ものみの塔 1969 | 12月15日
    • エホバの御名を親しく呼ぶことです。エホバの崇拝者がこうして祈りをささげるとき,神との関係はなんと親密なものになるのでしょう。昔の神のしもべたちも神のお名前をそのように用いました。たとえば,宮の奉献式でソロモンがささげた祈りのことばを読んでください。(列王上 8:23-25)カルメル山でバール崇拝者と対決したときのエリヤの祈りを考えてください。(列王上 18:36,37)また,エルサレムがアッシリアの侵略に直面したとき,ヒゼキヤがエホバを呼び求めた祈りのことばに注目してください。(列王下 19:15-19)神の助けを求めたヨシャパテの同様の祈願のことばはいかがですか。(歴代下 20:6-12)これらエホバのしもべたちはその祈りの中で御名をなんとしばしば用いているのでしょう! そして彼らの祈りは神に受け入れられ,かつ効果を表わしました。今日,神のお名前を用いて祈るのは同様にきわめて大切なことです。

      また,聖書の中で,御名の出てくる個所を読む場合にも,神のお名前を正しく用いることができます。そのような聖句に出ているエホバのお名前を声を出して読むのは,『主の名を,みだりに唱える』ことではありません。むしろ御名を読まないことこそ神のお名前をはずかしめることです。

      前述のとおり,各国の聖書翻訳者は「神」あるいは「主」などの称号を好み,神の聖ななるお名前を聖書翻訳から除去しました。しかし神のお名前を愛する人は,「エホバ」あるいは「ヤーウェ」,その他元のヘブル語4文字に相当する語で忠実に御名を訳出した聖書を愛読するでしょう。

      読む場合だけではなく,会話でも神のお名前を正しく用いることができます。仲間の信者のあいだでエホバのお名前をいつも用いるのは自然で正しいことです。まわりの人はすべて御名とそれによって表わされているかたとを愛し,敬っているからです。しかしそれに加えて,エホバに仕えるクリスチャン証人は,全人類の前に神のお名前を掲げ,そのみことば聖書を通して啓示されたエホバのお目的を人々に語ります。神のお名前とお目的とを人々の前でたたえるのは,確かに神に誉れをもたらす,御名のすぐれた用い方の一つです。

      神のお名前をあなどる人のこうむる処罰とは対照的に,エホバのお名前を崇拝の面でその正しい位置に保つ人には数々のすばらしい保証が差し伸べられています。そのような人は,御名を冒瀆し,はずかしめる者すべてをこの地から除き去る,神のハルマゲドンの戦いを,神の保護の下に生き残るでしょう。エホバはこう宣言しておられます。「彼その愛をわれにそそげるがゆえに我これを助けん かれわが名をしるがゆえに我これを高処(たかきところ)におかん」― 詩 91:14。

      これは,『全地をしろしめす至上者なるエホバ』に仕え,かつ,ほめたたえるためのなんという励みでしょう! ハルマゲドンを生き残る見込みを持つ人々は今日,神の建てられる正義の新しい体制に導き入れられる期待をいだきつつ,その決意をこう言い表わすことができるのです。「わがかみ王よ われ汝をあがめ 世々かぎりなく聖名をほめまつらん」― 詩 83:18; 145:1,2。

  • 本当に貧しいのはだれか
    ものみの塔 1969 | 12月15日
    • 本当に貧しいのはだれか

      ◆ 使徒の時代に続く初期のクリスチャンは物質主義的な考え方の影響を受けませんでした。そのことは当時の一クリスチャンの書き残したことばから明らかです。「我々のうちの多くの者は貧しいとされている。しかしそれは恥ではない。むしろ栄光である。我々の心はぜいたくによってゆるむ[弱められる]ごとく,つましい生活によって強化されるからである。しかしながら,欠けたものなく,他人の所有物を渇望することなく,また神に対して富んでいる者が,どうして貧しいことがあろうか。多くを持っていながら,さらに多くを欲する者こそ貧しいのである」。―「反ニケア教父」,第4巻,ジ・オクタービウス・オブ・ミヌキウス・フェリクス,36章。195ページ。

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